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 飛び出した瞬間、違和感があった。
 僕は動きを止める。
 しいんと静まり返った院内。
 まさか。
 僕は、すぐ傍の六床病室に飛び込んだ。
 乱れた毛布。サイドボードの上のお茶の注がれた湯飲み。半分だけ引かれたカーテン。
 風景は変わらない。
 息を潜める程の静寂に、押しつぶされそうになる。
 その中で、たった一つだけの音が、微かに響いた。こつ、こつ、と密やかな足音が聴こえる。その音は確実に近づいてくる。
 ここに向かって。
 僕は音とは反対方向へ走り出した。その瞬間、お腹に鈍い痛みが走った。
 そうだ。怪我してるんだった。
 僕はお腹を庇いながら走る。
 誰か。誰か居ないのか?
 無駄だと解っているのに、人の姿を探し求めていた。いつも看護師さんが忙しそうに立ち回っているナースステーションも、ひっそりと静まりかえっている。僕は病練の端にある階段へ走った。
 背後から足音が迫る。
 小さな微かな音が、確実に僕を追い詰めていく。
 お腹、痛い。
 手すりに縋るようにして一段一段階段を降りる。ここは四階だ。普通ならなんてない事ない距離だけど、傷を抱えた今の僕には地上がはるか遠くに感じられた。
 とにかくここから出て……出て、どうすればいい?
 そんな事は自分でも解らなかった。
 何とか階段を降りきる。動かした時にだけ起きていた引き攣るような腹の痛みは、慢性的なものへと変化していた。だけど構っていられない。僕は正面玄関へと走った。
 自動ドアの厚いガラス戸はぴくりとも動かなかった。手でこじ開けようとしてみたものの、腹に激痛が走っただけでドアに変化は無かった。その場に蹲り、痛みに耐える。
 涙と汗が流れた。
 確か……エレベーターホールの向こう側に、夜間の出入り口があった筈だ……。
 僕はふらふらと立ち上がると正面玄関を離れた。
 もう走ることが出来ない。気持ちだけが前に行くけど、体がついていかない。
 体を引きずるようにして、西側入り口へと向かった。
 エレベーターの前を通りかかった時、僕は足を止めた。エレベーターの稼動音がする。数字が点滅している。
 灯りは4から3へと移った。
 3から2。
「!」
 ここへ来る!
 走れないこの状態で西側入り口までは辿り着けない。もし西側入り口も仕舞っていたら袋小路だ。逃げられない。
 2から1。
 僕はとっさに目の前にあった地階への階段に駆け込んだ。
 腹に激痛が走った。
 階段を転げ落ちるようにして下りる。背後でエレベーターのドアが開いた音がした。


 地階には今まで降りた事が無い。この階は普通、関係者以外立ち入り禁止だからだ。
 僕は目についたドアを片っ端から引っ張る。でも、どのドアも開かなかった。もちろん人も居ない。
 患者が立ち入る場所では無いからだろうか。上の階とは違って薄暗く、素っ気無い。
 お腹の痛みが限界に近づいていた。
 僕は壁に縋る様にして、何とか前に進む。
 知らない内に、呻き声が自分の口から漏れていた。
 ここで倒れて楽になりたい。ちらりとそんな考えが頭を過ぎった時、やぶれかぶれで掴んだドアのノブがあっさりと回った。
 ノブに凭れる様にしていた僕は、文字通り、室内に転がり込んだ。
 激痛に、暫く蹲ったまま動けなかった。呻きながら床に押し付けた頬が冷たい。
 ……タイル?
 痛みで朦朧とする頭を上げると、銀色に光る台、並べられた白い長靴、天井から下りている丸い証明が目に入った。
 実験室か何かみたいだ……そうか、解剖室?
 その時、背後で声がした。
「見つけたぞ」
「!!」
 振り返ると、入り口に御剣が立っていた。いつもの赤いスーツ姿で、胸に大きな袋を抱えている。
「だめではないか、出歩いたりしたら」
 御剣は笑ってゆっくりと室内へ足を踏み入れた。
「み……つるぎ……」
 いつもと変わらない顔。それが余計に僕を戦慄させた。
「誕生日プレゼントを持ってきたぞ。とっておきなんだ。喜んでくれると嬉しいのだが」
 そう言うと、御剣はガサガサと袋から中身を取り出した。
「!!!!」
「気に入ってもらえたか……?」
 そう言って御剣は笑顔でそれを差し出した。
 僕は声をあげる事も出来ないまま、それに目を奪われていた。
 女の首に。
 白く濁った目。
 血の気の引いた顔。
 それでも見間違う筈はない。
 4年間、毎日見ていた顔。
「……ち……ちいちゃ………」
「誕生日おめでとう」
 脳が麻痺している。
 泣くべきなのか、怒るべきなのか、怖がるべきなのか、判断がつかない。
 僕は呆けたようにただちいちゃんの首を見詰めていた。
「喜んでくれないのか?なあ……」
 御剣の髪はいつもより黒い。いや黒いんじゃない。茶色に染まって……そして服も黒色に変色していく。その服には、血を浴びた跡が浮かび上がった。
「……千尋さん、なのか………」

「とびっきりのプレゼントなのに……ねぇ、なるほど君?」

 声が変質していく。
 男の低い声から女性の声へとゆるゆると変わっていく。
「御剣ッ!!」
 僕はそれを止めたくて友達の名前を呼んだ。
 僕の一番の友達の名前を。
 途端、ぐにゃりと御剣の顔が歪んだ。
「ひっ……!!」
 顔だけがぐにゃぐにゃと歪み、千尋さんと御剣の顔が混ざる。
 ゴロリとちいちゃんの首が床に投げ出された。空いた千尋さんの右手には、いつの間にか包丁が握られていた。
 どす黒いものがこびり付いている。
 千尋さんの歪んだ顔はあさっての方向を見ている。もう僕すら見えていないのだ。ただ、本能のように『なるほど君』を求めている。
 座り込んだまま、這いずり下がった僕の背中が、銀色の解剖台にぶつかって、がしゃん、と音を立てた。その音に、ビクッと千尋さんが震え、歪みが止まった。
 ふうっと御剣の顔に戻って安定する。ただ髪は千尋さんのような茶色のまま。
「……………」
 コキッと首をならして、御剣が呟いた。
「……急がないと、君を連れて、行かなければ」
 ギギ、と首がぎこちなく動いて、僕の姿を認めた。
「!………」
 壊れた人形のような、覚束無い足取りで近づいてくる。
「来るんだ成歩堂、私の成歩堂……」
 その手が何かを求めるように、空をかいた。
 僕は子供のように首を横に振る。
「やだ……いや……だ。僕、行かない……。聞いてくれ御剣、僕は……!!」
 言い募ろうとした僕を無感動な声が遮った。
「君を傷付けるだけの世界なら、捨ててしまって」
「……傷付ける、だけ?」
 声が掠れた。
 そんな事ないって……言わなきゃ。
 そんな事ないって。
 だけど、言葉が出てこない。
 だって。
 僕は床に転がるちいちゃんの首を見た。
 ちいちゃん。
 僕、そんなに無理言った?
 好きじゃなくていいんだ。ただ嫌いじゃないって、信じさせてくれたら、僕はそれで良かったのに。
 だけど、それさえ叶えてくれないまま、君はそこに転がってる。
 僕の願いは、もう永遠に叶う事は無い。
 ――もしも。人が誰かの為に生きているというのなら、誰にも愛されない人間には価値があると思う?
 信じていた恋人に、裏切られた人間は?
 ねえ、ちいちゃん答えてよ……!
「お、いで」
 千尋さんはそのほっそりとした手を差し出した。
 僕は――
 この手を取れば、きっと楽になれる。何もかも放り出してしまえる。
 だけど。
 僕は固く拳を握り締めた。
 どんな現実だって飲み込んで、人は生きていくんだ。僕だけが特別辛い訳じゃない……。
「行かない……僕、ここで生きてくって決めたんだ……」
 声が、上手く出ない。
 出血のせいで、貧血を起こしているのかもしれない。
 世界が、遠い気がする。
「お願いだから……解ってくれよ……」
 千尋さんは無表情のまま首を傾げた。
「ナルホドクン……」
 千尋さんが一歩僕に踏み出す。
「来るな……!」
「イッショニイキマショウ」
 ぐにゃりと千尋さんの顔が歪んだ。千尋さんが包丁を振り上げるのが、まるでスローモーションのように見えた。
 ――だめだ。逃げられない。
 もう、体に、力が……。
 僕は覚悟と共に目を瞑った。
 その時、ふっと何か柔らかいものが僕に覆いかぶさった。
「!?……真宵ちゃん!?」
 首から上が無い。それは、狩魔冥の城で逃げた筈の真宵ちゃんの体だった。真宵ちゃんの柔らかな体が僕を抱きこむように庇う。
 その背中に包丁が突き刺さった。
 小さく血が舞う。それでも真宵ちゃんは退こうとしなかった。
 千尋さんは機械的な動きで、何度も真宵ちゃんの背中めがけ包丁を振り下ろす。
「やめて、千尋さん!やめるんだッッ!!」
 僕の叫びも虚しく、真宵ちゃんの背中に刃物が突き刺さる度に赤い血が舞い散る。
 やがて僕を庇う真宵ちゃんの体から次第に力が抜け、真宵ちゃんの体は僕の膝の上に崩れ落ちた。その背後に立つ赤い千尋さんの顔がぐにゃぐにゃと歪んでいる。もう、ヒトの形はしていなかった。
 この歪みは僕の歪み。
 僕が千尋さんに背負わせたもの。
 涙が出た。
 怖いのでも悔しいのでもなく、自分の愚かさが厭わしかった。
 千尋さんをここまで歪ませたのは、追い込んだのは僕。
 千尋さんは真宵ちゃんの背中に突き立てた包丁を引き抜こうとしたけれど、根元まで深く肉に食い込んだそれは、なかなか抜けない。ちょっと首をかしげて千尋さんは包丁を諦めた。代わりに細い腕は僕に向かって伸ばされた。
 ――振り払える訳が無い。
 千尋さんは何も悪くないんだから。今だって、ただ、僕を守ってくれようとしているだけ。
 両手が僕の首に回された。
 ゆっくりと力が込められていく。
「う………」
 これで全てが終わるのなら、これで千尋さんが満足するのなら、それでいいのかもしれない。
 膝の上の真宵ちゃんの体はぐにゃりとして生温かいまま、ぴくりとも動かない。
 もっと僕がしっかりしていたら、君を守ってあげられた?
 ごめんね。
 ああ、僕、ごめんなさいも、ありがとうも、何も君に伝えてない……。
 呼吸が絶たれ、頭が膨れ上がるような感覚がする中で、僕は真宵ちゃんの背中をそっと撫でた。背中に突きたてられたままの包丁が、指に触れた。
 耳鳴りが次第に大きくなり、視界が赤く染まっていく。
 その時。
 耳元で声がした。
 僕の名前を呼んだ。
 何故か泣きそうな声だった。
 その声が悲しかった。
 僕、君を泣かせている?
 お願いだから、そんな風に泣いたりしないで。
 どこにそんな力が残っていたんだろう。頭で考えるより先に、手が動いた。
 包丁を真宵ちゃんの背中から引き抜く。不思議とそれはするりと抜けた。ぼくはそれを千尋さんの胸に、思い切り突き立てた。
 あっさりと千尋さんの体は刃を飲み込む。
 ごめんなさい。でももう――もう、泣かせたくないんだ。
「ごめん。ごめんなさい、千尋さん……」
 僕は包丁の柄を握ったまま泣いた。
 全て僕が作り出した事だというのなら、どうしてこんな結末にしかならないんだろう。どうして僕は貴方を助けてあげれないんだろう。
 肩に、微かな重みを感じて顔を上げる。
 そこには千尋さんの顔があった。
 血に塗れた細い手が僕の肩をあやす様に叩いた。
 長くてしなやかな髪。静かに僕を見詰める双眸。
 御剣の顔でも、歪んだ顔でもない千尋さんの綺麗な顔。
 ひどく懐かしく思った。
「泣かないで。なるほど君は何も悪くないのよ」
 千尋さんはそう言って僕の頭を撫でた。
 ――そう。貴方はいつもそう言ってくれた。
 誰にも信じてくれない僕を、いつもそう言って慰めた。
 ようやく思い出せた……。
「僕行けない……一緒には行けない……」
 行くわけには行かない。だって。
 貴方が守ってくれて、僕はここに居るから。
「?……」
 千尋さんは不思議そうに首を傾げる。
「ごめん、ごめんなさい……」
「泣かないのよ、なるほど君。ほら、いい子だから」
 小さい頃と同じように千尋さんは、僕の頭を撫でた。
 頭を撫でてもらうのもきっとこれが最後。
 僕は精一杯笑ってみせる。
 泣いてたら、千尋さんが心配する。
 心配かけ通しでごめんなさい。――最期くらい、安心して。
 握っていた包丁をさらに深く突き刺した。
「僕、大丈夫だから」
 僕がそう言うと、千尋さんは安心したように目を細めて笑った。
 ――この痛みを、ナイフが肉に食い込むこの感触を、覚えておこう。
 貴方の肌の白さ、優しい目も、柔らかな声も、この血の匂いも。
 今度は全部覚えておくから。
 だから僕が貴方の姿を見失っても、僕の中から貴方が消える事は無い……。
 崩れ落ちた千尋さんの体が、床に転がった真宵ちゃんの体が、ガラス細工のように粉々に砕けた。
 世界が真っ白に光る。
 僕は瞬きもせず、光の洪水の中に居た。やがて、破壊的な白い光が消え、視力がゆっくりと戻る。
 薄暗い濡れた解剖室。ころりとちいちゃんの首が転がっている。
 その他には何も無く、残されたのは、腑抜けたように座り込む僕だけ。
 廊下でヒトの声がする。
 戻らなきゃ……ベッドに。
 うろちょろするなって……怒られる……。
 立ち上がろうとして、僕はバランスを崩し、そのまま気を失った……。



あああ、終わる、よーやく終わる…………!!!長かった……本当に長かった……!!

シロウサギをアリスが倒すシーンは何度見ても泣けます。いや、倒す所とゆーか、そんなアリスをシロウサギが慰める所な。
なんかもー、切ないよ。上手く説明出来ないよ。うぇぇえええん。シロウサギィィィィィ!!