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 ――夢を見た後は、現実と夢の境目が曖昧だ。
 目が覚めても暫くは、どちらが夢でどちらが現実なのははっきりしない事がある。
 ?……これ、なんだろう………。
 僕は目の前の物体をぼんやりと見ていた。
 鈍く光る勾玉。あぁ、綺麗だなあ。天女が身につけているものみたいだ……
「おはよう、ナルホドくん」
 上から声がした。
 ………声!?
「!!」
 僕は跳ね起きた。
「だ、誰だ……!?」
 あんまり驚き過ぎて、危うく椅子からずり落ちる所だった。
 その子は、僕を覗き込むように机の前に立っている。
 な、何で……何でここに部外者が!?いやいやいや、それより、誰なんだこの子!!
 此処は僕の事務所の所長室で、関係者以外は立ち入り出来ない――筈、なんだけど。
 不審人物は紫色の羽織を着ていて、頭をチョンマゲみたいに結っている。今日は文化祭でも体育祭でもないんだから、こんな妙ちきりんな格好を女の子がしている筈が無い……!
 僕はそうっと椅子から立ち上がって、距離を取った。どうして誰も――
「あ、あれ……?」
 僕はそこでようやく周りに誰もいない事に気づいた。
 いるのは僕と、その紫色の着物の変な子だけだ。
「あれ、御剣は……?」
 確か……親友の御剣と話しをしていた……んだったよな?
 僕は寝惚けて曖昧になった記憶を探る。
 それで、僕はつい、眠っちゃって……。
「ミツルギくんは居ないよ」
 着物の子はそこに立ったまま言った。声は普通。可愛らしい女の子だ。目がぱちっとしていて、幼く見える。
「……先に帰っちゃったのかな」
 窓から差し込む光が室内を茜色に染めていた。もうすぐ、日が沈む。
「ミツルギくんは、居ない」
 僕のつぶやきに答えるように、着物の子はもう一度繰り返した。
「……あ、あの……じゃぁ、僕も帰るね……」
 僕は机の前の変な子を見据えたまま、じりじりと机を離れた。ギクシャクした動きでドアへ向かう。所長室のドアに手をかけかけた所で、よせばいいのに、僕はちらっと後ろを振り返ってしまった。
「ウワァァァッ!?」
 ばん、とドアに背中をぶつける。女の子は僕のすぐ後ろにぴったりと寄り添っていた。
 近、近いッ!近過ぎる!!何時の間に背後に!?何の物音もしなかったのに!!
 僕はドアに凭れかかるようにして、ずるずると尻餅をついた。女の子はただ、にこにこと笑って僕を見下ろしている。
「な……なな何か御用かな……!君、誰……!?」
「あたしは真宵ちゃんだよ」
「マ、マヨイちゃん……?」
「さぁナルホドくん、お姉ちゃんを追いかけよう」
「は……お、お姉ちゃん?」
 何?何で突然お姉ちゃん?
「お姉さんを……探してるの?」
 ど、どうでもいいけど、もうちょっと離れて欲しい……。僕はドアにぺったりと背中を張りつけたまま思った。
「あたしは探してないよ。ナルホドくんが追いかけるんだよ」
「……ナルホドくんって?」
「ナルホドくんだよ」
「……あ、あのね、僕はナルホドくんじゃなくて」
 僕はゆっくり首を横に振った。
「違わないよ。あたしはナルホドくんを間違えたりしないよ」
「あのね、僕は成歩堂龍一って言うんだよ」
「…………」
「そりゃ、ナルホドくんて呼べない事もないけど、ちゃんと成歩堂さんって呼んでくれない?君、年下みたいだし」 
 ややあって、真宵ちゃんとやらはコクっと頷いた。
「じゃぁナルホドくん、お姉ちゃんを追いかけよう」
「………」
 全く……人の話、聞いてない……! 僕の説明は何だったんだ!僕は女の子を見上げた。すぅ、と女の子が近づく。女の子が手を差し出した。
 僕は思わずその手を振り払った。ぱしん、と小気味良い音が室内に響く。
 しまっ……た。振り払っちまった……。ど、どうしよう……!!
「……………」
「ごごごごめん、でも、あの、もう帰らないと暗くなるし……!今日の所は引き取ってもらって、後日また改めてっ……」
 紫色の着物の子は、笑ったまま首を傾げた。
「オヒ、キトリ?」
 妙なイントネーションだった。お引取りの意味がいまいち分かってない感じだ。もしかして外国の子なのかな。
「……消えろって事なの?」
「ああ、いや、あの、ええと……!」
 そうだよ、とも違うよ、とも言えない……!どうしよう、悲しませたかも!この場でわんわん泣いたりとかしないよな!?そこまで子供じゃないよな!?
 その時、ふいに、わき腹がずきんと痛んだ。
 ?…… 別に刺されてもないのに。想像妊娠ってのは聞いた事があるけど、想像怪我ってのは聞いた事ないな……
 そんなどうでもいい事を一瞬の内に考えながら、僕は途方に暮れた。けれど、そこに返って来たのは、何故か満足げな声だった。
「ナルホドくんが、そう言うなら」
 何だ、その恩着せがましい言い方……。僕は女の子を見て――絶句した。
 着物の裾まで、足が消えている。
「は………」
 着物から上は『ある』のに着物から下が『無い』。その境界線がするすると上っていく。やがて、にこにこした顔を飲み込み、頭のチョンマゲを飲み込み――女の子は、消えた。
「え……えぇッ!」
 そっ、そういう消え方は余計怖い!だ、だいたい消えるって何だ!?そりゃ日本語で目の前から居なくなるのを消えるって言うけど!それはあくまで表現であって……い、いやいやいや、それより、き、消えるって……消えるって何だ!?
「な、なんでっ……!?」

 僕はふらふらと立ち上がった。きっと幻覚か……気のせいだ。だって普通、人は消えたりしない。なんだか分からないけど、きっと物凄く疲れてるんだ。
 早く帰ろう………。
 僕は所長室のドアを開けた。
「………………」
 折角立ったばっかりなのに、再び崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
 通路に……果てが無い。通路は長く長く伸びていた。伸び過ぎて――霞んでいる。異変はそれだけじゃなかった。すぐ右にあった筈の階下への階段も、跡形もなく消えている。
「……どうなってんだ……?」

 僕はとぼとぼと通路を歩いていた。所長室に戻る気にはなれなかった。戻った所で出口は無い。戻れないのなら進むしかない。通路は長く、しんとしている。何度か大声で叫んでみたけれど、何の反応も返ってこなかった。本当に、誰も居ないみたいだ。
 どうして?どうして誰も居ないんだろう……
 通路の右側には、窓が続いている。ここ四階の窓からは町が見下ろせる。外の風景も夕日を受けて赤く染まっていた。
 外にも人は、居ない……車も自動車も通らない。何の音もしない。一体、どうしちまったっていうんだ!?左にはドアが規則正しく並んでいる。表札には何も書かれていない。とても馴染んだ風景の筈なのに、どことなく僕には余所余所しかった。
 どうしよう……誰か。誰かいないのか?
 僕は祈るような気持ちで、ひとつずつ部屋の中を覗きながら歩いていった。
 幾つ目かの部屋の後、窓をのぞきこんだ時、僕は足を止めた。部屋の真ん中でぽつりと佇む姿があった。
 良かった、人が居たんだ!
「あの……!」
 駆け寄ろうとした足が、すくんで止まった。
 何だ……あれ。スカーフを首に巻いて、ミニスカートのスーツに身を包んだその人は、ちょっと見はキャリアウーマンに見える。だけど、普通のキャリアウーマンではなかった。いや、普通の人でも無い。
 女の人の向うの景色がうっすらと見えた。
 透けてる……?
「あ、あの………」
 そっと声を掛けた。
「!!」
 長い髪をした、とても綺麗な人だ。けれど、それよりも僕を驚かせたのは、その手だった。その人の右手はべっとりと血で、赤く染まっていた。
 何で……何の血なんだ……!?その人の血?それとも……違う誰かの血……?
 その人の右手から血が滴り落ちた。
 新鮮な血。まるでついさっき誰かを殺してきたみたいに――
 その人は血塗れた手をじっと見ていて、僕の存在は無視されている。いや、気づいてすらいないのかもしれない。その人はふらりとドアの方へと歩き出した。透けた体が、閉められたままのドアを通り抜ける直前、その人の呟きが微かに僕の耳に届いた。

「ナルホドくん……」

 やがてその人は、ドアを通り抜けてその姿を消した。
 何だったんだ、今の。
 僕は呆然とそこに立ち尽くしている。
 幽霊?……それとも、幻覚?
 不思議な事が多すぎて、何処にどう反応していいか分からない。
 夢……じゃないよな? 誰かが立っていた場所、そこには小さな小さな血の池が残る。幻でない証拠の赤。血だまりからぽつりぽつりと落ちた血はドアへと続く。その血の後は、通路の奥へと続いていた。通路の奥を見やる。相変わらず、果ては見えない。僕は血の後に誘われるように、通路の奥へと歩いていった。

 もうどのくらい歩いたんだろう。いい加減、代わり映えしない長い廊下に飽きて、恐怖心よりも疲れが上回り始めた頃、ようやく廊下の端が見えてきた。
 あっ……えぇ?
 僕はほっとしてから、すぐにがっかりする。近づけば近づく程、それはただの壁に見えた。
 行き止まり……こんなに沢山歩いて来たのに……
 ……あれ?
 落胆しながら近寄った僕は、その壁に小さな小さな扉を見つけた。
 うわ、ちっちゃい扉。高さが20センチくらいしかない。ちょうどペット専用のドアみたいだ。こんなに小さいのに、ドアノブなど細部までしっかり作られている。かわいい。ドアのミニチュアだな。……でも、なんでこんな所にこんなものが?指でノブをつまんで捻ると、ドアはカチャリと開いた。
 床に頭をつけるようにして向うを覗くと、向こうにも同じような廊下が広がっている。けれど、決定的に違うものが目に入った。
「階段!」
 このドアの向うに行けば、下に降りられる。そうしたら外に出られるかもしれない!このドアの向こうへ――
 嬉しさは急速に萎んだ。……どうやって行けばいいんだ、こんな小さいドアの向うへ。僕はスーツの汚れを払いながら立ち上がった。
「困ったなぁ……」
 いよいよカーテンを使ってベランダから降りるしかないんだろうか。高い所は怖いんだけど……四階から落ちたら……死ぬ、よな?そんな事を考えながら、一番近い部屋のドアを開けた。
「あれ」
 室内の中、バスケットがぽつんと置かれている。近寄って見ると、バスケットの上には、
    私を食べて
 と書かれた紙が置いてある。なんだろう、食べ物が入っているのかな。僕は何気なくそれを開けた。
「!!!」
 中に入っていたのは――肘から切断された白い腕だった。

 僕は廊下を一目散に駆け戻った。息が切れて、ようやく走るのを止める。止まると急に足が震えてきて、そのまま通路にへたり込んだ。
 さっきの、何だったんだ?ひとの……子供の腕に見えた。切断面についていた赤いのは血か……?
 吐き気が込上げてきて、僕は口を押さえた。
 まさか、そんな。
「廊下は走らないんだよ、ナルホドくん」
「うわぁッ!」
 慌てて振り返ったけど、誰も居ない。
「こっちだよ」
 声は後ろからした。それはさっき所長室で会った紫色の女の子だった。ええと、確か真宵ちゃんとか名乗ってた……変な子だ……。
 僕は唖然として女の子を見上げた。
「そんな所で……何してるの……」
 思わず力が抜けた。女の子はにこにこ顔のまま立っている。
「どうしたの、ナルホドくん。お腹が空いたの?」
「す、空いてないよ!あっちに人の腕が……!!どうしよう、そうだ、警察に110番しないと……!!」
 座り込んだまま、慌てふためく僕とは裏腹に、女の子は全く動じた様子を見せない。ただ、にこにこした顔で僕を見下ろしている。
「………………」
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。
 落ち着いて。ここはちゃんと話をしてみよう。そうだ、相互理解への第一歩は、話し合いだ。
「ええと……僕の話、聞いてたよね?」
「もちろんだよ。ナルホドくんの声は何処にいても聴こえるよ」
「……………」
 胡散臭い……
「じゃ、じゃぁ………どうしたらいいんだろうね……あんな……」
「お姉ちゃんを追いかければいいんだよ」
「お姉ちゃん!?」
 な、なんでここでお姉ちゃんが出てくるんだ!?
「さぁ、行こ」
「そ、それ所じゃないだろ!?今はお姉さんがどうとか言ってる場合じゃないだろ!?」
 でも女の子は笑ったままで、ピクリとも表情を動かさなかった。僕は急に不安になって、矢継ぎ早に質問を繰り返した。
「ねぇ、どうして誰も居ないんだ?何があったの?君、知ってる?」
 にこにこ顔のまま女の子は何も答えてくれない。もどかしさが次第に僕を苛立たせた。
「どうして通路が伸びてるんだ!?どうしてドアがあんなに小さいんだ!?あんなのどうやって通れって言うんだ!!」
 殆ど八つ当たりだ。でも、意外な事に女の子は最後の質問にだけ反応したのだった。
「小さいドアが通りたいんだねー」
 納得したように頷く。
「え……や、そういう訳じゃなくって、僕はただ帰りた」
「行くよ」
 人の話を最後まで聞かず、女の子は歩き出した。
「え、ええ?ちょ、ちょっと待てよッ!ねぇ!」

 結局……置いていかれるのが怖くて、着いて来ちゃったけど、良かったんだろうか……。僕は前を歩く紫色の背中をちらっと見た。
 絶対変だ……。この子の格好の怪しいったらない。漫画とか映画以外で、こんな着物着てる人、見た事が無い……。
 いいのかなぁ、このまま着いて行って……。
 僕は急に不安になった。黙っているとますます不安になりそうだったので、前を行く真宵ちゃんに話し掛ける事にした。
「ねぇ真宵ちゃん」
「何かな、ナルホドくん」
 真宵ちゃんは前を向いたまま、応じた。
「どうして君はずっと笑っているの?」
「それはね、ナルホドくん。ナルホドくんが怯えないようにだよ」
 僕はまた話し掛ける。
「ねぇ真宵ちゃん」
「何かな、ナルホドくん」
 真宵ちゃんは前を向いたまま、応じた。
「どうして君はそんなに静かに歩くの?」
「それはね、ナルホドくん。ナルホドくんの心臓の音がよく聴こえるようにだよ」
 僕はまた話し掛ける。
「ねぇ真宵ちゃん」
「何かな、ナルホドくん」
 真宵ちゃんは前を向いたまま、応じた。
「どうして君はそんなに変な格好をしているの?」
「それはね、ナルホドくん。

 ナルホドくんを生贄にして、儀式をする為だよ!」

「!!」
 ばふっと真宵ちゃんの背中にぶつかって、僕は立ち止まった。
 いけない、いけない。つい変な想像をしてしまった。
「ご、ごめんね」
 謝りながら前を見ると、あの部屋の前だった。中には僕が放り投げた子供の腕がある筈だ。中に入ろうとした真宵ちゃんの服を、慌てて掴んだ。
「だ、だめだよ、入らないほうがいいよ!だって、腕が……!」
「大丈夫だよ、ナルホドくん」
 のんびりと真宵ちゃんは返す。
「だから、大丈夫じゃなくって!ねぇってば!!」
 僕の制止を聞かず、真宵ちゃんはするりと室内へ入って行ってしまった。僕は入り口で回れ右をする。無理。絶対無理。もう絶対見たくない。あんなの……思い出しただけで吐き気がする。
 心からそう思っているのに――どうして本物を目の前に突きつけられたりしなきゃならないんだろう。
「!!」
 逃げ出そうという試みは失敗に終わった。いつの間にか真宵ちゃんが僕の腕を掴んでいた。
「ナルホドくん」
「やめろっ、そんな物持って来、ぐっ」
 僕は吐き気を覚え、その場に蹲った。胃液の逆流を必死に抑える。涙が滲んだ。
 だめだ……吐くかも。
 そう思った時、ぽん、と背中に手が置かれた。見えないけど、真宵ちゃんの手だろう。その手が熱を帯びた気がした。同時に、ふっと吐き気が消え失せる。
 ……何だ?今の。
「大丈夫だよ、ナルホドくん」
 頭の上から真宵ちゃんの声がした。
「大丈夫じゃないっ……そんな物、持って来るな……!」
 僕は蹲ったまま、腕を見ないようにして喚いた。
「食べて」
「……はい?」
 あまりにも唐突な言葉に思わず顔を上げてしまった。
 紫色の着物の女の子が千切れた白い腕を持って、にこにこ笑っていた。腕からは赤い汁が滴っている。
 ……眩暈がする。
「それを……食べろって……言ったの?」
「食べて」
 さあっと血の気が引いた。ついでに意識も遠のきそうになる。や、やっぱり、可笑しい。この子、間違いなく可笑しい!こういうのって、こういうのって……カニバリズムとかって……?
 い、嫌だ、そんな趣味、僕には無い!絶対に、無い!!
 に、逃げないと……!
 だけど、足が震えて力が入らない。僕はかくんと床に転がった。
「さぁ」
 真宵ちゃんが、屈みこんで、白い腕を差し出した。
「嫌だ!」
 もがく僕を真宵ちゃんの手がやんわりと押さえつける。
「美味しいよ」
「いやだッ!離せ!!」
 僕は必死で顔を背け、自由な右手でめちゃくちゃに真宵ちゃんを叩いた。
「何考えてんだよ!に、に、人間の腕を食べろだなんて!しかもそんな子供の……!!」
 そんな酷い事を誰が……!!
「ニンゲンじゃないよ」
 ばしばしと僕に顔を叩かれながら、真宵ちゃんは言った。
「え……?」
 思わず手を止めて真宵ちゃんを見る。
「パンの腕だよ」
「パン?パンって……食べるパン?」
 真宵ちゃんはにこにこ笑って、腕を差し出した。
 僕は恐る恐る白い腕を見た。ふっくりとした腕。間接には皺があって、手相だってあるし、指先には爪だってついている。
「……やっぱり本物じゃないか!パンでこんなに上手に作れる訳が無いだろ!」
 僕は再びべしべしと真宵ちゃんを叩いた。
「ち、血だってついてるじゃないか!」
 真宵ちゃんは肘関節よりほんの少し下で切られた腕の断面をこちらに向けた。
「止めろ!もういい、見せるな!!」
 僕は目を瞑って顔を背けた。
 ……………。
 ………うん?……この匂いって……。
「……パンの匂い……?」
 香ばしい香りに片目を開ける。鼻先に白い腕が、しかも切断面が突きつけられていた。
「!!」
 咄嗟に払い除けようとして、ある事に気づく。
「……あ……あれ?骨が無い……」
 断面からは骨が見えない。普通、骨がある筈の部分には、赤いどろりとした液体が詰まっていた。つややかな赤い液体には黒いつぶつぶが混じっている。
「……これ、血じゃなくて……ジャム?いちごジャム?」
 落ち着いて断面をよく見れば、それは確かにパンだった。外見はまさにニンゲンなんだけれど、中には小さな気泡がぎっしりつまったパンだった。
「……ほ、ほんとに……パンなんだ……」
「パンだよ」
「よ……よく出来ているね……」
 蝋人形館ならぬパン人形館が作れそうだ。……趣味悪いけど。
「食べて」
「い、嫌だよ!いくらパンだってこんなの食べたくないよ。おなか空いてないし」
「………………」
 真宵ちゃんは少し黙った後、腕の肉、もとい、パンを毟り取った。パンだと分かっていてもその光景にはぞくりとするものがある。真宵ちゃんはパンを片手に、にこっとした。(いつでもにこにこしてるんだけど)
「?……」
 『目にも止まらぬ早業』っていうのは、まさにこういう時に使うんだと思う。僕は一瞬、何が起きたのか分からなかった。口の中に何か入れられ――
「!!!!!」
 すかさず真宵ちゃんが僕の口を花を片手で覆う。
「う――!!」
 息、息が出来ない!!必死に暴れてみたけれど、手は一向に外れなかった。ほっそりしているくせになんて力持ちなんだ!!
「む―――!!!」
 く、苦しい、この子、僕を殺す気か……!?

 ごくん。

 ……うぇっ……飲み込んじまった……。
 僕がパンを飲み込んだのを確認すると、真宵ちゃんはようやく手を離した。
「美味しいね」
「………………」
 ……美味しい、美味しくないの問題じゃない。確かに、甘くてクリームを練りこんだ菓子パンみたいで、美味しかったけど、そういう問題じゃあない!!酸味の効いた甘すぎない苺ジャムがよく合っているとか、そういう問題でもない!!
「た、食べたくないって僕、言っただろ――!!」
 猛然と抗議しかけた時不意に眩暈がした。ぐらぐらと世界が揺れ、平衡感覚を失う。ぐにゃりと景色が歪んで、その中の真宵ちゃんの姿も歪んだ。にこにこ顔がみるみる大きくなって、世界を覆っていく。 
 ああほら、人そっくりのパンなんて変なもの食べたりしたから……
 フッと世界が暗くなった。

 ……………。
 最初は気を失ったのかと思った。でも、目は開いているし意識もある。世界が暗くなったのは僕は気を失ったからじゃなくて、上から何か大きな布が被せられたから、みたいだった。
 何だこれ……シーツか何か?なんだって急にこんなものが降ってくるんだ?僕は頭の上の謎の布をどかそうともがいてみる。だけど、布は予想外に大きいらしい。頭上から退ける事が出来ない。この布、妙に分厚くて重い……。
「……あのー……真宵、ちゃん?そこにいる……?」
 僕は適当な方向に向かって叫びかけた。
「何かな、ナルホドくん」
 案外すぐ側から声が返って来て、ほっとする。怪しすぎる子だけど誰も居ないよりはよっぽどいい。
「ねぇ、何なんだこの布………わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
「どうしたの、ナルホドくん」
 布の向うから真宵ちゃんののんびりした声がする。
「なななななんで!?なんで僕裸なんだッ!!」
 た、確かにさっきまでスーツ、着てたよな?脱いだ記憶も脱がされた記憶も無いよな――!?
 混乱する僕の頭上で布がさわさわと揺れた。急に視界が開ける。
「!!」
 目の前には、巨大な真宵ちゃんのにこにこ顔。僕は今日何度目かの盛大な大声を上げた。とっさに自分を抱いてしゃがみ込む。
「真宵ちゃん、後ろ向いて!」
「どうしてなの?」
「いいから後ろ向く―!!」
 僕に怒鳴られて真宵ちゃんはくるりと後ろを向いた。
「目も瞑ってて!僕はいいって言うまでこっち見ちゃだめだよ!!」
「ナルホドくんが、そう言うなら」
 のんきな声がそれに応じる。僕は元の布のしたに潜り込んだ。
「なんで、なんでこんな事になってるんだ!?服っ、服は!?なんで君はそんなに大きいんだ―-!?」
「大きくないよ。ナルホドくんが小さいんだよ」
「ぼ、僕!?僕が!?小さいって何だ!?何だそれ、ど、どういうっ……!?」
「小さくなったんだよ」
「だっだだ、だから……!!」
「ナルホドくん。ゆっくり話すんだよ。真実は逃げないよ」
 何だそれっ。だ、だけど一理あるな。そうだ、落ち着こう。非常時ほど冷静にって小学校の防災訓練で教わったからな!
 僕は何度か深呼吸をした。落ち着いて……考えてみよう。
 小さくなったって、小さくなったってどういう事だ?言葉通りに考えると、縮んだって事か……?
「!」
 僕は頭の上の布を見上げた。これ、まさか僕のスーツ!?
 そう言えばこの青色、なんか見覚えがあるなぁとは……。
 …………。
 で、小さくなったから、相対的に真宵ちゃんとか世界は大きく見えていると……。
 …………。
「何だ!何で縮んだりするんだ!ニンゲンて縮む物じゃないだろ!?」
「縮むものだよ、ナルホドくん」
 真宵ちゃんは24年間培ってきた僕の常識をあっさりと否定した。
 そ、そうか?そうだっけか?そういうものだっけ……?
「ストロベリージャムパンを食べれば誰でも縮むんだよ」
「……それってさっきの腕パンの事?」
「そうだよ」
「……何でパンを食べると縮むんだ?」
「縮むように出来ているからだよ、ナルホドくん」
「………………」
 ここまで来るともう、どこにどう異議を申し立て良いのか分からない。
 くしゅん。
 ぶるっと鳥肌が立った。
 わ、忘れてた。そう言えば寒い。先にこっちを何とかしないと。どうしよう、何か、体隠せるもの……。
 僕は脱ぎ散らかされた自分の服を物色する。ポケットのハンカチが目についた。丁度良い大きさかもしれない。ちらっと真宵ちゃんを見ると、大人しく後ろを向いている。僕は素早くハンカチに駆け寄ると、それを身体に巻きつけた。ハンカチでも以下の僕には優に特大バスタオルくらいの大きさがある。とりあえずは……これでいいか。
 ふぅ、と息をついて辺りを見回した。天井がどこかの大聖堂のように異様に高かった。世界の全ての物が大きすぎて視界に収めきれない。……出来れば信じたくないけど、縮んだというのは残念ながら事実らしい。
 何で、僕、こんな目に……。
 僕は、はああと溜息をついた。
 通路は伸びてるし、女の人の幽霊には会うし、腕のパンとか出てくるし、それを食べさせられて縮んじゃうし、おまけに素っ裸にさせられるし……。
 そこで僕はちらっと目の前の謎の人物を見上げた。
 唯一出会った人は、僕の話を全く聞いてくれないし……。
 ………ん?
 ちょっと待てよ………。おかしなことが起きたのって、全部この子に出会ってからじゃないか?
 ………この子が全ての元凶なんじゃ。
 そう思うと俄かに怖くなった。パンを食べさせて、僕を小さくして、どうするつもりだ……?……一緒に居ると、絶対!ろくな事が無い気がする!!
 逃げよう。
 僕はそうっと回れ右をした。
「何処へ行くの、ナルホドくん」
「!!」
 思わず叫ぶ所だった。相変わらず向こうを向いたままなのに、やたら鋭い。
「ど、どこにも行かないよ」
「もうそっちを向いてもいいかな」
「だ……だめ」
「そう」
 それだけ言うと真宵ちゃんは、再び黙り込んだ。僕がいいって言うまでこっちを見ないで、と言った言葉を、律儀に守ってくれているみたいだった。
 意外に素直……いいや!ここで絆されちゃだめだ!
 僕は足音を忍ばせて、真宵ちゃんの側から離れた。ハンカチがずり落ちそうで速く歩けない。
「どこに行くの、ナルホドくん」
「!!」
 やっぱり向こうを向いたままの真宵ちゃんがさっきと同じ言葉を繰り返した。
「べ、別に……何処にも行かないよ……」
 答える声が震える。この子、後ろに目でもあるのか……?
「もう後ろを向いていいかな」
「だっ、だめっ。絶対だめっ!」
「そう」
 やっぱり変だ。側に居ない方がいい。
 僕はハンカチをたくし上げると、足音を立てないように小走りに走り出した。
 特別どこかへ行こうという考えは無かった。とにかくここから離れて……あの子を撒かないと。

 息が切れ始めた頃、前に扉が見えた。
 あれは……さっき見た小さい扉だ。ただ、今見ると普通より少し小さいだけの普通の扉に見える。
 そうか、この大きさだったらあそこを通れる!
 確か扉の向うには階段があった筈だ。下りればきっと外に――
「どこに行くの、ナルホドくん」
「うわぁぁぁぁッ!!」
 僕はハンカチの裾を踏んづけて、その場にべしょっと転んだ。慌てて振り返ると、すぐ背後に後ろ向きに真宵ちゃんが立っていた。気配も足音も、全くしなかったのに!
「なっ……なな……!」
「もう後ろをむいていいかな」
 変だ!この子ぜぇったい変だ!
 いくら僕がいいって言うまでこっち見るなって言ったからって、普通そのまま付いて来るか!?
「ナルホドくん、もういい?」
「!……だめっ!!」
 こうなったらこっちも意地だ。
「そう?」
 真宵ちゃんはやっぱり異存を唱えるでもなく、ただ頷いた。後ろを振り返りながら歩くと紫色の着物の子は、後ろ向きのまま、すたすたと追いかけてくる。やっぱりこの子、後ろに目がついているに違いない。……新手の妖怪だろうか。
「つっ……ついて来ないでくれるかな……!!」
「どうして?」
「き、君と居ると良くない事ばかり起きるから……!」
「でもナルホドくん」
「いいからついて来るなッ!!」
「……ナルホドくんがそう言うなら」
 そう言って真宵ちゃんは歩みを止めた。僕はその好きに猛然とダッシュして小さな扉に飛びつく。この扉は小さい。あの子は通れない筈だ。僕は扉の向こうへと駆け込んだ。



チェシャ猫とアリスのやり取りと真宵ちゃんとナルホドくんのやり取りには何か通じるものがあると思ったんだ。それが全ての始りだったのさ。
なるべく忠実に沿って行こうとは思ってるけど、なんか合わない気がする、と勝手に思ったところは勝手に変えてあります。だって、いくら真宵ちゃんでも机や掃除道具ロッカーの上で丸くなってたりしないよなぁー。
…………どうだろう(ぼそっと)
しかし話の流れとは言え、女の子にとっ捕まってぎゃーぎゃー喚くナルホドくん。……ふふ、可愛いな。
とりあえず選択肢はワタシがこれが良い、と思った方面で書いてます。パン食わすのはパンの自発的じゃなくて真宵ちゃんに任せました。ここが最初の美味しい所だもんな!!
「おなか空いてないし」は「腹へってないし」にしようか迷ったけど、ヤンマガ見る分にはこいつは「おなか」と表現するであろうと。ついに法廷でも言ってるよ、あのナルホドくんは。裏切らないね!