携帯が鳴り出した。
 神乃木は慌ててマナーモードに切り替える。
 病院に入る時は一応電源を切るようにしていたのだが、今日は忘れていた。ディスプレイを確認すると事務所からだった。星影からだろう。
 その時、ふわりと空気が動いて、微かにコーヒーの芳香がした。
 思わず神乃木は足を止めて振り返る。すぐ傍を男性が自販機の中からコーヒーを取り出し、通り過ぎて行った所だった。誰かの見舞いに来たのだろうか。
 唐突に思い出した。
 ――美柳ちなみ。
 二度と立ち直れない悪夢のような裁判を自分に残した女。綺麗な女性だったという印象はある。隙の無い、いつも何か狙っているような、けれど追い詰められているような人物だった。
 そんな女は、狂言誘拐を企て、その罪を全部恋人になすりつけた。そして、その時の協力者である姉が事件の全貌を公表しそうになったのを、殺して口止めした。その時の事件の弁護士に選ばれたのが自分だった。しかし、彼女の悪行を法廷で裁く事は叶わなかった。元恋人であった被告人は、彼女に暗に促され服毒自殺を計ったのだ。裁判はそこで終わった。
 それでも尚、自分は彼女の罪を暴こうと食い下がった。
 やがて女は自分を呼び出し、裁判所のカフェで会った。
 ――いつもコーヒーですのね、神乃木のおじ様。
 そう言って伏せた目は、手元のカップに注がれていた。
 ――それがどうかしたかい?
 ちなみは確か、微笑んで自分にこう言ったのだったと思う。
 ――たまには他の飲み物にしてみません?
 それはただ単にこれからの駆け引きの前の、自分への先制攻撃の意味だと思っていた。
 ――勝負の時に飲むのは、コーヒー。それが、俺のルールだ。
 それがちなみを見た最後になった。
 毒で喉が熱かった。
 相手は小娘で配慮が足りなかった。
 けれど、それはいい訳に過ぎない。
 確かに、どこかで普通では無い空気を感じ取っていたのに。
 けれどそれに目を瞑った。正直、疲れていたのだ。被告人は裁判の最中で死んだ。自分の差し出したコーヒーに毒を入れて。そんな現実を抱えるのは辛かった。
 ――どこかで、逃げてしまばいい、と思っていたのかもしれない。そしてそれを真っ向から否定する事が出来ない自分が居る。
 時が経てば経つ程、思う。
 あの時、わざわざ自分に声をかけたのは、止めて欲しかったからではないのか。ちなみの精一杯の悲鳴だったのかもしれないのに。
 それを、見捨てたのだ。
 神乃木は知らず、深い溜息をついていた。
 本当の事を話したらまた嫌われるんだろうな。
 やっと懐いてくれたところなのに。
 ぽんっと背中を叩かれて、飛び上がりそうになった。
 心臓は間違いなく5ミリくらいは跳ねたと思う。
 振り返ると、入院着にカーディガンを羽織った成歩堂が、にこにこして立っていた。
「……何やってんだ」
「散歩です。寝ているのが退屈で。……電話ですか?」
 そう言われて、携帯を握ったまま、ぼけっと立っていた事に気づいた。電源を落としてポケットに突っ込む。
「あんまりうろうろ歩き回るもんじゃねえぜ。もうすぐ退院って言ったって抜糸はまだなんだからな。ほら戻りな!」
 神乃木は成歩堂を伴って歩き出した。怪我をしている成歩堂に歩調を合わせているので自然とゆっくりした歩みになる。
「……あのですね?」
 成歩堂がおずおずと口を開いた。
「ああ?」
「……僕ですね、あさって退院なんです」
 神乃木は成歩堂の顔を見返した。今更何を言い出すのか、こいつは。
「知ってるぜ。そもそも俺が先生から聞いてアンタに伝えたんだろうが」
「はい、ええとですね、そうじゃなくって……結構長く入院しちゃいましたよね」
「そりゃアンタが二度も傷を開かせたからだろうぜ」
「……ご尤もです。そ、それはそうとして、そういう事じゃなくって!」
「何だ……ああ、入院費の事か?だから心配するんじゃねぇ」
 早くに事務所を構えたせいか、成歩堂は年齢の割には時折妙にシビアな金銭感覚を見せる。
「何百万と掛かる訳じゃねえし。金の心配なんか怪我人がするもんじゃねえぜ」
「違います!あ、いやいやいや、それはそれとして心配なんですけど、今言いたいのはそういう事じゃなくって……あの」
「なんなんだよ……」
 神乃木は足を止めて成歩堂を振り返る。
 成歩堂は照れたように少し俯いた。もともとしゃっきりしない所のある男だが、ここ二、三日、特にそうだ。何か言いたい事があるらしい事は解るので、待ってみる事にする。
「で、何だ?」
「あのー……えーとですね」
「………………………」
「えっと……あのぉ……」
「何だ!言いたい事はちゃっちゃと言え!」
「か」
「?」
「神乃木さんッ!」
「………………」
「……って呼んでもいいのでしょうか……」
 真っ赤になって成歩堂はごにょごにょと呟いた。星影から正式に紹介されたのに、神乃木はずっと名前を呼ばれないままだった。名詞で呼ばれる度、まるであの日の事を責められているような気がしていた。

    あなたのせいで、僕は事件に巻き込まれた。
    それなのに先輩面をするの?

「……だ、ダメですか?」
「………あ?」
 自分の世界に入ってたので、一瞬、何を言われたのか、解らなかった。ビクビクする成歩堂の顔を眺めて、思考が繋がる。
「阿呆。そんな事いちいち聞く事が可笑しいんだろうが」
 気恥ずかしいので、病室へ向かって先に歩き出した。
「だって、呼ぶタイミングを逃したものですから……」
「クッ………、アンタ俺の事、信用してなかったろ」
 図星だったのだろう、成歩堂はムキになる。
「そんな事ありません!今は!!」
 その力一杯の『今は!!』の部分が、バカ正直と言うかなんと言うか。
「しょうがないじゃないですか!色々事情があったんです!」
「ハイハイ」
「あ!でも、貴方、じゃない、神乃木さんも悪いんですからね!」
「は……」
 どくん、と心臓が脈打った。まさかこいつは、あの日の事を知っていて――
「僕の事、変な呼び方したでしょう!」
「………はぁ?」
 思わず勢いよく振り返ってしまった。
「そんなことなのか!?」
 そんなことじゃありません、と成歩堂は真面目な顔で反論する。神乃木は膝に手をついて、深く溜息をついた。
「漆黒のコーヒーにミルクを入れて濁らすような真似は好きじゃねぇが、慣れてない相手にはカフェオレを出してやるのさ」
「……つまり、僕が緊張してるだろうから、ちょっとふざけてみたって事ですか」
「そう言うこった」
「そう、ですか……」
 成歩堂は納得したような、してないような表情をした。
 ややあって何か思い出したように、くすっと笑う。
「そうか、そうだ。貴方、じゃない、神乃木さんだったんだ」
「?……何がだい?」
「昔、裁判所のカフェでコーヒーを飲んでいた人」
 不意にむせ返る程のコーヒーの匂いが鼻の奥を過ぎった。
 あの後、自分は毒を食らい3年間の昏睡状態が続き、目を覚ましてすぐ、美柳ちなみの跡を追った。あの事件が起きたのはその直後の事だ。
「……すまねえな」
 思わず、言葉が口をついて出た。
 悪かったな。美柳ちなみ。
 ――あの日、気づいてやれなくて。力になれなくて。
「えっ、え!?な、何がですか!?」
 状況の解らない成歩堂が、笑えるくらいおろおろとする。
「いや、こっちの話しだ」
 ――こいつには、今、居場所が必要だ。安心出来る場所が。
 その為には、不信の種は覆い隠しておきたい。それはまた、新しい罪悪感を齎すけど、『先輩』の称号と照らし合わせれば、まあ、そう悪い取引でもないだろう。
「ねえ、何ですか?」
「……世の中には知らなくてもいい事もあるって事だ」
 とぼけて言うと、成歩堂はちょっと考える素振りを見せた。そして、意外にも素直に頷く。
「そうですね、女の子の笑顔の理由とか」
「はあ?」
 この後輩は、時折不思議な事を言う。
 フフ、と成歩堂は無邪気に笑った。
「こっちの話ですよ!」



end.

これは一人称じゃないんで切り離してみた。事情がさっぱり違うのでかなり梃子摺る。てか、なんだ、ゴドナルかよ(ごろごろしながら)
これ書いてて思ったんですが、被害者が叔父さんの場合だとかなりあっさり終わるんですね、アレ。
つーか武村だよ。………武村ァァァァァァァァァァァ!!!!
なぜアイツ殺しておかんかったシロウサギ&猫&女王様ァァァァァァァァ!!
しかし、これ言うたらそのようなアレですが、アリスに対してはまだ悲しませるような事はしてないんですよね、コイツは。アリスに対しては、直には。
こいつに比べれば牙琉霧人さんなんて全然可愛いじゃないッスか!みぬきちゃんがナルホドくんの実の子じゃないって解った時点で「ああじゃあ何か、行く行く本当のオトンとか出てきてみぬきちゃんがナルホドくんの傍から出て行っちゃうよーな展開がされちゃうわけなの?冗談じゃネェぞこんな萌え親子が無くなるなんぞ!!」とか思ってたら第一話の被害者がみぬき真オトンだと解って思わず「よーやってくれた霧人ォォォォォォォ!!先生はやっぱりオレの先生だ―――!!!」とオドロキ調にガッツポーズをしてました。成歩堂親子永遠あれ!!!!
ぶっちゃけバランが出て来た時、似たような服装で嫌な予感(みぬき真パパ疑惑)がしたので、「あー、この事件の真犯人コイツになってくれないかなぁー」とか思ってました!オッス!自分、割りと非道ッス!!!
いやでもあの親子、犯罪のひとつやふたつこなしても存続させていくべきだと思いま戦火。
……は。牙琉先生はまさか本当はこんな動機で?(ンな訳あるか)