森を分け入るとそこには、絵に書いたような古井戸がぽつんとあった。覗き込んで見たけれど、真っ暗で底は見えない。
「随分深いね」
 僕は足元の小石をひとつ拾って井戸の中に落としてみた。
「……………」
 聞き耳を立てても、水の音はしない。
「枯れてるのかな……?」
「飛び込むんだよ、ナルホドくん」
「……何言い出すんだよ、突然。こんな深い井戸に飛び込んだら死んじまうよ」
「死なないよー。落っこちるだけだよ」
「落っこちたら死ぬんだよ!」
「死なないよ。井戸はいろんな場所に繋がってるんだよ。望む場所に連れてってくれるんだよー」
「……ほんと?」
「本当!」
「痛くない?」
「痛くないよ」
 僕はたっぷり悩んだ挙句、しぶしぶ井戸の縁に腰をかけた。足の下には、静かな暗闇がぽっかりと口を開けている。
「……や、やっぱり」
 無理です、と言おうとした瞬間、腰がぐいっと前に引っ張られた。
 スーツに入った真宵ちゃんの首が、前へと引っ張ったのだ。
「うわ!!」
 僕は頭から突っ込む形で井戸の中へとダイブした。

 物凄い勢いで闇を落下していく。すうっと意識が遠のきかけた時、不意に落下速度が遅くなった。落下し続けているようだけど、気を失う程のスピードじゃない。周りを見回す余裕さえある。
 だけど、周りは漆黒の闇なので、どのくらいの速度で落下しているのか、よく解らない。本当に落ちているのかもどうか心もとな……
「!」
 ふと、気づくと、目の前を真宵ちゃんの首が、くるくると回転しながら落ちていた。
 大変だ!目が回っちまう!
 慌てて手を伸ばして頭を捕まえる。
「どうなってるの?」
 僕は頭から落下しながら真宵ちゃんに尋ねた。
「井戸を落ちてるんだよ」
「……それはよく分かってる」
 僕が聞きたいのはそういう情報じゃない。
「……この井戸、どのくらい深いの?」
「さあ?」
「さあって」
「井戸の気分次第で変わるんだよ」
「井戸の気分、ね……」
 ……どうやら今日は『深い気分』みたいだ。

 どのくらいそうしていたか分からない。やがて井戸の中がほんのりと明るくなり壁が見えた。
「!?」
 僕はその光景に凍り付く。
 井戸の壁を埋め尽くすように、同じ肖像画がびっしりとかけられていた。描かれているのは、あの、顔に包帯を巻きつけた女だった。女は胸に小瓶のついたネックレスをしている。何十枚という同じ肖像画が僕を睨んでいた。
 肖像画の中の女が動く。血まみれの右手がゆっくりと自分の包帯を剥がし始めた。何十枚、いや、何百枚という同じ絵がひとつ残らず同じ動きをする。
 息が出来ない。
 鼻が見えた。
 ニイと口が歪むように笑う。
 もうすぐ目が見える。
 僕はぎゅっと目を綴じた。
 いやだ、見せるな!!
「底だよ、ナルホドくんー」
 不意に真宵ちゃんが言った。底には淡く光る人影があった。長い髪。優しそうな顔。
 ……千尋さん?
 微笑む千尋さんがゆっくりとこちらを見たような気がした。
 ぶつかる!
 僕はそのまま千尋さんを巻き込むように、底に激突した。
 どすん、と、お尻に鈍い痛みを感じた。同時にがしゃん、ばりんと食器の割れる音がする。
「いててて」
 痛いけど、底に激突したにしては、大した痛みじゃない。顔を上げると、見覚えのある風景が広がっていた。
 ここ……公園か?
 僕はお茶会のテーブルの上に尻餅をついていた。ぼん、っと腿の上に真宵ちゃんの首が降ってきた。ころころと転がり落ちていくのを慌てて捕まえる。
 何がどうなったのか分からないけど、井戸から公園に戻ってきたみたいだ。それにしたって、僕達、何処から降って来たんだろう。テーブルの上には藤棚があるのに。
 僕は真宵ちゃんを抱いてテーブルから降りた。お茶会のテーブルにオドロキくんとみぬきちゃんの姿は無かった。荒れたテーブルだけが寂しげに残されている。
 テーブルの上の時計を見た。
「四時、過ぎてるね……」
「そーだねー」
 時間くんはちゃんとお願いを聞いてくれたみたいだ。
「!!」
 振り返ると、バラの門の前に、千尋さんが立っていた。相変わらず血まみれで透けている。
「チヒ、ロ……さん」
 手が、足が、強張って動かない。
 千尋さんはバラの門を潜っていく。
 残ったのは、唾を飲み込む音さえ響きそうな、静けさだった。
「……ウ……」
 僕の口からは、言葉にもならない音が漏れただけだった。それ以上、何も口に出来ない。――この焦りを、この恐怖を、自分でも理解出来ないこの感覚を、どう説明すればいい?
 僕は言葉を発する代わりに、そっと真宵ちゃんの顔を覗き見た。その横顔はいつものように笑っている。けれど、頬の辺りが張り詰めているような気がした。
 緊張?警戒?
 ……そう言えば、真宵ちゃんが居る時に千尋さんと遭遇したのは、これが初めてだ。真宵ちゃんはただバラの門を真っ直ぐ見ていた。
「真宵ちゃん……」
「行かないの、ナルホドくん」
 真宵ちゃんが静かに言った。
「う……ん」
 だけど、僕は門の前で立ち止まる。
「……………」
「大丈夫だよ、ナルホドくん。もうバラは眠ってるよー」
 真宵ちゃんの言う通り、もうバラは襲って来なかった。花は皆、蕾になっている。
 でも、僕が足を止めたのはバラが怖かったからじゃない。
 ――行きたくない。
 それが、本音だ。だけど、それと同じくらいに、僕は焦ってもいる。
 千尋さんを追いかけなきゃいけないと思っている。
 もう、真宵ちゃんに言われたからじゃない。
 どうしてだろう。
 もう、他に選択肢は無いのだと、僕は知っている――。
 激しい耳鳴りがした。
「ナルホドくん」
 もう一度、真宵ちゃんが促した。
 ――ひょっとしたら、真宵ちゃんも、焦っている?
「………うん。行こう」
 僕は、真宵ちゃんにではなく、自分に向かって、そう言った。
 そう。
 だって、もう――

     それしか、ないから。

 そして足に絡みつく何かを振り切る為に、駆け出した。
 眠るバラ園へと………
 

 腕時計を持っていないので、門を潜ってから、どのくらいの時間が経ったのか、正確な所は分からない。それでも絶対に三十分以上は経っていると思う。
「……迷った、みたいだね?」
 僕は立ち止まるとようやく事実を認めた。
「迷路だからねー」
「そこだよ」
 呑気な真宵ちゃんの返事に、僕は間髪入れずに噛み付く。
「どうしてバラ園が迷路になってるんだよ。こんなのあり得ないだろ!それに、だいたい……広すぎる!」
 ずっと気にはなっていた。外から見た時よりやたら広く感じる。迷路って普通、広く感じるものではあるけれど、それにしたって広い!こんな広い迷路、市民公園の一角に収まる筈が無い。
「仕方無いよー。バラ迷宮は無限迷宮なんだからね」
「……ムゲン……?ムゲンって……無限!?」
「うん」
「うん、じゃないだろ!それじゃ……出られないよ!」
「出られるよー。迷宮には必ず出口があるんだよ」
「……それを探すのか……無限の迷宮の中で……?」
「心配ないよ、ナルホドくん!落ち着いて迷うといいよ」
「………君がいるとほんと心強い……」
 真宵ちゃんの温かい励ましに、僕は深い溜息をついた。

 約三時間後。
 状況に変化は無い。変化があったとすれば、段々バラの花が嫌いになって来た事くらいだ。
「変だ……」
 僕はぶつぶつと呟く。
「人間って変だ……自分でお金払って迷路に入る人がいるなんて信じられない……」
 真宵ちゃんに向かって喋っている訳じゃない。ただ脳から滑り落ちてくる言葉を発しているだけだ。
「変だよ絶対……誰だよ、迷路なんて考え出したのは……理解出来ない……」
 変化の無い状況は人から思考能力を奪うものらしい。脳がきちんと動いていない感じがする。
「だいたい何で迷いたいんだよ……普通に生きてたって迷う事なんかざらだろ……。何が楽しくて自ら迷うんだよ……非生産的だろ……」
「無駄な事ほど実は大事な事なんだよ」
「そう……深いんだね……でも僕はやだ!もう迷うのは、嫌だッ!!」
 爆発するように声を上げたとき、角の向こうからタタッと奥へと駆けて行く足音がした。
「!!……誰だ!?」
 瞬間、脳が覚醒する。慌てて角を曲がると、足音は、また次の角の向こうへと消える。姿は見えない。
「誰かな!?」
 走りながら真宵ちゃんに尋ねた。千尋さん、だろうか。
「さあね?」
 真宵ちゃんはいつだって呑気だ。
 『誰か』はすぐに角を曲がってしまうので、姿を捕らえられない。僕をあざ笑うかのように、足音だけが残される。
「待ってくれよ!」
 もどかしさが僕を苛立たせる。段々必死になっていた。
「ねぇ待てって!!」
 足音から少し遅れて、僕は駆け込むようにして角を曲がる。突き当たりの茂みが、がさがさと揺れていた。僕は何の迷いも無く、そこに体をねじ込んだ。
「待って……!!」
 バラの生垣から這い出すと、素早く立ち上がって辺りを見回した。そこには誰の姿も無かった。
 けれど、それより僕を驚かせたのは――
「ここ……僕ん家?」
 そこは僕のアパートの裏庭だった。隣家と隔てる生垣の下から僕は這い出て来たのだった。もちろん、僕のアパートと公園は隣り合わせになってたりなんかしない。
「……どうなってんだ?ねぇ……」
 目を下にやって、はっとした。両端を縛っていたスーツが解けていた。中に入れておいた真宵ちゃんの首が、無い。
 落っことした!?
 慌てて周りを見渡したけれど、どこにも怪しげな生首なんて転がっていなかった。穴を這って出て来た時にスーツから零れたのだろうか。
 あ、でも、そういえば、その時にはもうすでに無かったような気も……。あったら、邪魔になって気づいた筈だ。走っている時に、振り落としちゃったんだろうか。
「大変だ……!!」
 僕は迷路に戻ろうと、再び生垣の穴に顔を突っ込んだ。
「あれっ……」
 けれど、突っ込んだ茶紀にあったのは、隣家の庭だった。普通に考えれば、それで正しいんだけど……。でも、ここを通ってバラ園から出てきたのに。逆に戻るのは無理なのだろうか。
 ……………。
 あの公園なら、十五分もあれば歩いて行ける。
 僕は立ち上がった。
 探しに行かなきゃ。あんなの誰かに見つかったら、大騒ぎになっちまう。
 僕は小走りにアパートの表へと向かった。公園に行くには、アパートの前の道を道なりに歩いて行けばいい。
 僕は道の前を通り過ぎようとした。
 カチャリ。
 夜のしじまに音が、響いた。音のした方を見ると、僕の部屋のドアが少し開いていた。その隙間から、千尋さんの背中が見えた。
「!!……」
 けれど、それはほんの一瞬で、ドアは千尋さんを飲み込んで、静かに閉まる。
 どくん、と心臓が波打った。発熱した時のような悪寒が、全身を駆け巡る。
 ぼ……僕……真宵ちゃんを……探しに行かなきゃならないから……
 僕は、僕にいい訳をする。
 だから、僕、家には、帰れない……
 公園へ。
 そう思うのに、足が動かない。それどころか、足は一歩、部屋へと向かって踏み出した。
   僕、家には帰らない……!帰りたくないんだ……!!
 意思とは裏腹に、足は確実にドアへと近づく。
   嫌だ……家は……家は、嫌だ!!
 脂汗が滲む程、必死に抵抗しても、僕は目を綴じる事さえ出来ない。意思に反して手がドアノブを掴む。
   やめろ……!お願い、僕は、家には入りたくない……!!
 ノブが氷のように冷たかった。
 カチャリ。
 ドアが大きく口を開け――僕は暗い部屋に、飲み込まれていった。

 部屋の中は静まり返っていた。
 千尋さんの姿は無い。小さなアパートなので、玄関と台所に仕切りは無い。台所と居間は、ガラスの入った引き戸で区切られている。
 ガタ。
 ガラスの引き戸が小さく揺れた。
 ガタガタ。
 戸がひとりでに引かれる。
 開けちゃだめだ!
 僕は咄嗟に駆け寄って、両手で戸を押さえた。
 ガタ。
 戸は僕の抵抗を嫌がるように揺れた。
 ――視線。
 僕は顔を上げた。
 喉の奥で引き攣った悲鳴が漏れる。ガラス戸の向こうに、女が立っていた。包帯で顔をぐるぐる巻きにした女が。
 僕達は薄いガラス戸を一枚隔てて顔を突き合わせていた。
 する。する。
 僕の目の前で、包帯が剥がれ落ちていく。
 する。する。
 僕はとっさにきつく目を瞑った。戸にしがみ付いて体を強張らせる。
 見たくない!見せないでくれ!

 「おかえりなさい、リュウちゃん」

「!?」
 聞こえた声に、僕は思わず、目を開けてしまった。
 ガラス越しに露になった女の顔。
 包帯の下の顔は。

 「――ち、」

 引き戸から、手が、離れた。
 それを待っていたかのように、扉が勢いよく開け放たれた。

 僕の足元に、ちいちゃんの元恋人が倒れていた。
 背中がいくつもの刺し傷で赤く染まっている。
 僕は、ぼんやりとそれを見下ろしていた。僕の握ったカッターナイフの刃先から、ぽたりと血が落ちる。
 ああ……僕、呑田を……殺しちまったんだ……。
 背後で悲鳴が聞こえた。
 億劫だったけれど、僕はなんとか首を捻って後ろを見る。
 そこに真っ青になったちいちゃんが立っていた。物音を聞いて、こっちに来たんだろう。
「ちいちゃん……」
 ちいちゃんは呑田に駆け寄る。動かない呑田を揺さぶって、僕を見上げた。
「リュウちゃん!どうしてあなた……こんな事を!!」
 ――やめて、ちいちゃん。
 どうしてそんな目で見るの?
「ちいちゃん……」
 僕はちいちゃんに近づいた。けれども、ちいちゃんは怯えたように後ずさる。
「来ないで、リュウちゃん……!」
 右手に握ったカッターナイフが熱を帯びた気がした。
 やめてよ、ちいちゃん。
 お願いだから。
 僕はカッターナイフを振り上げた。
「そんな目で見ないで!!」
 
 音が、映像が、消えた。
 僕は開け放たれた居間の入り口に、ぺったりと座り込んでいた。目の前の居間は荒れ、まるで今、惨劇が起きたかのように、部屋中に飛び散った血はぬらぬらと赤い。見れば、僕の手も血に染まっていた。
 その手には、血まみれのカッターがしっかりと握られていた。
 のろのろとそれを見て僕は理解した。
 そうか。
 僕が……。
「僕が……殺したんだ……」
 呑田と……ちいちゃんを。
「どう……したらいいのかな……?」
 ええと。
 僕はぼんやりした頭で一生懸命考える。
   ひとをころしたばあい、ふつうは。
「けいさつ……そうだ。自首……自首しなきゃ」
 悪い事をしたら、刑事さんに言うんだ。僕は頷いて立ち上がった。
 罰を与えてもらいに……行かなくちゃ。

 僕は、アパートから五分程歩いたところにある交番へ向かった。暗闇で赤くてまあるいライトが光っている。
 薄暗い蛍光灯のついた室内には、何故だか白衣を着たの刑事さんがひとり、ぽつんと座っていた。
 からからと軽い音を当てて戸が開く。
「こんばんわ……刑事さん」
「こんばんわ」
 お巡りさんはぴんと背筋を伸ばして前を向いたまま、顔を向けて僕を見た。長髪の女性で、頭に眼鏡を掲げている。刑事さんにしては、ちょっと若すぎるような気がしたけど、そんな事に構ってられなかった。
「僕、人を……殺しました」
「そうですか」
 カリントウを食べながら頷く。
「逮捕してください」
 僕は血にまみれた両手を突き出す。
 頭にあった眼鏡をかけて、その奥の目がちらりと僕の手に握られたカッターを見た。
「それが凶器ですか」
「……はい」
「これで刺したんですか」
「そうです……刺しました」
 僕は手の中のカッターを見ながら呟く。
「どんな風に?」
 カタン、と音を立てて刑事さんは立ち上がった。彼女が僕に近づく。
 どきりとした。
「……知りません」
「どんな感じがしましたか?刃物が肉に食い込む感触は?科学的に」
「知りません!そんな事はいいから逮捕してください!ねぇ死刑になる?僕は、死刑になるんだろ!?」
 僕は血だらけの手で刑事さんの胸倉にしがみついた。
「刑の執行は判決の後です。先に裁判を行いませんと」
 彼女は動揺せずに言った。
 それが、苛立たしい。
「そんなのいらない!僕がちいちゃんと呑田を殺したんだ、それでいいだろう!?」
「誰が誰を殺したかなんて、どうでもいいんです。大切なのは真実」
 きっぱり言い切る声に、背筋がざわっとした。
「し……真実だよ!じゃなきゃ、この手についた血は何だって言うんだよ……!」
 掴んだ胸倉を強く揺さぶった。
 その時、まじまじと顔を見て、ちょっと気になった。この子、ちょっと真宵ちゃんに似てるな……
「君は……」
「わたしは科学捜査官志望の宝月茜です。成歩堂さん!」
 胸倉を放そうとした僕の手首を、茜ちゃんが素早く捕らえた。柔らかい手だった。
「きれいな血ですね、科学的に!成歩堂さんの手によく馴染んでます」
「何……言ってるの……」
 身を引こうとしたけど、遅かった。
「うわぁッ!」
 ガサガサという音と共に突如視界が遮られる。
「な、何だ……!」
 鼻を、頬を、唇を掠める布の感触。何か麻袋のようなものを頭に被せられたらしかった。同時に後ろ手を両手に縛られる。
 耳元で科学捜査官(志望)の茜ちゃんの声がした。
「行きましょう、成歩堂さん。裁判が始まります」

 袋を頭に被せられ、両手を縛らせた僕は、茜ちゃんに担がれて(茜ちゃんも真宵ちゃんと同じく、凄い力だ)どこかへ運ばれた。ざわざわと大勢の人の声が聴こえる。
 どこだろうか、ここ。
 不意に、体が大きく揺れた。足の裏に硬い床の感触。ようやく自分は地面に降ろされた。
 すぐにガサガサという音と共に、頭に被せられていた袋が外される。
 徐々に光に慣れてきた目に映ったのは、大きなホールのような場所だった。コロッセウムのようにすり鉢状に席が並んでいる。席は沢山の聴衆で埋まっていた。何故か全員銀色の仮面を付けている。僕はそのホールの中央に、立たされていた。
 目の前には石造りの高い机がある。僕と相対するように、背丈程もある大理石の台座があり、その上に同じく石の椅子が備え付けられていた。そこに見覚えのある少女が座っていた。
 彼女も銀色の仮面をつけていたけれど、水色の髪に、巨大な鎌を手にしたその姿は、間違いなくあの狩魔冥だ。狩魔冥の後ろに控えている、薄汚いコートの男も、銀色のお面をつけている。振り返れば、僕の手首にかけられた縄を外そうとしている白衣の女の子も銀色の仮面をつけていた。
「……茜ちゃん、ここは何処?」
「裁きの庭ですよ」
 否定しなかった所を見ると、やっぱり科学捜査官(志望)の茜ちゃんなんだろう。開放された手首を茜ちゃん温かい手が撫でた。
「痛いですか?」
 少しひりひりしたけれど、大した事はない。僕は首を振った。
 僕と狩魔冥の間、『裁きの庭』の中央には、一片が二メートル程の四角い箱が置いてあった。ガラスだろうか、クリスタルだろうか。きらきらと光を反射して、中に何が入っているのかは分からない。ひょっとしたら、何も入っていないのかもしれない。よく見ると、その表面には細かいヒビが入っていた。
 割れる、のだろうか。
 その箱は大きさの割には、酷く脆そうに見えた。
 カンカン、と音が響いた。木槌を叩く音じゃない。狩魔冥が鎌の柄で強く足元を叩いた音だ。
「静粛に!」
 場内のざわめきが次第に静まった。狩魔冥は満足げに頷くと、もう一度、軽く足元の床を叩いた。後ろに控えていたイトノコさんらしき人物が、巻物を広げて読み上げた。
「被告人ヤッパリくんには、重大な容疑がかかってるッス!よって、これより裁判を行いたいと思うッス!」
 僕は急いで言った。
「裁判なんかやる必要は無い!僕が殺したんだって言ってる!!」
 カンカン!
 狩魔冥が鎌の柄を打ちつけた。
「被告人は許可なき発言を慎むように」
「あのー、狩魔さん」
 茜ちゃんが片手を挙げた。
「裁判長と言いなさい。発言を許可します」
「被告人成歩堂龍一は、自宅にて恋人とその元恋人を殺害したと申告しています」
「あらそう。それで?」
 あまり興味無さそうに裁判長は先を促した。ほんの一拍、間を置いて、茜ちゃんは厳かに告げた。
「成歩堂さんは有罪です。然るべき処罰を」
 僕はほっとした。
 そう。それでいい。
「罪名は?」
「偽証罪」
「偽証罪……!?」
 殺人罪じゃないのか!?
 ぎょっとして振り返った僕を、冷たい銀の仮面が一瞥した。
「あなたは嘘をついている」
「う、嘘なんてついてないよ!」
 僕は急いで狩魔冥に訴えた。
「僕は有罪です。早く僕の首をはねてくれ!」
「まぁ成歩堂龍一!」
 狩魔冥は感極まったように鎌を握り締めて立ち上がった。
「嬉しいわ、あなたからそう言ってくれるなんて。待ってなさい、今……」
「待って、狩魔さん」
 茜ちゃんが静かに口を挟んだ。
「尋問がまだです」
「裁判長と言いなさい!わたしの命令が聞けないの!?邪魔をするなら宝月茜、おまえのその細い首もはねてやるわよ!」
 大鎌を振り上げた狩魔冥を、側の、おそらくはイトノコさんがあたふたと止めた。
「もーだめッスよ!ここは裁きの庭ッスよ!茜クンは真実の番人なんスから、アンタにだって手出しは出来ないんスよー!!」
「裁判長と言いなさい!」
「理由はなんですか?」
 いきり立つ裁判長には構わず、茜ちゃんは淡々と話を進める。
「り、理由?」
「動機です。なで殺したんです……?」
「……なぜって……」
 僕は言い淀んだ。
 なぜって、それは……
「答えられませんか。ではこちらから言いましょう」
 そう言って茜ちゃんは狩魔冥に向き直った。
「成歩堂さんはちいちゃんが憎かったんです」
「違うッ!そんな事はない!!裁判長、そんなのは嘘だッ!」
 裁判長、の単語がお気に召したのか、狩魔冥はコホン、と咳払いをして椅子に座りなおした。
「被告人は否定しているわ。宝月茜、証拠はあって?」
「証拠なんてある筈ない!だってそんなの嘘……!?」
 茜ちゃんが肩にかけていた鞄をごそごそと漁る。。
「な、何……」
 無表情な銀の仮面が僕を見返す。
 そして、徐に何かを取り出した。
 それはペンダントだった。あの、小さな小瓶の付いている。
「ごめん、返せない!!」
 僕はそれをひったくる様に奪う。
 ――長い静寂が訪れた。困ったような声も、非難するような冷たい視線も無い。
 そこには、ペンダントを奪われて、手を上げただけの茜ちゃんが居た。
 ――ちいちゃんじゃない。
「……何で返せないんです?」
「……ぼ、僕……ちが……ちがう……」
「裁判長。ごらんのように、成歩堂さんはこのペンダントに執着しています。それは――」
 言い返さないと。違うって、言い返さないと。
 でも声が出ない。何て言えばいいのか判らない。
 だって怖い。嫌われるのが、怖い。
「ちいちゃんがくれたからです。成歩堂さんはちいちゃんがとても好きなんです。でも、ちいちゃんは昔の恋人と会っていたりしました」
 絞められてもいないのに、首がひりひりした。
 まぁ、とか、なんてことだ、とか、嘆きと同情の響きが観衆から湧き上がった。茜ちゃんが突き放すように言う。
「憎んで当然じゃないでしょうか」
「ち、違………」
「なんて事でしょう!わたしの成歩堂龍一に!」
 狩魔冥は憤然と立ち上がると両手を広げて叫んだ。
「なら殺しても仕方ないわ!悪いのはその恋人ですもの!!」
 わあっと聴衆が歓声を上げた。
「違う!ちいちゃんは悪くない!」
 僕の弁解の声は野次に掻き消される。
「お願い、止めてくれ、違う………!!ちいちゃんは悪くない!僕がいけないんだ!僕が……!!」
 必死で言い募る声を、静かな声が止めた。

「僕が、なんですか?」

 いつの間にか、茜ちゃんは再びペンダントを持っていた。
 小さい小瓶が付いたペンダント。
「僕が……」
 その時、記憶が鮮やかに脳裏に蘇った。
「……ぼくが……かえさなかったから……」
 そう。僕が。
「ちいちゃんが、必死に返してって言ってるのに……返さなかったから。そのペンダントを」
 しん、と法廷内が静まり返った。
「どうやって返さなかったんですか……?」
 囁くような茜ちゃんの声。
 ビシッと音がした。見ると、ガラスの箱に大きなヒビが入っていた。
「裁判所の地下室で……出会って。その時、ちいちゃんと会って……」
 涙が溢れた。
 でも、僕の声は驚くほど冷静だ。唇から勝手に言葉が零れていく。
「そのペンダントは……その時貰って……初めてだったから。そういうの。僕……昔、給食費盗んだんじゃないかって疑われて……それっきり、友達らしい友達もあんまり居ないから、恋人なんて……」
 ああ、そうか。血の海で見たあの封筒だ。あれに、給食費が入っていたんだっけ……。僕は、盗んでいないのに……
 ころころと笑う声がする。ちいちゃんの声だ。
 ――貴方にこれをあげるわ。
 ――でも誰にも見せないで。恥ずかしいから……
 ちいちゃんは優しく、けれど押し付けるように僕にペンダントを手渡した。
「暫くしたら、ちいちゃんはそれを返してって言ってきた……僕は返さなくて……だって返したら、それっきりもう会ってくれないような気がしたから……ちいちゃんすごく困ってた……」
 ある日、ちいちゃんの側で眠ってしまっていたら、首が痛くなった。目は開けなくても、ペンダントを無理矢理奪おうとしているのが分かった。
 ――それが、ちいちゃんを疑った最初の記憶だ。その日、裁判所では毒殺事件が起きた。この小瓶は、少量の液体くらいは入れられる。……もしかして、ちいちゃんがその犯人で、証拠の隠蔽の為にただ僕を利用しただけなんじゃないかって。
 僕は黙って、ちいちゃんが諦めるのを待った。
 ――どうして、忘れていたんだろう。
 こんなにも鮮やかに、記憶は僕の体に染み付いているのに。
 ビシビシッ!
 ガラスの箱に、もうひとつ、大きなヒビが入った。ヒビが増える。もう、止められない。
「だから……ちいちゃんは悪くない……前の恋人に会うのはいいんだ、僕のせいだから……」
「でも、結局それが悲しくて、ちいちゃんを殺したんですか?」
「……そう……僕は、悪いヤツだから……」
 僕は上の空で答える。
 ガラスの箱をじっと見ながら。どうか、これ以上ヒビが入りませんように。どうか、これ以上何も思い出させないで。

   「異議あり!」

 法廷に聞きなれた呑気な声が響いた。



迷路に愚痴を零すアリス。嫌いじゃないぜ。
森の分かれ道はつい右の方に言ってしまいます。別にグリフィンが嫌いじゃないっつーかむしろ好きなんだけど、こっち選ぶとシロウサギがキャッチしてくれんだもん………おおお〜シロウサギ〜〜〜
刑事さんは茜さんです。蘇るバージョンのね。しかし裁判なんかいらんというナルホドくん……書いてて笑えてきたゼ。そんな場面じゃないのに。

ワタシは逆裁やってから歪アリやったんで、この法廷のシーンがもう被って被ってぷっふー!とあるまじき可笑しさが込上げてきてしまいました。だってさー、被告人とか尋問とか証拠とか異議ありとか。多分コレを書いちゃろうと思った一番の動機かもしれませんね。成歩堂くんが地味にハードな過去背負ってる事もあるし。上手い事こじつけてみた……!とほくそ笑んでいるんですが、どうでしょう。