Brother
ある日の事、響也は霧人の部屋に駆け込んで転がっていた。製菓学校に通うのを機会に家から出た霧人の部屋は、実家より交通の便がいい所にあり、響也は結構頻繁に訪れる。今日みたいに。
「ふぅーん、マリー・アントワネットが言ってたケーキってブリオッシュの事だったんだー。
てかブリオッシュってむしろパンじゃね?」
「ブリオッシュは固くなった後にもプティング等にして食べられたんですよ。そして、寝ころびながら雑誌を見るのは止めなさいと言ってるでしょう」
目を悪くしますよ、と眼鏡をかけている霧人に注意され、響也ははーい、と物わかりの良さそうに見えるだけの返事をし、のっそりと起き上がる。
「スイーツもこうして見ると結構奥が深いね。ボクもアニキみたいに製菓学校に通おうかなー。やっぱり手に職あると強いし、それこそケーキみたいな甘〜っいロマンスも待ってるかもしれないしね」
「何を馬鹿な事を言ってるんですか。学校は学びに行くところですよ」
奔放な弟に向かって、霧人はぴしゃりと言った。
「……とか素っ気なく返されたけど、最近のアニキの様子はちょっと変なんだ。大異変が起こってるよ」
「そうか。むしろお前の口の周りにも大異変が起こってるんだが」
口の周りにハンバーガーのソースがついている事を響也へ暗に指摘する大庵だった。響也は、近くの紙ナプキンでそれをぐぐぃ、と拭ってから言う。
「何ていうかこう、毎日楽しいみたいな?人生バラ色みたいな?そんな感じなんだよ」
大庵は思った。さっぱり解らねー。
「そしてボクは思ったね。アニキ、たぶん恋人が出来たんだ!」
「恋人ねぇ……」
物凄く大胆な発想の飛躍であると、大庵は響也の発言をそう評価した。
大庵にとって霧人は親友の兄貴という近くて遠い存在で、強いて「会った」と表記出来そうなのは、リビングでゲームしている所で後ろを通過したとか、響也の自室へ母親に頼まれておやつを持ってきたとか、そんなくらいしかない。とはいえ、たったそれだけでもあの霧人は恋人を作ってうふふあははとアバンチュールしそうな人種かと聞かれると、思い切りよく「NO!」とシャウト出来る。
そんな大庵の心境を悟ったのか、響也は言う。
「まあ、恋人っていう関係までにはいかなくても、誰か気になる人でも居るんじゃないかな。ボク、そういう勘は結構鋭いよ」
響也の自賛に嘘はない。少なくとも大庵は、そういった方面で響也の予想が外れた事を見た試しがない。大庵本人もまたその証人だった。
「アニキだって人の子だもの。誰かを好きになったり恋に落ちたりするさ。それに、あの父さんが母さんと結婚できたんだしねー。アニキに恋人が出来たってちっとも可笑しくないさ」
割と身内に対し酷評する響也だった。本人にその自覚は全く無いが。
「それに、特定の着メロがすると顔がやや柔らかくなるんだ。これは怪しい!」
「確かにそれは怪しいな」
思わず大庵も呟く。メールを貰っただけで嬉しいなんて、まさに恋の始まりである。ラブロマンスの予感である。
「だろ。て、言ってもあのアニキだから、自分が恋なんて軽薄な感情持ってるのが許せなくて、無意識に否定して蓋を閉じてしまうかもしれない。それに妙な所で人間関係に臆病な所もあるからなー。自ら率先して孤独を選んでしまうかもしれない。弟として、ボクはとても心配だよ」
とは言うが、ラズベリー&玄米フレークの乗ったシェイクをがしがしと長いスプーンでつついているせいか、あまり真剣さが見えない。程良く混ざったそれをジューッと啜って、響也は一息ついた。
「オマエって、本当に人の色恋沙汰に首突っ込むのが好きだなぁ」
大庵がいっそ感心しながら言う。響也はそれに、にこっとスマイルを送って。
「そりゃそうさ!1人でも多く愛に恵まれた方がいいじゃないか!あと、やっぱり実話程いい題材は無いしね」
しれっと言った後半にこそ比重があるな、と大庵は思った。
しかし、それを抜きにしても響也は悪く言えばお節介、よく言えば面倒見のいいヤツだった。そして矛盾するかもしれないが、響也は面白半分で関わるにしても親身になってくれるのだ。だからバンドでもリーダー格のポジションに、誰から推薦される訳でもなくついているし、大庵もそれに不満はない。今も、兄の恋の行方(未定)を、一応真剣に考えているようだ。
「何かいい手は無いかなぁ。そうだ、大庵!ちょっとアニキの素行探って相手の人が誰か見つけてくれない?」
「え、ヤダよ!バレたら殺されるだろ!」
「だよねぇ、やっぱり」
「おい!そこであっさり頷くと自分の兄を抹殺者だと認める事になるぞ!?」
まだ兄の恋の行方(未定)を考えている響也に、大庵の突っ込みは虚しく宙を掠った。
その後、霧人は卒業と同時にフランスのパリへと実に潔く飛んで行ってしまった。その噂の(大庵と響也の間だけ)人と特に劇的な変化、破局にしろ成就にしろは特に見受けられなかった。霧人の仮面は完璧な程に彼の無防備な内心を隠しつくすが、響也はそれは通じない。兄弟だからか長い間一緒に過ごしたからか、あるいは単に人としての相性からか、どんなに綺麗な笑みを見せられても、「あっ、本当な怒ってるな!」とかいうのが解るのである。
勘違いだったのかなぁ、いやそんな、と自問自答を繰り返す響也も、今は製菓学校の教生となっていた。霧人の部屋にたびたび遊びに行ったせいか、すっかり製菓の魅力に取りつかれてしまったのだ。元からバンドの方はいい息抜きとしていたかったし(勿論やるには本気で真面目だが)、打ち込めるものが見つかって響也にしては僥倖だった。
そして卒業を控え、これからを真剣に考える時期になった。今まで特別講師としてきた他の店のパティシエ等から、それなりのスカウトが来ていたが、何となく引かれるものがなく響也はそれらを見送っていた。何て贅沢な、とか甘い考えを、とか言われるかもしれないが、やっぱり身を置く場所に妥協はしたくないのだ。候補として、霧人のように海外留学も鑑みている。しかし、霧人はショコラをより深く識る為という目的があったが、響也にそこまでの志は無い。一つの製菓に絞り込まず、大抵のスイーツを幅広く作っていきたいと思う。だとしたら、やはり店に入るのが妥当なのだろう。とは言え、響也は学んできた中で自分はスポンジ系が得意だと発見した。なので、出来ればそれを主に任せてくれるような場所がいいな、とも考え居た。あれこれ考えてはいるものの、輪郭すら見えていないのが現状だった。
霧人から電話が来たのは、そんな時だった。
『響也。もうどこかに内定は決まりましたか』
おそらく帰国後初めての言葉だというのに、ただいまのあいさつを抜きにして霧人はいきなりこんな話を切り出してきた。
詳しく訊けば、製菓学校時代のクラスメイトが職人を集めているとの事だった。その説明で、響也はピン!と来た。
ああ、その人だ。アニキを変えたのは。
だって、こんな今までにないくらい必死にさせているんだから。
おそらく霧人は、響也があっさり承諾した本当の理由は知らないだろう。
他に行くあてが無かった以上に、会いたかったからだ。その人に。
事を急する事態らしく、響也は早速その店へと行くことになった。一応面接があるらしいが、これはどちらかと言えば響也がこの店に来るかどうかの意思を決めさせるものらしい。しかし、響也はもうすっかりそこへ通うつもりだった。兄と同じ業界で切磋琢磨出来るのも楽しみだし、やはり第一は霧人の意中の人を見たいからだ。そして響也はあっさり店に入る事になった。
そこには霧人の他に店長代行だというそれまではホテルのパティシエでぶいぶい言わせていたという神乃木と、本来の店長である成歩堂のちょっと困った性格の飼い犬が居た。店の状態は響也が思った以上に凄惨で、これで店を開けるのは無理だろ、と言いかけるのを何度も霧人に遮られた。その度に響也は不満に思うと同時に嬉しくもあった。霧人にこんな顔をさせた人なんて、今までに居ない。そこまで思わせる人は居なかった。
なんだかんだで世界で二人きりの兄弟で、たった一人の兄なのだ。出来れば幸せになって欲しい。
そして、成歩堂こそその幸せに続く懸け橋のような気がしてならないのだった。
なので。
「成歩堂さんってぶっちゃけ今フリー?」
「ん?フリーって?」
「恋人の有無を聞いてるんだけど」
と、響也が言うと、成歩堂は手に持っていたボウルをガッシャ―――ンッッ!!と取り落とした。中が空なのと落とし先がシンクだったのは不幸中の何とやらだ。
「いいいい、居ないよ!?一体、何を急に言い出すんだよ……!!」
成歩堂は真っ赤になって動揺した。今どき小学生だってこんなにウブじゃないってのになぁ、と響也はそのリアクションの新鮮さを思う。
「ふぅーん。ちなみに、持ちたい願望とか持ってる?」
響也は続けて言った。苦手ジャンルの話題とは言え、お人よしな成歩堂は話を強引に遮らずに受け答えてしまう。顔を赤らめたまま。
「いや、別に……今は店の事で手一杯っていうか……そんな、恋人とか……」
成歩堂はしどろもどろに言う。それを聞いた時、響也の目がキラリンと光る。
「それじゃあさ、店の事に協力出来る人なら恋人として見てもいいって事かな?たとえばさぁ、アニ……」
アニキみたいな人はどうかな。むしろアニキなんてどうかな、と言おうとした響也だが、邪魔が入ってそれは叶うことは無かった。
「響也。仕事中の私語は慎みなさい」
「イッテテテテアタタタタ!!!!」
霧人は響也の耳を容赦なく掴み、成歩堂から引き離すように引っ張っていく。
「もう、痛いなぁ!バンド活動に支障が出たらどうするんだよ!」
成歩堂からやや離れた場所で、響也は霧人に苦情を言った。
「響也。確かに誘いをかけたのは私ですが、しかしふざけるようならこの店を出て行って貰いますよ」
「う…………」
ヤバイ、本気だ、と響也は押し黙る。
(……っていうか、せっかく一緒に働いてるってのに何もアクションしないアニキが悪いんじゃないか。今だって勤務怠慢っていうか成歩堂さんを困らせたからそんな風に怒ってるくせに、指摘してもきっと「そんな筈がありますか」(←霧人口調で)嘲笑するんだ。チクショー!ボクのアニキの癖に、なんて色恋沙汰に無頓着なんだ!!)
と、思った響也は反省と通り越して憮然としてきた。
「響也、言いたいことがあるならちゃんと言いなさい。黙って睨んでないで」
「アニキの無自覚不器用!!!」
「……言いたい事は、相手にちゃんと解るような表現を選んで言いなさい」
霧人は訂正した。
「……………。アニキはなんでこの店に来ようと思ったの?」
本当は超ストレートに「ズヴァリ成歩堂さんにラブレボリューションだろ!」とか言いたいが、そう言ったら本当に追い出されそうな気がするのであえて変化球の遠回りで質問してみる。案の定というか、霧人は怪訝な顔つきになった。何故それを今訊くのかと言わんばかりに。
しかし、それでも答えてくれるのが霧人のいいところだろう。
「他に推薦出来るような人物が思い浮かばなかっただけですよ」
だから自分が赴いたのだと、霧人は至極当然と言った。
(……だから、どうしてそう思い至ったのかをボクは訊きたいんだけどな……)
しかし再三問いただしても、霧人は今のように上ずりだけをなぞった事実のみしか言わないのだろう。気付いていないのか、あるいは無意識に封じ込んでいるのか。まあ、結果はどっちも同じなんだが。
「……成歩堂さん……」
霧人の小言から解放された響也は、また成歩堂に話しかける。何かな?と成歩堂がやや首を傾けて響也を向いた。
「アニキとずっと友達で居てあげてね……ホント見た目利口なくせしてあちこち欠陥してる男だけど、導きようによってはきっと更生出来ると思うから」
「き・ょ・ぉ・や・?」
やっぱり霧人に聞き咎められた響也は、今度はさっきの倍以上の小言を貰うのだった。
そしてその光景を眺め、「兄弟っていいなぁ」とかほのぼのした感想を口にした成歩堂に「こいつはビッグになる男だぜ……」と神乃木がひそかに驚いたという。
<おわり>
この響也さんの口調は某元総理大臣がお爺ちゃんのアイツを参考にしております。何かイイんだ、あの喋りが。