月曜日は基本的に憂鬱だというが、それでも今の自分ほど憂鬱な人も居まい。机に向かって何気なさを装っているが、胸中は竜巻のように渦巻いている。問題は山済みだ。神乃木と、御剣の事で。
しかし、服を返して貰う時、神乃木とどんな顔して会えばいい、という悩みはあっさり解消された。神乃木は、成歩堂の不在時に事務所に訪れ、真宵に服を手渡した後は長居もせずにさっさと帰ってしまったのだという。
「何かね、弁護のお仕事してるみたいだったよ。なるほどくんと違って忙しいんだね、神乃木さん」
「違って、は余計だよ」
真宵の言い方が曖昧なのは、神乃木が正式な弁護士ではないからだろう。彼女はかつての事務所で書類等を作成するパラリーガルだった。とはいえ、それでもその敏腕さが窺える手腕を誇っている。
まぁ、そんな訳で。
神乃木との対面がとりあえず無くなった今、目下成歩堂が悩むのは、御剣の事ばかりだった。最も神乃木の方も、自分が借りた服をまだ返していないので、やっぱりきちんと会わなければならないが。
あれ以来、御剣とメールのやり取りもしていない。と、言うか自分からメールを送っていない。一体、何を伝えればいいのか判らないのだ。おかげで、昨日の休日は丸一日それで潰れた。
キスしようとしてごめん?とか?まさかそんな。
明日は、明日こそは、としている内に今日で3日も経ってしまった。早い所なんとかしないと、このままどんどんズルズル伸びてしまいそうで、怖い。
(うぅ……どうしよう………)
このままにはしたくない。例えヤブヘビだろうと、何かしないといけないとは思う。だって、このまま顔も見れないなんて寂しすぎる。やっと、やっと会えるようになったのに――
「……………」
空白の15年と、失踪の1年を思い出して、胸が苦しくなった。激しい動揺をすると胸が激しく動悸し、腹にまで振動を伝えて違和感を感じるくらいだ。空の胃はその振動をよく響かせた。あれ以来、御剣の事が気になって、食事すら疎かになってしまう。
(御剣………)
あの日の前には、ここに来て他愛ない話で笑みを浮かべてくれたのに。
あの笑顔に、もう二度と会えないのだろうか?
などと思ってしまったら、目の奥がグと熱くなった。まさか泣くまでなんて、と成歩堂はそんな自分にうろたえた。
「なーるほーどくーん?」
涙を堪えようとする最中、真宵の顔が視界に入り込む。
「っわぁ!なんだよ急に!」
「別に急に、って程急じゃなかったと思うけどな」
小首をかしげる真宵は、フツーの動作でフツーに近寄っただけだと主張する。
「なるほどくん、どうしたの?なんか来た時から浮かない顔だし、溜息ばっかりだし。顔色も、何かちょっと悪い?」
ん?と不躾なまでに成歩堂の顔を覗きこむ。真宵のこの遠慮の無さが、成歩堂は結構好きだった。いい距離感なのだろう。
「……ごめん。ちょっと、寝不足なのかな」
まさか真実を伝える訳にもいかなくて、成歩堂はそう言った。真宵に嘘を伝える事になり、それだけでも胸が痛い。
早く、何とかしないと。事態がじわじわ広がって、自分の手に負えなくなっているかもしれない。そして、それは御剣との別離を意味していて――
(嫌だ!そんなのは!)
ああ、もう、どうして。
どうして、あんな変な気持ちになったんだろう。あの時の自分は!
今タイムマシンが目の前にあったら、あの瞬間に飛んで行きたい。寿命の半分を使ってもいい。
思考回路が明後日の方向に向かっているのに、軽く頭を振る。実現不可能な事ばかり思っていても、仕方無いじゃないか。
どう解決するにせよ、まずは御剣とのコンタクトが必要だ。けれど、何を言われるだろうか。最悪を想定し、胃が萎縮する思いだ。
(……何か、本当に胃が痛いかも……)
結構淡白で図太い自分だから、神経性胃炎なんて無縁だと思っていたのに、と腹を撫でる。
「あ。そう言えば、神乃木さん今日裁判するんじゃなかったかな」
真宵がそんな事を、思い出すように言い出した。
「え、そうなの?」
「うん、昨日なるほどくんの服持って来た時、そう言ってたよ」
真宵の発言に、ちょっとぎくりとする。あの日を、また克明に思い出してしまって。
服の受け渡しには何とか顔をあわさずに済んだけど、そのままでいいという事もない。問題はそのまま残っている。自分の事を可愛いと言った神乃木の顔を思い出してしまい、顔が赤くなりそうだ。
(……やっぱり、アレって、好きって意味で……)
御剣に好意を寄せているかもしれない傍らで、神乃木からはあからさまに好意を寄せられている。閉じ込められて、身動きが取れない。
「ね、なるほどくん!神乃木さんの裁判見に行こうよ!」
「え……えええええッ!?」
いきなり何て事を言い出すのか。成歩堂は大きな眼を丸くして叫ぶ。
「な、何で!」
「何か、今世間の注目を集めてるイリョージコってヤツらしいよ。神乃木さんが手がけてるの」
イリョージコ、を医療事故、と変換するのに少し掛かった。そしてあの発音で言ってるからには、真宵は詳しい事は判ってないに違いない。
「で、でも!医療事故なんて、この先手がける予定も無いし!」
弁護士であればなんでも弁護出来るというものではない。成歩堂は師匠に倣って専ら刑事事件を扱いたいし、それ以外は出来たとしても民法。商法や医療にはかなり高等な専門知識が必要で、とても務まるとは端から思っていない。
「だって世間の注目集めてるんだよ!一見の価値あり、だよ!」
「だからってさぁ……」
「机に向かってばっかりだと、根が生えちゃうよ!」
両手でグッ拳を作り、強く言い募る。
「…………」
そう言えば、今日は朝からずっとデスクワークだった。文字通り机に向かってばかりの自分を、真宵は心配したのだろう。そんな自分を見かねて、気分転換させるべく、外に引っ張り出そうとしているのだ。
……その行き先が裁判所、というのがなんだか恐ろしい所のような気がする。あの二人に最も縁深い場所だ。確実ではないけど、会う確率は余所より高い。しかも片方にはあきらかに顔を見に行く。
よし、覚悟を決めよう。きっと、こうでもしなければ、動けない。チャンスをくれた真宵に、こっそり感謝する。
「うん、行こうか」
「わーい!じゃ、帰りにカフェでお茶しようよ」
まさかそれが目的じゃないだろうな、と成歩堂は苦笑した。
(…………。来ちゃった……)
ごく、と裁判所を見上げる。ここまで緊張して此処に来るのは、何時以来だろうか。デビュー戦の時は当然だったけど、その次の事件があまりに衝撃的過ぎて、それ以来はそんなには固くはならなかったように思える。
「えっと……神乃木さんのは、どれかなー」
まるで神乃木自身の裁判みたいな言い方に、突っ込むべきか迷った。
「途中から来たからね。終わってたらどうしよう」
真宵が掲示板を見ながら言った。確かに、早い裁判だとおもう終わっていそうな時刻だ。
「うーん。でもよく判らないけど、ああいうのって説明長そうだから……」
多分まだ続いてるんじゃないかな。
後半続くべきセリフが引っ込んだ。
「成歩堂?」
姿に似合う、綺麗な声。
聴き間違える筈もなかった。
いつ自分が振り返ったのか、それすら判らない。気づけば、視界に御剣を捕らえていた。
法廷の帰りだろうか。糸鋸が後ろに控えている。
「…………」
一体、今自分はどんな表情なのか。自分でそれが判らない。
驚愕なのか、歓喜なのか。自分で避けておいて、顔が見れた事に心が震える程嬉しく思う。大きく震えた心は、その振動を波紋で体全体に伝える。腹にそれが届きた時、ずくんと痛んだ。
「………?」
気のせいだと思うけど、この痛みは「あの時」に似ている。
(でも、まだ日にちあるし……)
先月を思い起こし、意識が御剣からそれたとき。
「――――!」
(う……そ………)
間違いだと思っていたのに、確信に変わった。
(ど、ど、ど、どうしよ……っ!)
金縛りにあったみたいに、体が固まる。いや、そうしないとならない事情がある。
「?なるほどくん、どうしたの?」
自分に一番近い場所の真宵が、異変に気づく。しかし、これだけは説明してやれない。そう、男には。
「何でも、ない、よ?」
嘘だ。
と、その場にいた誰もが(糸鋸でさえ)思った。
「何だ。どうし……」
と、御剣も言いながらその最中で気づいたのだろう。成歩堂の緊急事態に。
(――なんで今始まっちゃうんだよ!)
ぬる、と下着との間に確かな感触がある。間違いなかった。
(とととと、とりあえずトイレへ……!)
真宵に小声で伝え、歩き始める。
念の為というか、生理用品は常備してある。しかし、動く事でショーツに広がってしまうかもしれなくて、成歩堂は実にぎこちなく動き始めた。
「!」
「?」
急に、御剣の顔が剣呑になった。なんでそんな顔を?とパニックで薄っすら涙の張る目で問いかける。
と、成歩堂の体が何故か浮いた。
「わぁぁぁ!?」
「クッ……この前みたいに、きゃぁ!って鳴いてくれないのかい。コネコちゃん」
そうするのが当然のように成歩堂を横抱きに抱えたのは、神乃木だった。相変わらずのスタイルで今日も決めている。そして、きゃぁ、の部分のモノマネがやっぱり上手だった。
「神乃木さん、裁判は?」
真宵が成歩堂を横抱きしている神乃木に、何でもないように無邪気に尋ねた。何か突っ込めよ!と成歩堂が心で悲鳴を上げる。
「一時休憩だぜ。ブレイクタイムだ」
神乃木は自分より背の低い真宵を見下ろして言う。勿論、成歩堂を抱き上げたまま。
「やっ……ちょ、神乃木さん、下ろしてください!」
人の目が気になる。でも、それ以上に御剣が気になる。
理由は判らないけど、神乃木と居た後、御剣はずっと怒っていた。
あんなのは、もう嫌だ。
「放して!!」
「っ!」
渾身の力を持って、おもいっきり神乃木を突き飛ばしてしまった。その衝撃は抱えきれず、腕から成歩堂が零れる。
あ、落ちる。とやけに成歩堂は冷静に思った。
「成歩堂!」
御剣の声がして――気づけば、御剣に抱きかかえられていた。いや、抱きかかえたというより、辛うじてクッションになった、という感じだが。
「――御剣!」
自分は決して軽くは無い。その衝撃に御剣が平然としているとは考えられなかった。
「だ、大丈夫!?」
「っ、君こそ……大丈夫か」
御剣は一瞬顔を顰めたが、すぐに整え逆に成歩堂に訊く。その大丈夫、は、落ちた事だけでは無さそうだ。
「た、多分、まだそんなに多くないと、思う……」
こそこそと、後ろに居る男性二人には聴こえないように言う。見れば、神乃木がさり気なく二人の進行をいつでも阻めるようにそこに立っていた。
激しく動揺していたとはいえ、かなり失礼な事をした。あとで謝らないと、と成歩堂は思う。
「糸鋸刑事」
「ッス!」
御剣に呼ばれ、敬礼する。
「真宵君をつれてカフェテリアで軽食でも摘んでいたまえ。後で私が奢る」
「え、どうし……」
「わぁい!みつるぎ検事、ありがとうございます!ほら、イトノコさん、行こう!」
「ちょ、ちょっと待つッスー!」
首を傾げる糸鋸を、真宵は問答無用で引きずっていった。おそらく、真宵は自分たちが居ない方がいいのだと直感したのだろう。さすが千尋さんの弟だなぁ、と成歩堂はしみじみと思った。
と、ふと神乃木を見てみれば、そんな真宵を見て目を細めている。自分と同じように千尋を思い出したのだろうか、と思ったら胸なのか腹なのかがズクンとした。
「成歩堂。しっかり捕まっていろ」
「へ?……うわぁぁぁぁっ?」
事もあろうに、御剣は肩膝をついた今の状態から、成歩堂を腕に抱いたまま立ち上がろうとする。そんなに身長に差がある訳でもないのに、無茶もいい所だ。
「い、いいよ、御剣!まだ自分で歩けるから!」
だから下ろして、と訴えるが、御剣はそれを聞くつもりがないみたいだ。むしろ成歩堂を窘めた。
「しっかり捕まっていろと言っている。危ないだろう」
「危ない事しようとしているのは、そっちだろ!」
「クッ……痴話喧嘩かい」
神乃木の押し殺したような笑い声が聴こえ、はた、と二人は我に返る。神乃木はスタスタとスラックスに手を突っ込んで歩み寄る。そして、不安定な姿勢の二人を見下ろす。
「コネコちゃん、判ってやりな。王子さまには面子ってものがあるんだろうぜ」
「め、めんつ?」
「……………」
成歩堂は目をぱちくりさせ、御剣は敵意をむき出して神乃木を睨んだ。この前の一件から、神乃木は黒に近い灰色から真っ黒けになったのだから。
「で、アンタもアンタだ。無茶や無謀は真似は自分ひとりだけの時にしな」
成歩堂に向けたものより、若干剣呑さを含めた言い方で御剣に言う。御剣はそれに眉を顰めた。
「……降ろすぞ」
「う、うん」
呟いた声は固く響いて、ああ、また怒ってるな、と成歩堂は思った。
「トイレ、行って、来るから……」
「大丈夫か?付いて行こうか」
「へ、平気だよ!大丈夫だから!」
「しかし……」
「大丈夫ったら、大丈夫!御剣たちも先にカフェに行って来なよ!」
「いや、それは……」
「いいから!」
「……………」
強い口調で押し切られてしまった御剣は、それに従うしかなかった。
「クッ……俺も連れ添ってやりてぇが、生憎時間が俺を呼んでやがるぜ」
不意に神乃木がそんな事を言った。そういえば、休憩時間中だったなと御剣は思い出す。
「じゃあな、コネコちゃん」
またな、と髪をくしゃりと撫でた。キスなどしようものならこの場で起訴してくれる!と滾っていた御剣には、いい結果だったのかそうではなかったのか。
「………。じゃ、御剣。先行ってて」
「う、うム」
何となく神乃木の背中を見送ってしまった後、二人はそんな会話をする。
御剣は成歩堂を気遣うセリフを探して、しばし佇んでいた。そんな御剣に、成歩堂がまた言う。
「あ、あのさ。今日、まだこれから予定ある?」
「ム?」
「……話したい事、あるから……」
「……………。
あぁ、大丈夫だ。了解した」
「…………。うん」
御剣の返事を聞いて、成歩堂は安堵したような、緊張したような表情で頷いた。
話したい事がある。
と、言えば三日前の事だろう。
カフェで二人と合流し、御剣は紅茶を頼んではみたがそれにさっぱり手をつけていない。それどころではないからだ。
(いや、こうなる事は判っていた筈だ。判っていたというのに、どうしてあんな真似を……!)
この場に他に誰も居ず、自分だけだったら、頭を抱えて苦悩しただろう。
どうしてあんな真似を、なんて詭弁もいい所だ。自分の考えは自分で判っているはずだ。判らない、なんていうのは目を逸らしているだけの事で。
今まで自分の気持ちを隠し、大事にしていたから奪われそうになったのだ。ならばいっそ……と、思わず成歩堂の唇を奪おうと顔を近づけていた。実際、あの時車が通り過ぎなければそのまましていた。絶対、していた。
あるいは、そのまま強行してしまえば良かったのだろうか。半端にしてしまったから、身動きが取れないでいるのだ。
この三日、何度も連絡しようとして断念した。その返事がそのまま絶縁宣言になりそうで、怖くて。
法廷での再会の時の冷たい仕打ちも、失踪した事も、彼女は許してくれた。でも、彼女だって人間なのだ。あまりに横暴な振る舞いに、愛想を尽かしてもおかしくない。今までが奇跡だったのだ。
はぁ、と組んだ指の下に隠した口で溜息をそっと吐く。美麗な彼女は、それだけでもとても様になった。
「なるほどくん、遅いねえー」
クラブハウスサンドをもぐもぐしながら、真宵がふと言う。
「あ……あぁ、そうだな。しかし、来るとは言ったぞ」
そのままの事情を言うのはさすがに御剣も躊躇われて、適当に誤魔化した。相変わらず、誤魔化し方が下手だ。
とにかく、今の御剣はこの先にあるだろう試練の事で、頭が一杯だった。
そんな時、トノサマンの愉快なメロディーが流れる。
まず、真宵が自分の携帯電話を確かめる。
「あれっ、違うや」
「自分も違うッス」
「じゃぁ、みつるぎ検事だよ」
「ム?」
真宵から電話が鳴ってる、と指摘を受けて電話を取り出す。言われた通り、自分に掛かってきた。
その表示されている名前に、御剣は慌てて電話を開く。そう、成歩堂だったのだ。
「どうかしたか?」
『…………あ、みつる、ぎ……』
「?」
返事が遅い。しかも、声に力が無い。
瞬時に、彼女に異変が起きたと判断できた。
「どうした、成歩堂!?」
御剣が急に立ち上がり、声を荒げたので二人は口に物を含んだままぎょっとする。
『……あの、さ……ちょっと、急に……いきなり、痛くなって……きちゃって……』
セリフが途切れ途切れになり、その後には息が詰まるような音がする。痛みを堪えているのだろうか。
「今からそっちに行く!ロビーでいいんだな!?」
『……うん……ごめん……』
「謝るな馬鹿者!」
思わず激しい叱咤を飛ばすと、受話器で拾えないはずの苦笑が聴こえたような気がした。
「二人とも、ロビーに向かうぞ!」
言うやいなや、上着を掴んで走り出す。
「なるほどくんが、どうかしたの!?」
「わぁー!待つッスー!」
二人は慌しく、バタバタと御剣に続いた。
着いてみれば、成歩堂は一番壁際に座り、ぐったりと凭れかかっていた。駆け寄り、覗き込んだその顔は、紙のように白い。
「――糸鋸刑事!」
彼も一目見るなり成歩堂の異変に気づいたのだろう。口に手を当てておたおたしている。
「車を玄関まで運んでくれ。早くだ!」
「了解ッス!」
指示を貰えば糸鋸は早い。すぐさま外へと飛び出した。
「な、な、なるほどくん!なるほどくん!」
そして真宵もおろおろするしかなかった。隣に座り、名前を呼ぶだけだ。
「安心したまえ、真宵くん。病気ではないのだ」
成歩堂の前に膝をついている御剣が、落ち着かせるように言う。
「だ、だって、こんなになるほどくん苦しそうで……!」
「――真宵くん」
静かな声で、しっかりと。法廷の場を彷彿させるその声にはっとなり、真宵が恐慌状態から戻る。
君がそんなに慌てたら、成歩堂も落ち着けない。御剣に目で言われ、真宵はぐっと口元を引き締めた。
「――なるほどくん、大丈夫だよ!任せといて!」
「……真宵、ちゃん……」
いつもみたいな当てもない励ましに、けれど成歩堂はうっすらと笑みを浮かべた。それに、御剣も安心する。
その時、車のクラクションが聞こえた。イトノコさんだ!と真宵が叫ぶ。
先ほど神乃木がしたように、成歩堂を横抱きにして移動する。成歩堂は自分に素直に身を預けた。――こんな時とは言え、堪らず胸が弾んだ。顔がせめて赤く染まっていないように祈りながら、真宵が開けてくれたドアを潜る。
「成歩堂。急ぎの案件は無いのだな?」
「……うん……」
自分に乗せられた頭が。ゆっくり上下した。
「そうか……よし。
刑事。私の部屋に運んでくれ」
「うッス!大急ぎッス――!」
使命を貰った糸鋸は、はりきってアクセルを踏んでハンドルを操る。
「真宵くん、」
と助手席に座る真宵に呼びかける。真宵が振り返った。
「君は事務所の戸締りを頼む」
「うん、判った!」
真宵が力強く頷く。
御剣がテキパキと指示する声を訊いて、腹の痛みは相変わらずだが、成歩堂は安心したように口元を緩めた。
「……真宵ちゃん、じゃあ後は頼んだよ……イトコノさんも、ありがとうございました……」
御剣のマンションの前で降ろされ、成歩堂は二人に詫びた。
「そんな!なるほどくん、いいんだよ」
「そうッス!しっかり養生するッス!」
だから、病気じゃないんだけどな。成歩堂は困ったように笑った。動き出した車を見送って、やっぱり横抱きにされて玄関ホールに入る。
「…………。御剣、降ろしていいよ」
痛みが邪魔して、さっきのようには強く言えない。
「そういう訳には、いかん」
御剣はきっぱりそれを跳ね除けた。
「でもさ……さすがに階段上がるの、無理だろ」
「……………」
御剣は検事だ。そこまでの体力は、無い。
「構わない。エレベーターで行けばいい」
「ええッ!?」
思わず大声で叫んでしまい、力の入った腹に痛みが走る。
「だ、大丈夫なのか!?」
「……私より余程顔色の悪い君に言われてもな」
「いやいやいや、君も十分顔色悪いよ!今の時点で!」
しかし、御剣の足は確実にエレベーターへと向かっている。
「御剣!」
「――乗れる」
小さなだが、しかしはっきりした発音だった。
「君のためなら、乗れる」
「……………」
普段なら、思いっきり指を突きつけて、異議を飛ばして突っ込むような気障くさいセリフなのに。
(なななな、何でこんなにドキドキしてるんだよッ!)
そうだ、まるで、愛の告白でも受けたみたいではないか。
なんて事を思ってしまい、ますます成歩堂は顔を赤くした。
チン、と軽い音がして、エレベーターが来た。
「……………」
大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だ……と念仏みたいに呟いて、箱の中に乗り込む。それでも、扉が閉まった時は、背筋がゾクッとした。
(な、何を恐れる!一分も時間は無いだろう!)
何より成歩堂に弱い所は見せられない。
ぐっと奥歯を噛み締め、リズムを早める動悸を抑える。
どんなに短い時間でも、待ちわびれば長いものだ。扉が開くと同時に、御剣は飛び出すように歩き出た。そのまま、後ろを振り返らず自分の部屋へと転がり込む。
「……っはー………」
何時の間にか、息を止めていたようだ。扉にもたれかかり、深く呼吸をする。
「……息、止めてたの?」
「…………」
しまった、あからさまだった、と悔いても遅い。
顰める頬に、少し体温の上がった成歩堂の手が触れる。
「…………。馬鹿………」
と、まるで拗ねたように呟かれた声はとても甘くて。言った本人がむしろ吃驚していた。
「……………」
「……………」
思わず、見詰め合うような格好になった。
顔が熱い。赤い。
「……とにかく、横になった方がいいだろう」
「う、うん………」
そして、ベットルームに運ばれる。
神乃木のベットはひたすら機能重視のシンプルな物だったが、御剣はデザインや装飾にも気を配っている。それでも共通するのは、自分の布団よりとても寝心地がいいと言う事だ。やっぱり布団替えようかな、と成歩堂は真剣に考え始めた。
「紅茶、飲むか?」
「うん、欲しい……」
判った、と短い返事をしてキッチンに篭る。シュボッと火をつけた音がした。
横になってもよかったけど、半身は起こして紅茶を待つ事にした。枕の他にも、近くに手頃なクッションが転がっている。眠る前の読書をする時、ベットヘッドと体の間にでも挟んでいるのだろう。ベットヘッドの上にある小さな棚には、文庫本や新書が置いてあった。
大きなクッションに凭れる事が出来て、腹筋をあまり使わない事で痛みもやや治まる。
自分はどうやら生理になると睡魔に見舞われる性質らしく、痛みとの間で揺れるようにうたた寝していた。しばらくそうしていたら、御剣がやってきた。
「熱いぞ」
「うん、ありがとう」
紅茶には、すでに自分の好みの分だけの砂糖が入っていた。程よい甘い口当たりが嬉しい。
「……いつもより、香りが濃いね?」
湯気と一緒になって自分の顔を包む芳香は、いつも御剣に入れてもらうのより、より芳醇だと思った。
「ほう、判るかね?普段はダージリンだが、今日のそれはアール・グレイなのだよ」
自分の得手の話題になると、御剣は割りと弁舌になる。彼女には、こういう子供っぽい所があった。だからだろう。とても可愛く見える。
「アール・グレイ……訊いた事があるかな」
「ああ、フレーバーティーでは最も知名度が高いからな」
「フレーバー?」
「香り付け、というような意味合いだ」
「そっか。うん、いい香り……」
普段はキツ過ぎるかもしれないが、今は痛みすら紛らわせてくれそうな、この濃厚な香りが心地よい。
「……成歩堂」
「……ん?」
ベットの空いている箇所に腰掛、御剣が真剣な面持ちで自分を呼びかける。
「その……君は普段からこんなにキツいのか?」
しかし知った所で、自分ではどうにも出来ないというのが解っているのだろう。そんな自分に対しての失望というか無力感というか、そんなものを御剣が抱いているのが判り、何だか成歩堂は可笑しくなってしまった。そんなに心配しないで、と慰めないとならないのだろうけど、何故だか可笑しい。いっそ、微笑ましかった。
「ううん。普段は、ちょっとは痛いけど、動けないほどじゃないよ」
「そうか……なら、どうして今回は?」
一瞬安堵した御剣だったが、次の疑問をぶつけてくる。
「…………」
一旦答える事は保留にするように、紅茶を一口また啜った。
自分は医師ではないから、はっきりと確認は出来ない。でも、心当たりはある。
いきなりバイオリズムが狂ったのも、普段無い痛みを感じたのも。
ここ数日、食事も満足に出来ないくらい、思い悩んだからだ。
自分の体は、精神に面白いくらい影響される、結構単純なものだ。
もう一口、紅茶を含む。
美味しい。
お茶なんて、それまで烏龍茶とか麦茶とか、そんなのしか飲まなかったけど、御剣がこうして淹れてくれるから、段々と自分も好きになってきた。いや、御剣が淹れてくれるからこそ、美味しいのだろう。
――よし。
成歩堂は、決意をした。
「……あのさ、御剣」
「ん?」
呼ばれた事で、御剣が僅かに身を乗り出す。
「さっき、話があるって、言っただろ……」
「……あ、あぁ……」
ついにこの時が来たか、と御剣は判決を言い渡される被告人の気分になってきた。しかし、被告人には弁護してくれる者がいるが、自分には居ない。ただ結果を待つでしかない。
「……それで、さ……」
カチャン、と空になったカップをトレイの上に戻した。
「こ、こ、こ、……この前の事、なんだけど…………っ」
今から言おうとしている事を考えるだけで、その羞恥で喉が潰れそうだ。
でも、言わなきゃ。
こんな曖昧な状態は、だめだ。
だめだから。
「あの…………」
「…………」
ごく、と思わず御剣は生唾を飲み下した。最近で、こんなに緊張した事は無い。
「あのね、御剣……っ」
ぎゅう、と下半身にはかけてある布団を掴む。
「御剣…………」
「……………」
ドクッ、ドクッ、ドクッと心臓の音が煩い。
それに負けないよう、成歩堂は思い切って言った。
「――ごめん!」
「………………………………
は?」
御剣としては。
何であんな事しようとしたの、とか、どうしてキスなんか、とか。
そういうセリフが飛び出すとばかり思っていたので、この不意打ちの謝罪に目が点になる。体に充満するような動悸も綺麗さっぱり無くなった。
「……あの……ごめん、とは……」
何より御剣は、成歩堂が自分に謝る理由が判らない。
別に告白でもした訳でもない……と、思う。
成歩堂は、だってだって、と子供みたに言葉を繰り返した。
「だって、御剣にキス、しようとしちゃったから……!」
「……………………………」
またしても御剣は沈黙してしまった。
あれは誰がどう見ても、しようとしたのは自分ではないのか。どんなに思い出しても、そうとしか思えない。
しかし、今は異議を唱えるよりも成歩堂の言い分を全部聞いてやる方が良さそうだ。成歩堂は、さっき言いにくそうにしていたのが嘘のように、次々とセリフを繰り出す。
「だ、だってね、あのね、そのちょっと前に、その、神乃木さんと何かちょっと、えーと、そ、そういうような事になりそうな事になっててね、」
「………………」
さっぱりな成歩堂の説明だが、悲しい事に御剣は成歩堂に何が起こったのか、解ってしまった。
いつかヤツは葬り去らなければならない。
御剣は、本気だ。
成歩堂はまだ続ける。
「だ、だから、えっと、ちょっと、どんなものなのかな、って、だから、ちょっと興味とか持っちゃって、その、どんな感じなのかなーって、それが続いてたみたいで、っ」
拳に固めた手を、顎に下に持って行く。本当は口を塞いでしまいたいのだろう。そんな葛藤が見れた。
「それで、神乃木さんも綺麗だけど、御剣も綺麗じゃん?いやいやいや、別に顔だけが好きって訳じゃないんだけど、でもなんか、やっぱり凄い綺麗だから、あの時ちょっと頭の中がぽわーってなってて、それで…………っ!」
「、成歩堂」
果たして、本人は気づいているのだろうか。声は震え、目には零れそうな涙が堪っている。
「だから本当は、そんな事したいなんて思ってなくて、でも別に面白半分で思った訳でもなくて、えっと、もう、何言ってんだよ!」
ついに自棄を起こしたみたいだ。軽く叫んで顔を俯かせた。
「だ、だから……だからっ……!」
震える声でも、それでも気丈に続けようとする。
何を彼女はこうまでして、伝えたいのか。
成歩堂は続ける。
「ご、ごめん……謝って済む事じゃないけど、でも謝るから、ううん、そんな事しても意味ないんだけど、でも、」
そして、ようやく言いたい事を言う。
「お、お願いだから……今までみたいに、会いに、来てよ……っ!」
「……………」
それ、なのか?
それでいいのか?
挫けそうになるのを、必死に堪えて言いたかった事は、それなんだろうか?
自分に、会いたいと。
「………成歩堂、」
「ご、ごめん!本当に、何か都合のいい事言って!でも、でも――!」
「判ったから」
御剣のその声に、成歩堂がようやく顔を上げた。
「……………」
見上げた御剣は、とても綺麗な微笑を浮かべていて、思わず見入ってしまった。
「君は、何か思い違いをしている」
しかしそのセリフを聞いて、成歩堂が体を強張らす。
やっぱり、もうだめなんだ。戻れないんだ。
引きずりこまれそうな喪失感が襲う。
「とりあえず……」
御剣は顔を赤く染め、軽く咳払いをした。
「キスをしようと仕向けたのは、むしろ私の方だと思う」
「………え、ええええっ!何で!?」
いや、そこで何でと言われても。御剣は一瞬言葉に詰まる。
「……君は、あの時私の事を不機嫌だと思ったな?」
「う、うん…………」
何でかは判らないけど、原因は自分なのが確かで、ひたすら心が苦しかった。よく覚えている。
「何故そうだったかと言えば……君を奪われそうになったならだ」
「…………へっ?」
「……まぁ、私の物でもないのに、奪うも何もないと思うだろうが……」
いや、疑問に思ったのはそこじゃないんだけど、と成歩堂はぐるぐるした頭で思う。
だって、そんな。
自分を奪われそうになって、あんなに怒ってたって事は、つまり。
つまり……
(………え――――……)
顔が熱くなる。その頬を、両手で押さえた。
恥ずかしいのと嬉しいのが、ごっちゃになる。
「……それまでは、君の意思を第一に考えたいと思っていた。けれど、実際奪われそうになった時――」
と、御剣と目がかち合う。逸らされない。まるで磁力で引かれあってるみたいに。
「……誰かに奪われる前に、自分のものにしてしまおうと。そう、思ってしまった」
「………………」
ああ、やっぱりそういう事なんだ、と改めて顔を赤くする。
「――すまない」
と、今度は御剣が頭を下げた。
「私の浅はかな考えで、君がこれほど思いつめていたとは……もっと早くに、私の方から言い出さなければならなかったというのに……」
「み、御剣、顔上げてよ。ね?」
それこそ土下座でもしそうな勢いで頭を下げて、成歩堂はちょっと慌てる。
「しかし…………」
「しかし、じゃなくて!もうこんなぎこちないのは、嫌なの!」
それはもう、縋るように懇願するように声を張り上げた。そう、これが本題と言えば本題なのだから。
成歩堂の声に、御剣はゆっくり顔を上げる。すると、おそよ彼女が滅多にそうしない、なんとも弱々しい顔がそこにあった。その顔を、成歩堂は優しく包む。御剣がその感触に僅かに目を見張った。
「また、ふらっと事務所に寄ったりしてよ。今まで通りにさ」
「……いいのか?」
「いいに決まってるじゃん!」
何言ってるの、と成歩堂は無邪気に笑う。
………もしかして、と御剣にいやな予感が過ぎる。
「……君は、気づいていないのか?」
「うん?何を?」
その反応に、やっぱり判ってないんだ、と頭を抱えたくなった。
「今、君は。私に告白されたも同然なのだが?」
「えっ……… ……………… …………………………………ッ!」
かなりのタイムラグを要して、理解してくれたようだ。
「あ……っと、その……うん…………」
今度は自分の頬を手で包んだ。
「な、何かしなくちゃダメなのかな?」
「うん?」
「その、告白されたら、何か違うようにしなくちゃ、いけないのかな」
と、言う彼女の目が揺れる。不安なんだろう。予測できない事が。
落ち着かせるように、ゆっくり頭を撫でてやると、それをくすぐったそうに肩を竦める。
「私は、彼女に君を取られるのが嫌だっただけだ。
……むしろ今の状況は、一番望ましいものだと言える」
成歩堂が言ったように、空いた時間が出来たら彼女の居る事務所へ向かう。そこで毎日他愛ない会話を楽しむ。特に約束を取り付けるまでもなく、顔が見える。会えない時間には、いつも望んでいた事だった。
「…………。ただ、」
「ん?」
きょと、と成歩堂は首を傾げる。
「まぁ……キス、とか……求める……かもしれない」
「………………」
ぱちり、と大きく瞬いた後、成歩堂の顔がみるみる赤くなる。それはおそらく純粋な羞恥によるもので、……とりあえず、嫌悪されてる訳ではなさそうだ、と御剣はそこは安心した。
「……ダメだろうか?」
ずるい事を、と自分でも思いながら、しかし敢て顔を覗きこんだ。思わず引こうとした顔を、御剣は優しく包むことで封じた。あわよくば、この場で、と思いながら。
「ちょっ……あの、あの……ッ!」
「なんだ」
添えた手を離すような真似はしないが、わたわたとする成歩堂。
「ちょ、ちょっと、もうちょっと待って!……恥ずかしいからっ……!」
消え入りそうな声で言うそれは、本当なのだろう。確かに、顔は見事なくらい真っ赤になっている。
「……可愛いな、君は」
そんな様子を見て、思わず本音が零れる。
実は彼女に可愛いはタブーだ。どうも、馬鹿にされてるような気持ちになるらしい。
で、親しい人から言われると居た堪れなくなるそうで。
(褒め言葉なんだがな)
向こうに合わせれば事なきを得るのだろうけど、自分はつい口にしてしまうのだ。
そして、軽くひと悶着を呼ぶ。
早速、成歩堂がキ、とした目つきになった。
「可愛いって、言うなっ」
「そういう所が可愛いのだが……」
「言うなっ、言うなー!」
耳を塞いで、なんとも子供っぽい抵抗の仕方だ。本当に、可愛い。
実の所。
今の成歩堂には、可愛い、という単語は神乃木との事を思い出してしまうからもあるのだが、その説明をされていな御剣は、当然知る由もなかった。もしそうだったら、この場でまたややこしくなっただろう。
「まぁ、今日の所はゆっくり養生したまえ。明日は事務所に送ってやろう」
「うん……、って」
思わず頷いてしまったが、よく考えると、だ。
「あの……今日、泊まるの?」
落ち着いたら自分の家に戻ろうと、成歩堂は思っていたのだが。
「…………。ダメなのかね?」
「ダメ……じゃなくてさ、」
さっきまではいつもみたいに、御剣は不敵に微笑んでいたのに、急に散歩は中止だよと言われた犬みたいになった。何だか自分が悪い事でもしたみたいに感じる。
「……じゃ、お言葉に甘えようかな……」
あまり動きたくないのは事実でもあるし。膝を抱え、呟いた。その声を聞いて、ぱぁっと御剣が微笑む。
「今日はなるべく定時で戻るようにはするから」
「あ、いや………」
無理はしなくていいよ、と全てを言い終わる前に、御剣は慌しく出て行ってしまった。今から早く済ますのだという気合を感じる。
バタン、と玄関のドアが閉まる音を聴くと、やっぱり何だか寂しく感じる。
(あ、そうだ。真宵ちゃんに……)
心配させただろうから、メールくらいは打っておこう。
そう思って携帯を手にすると、すでに真宵からのメールが入っていた。
:事務所はちゃんと閉めたからね!ゆっくり休んでいいよ!:
可愛い絵文字と共にあるメッセージに、顔が綻ぶ。
それに返信し、成歩堂は眠りについた。
御剣と蟠りが溶けて、久しぶりの安らかな休息に。
<おわり>
この件でまだ続けるつもりです。
神乃木さんも参戦するかもね!ここに!