戻らないと――そう思っていたのに。気づくと僕は血の跡を追って、高架線の裏通りに来ていた。辺りには雑居ビルや個人商店が並ぶ。どれもシャッターが下りていたり、看板が無かったりで、活気は全く無い。
血は、薄暗い通りの奥へ僕を誘う。帰宅時間だと言うのに、通りには全く人気が無かった街灯がぽつりぽつりとしか設置されておらず、道が暗い。それなのに、赤い血の色だけは、やけ鮮やかに見えた。
血痕の行列は角を曲がった。つられて僕も角を曲がる。
「!!」
そこに女の人が立っていた。千尋さんだ。僕は突然の事に声も出せず、立ち竦む。
千尋さんは相変わらずぼんやりと透けていて、向こうの景色が揺らめいてる。千尋さんはくるりと向きを変える。そして吸い込まれるように、脇のビルへと入っていった。
「…………」
僕はビルを見上げる。四階の細長い建物だ。廃ビルなのだろうか。やけに寂れている。少し迷ってから、僕は千尋さんを追って、薄暗いビル内に足を踏み入れた。
小さなエレベーターがあった。ボタンを押してみたけれど、反応は無い。僕は指に付いた汚れをハンカチで拭いた。狭くて暗い階段を上がっていく。階段には砂やらごみやらが積もっていて、靴の裏がざりざりとする。二階のドアの前にはガラクタが積まれていて、通れそうにもなかった。諦めてそのまま三階へと上がる。三階のドアは簡単に開いた。
ドアを開けると、その向こうには細い廊下が伸びていた。その右と左に二つずつ、すりガラス入りのドアがついている。中は荒れ果ててひんやりとしていた。ここも汚れているけど、階段に比べればましだ。
天井の蛍光灯がチカチカと輝いている。電気、通ってるんだ……エレベーターは動かなかったのにな。
千尋さんの姿は無い。右手前のすりガラスの奥がほの明るい。
誰か居るのか?……千尋さん?
僕は少し迷ってから、ドアをノックした。
「はい!」
思いがけずに返ってきた返事に、ビクッと体が震えた。ガチャリ、とノブが回ると軽い軋みと共にドアが開いた。
「ようこそ、おいでくださいました!」
ドアの隙間から元気よく笑っている女の子が見えた。
「あ……あの」
ノックしたのはいいけど、何て言ったら良いんだ?
言葉の出てこない僕を警戒する風でもなく、その子はドアを大きく開いた。
「さぁどうぞ!」
「…………」
僕は招かれるまま、室内に入った。
床も壁もコンクリートの打ちっぱなしの殺風景な部屋だった。ひとつだけ窓がついている。長い間、締め切られていたような、篭った匂いがした。けれど、まるで掃き清められたかのようにゴミや埃は無く、清潔ではないけれど、不潔とは感じなかった。
がらんとした室内にはダイニングテーブルが置いてあって、向かい合わせに二つ、椅子がセットされている。テーブルには白いクロスがかけられ、キャンドルが灯されていた。
家具はそれだけ。電気はついていない。外から見えた仄かな明かりはキャンドルの明かりだったんだろう。
片方の席にだけ、銀色のスプーンとフォークが並べられている。食事の用意のようだけど、どちらも全く飾り気が無く、シンプルというよりは素っ気無い雰囲気だ。
「どうぞ!」
女の子がレストランでボーイがやるように、椅子を引いて僕を招いた。
随分子供だ。真宵ちゃんよりずっと幼い。頭の上で髪を輪っかに結っている。服は同じだけど、姉妹って訳でもなさそうだ。
「どうぞ!」
女の子は笑ったまま繰り返した。さっきからずっと笑っている。同じ笑顔なのに、真宵ちゃんとはどこか違うな……
「どうぞ!」
言い方は可愛いけど、拒否を許さないような響きがある。僕は恐る恐る、椅子に腰掛けた。女の子は丁寧な仕種で僕を席に着かせると、部屋を出て行った。
「あ、あの……」
外へ出て行ってしまったのかと思ったけど、奥の方でカチャカチャと食器を扱うような物音がする。何となく席を立つ事が躊躇われて、仕方なくそのまま女の子を待った。
やがて女の子が戻ってきた。両手でカレー皿を大事そうに持っている。後ろから、僕の前に皿を置いた。
「あの……君は誰?」
女の子はそれには答えずにテーブルを周って、僕の前の椅子に座った。僕たちは真っ直ぐに見詰め合う。
「カレーをどうぞ!」
女の子が言った。
「……女の人を探してるんだ。此処に来なかった?」
「カレーをどうぞ!」
女の子は同じ事を繰り返した。
「いらないよ。ねぇ……」
「カレーをどうぞ!」
「……………」
僕は、ちらりとカレーを見る。
「カレーを、どうぞ!」
女の子はにっこりしたまま、もう一度繰り返した。僕はカレーに手を伸ばした。近くに寄せると、湯気と良い香りがふんわり立ち上った。その香りに、くらくらと眩暈がした。
頭が……重い。
僕は何かに引きずられるようにスプーンを取り上げた。カレーを掬い上げ、口に運ぶ。それはとても美味しかった。
「これ、美味しいね……」
「ありがとうございます!」
「うん……」
僕は憑かれたようにカレーを食べ続ける。不思議と懐かしい味がした。女の子は笑ったまま、黙って僕を見ている。
カチャン、と僕はスプーンを取り落とした。急激な眠気が襲ってきた。食べている最中なのに抗えない程の強い睡魔。女の子は黙って、僕の前から皿を遠ざけた。
頭が重い。重くて顔を上げていられない。
僕は堪らず、その開いたスペースに突っ伏した。
千尋さんは何処にいるんだ?
真宵ちゃんはどこに行っちまったんだ?
僕はどうして千尋さんを追いかけているんだ?
僕はどうなるんだ………
疑問が脈絡無く渦巻く中、僕は吸い込まれるように眠りに落ちて行った。
――僕が見える。
あれは小さい頃の僕だ。小さい僕は泣いていて、泣きじゃくる僕の頭を誰かが、撫でていた。
……誰だ?
見えている筈なのに認識出来ない。
あのひとは……
……なでられているのは、僕?
いつの間にか、僕は小さな僕と同化していた。僕は泣きながら短い腕を差し出す。その人は僕を抱き上げると肩に担ぎ上げた。僕は頭にしがみ付いて泣いた。
泣かなくても 良いのよ
そう。貴方はいつも、そう言ってくれた。
僕じゃない
僕は嗚咽の合間に言い続ける。
僕じゃない
どんなに言っても聞いてくれない。もう、誰も信じてくれない。
それでも、貴方は慰めてくれる。
私は 信じてるわ
壊れたテープのように言い続ける僕を、根気よく。
それで僕はようやく、少しだけ安心する。
だけど、もっと頭を撫でていて欲しいから、泣き止んだりしない。――そんなのは、全部ばれているけど。
貴方は僕の嘘に付き合ってくれる。
心配ないわ、と貴方は笑う。
わるいことは ぜんぶ けしてあげましょう
目を開けると白いクロスが目に入った。
……そうか。眠っちまったのか。
前の席に、あの子の姿は無かった。テーブルの上には皿もキャンドルも無い。キャンドルが消えたので部屋の中は暗くなった。たったひとつある窓から街灯の光が差し込んでいて、室内を仄かに照らし出している。
どこからが夢だったんだろう。
よく解らない。
僕は目を瞬かせた。その拍子に、ほろりと涙が頬を伝い落ちて、僕は自分が泣いていた事に、やっと気づいた。
頬を手の甲で拭う。夢を見て泣くなんて子供みたいだ。
頭の重みは取れていた。どのくらい眠っていたんだろう……立ち上がろうとした時、不意に耳が物音を捉えた。
こつ、こつ。
「!!」
僕は身を硬くする。誰かが階段を上がってくる足音。
誰だ……?こんな廃ビルに。
こつ、こつ。
嫌だ、変な人とかだったらどうしよう。僕は慌てて室内を見渡した。
隠れるか?でも……隠れる場所なんて……
一瞬迷った後、僕は足音を立てないように、素早くドアに駆け寄った。幸いにもドアにはシリンダー錠がついていた。そっとつまみを横に倒す。かちり、と予想以上に大きな音がして、ひやりとした。
こつ、こつ。
足音が大きくなる。
こつ、こつ。
僕はドアの側で息を潜めた。
がちゃがちゃ、とノブが乱暴に捻られた。心臓が飛び出しそうだ。域をするのさえ怖い。ドアの上半分に嵌めこまれた四角いするガラスは壊れていて、小さな隙間が出来ていた。そこから誰かが室内を覗いているのが気配で解った。室内は真っ暗なので、まず気づかれる事は無い筈だ。それでも体が強張る。
薄い金属のドアの向こうに誰かがいる。その息遣いさえ聞こえてきそうだ。
やがて、こつ、こつ、と僕の居る部屋の前を離れていく足音がした。そして再び、がちゃがちゃとノブを捻る音。他の部屋も確かめているんだろう。僕はそうっとガラスの割れ目から外を窺った。廊下には蛍光灯がついているので、その人の姿を確認することが出来た。
「!!」
あの人は、ホテルの前で追いかけてきた男だ!僕を追って来た?まさか!でも……!!
他の部屋も鍵は開かなかったらしい。男は諦めるように老化を戻ってきた。僕は慌てて顔を引っ込める。やがて足音は次第に遠ざかって行った。窓からしたの道路を見下ろすと、男が背中を丸めて去っていくのが見えた。
一体誰なんだ……どうして、僕を……
緊張の糸を、ほうっと緩め、僕は部屋から出た。廊下に出ると、闇の中で何かが動いた。
「!!」
顔を包帯で巻いた女が、暗闇の中でじっと僕を見据えていた。ホテルの闇の通路で出会った女。女はゆっくりと足を踏み出す。僕は気圧されて一歩後退する。闇の中で女の左手がゆっくりと僕を招いた。闇と共に憎悪の感情が僕に絡みつく。
いやだ!!
僕は身を翻して駆け出した。振り返らなくても、女が僕を追って来ているのが解った。少しでも立ち止まったら、捕まっちまう。僕は必死に前へ走った。突き当たりの左に、細い小さな階段が見えた。上に緑色の四角いランプがある。
非常階段!僕は咄嗟に階段を駆け下りた。一階よりさらに下に続く階段がある。僕は地下へ駆け込んだ。
地下はがらんとした倉庫だった。
胸が気持ち悪いくらいドキドキする。
のろのろと振り返ると、見慣れたにこにこ顔があった。
「………真宵ちゃん?……あの女は?」
真宵ちゃんは笑うだけで何も答えない。その代わりに僕の手を取った。
「一人は良くないね」
「……よくない……」
僕は真宵ちゃんの手をきつく掴んで、大きく息を吐く。真宵ちゃんの手が急に熱を帯びたような気がした。それに呼応するように、すぅっと動悸が収まる。
まただ。前にもこんな風に――
喉まで出掛かった疑問は、真宵ちゃんの顔を見た途端、霧散した。真宵ちゃんがもう片方の手で、自分の顔を押さえ込んでいたのだ。
「ど、どうしたの!?」
「…………うーん」
微かに真宵ちゃんが呻いた。ほんの少しの間の後、真宵ちゃんはゆっくりと手を外した。下から覗いたのは、いつもと同じニコニコ顔。
「どうかした!?気分悪い!?」
僕は不安になる。今までに真宵ちゃんがこういう仕種をした事が無かったから。どんな事があったって、真宵ちゃんは笑っていて、それが普通だと思っていたから――
「なあ、大丈夫……?」
「なんでもないよ、ナルホドくん」
「でも……」
言い募る僕を止めるように、真宵ちゃんは僕の手を握るように力を込めた。
……………。
……そうだな。
真宵ちゃんが何でもないって言うなら、何でもないんだ。
心配することなんて何も無い……。
僕は納得した。
「……早く出よう。此処は、嫌だ」
真宵ちゃんの手を引っ張って地上の階段へと向かう。
「そうだね。急がないとお茶会に遅れるよ」
真宵ちゃんはのんびりと言った。
「……何に遅れるだって?」
僕は真宵ちゃんを振り返った。
「お茶会だよー」
「……お茶会?」
僕は胡散臭い笑みを見返した……。
「本当に此処なのか?」
僕はもう一度、傍らに立つ真宵ちゃんに尋ねた。
「ここだよ」
答える真宵ちゃんはいつだってニコニコ顔だ。
「此処って……公園だろ?」
「公園だね」
お約束のように人の消えた街を抜け、真宵ちゃんに連れて来られて、僕はお茶会の場所へとやって来た。道中、僕と真宵ちゃんのかみ合わない会話から解ったのは、『オドロキくん』と『みぬきちゃん』の二人がここでお茶会をしているという事だけだった。
お茶会って言うから、優雅なガーデンパーティーを想像していたんだけど……。
「公園って……ヨーロッパの優雅な公園とは違うよ?ブランコとか砂場がある普通の公園だよ?」
僕が連れて来られたのは、事務所からそう遠くないビタミン広場だった。僕も小さい頃、ここで遊んだ事がある。
「ブランコがあってもお茶は飲めるよ」
「そりゃ飲めるけど」
「……ナルホドくんはブランコが嫌いなの?」
「ブランコは好きだよ」
「じゃぁ砂場?」
「砂場も嫌いじゃないよ」
「……………」
真宵ちゃんは僕を見返して、首を傾げる。
「何が、不満なの?」
「……不満は、別に無いけど」
真宵ちゃんは不思議な顔で笑った。……ま、いいか。確かに何処でだってお茶は飲める。そして僕はそれについてとやかく言う必要は、何処にもない。
僕は公園の入り口の車止めの前に立って目を凝らした。公園の端には藤棚があって、その下にログテーブルを模して作られたテーブルがある。そこにふたつの人影が見えた。ひとりは赤いベストを着た男で、もうひとりはとても青いマントとシルクハットを被った女の子だ。……お茶会の知識と経験が無い僕にも、これだけはよく解る。あれは絶対!普通にお茶を飲んでいる格好じゃない!あの女の子は!
僕は目を綴じて軽く深呼吸をした。
「何をしてるのナルホドくん」
「ちょっとね、心の準備をね。……よし、行こう!」
僕はテーブルへと向かった。
ログテーブルには白いクロスがかけられ、銀のトレーに銀のポット、そして同じく銀のフォークやナイフが並べられている。その横には白い磁器のティーセットがあって、サンドイッチやスコーン、クッキーなどがテーブルを飾っていた。
ここまでは普通、というか、むしろかなり本格的なお茶会の支度だと思う。
それを異様なものにしている要因は二つ。まず一つ目は時計。テーブルの上には、何故かお茶会セットを凌駕する程の大量の時計が犇いていた。テーブルに乗り切れない時計は足元に並んでいる。
僕はお茶会の事に詳しくないけど、お茶会の際には大量に時計を用意する事、なんてマナーは多分無いと思う。
それから二つ目。マジシャンの使うようなアイテムがごろごろしている。それはもう、物凄くごろごろしている。大きなリングはあるし、人体切断の時に使うようなカラフルな箱があるし、テーブルの上ではまるでオブジェのように花の咲いたシルクハットが中央に聳え立っていた。かなりイリュージョンにお茶会を楽しんでいるお茶会を楽しんでいるみたいだ。
いっそ清々しいくらいの荒れ様に、半ば感心して眺めていると、カップに紅茶を注いでいた人物が勢いよく叫んだ。
「遅いですよ、成歩堂さん!!」
その声に、ステッキを弄んでいた女の子がこっちを向いた。叫んだ男は、声の感じからも僕よりも若いように思う。2つ3つ年下かな。
察するに、このおデコの広い子がオドロキくんで、この魔術師みたいな女の子がみぬきちゃんなんだろう。
「一体何時だと思ってるんですか!!」
オドロキくんが噛み付くように叫んだ。
「え?えーと……」
僕はテーブルの上に散らばる時計の群れを眺める。時計は三時を指していた。
……三時?夜なのに?……まさか早朝の三時じゃないよな?
不思議に持ったけれど、時計の針が三時を指しているのだから仕方が無い。
「三時……かな」
「三時になってからそれくらい経つと思うんですか!」
オドロキくんはポットを傾けたまま怒鳴っているので、カップからはどぼどぼと紅茶が溢れている。僕はその様を見守りながら答えた。
「三十秒くらいじゃないか?」
「違いますよ!気の遠くなるくらい長いですよ!」
「でも時計を見る限り、三時になったばかりだよ」
「あぁ勿論三時になったばかりですよ!だけど三時になったのはもうずうっと昔の事なんです!」
「?」
いまいち意味が解らない。なぞなぞみたいだ。
「おかえりっ」
みぬきちゃんはティーポットを差し出した。カタカタと震えるポットが実に不気味だ。
「さあ、座ってお茶を飲もう?」
差し出したお茶を受け取ろうとしたら、ティーポットの中からぽんっと花束が開いた。それと同時に、熱湯も飛び散るれ、オドロキくんが飛び上がった。僕はすんでの所で被害を免れる。真宵ちゃんが素早く僕のネクタイを引っ張って、熱湯を避けさせたからだ。……少し喉がぐえっとなったけど。
元凶のみぬきちゃんは熱湯を被ることも無く、舌をぺとっとだして自分で頭をこつん、と小突いた。
「ね、ねぇ、僕たち、女の人を探してるんだけど……何か知らないかな?」
僕は屈みこみながらオドロキくんに聞いた。
「あぁ……千尋さんなら此処に来ましたよ」
オドロキくんは椅子に座り直すと、そう言った。
「ほんと!?いつ!?」
僕は身を乗り出す。
「ついさっき」
「随分昔」
オドロキくんとみぬきちゃんは同時に答えた。
「……どっち?」
「三時になる前ですよ」
オドロキくんは、カップを口に近づけて紅茶を啜った。
えーと、今は三時になったばかりなんだけど、三時になってからもう随分経っているんだから、三時になる前に千尋さんが此処に来たって事は、ついさっき来たって事で、でもそれは随分前な訳で……ああ、ややこしい。
「……それで?どっちへ行ったか知ってる?」
「あっち」
指を指してみぬきちゃんは言った。その先を見ると、そこにはバラの絡んだ美しい門があった。公園のバラ園だ。確か数年前に市が緑化計画の一環として作ったものだ。僕は1度も中に入った事が無い。
アーチには白い蔓バラがびっしりと絡んでいる。普段は鍵がかかっていて、花の咲く季節だけ開放される事になっていたと思うけれど、今、門扉は大きく開いていた。
「ありがとう、二人とも!行ってみるよ!」
僕はバラ園の門に駆け寄った。
「ナルホドくん!!」
背後から珍しく緊迫した真宵ちゃんの声が飛んだ。
「え、何……痛ッ!」
振り返るよりも早く、右腕が痛みを襲った。
「な、何だこれ……!?」
バラの蔓が僕の右腕に絡み付いていた。生き物のようにギリギリと僕の腕を締め上げてくる。棘が肉に食い込んだ。
「痛!!」
見る間に右腕が赤く染まっていく。
「やめろ、放せ!!」
僕の懇願には構わず、バラの蔓は力強く僕を引寄せる。
蔓が首に伸びた。
必死に抗ってみても、抵抗すればする程棘は皮膚を裂いていく。僕は堪らず助けを求めた。
「助けて、オドロキくん!」
オドロキくんは椅子に深く腰掛けて、んー、と首を傾げた。
「すいません。お茶してる最中に席立つのはちょっとですねー。マナー違反て言うんですか?」
マナー!?マナーを重んじてるようには、露ほども見れなかったんだけど!?
「自分でなんとかしてください。成歩堂さんでしょう?」
そう言うと、オドロキくんは紅茶を啜りながら、ひらひらと手を振った。僕は二度とオドロキくんなんかあてにしない事を胸に誓った。
「助けて、みぬきちゃん!」
僕の声に、みぬきちゃんがぱっと顔を上げた。
「パパ!」
みぬきちゃんは銀色のナイフを片手に、勇ましくテーブルに飛び上がった。今、パパって言わなかったか?
「待ってて!今行くよ!」
勢いよく一歩を踏み出す。
「いま……」
クロスに足を取られ、ずべしゃあと滑る。そして、ばたーんとテーブルの上に倒れてしまった。その拍子に、小さな右手に握られていたナイフがすっぽ抜けた。
「ぎゃぁっ!」
オドロキくんが飛び上がる。彼のおデコにナイフの切っ先が当たったようだ。だけど、今の僕にはオドロキくんの心配をしている余裕なんてない。
「助けて、真宵ちゃん!!」
真宵ちゃんは素早く駆け寄ってきた。あんまり早かったので、まるで瞬間移動したかのようだった。そして手にしていたナイフで――勢いよく自分の腕を切ったのだった。
ばっと赤い血が舞う。
「な、何で!?なんで自分を……!」
一瞬、真宵ちゃんの気が可笑しくなったのかと思った。けれど、それと同時に、僕の腕に絡みつく、蔓の力が弱まった。何本かの蔓が僕の腕を離れ、真宵ちゃんに目標を変える。真宵ちゃんは自分に絡みつくバラには構わず、僕の腕にしつこく絡みついたままの蔓を引き剥がしに掛かった。皮膚が裂かれる痛みに、僕は呻いた。バラから開放されて僕は地面に転がった。
バラは僕に興味を失っていた。新しい獲物――真宵ちゃんに、僕の時以上の勢いで絡みついて行く。
「真宵ちゃん!!」
「あ、やばいんじゃないですか?」
ちっともやばくなさろうでない口調でオドロキくんが言った。
「バラは真宵さんが大好物って話ですよ。まぁ、オレでしたら成歩堂さんを食べますけどね!」
真宵さんに手を出すのは怖いですしね、と、オドロキくんは呑気な感想を述べた。
何とかしないと!
僕はとっさにテーブルの上にあったナイフを手に取った。
「これ、もらうよ!」
キルトで出来た白いティーコゼーを掴む。ダメです、とか何とかオドロキくんが叫んだけど、相手にしていられない。ティーコゼーを軍手代わりにして僕は真宵ちゃんを襲う蔓の根元を掴んだ。食卓ナイフは鋭利ではないのでなかなか切れない。何本かバラが再び僕に絡みついてきたけれど、構わなかった。必死に刃を擦りつけ、最後は引きちぎるようにして、次々と蔓を叩き切った。
地面に落ちたバラの蔓が、びくんびくんとのた打ち回る。切られた茎の断面から赤い汁がだらだらと溢れ出した。
……血?背筋がぞくりとした。
紫色だった真宵ちゃんは、赤と紫の斑になっていた。
「ほんっとバカですね、成歩堂さんは!白バラは血を吸うでしょうっ!常識ですよ、ジョーシキ!」
「白バラは血を吸って赤くなるの、パパ」
みぬきちゃんが無邪気に言った。振り返ると、白いバラはうっすらとピンク色になっていた。血がバラを赤く染める……。そんなの初耳だ。でも言い返す気にはなれなかった。
「ご、ごめんね、真宵ちゃん……」
「ナルホドくん、あたし達の為に泣くのは良くないよー」
斑の真宵ちゃんはいつものニコニコ顔で笑った。
「そうですよ、成歩堂さん!そういうのを本末転倒って言うんです!」
オドロキくんが意味不明な事を喚いた。
「怪我……て、手当てしないと」
そう言う僕の声が、無様なくらい震えている。
怖かった。
真宵ちゃんが居なくなったら、僕の味方は誰もいなくなってしまうような気がして。
そうしたら僕は――
その時、急に真宵ちゃんが血だらけの手で僕の手首を掴んだ。
「な、なに……」
きつく掴まれた手首が熱くなる。
「……………」
「?……なぁ………?」
どうしたの、と言おうとして、僕は息を呑んだ。
「!?」
一瞬、ぐにゃりと真宵ちゃんの顔が歪んだような気がしたのだ。
「え………」
僕は目を擦る。
「……どうかしたの、ナルホドくん」
そう言って、真宵ちゃんは僕の手を開放した。僕は穴の開くほど真宵ちゃんの顔を見詰める。変わった様子は――無い。
「………いや、何でもない……」
気のせいか。
いつの間にか体の震えが止まっていた。震えは止まったけど、まだ動揺しているんだ、きっと。でも、もう大丈夫だ……
「ねぇ、オドロキくん、包帯って無いかな」
「あるわけないでしょう!考えてみてください、お茶会に包帯なんか必要ですか!?」
それはそうだ。
「じゃぁそのナプキン貰っていい?」
「うん、あげる」
みぬきちゃんが隣の席にセッティングしてあったナプキンを差し出してくれた。
「真宵ちゃん、手、洗おう」
「必要ないよ」
そう言って、真宵ちゃんは衣装の上から赤い染みを舐める。
「ちょ……だめだよ、そんなの!」
僕は真宵ちゃんを引っ張って、公園の水場まで走って行くと、まず真宵ちゃんの腕の血を洗い流した。傷自体は痛そうだし、派手だけど、それほど深い傷じゃない。放っておけばその内血は止まるだろう。ナプキンを水に濡らして絞ると、着物の袖に隠れた部分を濡れナプキンで拭いてあげた。
「ナルホドくん、舐めればいいのに」
「僕も君も動物じゃないんだから傷を舐めたりしないの」
「知らないの?真宵ちゃんの血は美味しいんだよ!」
「美味しくないってば。変な事言い出すなよ」
真宵ちゃんは僕の腕の傷を舐めたそうだったけど、それは丁重にお断りした。
「はい、パパどうぞ」
戻ると、みぬきちゃんが大きなパンツから何かを取り出した。それは包帯だった。
「僕に?ありがとう」
頭を撫でてあげると、みぬきちゃんは嬉しそうに身を捩った。でも、なんで僕がパパなんだろうか。
「出すように言ったのはオレですよ!」
オドロキくんが横から口を挟んだ。
「はいはい。オドロキくんもありがとうな」
そう言っておデコを突くと、オドロキくんはぷいっと横を向いた。
僕は真宵ちゃんに包帯を巻きながら、オドロキくんに尋ねた。
「こんなの、どうやって通ればいいんだ?」
「それはバラが眠ってる時に通るしかありませんよ」
オドロキくんはぶすっとしながら答えた。どうやら僕が真宵ちゃんに優しいのが気に入らないらしい。
「眠る?バラって眠るの?いつ?」
「四時になれば眠りますよ!バラは早寝早起きですからね!」
「四時って……」
僕は荒れ果てたテーブルに散らばる時計を眺めた。時計は三時を指している。さっきからぴくりとも針は動いていない。
「だってずっと三時なんだろ、ここは。いつ眠るんだよ」
「だから四時になれば眠るって言ってるじゃないですか!」
「だからっ、いつ四時になるんだよ?」
「時計の針が進んだらに決まってるでしょ!」
「………解った。時計の針が四時になればいいんだね?」
僕はテーブルの上の時計をひとつ取り上げた。背面の針を動かす螺子を捻る。
「あ、あれ?」
螺子は固く、回らない。
「ったく!」
「何やってんですか、成歩堂さん。時計を動かせるのは時間くんだけですよ。常識でしょう?」
オドロキくんは心底呆れたように言った。
「時間くんて?」
「時間くんも知らないんですか!あああ、全くもう!なんて無知なんですか!」
僕はムカ、とする。だいたいこっちの常識が僕にとっては常識じゃないんだから仕方ないじゃないか。
「時間なら知ってるよ」
「呼び捨てにしないでください!」
「……ならその時間くんに針、動かしてもらってくれないか?君たちだってお茶会はそろそろ飽きただろ」
オドロキくんは急に黙り込んだ。
「捕まっちゃったの……」
みぬきちゃんが呟くように口を挟む。
「捕まった?誰に?」
「狩魔冥ですよ!」
「狩魔冥?……その人が?」
「時間くんは体がないから首もないんです!だから捕まっちまったんですよ!」
「はぁ……?」
もう、オドロキくんの話は意味が解らない。
「メイちゃんは首が無いものが嫌いなんだよ」
真宵ちゃんが非常に曖昧な補足をしてくれた。さっぱり意味が解らないけど、そのままを受けれると、話はこうだ。狩魔冥という人は首が無いものが嫌いで、時間くんには首が無いから狩魔冥の怒りに触れ捕まった、と。
僕は少し考える。それなら……僕たちは捕まったりしないよな?首、あるし。
「……訪ねて行ったら……会ってもらえるかな?僕でも」
「そりゃ会えるでしょう。貴方、成歩堂さんですし」
「そ、そう……?」
何時の間に僕っていう身分はそんなに偉くなったんだ。
「じゃぁ僕、狩魔冥に時間くんを出してもらえるように頼んでみる。その人の所へどうやって行ったらいいんだ?」
「土管を通って海を渡ればいいんですよ」
あの土管、とオドロキくんは焼き菓子を持った手で指差した。
「土管?」
公園の砂場の向こうに土管が二つ並んでいるのが見えた。本物の土管ではなく土管に似せて作られた遊具だ。
「土管って……土管通ったって公園に出ちまうだろ」
「ああもう、煩いですね成歩堂さんは!文句が多い!これ以上うだうだ言うと、サンドイッチにして食べちゃいますよ!?」
「でも」
僕は首を竦めた。
「……じゃ、行ってみようか」
サンドイッチの具にされるのはごめんだ。
「赤い土管の入り口から行ってね、パパ」
みぬきちゃんがそう言った。だから、何故パパ。
僕達はお茶会を後にして土管へ向かった。
火事云々も色々考えて変更。ついでにあの歌も無い。もうやりたい放題ッス!ホレホレ!!
折角なので助けを呼ぶ選択肢は全部出してやりました。あれはチェシャ猫に行くまで選択肢が残り続けますからね。
しかしオドロキくん、書いていながら「うっせーなコイツ」とか思いました。いや、ゲームプレイ中もだけど。
あとみぬきちゃんに強引にパパ呼ばわりさせてみました。……いやだッ!「成歩堂さん」なんて他人行儀に呼ぶみぬきちゃんなんてッ!!
しかしあのシチュー(ここではカレー)を食って見る夢の場面はうるっと来た。最後を思うとさぁ……あぁ……