ショートケーキは1日がかりで
ビスケット協会が糖分と脂肪分の合計が40%以上だとクッキーでそれ以下がビスケットであると決めていて、乳固形分、乳脂肪分、無脂乳固形分の割合がそれぞれ15%、8%、7%、以上がアイスクリームで10%、3%、7%以上だとアイスミルクと分類されるのと比べて、ババロアとムースの区別は曖昧だ。と、言うか明確な区切りは存在しない。
ただ、ムースがフランス語で「泡」という意味であるから、ババロアより何だかふわっとして口当たりが軽いのがムースって事で良くね?っていう感じで言い分けられている。ちなみに口当たりを軽くする為にはメレンゲを加えるのがベストだ。そしてババロアもフランス語で、英語だと「バーバリアン・クリーム」とも呼ばれている。ババロアの原型は、ドイツ南部のバーバリア地方にあるとっても濃厚なミルクティーみたいな温かい飲み物で、それをフランスの料理人がお菓子に作り上げたのである。
そんな、「セクシーなのキュートなのどっちが好きなの」みたいな間柄のムースやババロアなんかの冷菓が成歩堂の担当であった。成歩堂が千尋から直接手ほどきを受けたのが、冷菓と生ケーキ数種だったのだ。本腰入れてこの店の味を覚えようという時に、千尋は死去してしまった訳だ。
確かにレシピがあるのから、同じ材料、同じ手順で作る事は出来るだろう。しかし、文字で記述が出来ない勘や当たりの感覚は、それは直に教えてもららって体得するしかない訳で。
休日、成歩堂はイチゴのショートケーキを作っていた。これも、千尋に教えてもらったもののひとつだ。今は、霧人に担当してもらっているが。譲っても、それでも店の中で成歩堂の作る種類が一番多いのだった。
未熟さ故に神乃木に今は店長を請け負ってもらっているが、やっぱりあの店は千尋から自分に譲られたものだから。自分が背負って立っていかなければ、と思うのだ。
だからこうして時折、手に思い出させるように休みの日に千尋から教わった事を倣ってみたり、また新製品に挑戦していたりする。殆どずっと仕事の事を考えて居る訳だが、成歩堂はちっとも苦にはならない。
それに今は、こうしてケーキを作るのも1人ではないから。
自分の復習や予習だったりする中に、御剣の練習という項目が加わった。何にせよ、誰かと一緒にするのは1人でやるより楽しい。
御剣の計量は速く、正確だ。頭の中にすでにレシピがあるので、本と照らし合わせる必要も無い。クリスマスケーキ作りの時には、この能力が大いに役に立った。
これに製菓の腕が一般程度でも備われば、御剣は優秀なパティシエになれるのだが。
神は厳かで、御剣にそんな2物は与えてくれなかったようだ。
初日、ボウルの中を殻まみれにしていた腕は、多分こうして教わっているからちょっとは、ほんのちょっとは向上している。その証拠に、殻は入っていない。しかし、手が盛大に白身で塗れている。思わず、その手をじっと見詰める御剣。
「ほら、もう1個。御剣は、余分な力が入りすぎなんだよ」
「う、うム……」
力が入りすぎ、と成歩堂は言ってくれるが、力を抜くと今度はちっとも殻が割れない。で、力を込めていくとぐしゃりとなる御剣だった。
自分の父側の祖父もまた、何かから突き放されたような天性の不器用で、年老いて手元が覚束無くなる頃には、祖母がその爪を切っていたそうだ。自分が産まれた頃には両名とも天国に住処を移してしまったのだが、両親がよく話してくれて、どちらか限った事ではなく風呂上りで柔らかくなった自分の爪を抓んでくれた。
そんな環境だから、自分で爪を抓むのはきっと、タバコや酒も許されるくらいに大きくなってからだろう、と思っていたのだが、いつだったかクラスから聴こえた話し声(今から思うと矢張だったような気がする)に、昨日爪を深く切りすぎたという発言を耳に入れ、すでに皆は自分で抓んでいるのか、と瞠目し、その晩から自分で抓むと宣言した。
しかし、普段自分の不器用さを最も目の当りにしている2名にとっては素直に承諾出来る事ではなく、何度かやりとりを果たした後、はらはらする2対の目に見守られながら、何とか切った。ただ、利き手を抓むのがどうしても難しくて、その後また暫く親の手を借りていたのだが。
今は、利き手も自分で出来る。……かなり苦労しながら。
白身でコーティングされた手を見ながら、御剣は現実逃避のように昔を振り返っていた。
そう言えば、パティスリーに勤める事にした、と報告した時もかなり両親を驚かせたものだった。その危惧は勿論当たった訳で。
「ちょっとづつ、力入れていきなよ。僕がストップかけてあげるから」
そんな不器用極まりない自分に、文字通り成歩堂は付きっ切りで特訓をしてくれる。それに是非とも応えたい所だ。
ボウルの淵に、コンコン、と注意深く打ち付けていく。根気強く、力を調節して。それを成歩堂も固唾を呑んで見守っている。
「待った!そこでいいよ」
殻に皹が入り、少し凹んだような所で成歩堂がストップをかけた。
「それで、そのまま下に押し出すような感じで2つに割ってごらん?」
「うム」
と、真剣な表情で頷き、言われた通りに親指に力をこめていく。
そして。
ぐしゃり。
またしても、御剣の手は白身に塗れた。
その後、成歩堂の補助を大分受けながら、なんとか生地をオーブンに入れる段階にまで進んだ。昼食後から始め、今はおやつの時間を越して夕方になろうかという時間だった。悪戦苦闘の跡が見えそうだ。キッチンの椅子に座る御剣はぐったりしているように思える。
成歩堂が居る訳だから当然ミツルギも居る。ミツルギは、折角の休日に邪魔者が入ったので、ややご機嫌斜めであった。
(これから、クリームを作ってデコレーションをするのだな……)
ゴールは見えてからが最も遠い。自分には、均等にクリームを塗りつける事も難しい。とは言え、投げ出す事は絶対にしないのだが。例え不得手でも、慣れなくても。
一緒にいたい。それだけで入ったのだから、自分の我侭で相手の足を引っ張るわけには断じてあってはならない。……まあ、現状としては引っ張ってるに等しいのだが。キッチンの中で、成歩堂と並んで製菓に勤しむ彼らに羨望の眼差しを向ける事しか出来ない。不服に思う事は改善すべきだ。今までだってそうしてきたのだが、まさかそれでも自分の手に負えない事があるとは。何もかも勝手が違う世界に、御剣は文字通り右も左も判らない状態だった。成歩堂が居なければどうなっていた事か。いや、そもそも成歩堂が居るから入ったのだからして、そんな事は思うだけ無意味であるが。
焼いている間は、休憩時間に当てた。今日は2人で作ったからイチゴはもう切ってあるし、何より御剣に一旦休息を与えた方がいいだろう。おそらく、これが彼にとって初めてのケーキ作りだろうから。負けず嫌いな気質の彼は、例え出来なくても決して挫けないだろう。そう思ったから。それに端々の作業をやらせるより、ケーキ作りそのものを体験させれば向上心も芽生え易いというものだ。
色々四苦八苦したものの、御剣は何とかスポンジを作るまで進めた。あきらかに手馴れていない手つきで、かなりたどたどしかったが。
今作られているケーキは御剣の両親の土産にもなっているので、サイズは5号だ。5号は直径15センチのホールでだいたい5,6人分。1号が直径3センチだから、ひとつ号数が上がるにつれ3センチづつ増えていく訳だ。そして4号が2,3人分とされ、以後3人分増えていく。
余談ながら、英語圏で「ストロベリー・ショートケーキ」と言うとスコーンのようなビスケットにクリームとイチゴを挟んだものが出てくるから、気をつけよう。
「はい、御剣」
疲労した御剣の為に、成歩堂は紅茶を淹れていたのであった。
「ム、すまない」
成歩堂に紅茶を淹れるのは自分でありたいと思っている御剣は、そんな言葉で返す。こういう所に拘る御剣を、成歩堂は嫌いでは無い。
自分で淹れたのを、一口飲んではみたが、やっぱり御剣が淹れたものよりちょっと味が違うような気がした。御剣が不器用となる要因は、力加減が判らないのと、そもそも手が慣れていない事だからなのだろう。その証拠に、紅茶はあんなにも華麗で優雅な動作で淹れている。ギャルソン服を着こんで、真剣な姿勢で紅茶を淹れる御剣はかなり格好いいと思うのだが、そんな感想は自分の中でだけ留めておく成歩堂だった。
「あ、ほら。いい匂いがしてきたよ。そろそろ膨らんでるんじゃないかな?」
成歩堂はそう言い、オーブンの前に立った。2名の御剣も、それについていく。
レンジの中を覗くと、確かに言う通り生地が膨らんでいた。それが自分の手で作り上げた生地だというのに、ちょっと感動してしまう。店内で成歩堂達が作っいるものが、自分の手でも出来た。かなりの助けを要したとは言え。
焼きたてのこの匂いは、買うのではなく作らなければ手に入らない得がたいものだ。だから、成歩堂としてはデコレーションまで完成された時よりも、生地を取り出す瞬間に喜びを感じてしまう。御剣も同じだったらいいな、と思う。横にいる顔を見ると、それは叶っているようだが。
「このまま食べても、美味しいんだけどね」
型から生地を出した後、ふふっと笑って成歩堂が言う。
「さて。それじゃクリームに取り掛かろうか」
告げられた言葉に、うぅ、となるが唸っていても仕方無い。一度は降ろした袖を御剣は再び捲り、今度はクリーム作りに挑んだ。
そうして生クリームを作り上げ、最後の仕上げに入る。やっぱりデコレーションも、自分の想像を裏切らずに散々な結果だった。
一番簡単な模様にしたものの、搾り出す時にどうしてかぶつんぶつんと切れてしまう。その切れた所を、成歩堂は上手く誤魔化すようにイチゴを添えて完成させた。ちょっと不恰好ながら、御剣が作ったショートケーキである。
その後、成歩堂も連れて御剣は自分の家へと帰った。こうやって菓子を作った後は、大抵その教員役を務めた成歩堂と一緒に親へ持って行くのだった。両親は、いつも成歩堂を快く歓迎してくれる。なので成歩堂も来易いようで、御剣にとってはかなり僥倖だ。
初めて連れて行った日は、驚きと喜びが混ざった顔で母親は彼を招きいれ、成歩堂が帰った後も次の日も暫くその時の話ばっかりしていた。26にもなって友達が出来ただけでこんなに喜ばれる自分は何なのだろう、と思い悩みながら風呂に入って寝床についたものだ。
成歩堂としては両親2名ともに、御剣の事を報告したかったのだが、その日父親は裁判が追詰め段階で忙しく、成歩堂が居る時に帰る事は無かった。成歩堂は最後まで残念がって、それを知った父親も同じ反応だった。
御剣は帰宅した父親に、成歩堂に比べかなり少ない口数で(これだから成歩堂が自分で言いたかった訳だ)ケーキ作りの様子を伝えた。全く未知の領域で、しかも最も相応しくないと呼べる職種に居ながら努力を怠らない息子を、父親は目を細めて微笑んだ。かつて、自分の言葉で、彼が自分の道を見失うくらい打ちひしがれたのを知っているからだ。勿論、それを踏まえて敢て言った事ではあるが。
しかしその後、まさかケーキ屋に勤めるとは夢にも思わなくて我が子ながら侮れないと戦いたものだった。今でも時折信じられないくらいなのだが。自分が言った事をよく鑑みて、人ともっと関わろうとする姿勢になった事はむしろ感激してもいい。しかし、あの不器用極まりない息子がパティスリーにだなんて。あまりに申し訳なくて、頭でも下げに行こうかと思ったくらいだ。
そんな息子だが、ギャルソンとして立派に働いているようだし、こうして一応ながらにもケーキを作れるようになった。なので、まだ頭は下げてはいないのだった。
今、御剣の前に置かれている紅茶は、自分で淹れたものではない。ケーキを作ったのだからと、父親が紅茶を淹れてくれたのだ。子供の頃は、こうして眠る前の自分に、よくハチミツ入りミルクティーのキャンブリックティーを入れてくれたものだ、と御剣は昔を思い出す。ハチミツを加えると紅茶は黒ずんでしまうのだが、あえてそれを利用し、亜麻色のミルクティーとして仕上げるのだ。
「イチゴのショートケーキか。懐かしいな。子供の頃、父の買ってくるケーキはいつだってこれだったよ」
クリスマスも誕生日も、決してそれは変わらなかった。と、父親はむしろ大事な思い出のように語った。
「チキンの照り焼きを食べて、デザートのケーキを食べた後にプレゼントが手渡された」
「? プレゼントは枕元に置かれたのでは?」
自分の時がそうだったから、てっきり父親も同じ事を繰りかえしたのだと思っていた。まあ、自分がされなかったから、というのも考えられるが。
それを言うと、何故だかふっと遠い眼をされた。
「……まだ幼稚園の頃だったな。父は枕元にそっと置こうとして……」
そして、暖炉に眼を向けて。
「布団に眠る私を、見事に踏みつけた」
「………………」
「さすがに飛び起きたよ。苦しさと痛さで………」
「………………………………」
何だか自分の事を言われているようで、ちょっとばかり心苦しくなった御剣だった。
<おわり>
御剣の不器用隔世遺伝説は虎の人とのチャットで何となく決まった事です。実際1つ世代跨いだ方が顕著に現れるもんだしね。
と、言うか多分ワタシらは御剣のお父様を神聖化しすぎてると思います。
すでにお父様呼ばわりだし。
御剣は箱入り息子ではなく、箱に入れられとけ息子だと思います。
先に家族団欒書いちまったような気がしないでもないけど、お父様居ないから!団欒じゃないから!頑張ってね!!>超私信