「……クッ……!そんな訳で、アンタの先輩だ。よろしくな」
 なんだかふてぶてしく、その人は言った。
「…………………」
 僕は看護師さんに問答無用でベッドに押し込まれた。走ったせいで、傷がずくんずくんと疼いている。また少し出血してるみたいだ。目の前の人は寝ていろと言ったけれど、失礼な気がして上半身は起こしていた。
 それに、見知らぬ男の前で横になんかなりたくなかった。
 そう、先輩だと名乗ったこの人を――僕は知らない。
 僕は自称先輩の顔を伺い見る。三十歳前半だろうか。無精髭に浅黒い肌、白い髪、顔半分を覆い隠すマスク……少し、いやかなり怖い。
「……本当に僕の先輩なんですか」
 自称先輩は、へっという顔で僕を鼻で笑った。なんか腹立つな。だって僕は『先輩』が居るなんて話、聞いた事が無い。星影先生は他に弁護士は居ないと言って居た。
 じゃあこの人は誰だ?
 僕は息を吸い込んだ。
「あなたは……千尋さんですか?」
「……………」
 たっぷりの沈黙の後、返って来たのは――
「あぁ?」
 素っ頓狂な声だった。ぽかん、と僕を見詰めている……んだと思う。マスクの向こうで。
「……どういう意味なのかは、さっぱり分からねぇが……」
 その人は、何だが真面目そうな顔をして、マスクを押さえた。
「俺は産まれてからこの方、千尋と名乗った覚えはねぇなぁ……」
「………いえ……」
 僕は体を縮める。……真面目に答えられると、何だか僕の方が馬鹿みたいだ。いや、真剣に質問したんだからいいんだけど……。
 目の前の男は、嘘をついているようには見えない。
 わからない。
 本当に千尋さんじゃないのかもしれない。だけど千尋さんではないからと言って、この人が僕の先輩だって事になる訳じゃない。
「神乃木さん……でしたっけ」
「神乃木荘龍。星影法律事務所の弁護士だ」
 確かに以前僕が勤めていた事務所だ。今はもう独立してるけど。
 本物?だけど……。
「……先輩が居るなんて……僕は、聞いた事がありません……」
「……そうか……まぁ、色々事情があったからなぁ」
「……………」
 事情ってなんだろう。
 今、明らかに言葉を濁した。
 僕には言えない事?それとも、嘘だから言えない?
 僕は何を信じたらいい?
 黙りこんだ僕に、男が窺うように声をかけた。
「……以前、ちらっと見かけた事があったんだけどな」
「えっ?」
 思わぬ事情の僕は男を見返す。
「俺は裁判所の地下資料室に居た事があるんだぜ」
 裁判所の地下資料室……。そこには何度か行った事がある。だけど覚えが無かった。
「やっぱり覚えちゃねぇか。まあ遠くでちらっと見かけた程度だからなぁ。それにしても……」
 神乃木さんはそこで僅かに間を置いた。その視線が、傍らに置かれた弁護士バッチに注がれているような気がする。あの時はスーツだったから、その胸元にあったのを誰かが取っておいてくれたみたいだ。
「偉くなったもんだぜ」
「……………」
 ひどく居心地が悪かった。僕は知らない人なのに、感慨深げに言われても、困る。どういう顔をしていいのか解らなかったので、僕はただ黙って下を向いた。
「どうして、僕を追いかけたりしたんですか……?」
「あ?」
「横断歩道の時とか……廃ビルで……」
 神乃木さんは憮然とした顔になる。
「……廃ビルに居たの、やっぱりアンタだったのか。なんで逃げる……?」
「だって……怖かったから。怪しかったし……」
 神乃木さんは、ぐっと唸った。マスクから煙が立つ。僕は抱えたタオル包みを胸に引寄せる。
「仕方ねぇさ……零したコーヒーは、拭く。それが俺のルールだ」
「………は?」
 ……言っている事がさっぱり解らない。
「病院から脱走した怪我人を見かけたら追うしかねえだろう、って事だ」
「……脱走?脱走って……何の事ですか?」
 神乃木さんは僕を驚いたように見返した。
「……覚えてないのかい?」
「?……何を?」
 神乃木さんは少し口元を引き締めたけれど、それ以上は何も言わなかった。
「ところで、ずっと気になってたんだがなぁ……」
 気分を切り替えるかのように、神乃木さんは話題を変えた。
「それなんなんだ?」
 そう言うと、僕の抱えた小汚いタオル包みに手を伸ばした。
「何が……」
「触らないでくださいッ!」
 僕の激しい拒絶にびっくりしたように両手を上げる。僕も自分のあげた声が予想以上に大きくて、驚いていた。
「……す、すみません……あの……」
 神乃木さんは、少し肩を竦めてみせる。僕はタオル包みを抱える腕に力を込めた。
 ねえ、真宵ちゃん。この人、信じてもいいのかな?本当に僕の先輩だと思う?
 心の中でそっと真宵ちゃんに呟く。
 気まずい沈黙が流れた。
 その時、それを救うようにドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
 神乃木さんは応じると、スライド式のドアが開いて白衣の医者が入って来た。
「気分はどうですか、成歩堂さん」
 メガネをかけた厳しそうな人だった。下手な事を言ったら、怒られそうだな。
「は、はい……平気です」
「うん、顔色は悪くないみたいですね。どれ、傷口を見ましょう」
 そう言って、先生はガーゼを取り替えてくれた。
「さっき走ったそうですね?しばらく動かしたらいけませんよ。外出も禁止。安静にする事です」
「はい………」
「それと……」
 そこで先生は、僕を見てから脇に立つ神乃木さんを振り仰いだ。
「神乃木さん、警察が」
「ああ、そうだったな」
 そう言って神乃木さんは、腰を屈めて僕の顔を覗きこんだ。
「警察の人が話を聞きたいそうだぜ。話せそうか?」
「けいさつ……」
 何気なく復唱すると、スウッと脳の奥が冷えた気がした。そうだ、神乃木さんの出現で忘れていたけれど、ちいちゃんは、呑田は!!
 血の気が一気に下がった。
「ち、ちいちゃんは!呑田はどうなったんですか!?」


 先生は看護師さんに呼ばれて慌しく出て行った。容態が急変した受け持ち患者でもいるのかもしれない。
 僕が落ち着いたのを見届けて、ようやく神乃木さんは話しだした。
「呑田ってヤツは……死んじまったよ。救急車が着いた時には、もう手遅れだった」
 その言葉に腹の中にずん、と重いものが落ちる。
「そう……ですか……」
 じんわり視界が滲んだ。死んで、しまったのか………。
「通報は回覧板を持って来た隣の部屋の人がしてくれたそうだ。そこで倒れているアンタともう一人を発見したらしい。その時」
 そこで少し神乃木さんは言葉を切った。
 嫌な予感がした。
「美柳ちなみ……アンタの恋人の姿は無かったそうだ」
「……無かった?居なかったんですか?」
「ああ……今、警察が行方を捜している……」
「……逃げ、たんですか?」
「……そうかもしれねえ……」
 歯切れの悪い答えだ。神乃木さんは僕から目を逸らした。
 ぴん、と何かが心に引っ掛かった。
「……本当は?」
「…………」
「嘘はいけません……いつか、ばれるから……」
 どんなに嘘をついたって、どんなに誤魔化したって、現実は変わらない。僕はもう、目を背けて生きていく訳にはいかないから。
 神乃木さんが口を真一文字に閉じて、困り果てたような顔になる。
「お願いです。教えてください」
 暫く僕を見詰めた後、諦めたように静かに息をついた。
「……落ち着いて聞けよ」
 僕は覚悟と共に頷く。
「現場には美柳ちなみのものとみられる大量の血痕が残されていた」
 僕は無意識に神乃木さんの腕を掴んだ。
 頭がぐらぐらした。軽い吐き気がする。
 僕が殺したから……?
 違う、違う!僕は殺していない!!
 意識を失う前、確かにちいちゃんの顔を見たんだ。僕じゃない……。
 じゃあ誰が。
「……しんで、る?」
 妙に乾いた声が口から零れた。
「……出血の量から言って、その可能性は高いそうだ」
「……………」
「……可能性の話だ。大怪我はしたが生きていて、どこかに逃げてるって可能性だってある……」
「……そう、ですか」
 呑田を刺したから怖くなって逃げたのだろうか。そう考えるのが普通だけど、なんだか腑に落ちなかった。
「……見つかったら、ちいちゃんは逮捕されますか……?」
「………どうだろうな」
「だって……呑田を刺したのは、ちいちゃんでしょう……」
 神乃木さんの顔色が変わった。
「……あんた、見てたのかい?」
 僕は首を横に振る。
「……でも、僕が居間に駆け込んだ時、呑田さんは倒れてて……ちいちゃんが血がついた包丁持っていました……」
 それを聞いて神乃木さんは独り言のように呟いた。
「……やっぱりそういう事なんだろうぜ」
「え?」
「現場に落ちていた凶器の包丁からは美柳ちなみの指紋が見つかっている。あいつは過去に毒殺事件をやらかしたんだ。その毒は当時恋人だった呑田の所属する薬学部から盗んだもので、それを疑って真偽を確かめる為、何度か会ってたそうだ。あの夜、アンタの部屋に訪れたのも、そいつを教えようとしたからだろうぜ。だが、その前に美柳ちなみと鉢合わせしちまって……だから呑田とやらを刺したのは美柳ちなみに間違いないと思うんだがな……被害者は死んじまってるし、犯人も居ねぇと来た。
 それでだ。さっきあのメガネの先生も言っていたが……警察がな、話を聞きたいらしいぜ。
 話せるか?まだ話したくなけりゃ無理はするな」
「いいえ、平気です。話します……」
 僕も警察の人にちゃんと聞きたい。ちいちゃんの事。どこに行ったのか。
「解った。じゃ、明日にしてもらうぜ。メガネの先生にはそう言っておく」
 そこまで言って、神乃木さんはふと壁の時計を見た。
「ああ、もうこんな時間か」
 そう言って立ち上がる。
「今日はこれで帰る。また明日来るからな。何か欲しいものでもあるか?」
「……特には」
 神乃木さんは頷くと傍らのショルダーバックを取り上げた。
「それじゃあな」
 僕は……この人を信用しても?
 僕は緩慢な動きで自称先輩を見上げる。
 一応所属事務所は同じみたいだ。顔は怖いけれど、話してみるとそれほど怖くは感じない。千尋さんの事を聞いた時には本当に戸惑っているように思えたし、それに……。
 ……悪い人ならここまで面倒みてくれたりしないよな?僕は資産家の息子でもなんでもない。しがない弁護士だ。他人が僕の先輩になりすましたところで何の得にもならない。
 ……本当に先輩かどうかなんて疑って悪かったかもしれない。
「じゃあな。いい子にしてるんだぜ。動き回るなよ」
「はい……」
 神乃木さんは病室のスライド式のドアを開けて振り返った。
「おやすみ、まるほどう」
「?」
 今、何て言った?なんなんだ?
 ひたすら怪訝そうにする僕を見て、神乃木さんはフッと笑うとドアの向こうに消えた。
「……………」
 千尋さんは人に紛れて僕の傍に。
 打ち消しかけた疑問が、むくりと頭をもげた。


 入院二日目。
 翌朝、起きると真宵ちゃんが居なくなっていた。
 サイドボードに閉じ込めておくのは可哀相だったので、布団の中に入れておいたのだけど、真宵ちゃんの姿(正しくは頭)は見当たらない。
 やばい。どこ行っちまったんだろう。
 全部布団を引っぺがしてみても、真宵ちゃんの首はなかった。無くすほど小さいものじゃないんだけどなあ。
「真宵ちゃん、どこ?」
 呼んでも返事は無い。……自分で棚の中に入ったのかな?僕はサイドボードを開けた。中にはタオルに包まれた丸いものが入っていた。
 僕はほっとする。良かった。ここに居たんだ。
「どうしたの、そのタオル気に入ったの……」
 言いながらそれを膝に乗せて、タオルを剥がした。
「!? メロン!?」
 タオルに包まれていたのは緑色のマスクメロンだった。
 なんで!?なんで真宵ちゃんがメロンに!?なんでメロンなんかに……。
 いやいやいや、と僕は一人で頭を振った。これはメロン、ただのメロン!真宵ちゃんが化けた訳じゃない!……と思う。
 念のためにつついたり、呼びかけたりしてみたけれど、メロンは真宵ちゃんに変化したりはしなかった。誰かがお見舞いに来てくれたのかな。だけどいつの間に……誰が?
 僕はメロンをサイドボードの上に置いた。その時、はらりと一枚のカードが床に落ちた。それはサザエのイラストがついたカードだった。
 なんでこんなものが?不思議に思ってカードを見詰めていると、図柄の上にすうっと赤い文字が浮かび上がった。

   気づき損ねている
   もうひとつの真実は
   目の前に

「気づき損ねている……真実?」
 僕は首を傾げた。
 そんなのは、もう無い。僕はあの夜の惨劇を思い出したのだから。もう忘れている事なんて……。
 僕はカードの角を唇に押し当てて考えてみた。
 ……やっぱり何も思い当たらない。目の前にある、もうひとつの………
 ……『先輩』の事だろうか?
 確かに彼の存在は疑わしい。だけど……例え彼の事だったとしても、『真実』とは何を指すんだろうか?
 悩む僕を残し、文字は儚く消えた。何を伝えようとしたのだろう。


 甘く芳しい香りがする。目を開けると、御剣が花瓶に花を活けていた。白い可愛い花だ。ヒマワリでもチューリップでもない。僕は、花と言ったらこれしか知らない。
「御剣……?」
 僕の声に御剣は振り向いた。
「起きたのかね?」
 僕は目を擦りながらもぞもぞと上半身を起こす。昼食の後、いつの間にか眠っていたらしい。
「……来てくれたんだ。起こしてくれれば良かったのに」
「気持ち良さそうに眠っていたからな」
 御剣は笑ってベットに腰掛けた。いつもの赤いスーツを着ている。仕事の途中で寄ってくれたんだろう。
「花持って来てくれたのか?ありがとう、いい匂いだな」
「怪我の方はどうだ?」
「うん、大丈夫。痛いには痛いけど……それだけだから」
 お腹にぱっくり裂け目が出来ているのだから痛いのは仕方が無い。
 だけど体の傷はいつか治る。ただ時間の問題だ。
「なんだかすごく久しぶりに御剣の顔見た気がする……」
 御剣はフフと笑った。そう言えばレストランで急に置き去りにして以来だ。
「ええと……心配かけて悪かったな。その……色々あって……」
 御剣が首を振ると、僕の手を取った。
「気にするな。君は何も悪くないのだから」
 御剣の手のぬくもりがじんわりと肌に伝わる。詳しくは知らなくても、ある程度の事情は知っているのだろう。何も聞かないで、ただ僕の心配だけをしてくれる事に感謝した。
「うん……ありがとう」
「そう言えば、明日、誕生日だったな」
 不意に御剣が話題を変えた。
「え……あ、そうだっけ?」
「何だ、他人事のように」
「日にちの感覚が無くってさ。もう明日なんだな……」
 あの夜からもう何ヶ月も経っているような気がする。
「明日はプレゼントを持って来るからな。楽しみにしていたまえ」
「……とびっきりなヤツだな?」
 僕はレストランでの会話を思い出して笑った。
「なぁ、御剣、仕事は……」
 話を途中に、御剣は立ち上がった。
「では私は、今日はこれで帰るとする」
「えっ、でも、折角来てくれたのに」
 思わず手を握って引き止めると、御剣は穏やかに笑って僕の頭を撫でた。
「構うな。また明日も来る」
 声を掛ける間も無く、御剣はスライド式のドアを開けて出て行ってしまった。
 僕は一人、病室に残される。
 ……ちいちゃん。
 僕は心の中で呼びかける。
 今、何処に居るの?
 怪我してる?
 ……無事で、いるよね?
 僕の思考はドアをノックする音で中断される。
「はい」
 返事をすると、ドアが開いて神乃木さんが顔を見せた。
「頭、しゃっきりしてるか?これから警察の人が来るそうだぜ」
「あ、はい」
 そうだった。事情聴取があるんだった。思い出していると、再びドアがノックされた。
 刑事さんになる人に会うのは、仕事柄珍しくも無い。ただ、こうして聴かれるのは初めてだ。男女二人一組のペアだった。質問は主に男性の刑事さんがした。
 僕は出来る限り正直に喋った。自分で自分を指した理由を言うのは、勇気がいったけれど、なんとか感情的にならずに話す事が出来た。刑事さんとやり取りをする内に、段々解って来た事もある。僕は自分で自分を傷付けた後、意識不明のまま、この病院に担ぎ込まれたらしい。そのまま原因不明の昏睡状態に陥った。そして傷もまだ癒えぬ内、僕は病院から忽然と姿を消してしまったのだそうだ。
 もちろん病院は大騒ぎになったらしい。僕の記憶は、あの惨劇の夜から、ぷっつりと途切れ、事務所で目覚めて真宵ちゃんと出会う所に繋がっている。僕が自分で病院を出たのかどうか、僕にも解らない。ひょっとしたら真宵ちゃんが僕を連れ出したのかもしれない。
 けれど、それをどう説明すればいいのか。結局、僕は、記憶が無い、と繰り返した。
 一応、本当の事だ。変に嘘をついて、根掘り葉掘り聞かれるのだけは避けたかった。刑事さん達はあまり納得したようには見えなかったけれど、僕が身構えた程、そこには突っ込まなかった。
 多分、警察はちいちゃんが加害者である事を、ほぼ疑っていないのだろう。直感的に、そう思った。
「いや、あんただけでも話してもらえて助かったぜ」
 帰り際、男の方の刑事さんが言った。
「これで犯人が出てくれば、もう少し状況がはっきりするんだがな」
 そう言って刑事さんはドアに手を掛けたけれど、直ぐに、ああ!と言って振り返った。
「ひとつ聞きたい事があったんだ。あの晩他にも誰かが来なかったか?そう、女性が」
「……いいえ……」
 がつん、と頭を殴られたような気がした。
「ああ、現場にな、髪の毛が落ちていたんだよ。その場に居た誰のでもない、長い茶色の。ただ少し気になってな」
「……他には……誰も来ていません……」
「そうか……また話を聞く事になるかもしれないが、その時も頼んだぜ」
 女の刑事さんが、どうぞお大事に、と言い添えて、二人は帰って行った。
 千尋さんが――あそこに居た?
 そうだ、倒れる前、僕は女の人の細い腕を見た――これは何を意味するんだろう。
 僕はこめかみを強く抑えて、頭を抱えた。
 ――頭が、痛い。
「……おい、大丈夫か?なぁ……」
 パシン。
 神乃木さんが差し伸べた腕を僕は反射的に拒絶した。
 何を信じたらいい……?
 解らない事だらけだ。
 真実が見えない。
 ただ不安だけが膨らんでいく。
 僕は、思っていたより疲れていたのかもしれない。
 冷静じゃない事は解っていたけれど、理性は上手く働いてくれなかった。
「……どうしてそんなに良くしてくれるんですか」
 酷く失礼な言い方だ。
 だけど、今はそんな事、どうでもいい。
 どう思われたってもいい。
 頭がぐるぐるして――
「……何をそんなに警戒してるのかは知らないが……」
 憮然としたように神乃木さんは言った。
「先輩なんだから当然だろう?」
「……僕は貴方なんか知りません。そんなの先輩なんて、言えない」
 馬鹿。
 この人はわざわざ僕の面倒を見に来てくれて、1人暮らしの僕には、それはむしろ感謝すべき事で――
 ――ああ、頭が痛い。
「今まで顔を合わせようが無かった。俺は――暫く事務所には出てなかったからな」
「……………」
 どうして?
 どうして今になって会いに来てるんだ?
 頭では疑問が浮かんだけれど、声に出すのが億劫で、結局僕は黙っていた。
「……ちなみがアンタと出会ったのは、俺が――」
 そこまで言って神乃木さんは、不意に口を噤んだ。
「?……なに……?」
 聞き返す僕に、小さく息をついて、頭を振る。
「いや……なんでもねぇ。沢山喋って疲れただろ」
 お休み、と言うと神乃木さんは静かに病室を出て行った。僕は、疑念と罪悪感と疲労が複雑に入り混じった最悪な気分のまま、ベッドに沈み込んだ。


 長い長い夜が開け、僕は誕生日を迎えた。

 入院3日目。
 ――転機が良く無かった。濃い灰色の蜘蛛が重く垂れ込めている。昼間だと言うのに、外は薄暗く、今にも雨が降り出しそうだった。風は無いのか、窓から見える木立がざわめく事はない。
 僕は昼食を終えてベッドの上でじっとしていた。御剣の持って来てくれた花の芳香がふわりと鼻を擽る。
 大量の血を残して消えたちいちゃん。
 現場に残された千尋さんの髪の毛。
 今まで面識のない神乃木さん。
 姿を消した真宵ちゃん。
 夕べから頭の中をぐるぐると回り続けている。答えは出ない。考えれば考える程深みに嵌っていく。
 ――ひどく眠い。薬のせいと昨夜眠れなかったせいだろうか。正体の見えない焦燥感を、睡魔がゆるゆると飲み込んでいく。
 ああ、だめだ、呑気にお昼ねなんてしてる場合じゃ……ないのに……。
 僕は気だるい眠気に身を任せた。

 名前を呼ばれた気がして目を開けると、いつの間にか神乃木さんが来ていた。
「あんまり寝ると夜眠れなくなるぜ」
 神乃木さんは、寝惚け眼の僕を見て笑う。僕はまだ夢の世界から抜けきれず、ぼんやりと神乃木さんのマスクを見ていた。
「まぁ、うろちょろして傷を開かせるよりはいいけどなァ」
 そう言って神乃木さんは皮肉っぽく笑った。
 昨夜、ひどい事を言ったのに怒っていないみたいだ。おかげで僕は更なる罪悪感に苛まれる。
「……僕、うろちょろなんかしません……」
 僕は寝返りを打って枕に顔を押し付けた。
「気分はどうだい?」
「普通です……」
「じゃ起きな。お友達が見えてるぜ」
「……お友達?」
 僕はもそもそと起き上がった。入れよ、と神乃木さんは声を掛けると、ドアが開いた。そこには見慣れた男が立っていた。僕の小学校からの親友の矢張だ。  
 矢張が入ってくるなり、閉めたばかりのドアがコンコンとノックされた。
「成歩堂さん、ちょっといいですか」
 はい、と応じると馴染みの看護師さんがひょこっと顔を出した。傍に立っていた神乃木さんに目を留める。
「ああ、神乃木さん、いらしてたんですか。良かった。少しいいですか、先生からお話があるそうです」
 神乃木さんは僕たちに向かって、ちょっと行ってくる、と言って、看護師さんについて出て行った。
「よお、成歩堂」
 現れた矢張は手に大きな花束を抱えていた。
「わあ、すごい花束。どうしたんだ?」
 矢張はそれを僕に差し出した。
「ほら、誕生日おめでとーさん!」
「えっ……僕にか!?」
「今のバイト先が花屋なんだよ。残り物で悪いけどな」
 僕は戸惑いながらも両手を伸ばして花束を受けとった。残り物であれ、誕生日に花束を貰うなんて初めての経験だ。こんな状態なのに、ちょと嬉しい。
「あ、ありがとな……」
 矢張は、あははと声をあげて笑った。
「男に花束なんて可笑しいと思ったけどよ。退院したら改めて祝ってやるよ」
「え……う、ん……」
 お祝いなんて出来るだろうか?
 もしも……
 いやいやいや!
 僕は暗い考えを脇へ押しやった。今くよくよ悩んでいても仕方無い。
「うん、……元気になったらな」
 僕は笑ってみせた。
「花ありがとう。すごく嬉しい……あ、でも、花瓶が足らないな」
「そこにあるじゃねぇか」
 矢張はサイドボートの上を指指した。
「だってそれはもう花が……え?」
 つられて顔を上げた僕の目に、空っぽの花瓶が写った。
「花が無い……」
 僕は思わず花瓶の中を覗き込んだ。中には水も入っていない。
「だ、だって花があったんだ、白い花、御剣が昨日持って来てくれて……あれ?」
 僕は花瓶を取り上げて首をかしげた。
「おかしいなぁ、さっき見た時は確かに……」
 だけど、花があった形跡は無い。それなのに、今もあの花の香りが部屋に充満している。
「………ミツルギ?」
 矢張はきょとんとした。
「友達か?」
 今度は僕がきょとんとする番だった。
「僕の親友の御剣だよ。小学校の頃からの」
 矢張はさらに困惑顔になる。
「それ……どこのどいつだ?」
 僕は花瓶を抱えたまま、ぽかんと矢張を見返した。
「……嘘だあ。小学校の頃からの幼馴染なんだから、知ってるだろ?」
「……小学校の頃からのダチっつったら、お前しか居ないけどなぁ」
「……え?」
「何処に住んでるんだ?」

    御剣の、住所?

 キインと耳鳴りがした。
 ――知らない。
 御剣が何処に住んでるのかなんて、知らない。
 どうして知らないんだ。
 知ってるはずだろ。だって、ずっとずっと一緒なんだから。
 ずっと――
 僕は手が白くなるほど布団を握り締めた。
 違う、違う!
 色々あった後だから、記憶が混乱する事事もあるってお医者さんも言ってたじゃないか!ただそれだけ……!!
 けれど僕の願いは矢張によってあっさりと打ち砕かれた。
「ミツルギなんて名前のヤツ、俺らの知り合いの中には居ないだろ?」
「……うそ。うそだ!だって、御剣は……!だって匂いがするじゃないか。花の匂いが」
 そうだ。
 この匂いは矢張のくれた花の匂いじゃないだろ。
「匂いなんてしねえぜ?俺が持って来たのは一応見舞いの花だから、匂いのきつくない花ばかりだし」
「うそだ……!!こんなに匂いがするのに……!!花はあったんだよ!!だって今もこんな……!!」

    むせかえるほどの 花の香りが

 僕は花瓶を抱えたまま、体を折った。
 息が、出来ない。
 苦しい。
 匂いが。
「成歩堂!?」
 矢張が慌てて枕もとのナースコールを押したのが気配で解った。けれど、反応が無い。何度押しても呼びかけても、誰の声も返ってこなかった。
「何やってんだよ……!!」
 堪りかねたように矢張は病室を出て行った。
 僕はのろのろと顔を上げる。ベットの脇の鏡を見ると、泣き出しそうな僕が写っていた。鏡の中、僕の抱いた花瓶には――白い花が咲き乱れている。
 世界がぐらぐらと揺れる。
 ――御剣。
 ねえ、誰か。嘘だと言ってくれ。
 お願いだから。誰か。
 僕の愚かな望みを断ち切るように、パンッと乾いた破裂音がした。僕を写した鏡に、ヒビが入った。

     目を覚ましなさい  成歩堂龍一

 誰かに諫められたような気がした。
「狩魔、冥………?」  
 脳が痛い程さざめいている。
「御剣は……」
 ぼろぼろと何かが崩れていく。子供の頃からずっと友達だった御剣。ずっと一緒に来た気がするのに――
 あいつの席は何処だった?両親は?電話番号は?
 僕は何も答えられない。
 僕の脳の中には、何一つ答えが見つからない。
 思い出せない素性。矢張は知らない僕だけの幼馴染。鏡の中でしか咲かない、お見舞いの花。
 見つからない答えは、忘れ去られた真実を揺り起こす。

     お姉ちゃんは 人の姿に紛れて  ナルホドくんの傍に

 手が氷のように冷えていく。救いを求めて彷徨う視線が鏡で止まった。
 ひび割れた鏡に書き殴ったような血文字が浮き上がった。

     キ  タ

「!?」
 窓の下のプロムナードを見覚えのある赤いスーツの男性が歩いていくのが見えた。
 僕は、弾かれたようにベッドを飛び降りて、窓に駆け寄った。
 御剣は両手でリボンのついたピンク色の大きな袋を抱えている。僕は動くことも出来ず凍りついたまま、それを見詰めた。

     あれはだれなんだ?

 御剣の姿はポーチの屋根に隠れて消えた。
 ここに来る。
 焦りが僕を突き動かした。腹の痛みなど構っていられなかった。僕は窓際から離れ、病室を飛び出した。
 ばたん。
 いつもなら殆ど音を立てないスライド式のドアが、その時に限ってやけに大きな音を立てて閉まった……。



ゴドーさんなんとかこじつけてみた。ワッショイ!無理矢理まるほどう呼ばわりさせてみた。ワッショイ!(←掛け声に意味は無い)
でもあんまりセリフにゴドー節が入れれなかったな。残念!
ちなみに看護師と先生は葉中さんと霧崎さんです。名前出さなかったけど。刑事さんのペアはおキョウさんと罪門(兄)です。名前出さなかったけど。ってキャラ被ってる二人(ゴドーにザイモン)出しちゃったよ!バランス悪!!
入院3日目は2つあった選択肢を混ぜ込んでなんとかしてみた。自分では綺麗に纏まったと頷いてみる。
亜莉子は悪くないんだから、というセリフを見て今後を思うと泣けてきた。うえーん。