ハチミツは甘いのがいい
チーズケーキが古代ローマ、チョコレートケーキが1778年のウィーンで誕生したのを踏まえると、シフォンケーキの歴史はまだ真新しい。1920年代後半、アメリカのカルフォルニア州にて考案され、それからその作り方は長く門外不出の秘密になっていたが、1948年にレシピを売却した事で世に出回った。メレンゲとサラダ油を使ってふんわりとした生地を作る手法は、それまで知られていなかった為、当時大きな話題を呼んだ。
シフォンという言葉には、「紗のような絹布」という意味がある。そんな、まるで雲を加えたような、ふわっとした軽いケーキを作るのが響也の担当であり何より得意とするものだった。
最も、彼が今作っているのはエンゼルフードケーキであるが。シフォンケーキとよく似たものではあるが、シフォンケーキは全卵を使うがこっちは卵白のみを使用するのが大きな違いだ。マドレーヌとフィナンシェの関係にも似ている。
卵黄を使わないので、生地は白い。響也はこのデコレーションに、ココナッツの細切りをふんだんに撒き散らした。こうすると外部に対してもふわふわとした印象を与え、よりこのケーキが天使の食べ物であるようなイメージを齎す。
「うわ……すげー………」
食べずともふわっとした食感が伝わりそうな響也のケーキに、法介が思わず感嘆の声を零した。そして、同時に劣等感も感じる。こんなふんわりした生地、自分にはとても作れそうに無かった。
「おデコくんだって、カラメルとか上手じゃないか」
「うーん………」
響也のフォローにも、法介は苦い声でしか相槌が打てない。
法介は、焼き色で頃合を見極める事が出来るのだが、生地の状態を判断するのは苦手だった。
しかし、苦手だから出来ません、でも済ませていられない。誰かが突発で欠勤になっても、全種類のケーキを出せるよう、法介も焼き菓子以外のものをマスターしなければならない。その使命感は存分になるのだが、技術がなかなか追いついてくれなかった。確かに製菓業界に足を突っ込んで、この中で一番日が浅いのだがそれを盾に未熟さをいい訳したくもなかった。
せめて生ケーキの1,2種類は完全に作れるようになりたい。
そうすれば、一番多くの種類を担当している成歩堂の負担を、ちょっとは軽減出来るだろうし。
その思いがちっとも叶わない現実に、法介はもう一度溜息を吐いた。そんな法介の角のような髪も、胸中と同調して垂れているように、響也には見えた。
「何だったら、今日居残ってみるかい?」
「えっ?」
その声に、俯いていた顔を法介は上げた。
「今度の新作の為に、今日ここで試作品をあれこれ作ってみようかなって思っていてね。それのついでみたいになっちゃうけど」
月に1回、新作のケーキを皆で決めていく席の場に出す前にも、数点に絞る必要があった。その会議が近くなっているので、昨日の内に成歩堂にキッチンを使うと申し出ていた。
響也の提案に、法介は意気込んで頷く。
「はいっ!オレ、大丈夫です!頑張ります!」
その声は大きく、キッチン中に響き渡り、勿論成歩堂の耳にも入った。
頑張っている子を見ると、つられる様に嬉しくなる彼は、法介の向上心に燃える声に顔を綻ばせていた。ただ、今は作業中なので、そんな優しい微笑を見ていたのはボウルの中のゼリー液だけで、最も見たいだろう法介には、その視界の片隅にも入らなかった。
昨日なら帰り支度を始めている時分に、今日の法介は気合を入れなおしていた。
どのくらい体得出来るかは判らないが、それでも経験は一つでも多い方が断然いいだろう。
「じゃ、響也さん!よろしくお願いします!」
「うん、頑張ってみようか」
力の入りすぎている法介をリラックスさせるように、響也は軽い口調で言う。
「……で、これ、何ですか?」
法介の視線の先。作業台の上には琥珀色の液体が入った小瓶がずらり、というくらいの量が並んでいた。色の基調は似たり寄ったりだが、明度に色々と差がある。
「ああ、これはハチミツだよ。ハチミツのシフォンケーキを作ろうと思ってね」
それは美味しそうだな、と法介は今から味見を期待した。
しかし砂糖ではなく蜂蜜で甘みを付けるという事は、砂糖の保水性に頼れないという事だ。保水性というのは、素材の内部の水分と結びつき、水分を抱え込む性質をいう。これのおかげで、卵のあわ立ちがきめ細かくなり、その状態が安定するのだ。他にも、砂糖には生地に焼き色と香ばしい薫りを付ける働きもある。ダイエットの為にと、勝手に砂糖を減らして作ると味気なくなるのは、こういう理由からだ。
まあ、これくらいの弊害、響也には何でもないだろうな、と法介は思う。
興味深そうにハチミツを眺める法介を見て、響也はそれらの説明に入った。
「これがアカシア。一番癖の無いヤツなんだ。
で、クローバー、レンゲ、オレンジ、……で、これがソバのハチミツ。一か八か試してみようかなって」
一番黒ずんでいるハチミツを指す響也。
「あとはローズマリーと、ラベンダー、アーモンド」
ハチミツには大きく2種類に分けると花蜜から採れるハチミツと樹液から採れる甘露蜜。花蜜にしても、草木、樹木、ハーブ、ナッツ、フルーツがある。勿論それぞれに個性があって、響也はそれに挑戦してみたいようだ。
「とりあえず、3,4種くらいに決めようかなって」
「あれ、これはハチミツじゃないんですか?」
説明されなかった1個を、法介は疑問に思ったまま聞いてみる。その瓶は、一際小さかった。
「ああ、それはマヌカだよ」
「ま、まぬか?」
慣れない発音に、舌が縺れそうだった。
「沢山種類買ったから、おまけに貰って――」
「何だったら、味わってみるか?」
響也の言葉を遮って、ぬっと割り入ったのは神乃木だった。店長としての業務がある彼は、どうあっても遅く帰る事にある。で、ちょっと熱心に練習に励む若い衆をからかいがてら見に来たという訳だ。
「えっ、でも、今から使うんでしょ?」
突然な登場より前に、発言の内容が気になった。
「いや、使わないんだろう?これは」
「……ええ、まぁ」
何だか含みがあるような神乃木に、曖昧な返事をする響也だ。何だか、嫌な予感がむくむくと沸き起こる。
「いいか、そこのデコっぱち!」
乗ってくれなさそうな法介に、神乃木は手に持っていたマグカップを突きつけるように出す。
「製菓の歴史なんてな、偶然に頼ってるようにも見えるが、その裏じゃ発見の連続なんだ!未知の食材を前に手を出すのを躊躇っているようじゃ、真のパティシエにはなれないぜ!」
「! そ、そうですよね!」
感銘を受けたように、法介は打ち震えた。
いや、必ずしもそうじゃないよ。と響也は思ったのだが口を挟んで事態が好転しそうも見れないので、あえて黙しておく。
「じゃ、いただきまーす」
さっきは警戒した法介だが、よく考えてみればハチミツなんだし、そう酷い味もしないだろうとプラスティックの小さなスプーンで掬ったそれを、ぱくり、と口に含んだ。そのハチミツは、飴が固まる直前のような固さだった。
その横で、響也は苦笑して、神乃木は意地悪そうな笑みを一層意地悪くしていた。
(ほら、やっぱりフツウに甘い……―――――ッッ!!!?)
「!!!!!」
舌でじっくり溶かし、その風味が鼻を抜けていく。その時、法介は口を押さえてコップを掴み取り、俊敏な動作でうがいをした。1回2回では済まされず、永遠と続きそうだった。
「おい、味の感想はどうした?」
この、意地の悪い質問は当然神乃木である。
「なっ、なんですかコレは!本当にハチミツなんですか!?」
まだその味がねっとりを纏わりついているような口から、法介は吼えた。
「大袈裟だなぁ、オイ」
と、神乃木は言うがその反応にすごく満足しているのが判った。
「何て言うか……のど飴のキッツイような、漢方薬みたいな味でしたよ!コレ!!」
「うん、だから食べ易いように加工されてるのもあるんだけどね。これはそのまま瓶に詰めたヤツだから」
さぞかし個性的な味だっただろうな、と響也は苦笑を禁じえない。
別に、不味いという訳でもない。
ただ、フツウのハチミツのような味を期待して食べると、かなり不意打ちを食らう味なのは確かだ。ちなみに胃炎の元であるピロリ菌に効くのだが、法介はどうやらストレスを溜め込んだようだ。
こうして神乃木に嵌められるのは初めてではない。最初、バニラエッセンスがあまりに甘い匂いしてるからどんな味だろう、と何気なく言った事を、じゃあ舐めてみな、と促され。勧めるのだから大丈夫だろう、と指につけてぺろりと舐めてみたらその味に悶絶した(そもそも木のエッセンスなのだから堪らなく苦くて当然だ)。そして次は、99%カカオ成分のチョコレートをだまし討ちのように口に放り込まれ、砂糖が皆無の苦さに暫く苦しんだ。「苦い」という字が「苦しい」と同じ漢字を使う理由が、法介はこの時判ったようが気がした。
いや、それでも判っているのだ。今日にしても前のにしても、自分の知識不足が原因なのだし、浮かんだ疑問を解消する為の実行に、すぐに移せる活力がクリエイターにとって必要である事も。
(だからって、もっと言いようがあると思う!!)
時間が経っても中々消えない味に、法介は半泣きで思った。
もし、自分の次に入るヤツが居たら同じ眼に遭わせてやる、と陰険な事を法介は思ったが、残念ながら後輩が出来ても法介はそれを果たす事が出来ない運命にある。
「……あーっ、まだ口が苦いー!」
法介は呻くように言う。
「だったら、ジュースでも飲んでみる?」
「はい、欲しいです」
そして手渡されたグレープジュースを一口飲んで、法介はそれをぼふりと吹きそうになった。
「ななな、成歩堂さん!」
1回やり取りをしておきながら、今それに気づいた法介だった。
「また神乃木さんに引っ掛かっちゃったねぇ、オドロキくん」
可哀想に、とからかい混じりに言われ、おまけに頭をぽんぽんと軽く叩かれて一気に顔の熱があがる。口の中の味は気にならなくなったが、胸の動悸が気になる。
様々な菓子を産み続けているキッチンの中で、何だか成歩堂の匂いが一番甘く感じるように思えるのだ。多分、それは客として来て成歩堂が自分の対応をしてくれた、初めの印象がそうさせているのだろうけど、その匂いがするとどうも落ち着かない。カーッとなるというか、ボーッとなるというか。
「神乃木さんも、あまりからかわないでくださいよ」
カーッとなっているようなボーッとなっているような法介の横で、折角一生懸命なんだから邪魔しちゃいけない、と神乃木を窘める。
「何、こうして可愛がられるのも修行の内だぜ?」
嘘だ。絶対嘘だ、と法介は思う。
「それに、そいつ反応がデカいからつい面白くてなぁ」
ちなみに成歩堂の反応も中々愉快なのだが、成歩堂相手に悪戯を仕掛けるとその晩、夢の中で千尋に説教されるのでしない神乃木だった。いつぞやは竹刀持って追い掛け回された。
「アンタも時々遊んでやっちゃどうだい?その方がデコも嬉しいだろう?」
そんな事を言う神乃木。
「そんなの……」
「はいっ!オレ、成歩堂さんになら遊ばれてもいいです!!」
「……………」
馬鹿みたいに大きな声に、音量よりもその内容に響也はスマイルのまま凍て付いて、離れていた霧人にもその衝撃波が及んでコケそうになった。神乃木もうっかりカップを落としそうになった。
「? いや、遊ばないから、そんな身構えなくてもいいよ?」
何を力いっぱい主張してるのかな?ときょとんとしながら成歩堂が言う。
あれで気づかないのかスゲェ!と法介以外の誰をも戦慄させた。
そして顔を真っ赤にテンパってる法介に、教えるのは日を改めた方が良さそうだな、と思う響也だった。
ちなみにその夜、神乃木は夢の中で千尋に懇々と正座で説教されたらしい。
パティスリーCHIHIROの前オーナーは、いつだって未来の店長の身を案じているのだった。
<おわり>
虎の人の所でも成歩堂に教えてんのに、ここでもホースケに教えるんですねぇ、響也さん(いや時系列的にはこっちが先になってしまったんだが。御剣(人間)参入前なんで)。
何か死ぬほどいい人だね、響也さん。早く幸せがくればいいと思う。
補足ながらマヌカハチミツとバニラエッセンスと99%カカオチョコレートは全部実体験なんだぜ。