chocolat de chevalier
霧人は機械のように冷静に見えて、あれでいて結構解り易い部分もある。
例えば、機嫌が悪い時、というか荒れる胸中を抑え込もうとしている時にはよく眼鏡のブリッジ部を指でぐ、と押さえ付けている。
その状態が、さっきからずーっと続いていた。霧人の座る一角だけ、なんかゴゴゴゴとかズズズズとかいう地響きが起こっていそうだった。
「…………」
若さ故の先走りと空回りの多いが愚鈍ではない(そんなには)法介は、霧人のこの習慣的動作、つまり癖を早い内に見抜く事が出来たのだが、しかし見抜く事しか出来ないので「誰か何とかしてくれないだろうか……!」と他力本願に祈るしかない。
そんな法介の心の声を聞きとれた訳じゃないだろうが、目に見えて煙が出るくらい燻っている霧人に、成歩堂が声をかけた。
「牙琉?難しい顔をしてどうかした?」
あれは難しい顔というより破滅を呼び寄せそうな顔だったが、とその場に居合わせた法介と響也と神乃木の心のつっこみがはもる。
成歩堂のそこ声に、霧人がはっとなったようにブリッジから指を離した。その後、改めて眼鏡の位置を直す為に再びブリッジに指をかける。
「これは私とした事が……店というのを忘れて、うっかり地を出してしまいました」
地なんだ、あれが。法介は愕然としつつ恐怖した。
「お客さんの前じゃないんだから、別に気にするなよ」
霧人の対面の椅子に腰掛け、成歩堂が笑いかけながら言う。こんな状態の霧人に話かけれる人も、まして笑みを浮かべられる人は後にも先にも成歩堂だけだ。少なくとも、響也が知る限りでは。
あっけらかん、としている成歩堂に、しかし霧人はそういう訳にもいかない、というように軽く顔を顰めた。また、眼鏡を指で弄る。
「何か悩み事?あ、来月のバンドーの作品考えてるの?」
机の上に広げられた用紙には、それらしき図や文字が書かれていた。それをぱっと見るだけで、霧人が行き詰っているのが解る。ペンで潰された部分がいくつも見られた。
「ええ、少し厄介なオーダーをされましてね。ヘルシー志向にローカロリーのボンボンを作って欲しい、だそうです」
霧人は吐き捨てるように呟いた。それは確かに厄介だ、とこの場に居るパティシエ全員が霧人に同情した。
ただカロリーを低くするなら簡単だ。が、それだと何とも味気ないものになってしまう。ボンボンのあの官能的な甘みを期待する舌を満足させるとなれば、それはかなりの難問だ。ココアを使えばカロリーを抑えられるだろうが、霧人の性格からしてその手法は除外されるだろうな、と神乃木は思った。霧人の作るショコラはシンプルにして繊細。他の素材のマリアージュよりも、いかにショコラの魅力を全面的に引き出せるかを考えている。
「クッ……そりゃあ大変だなぁ。ローカロリーのスイーツなんてのは、ペナルティの無いゲームみたいなもんだからな」
いたって軽い調子で神乃木が言った。その無責任さはあいつなら何とかするだろう、という信頼の裏返しのようでもある。
神乃木の言ったセリフに法介は、ペナルティなんて無い方がいいじゃないか、と思った。
「そこのデコ。今、ペナルティなんて無い方がいいじゃないか、とか思っただろ」
ズヴァリと言い当てられて、法介はぎくりとした。声も似ていたし。
図星だという態度を取った法介に、神乃木がもう一度笑みを浮かべる。
「だからアンタはコネコにもなれないヒヨっこなんだぜ?」
「うぅ…………」
にやり、と意地悪く言われたがそれが意味する事が解らなくて、教えてくれない事がこれまたより一層意地悪く神乃木を見せていた。
「つまりね、おデコくん。胸の痛みの無い恋みたいなものなのさ」
神乃木がハードボイルドに例えたかと思えば、響也がとてもロマンチックに表現した。
法介はちらり、と成歩堂を見て。
「それは何となく解ります」
と、まっすぐな目で頷いた。
「全く……太りたくなければ、チョコを食べなければいいんですよ」
と、これまた霧人が吐き捨てるように呟いた。それはパティシエが言ってはいけない事かもしれないが、一番言いたい事でもあった。成歩堂も、霧人のそのセリフに苦笑を禁じない。
「でもさ、やっぱり色んな人に食べて貰いたいじゃないか。牙琉のチョコ、本当に美味しいし」
カロリーカットに成功すれば、今までそれが理由で手を出せなかった人に食べて貰える。霧人の作るボンボンが美味しいのだと知って貰える。それは嬉しい事だ、と成歩堂は微笑みで牙琉に告げた。
「……まあ、一度引き受けたからにはやり遂げますよ」
霧人がまた眼鏡のブリッジを押さえる。
平静を装う為の仕草は、何も抑えるのは負の感状ばかりとは限らない。いっそ意固地なくらい感情を隠す霧人に、その胸中が推し量れる響也は嘆息した。
(全く、”ありがとう”の一言でも言えばいいのに)
そうしたら、成歩堂はどれだけ嬉しそうにほほ笑むだろうか。想像出来ない霧人でもないだろうに、意外に照れ屋なのかな、と本当だとしたら法介より拙い霧人に、響也はこっそり笑った。
硬質な響きを含みながらも、普段の調子を取り戻したらしい霧人に、少し成歩堂は安堵した。そして、おずおずとやや上目づかいになりつつ、牙琉に言う。
「……あのさ、牙琉、」
「余分な休みは要りませんからね。必要な休暇は自分で申請します」
成歩堂のセリフを遮り、しかし正に言おうとしていた事柄にあっさり反論を食らい、成歩堂は思わず目を瞬かせてきょとんとした。
「え……?何で、言おうとした事が解ったの……?」
少し唖然としているような成歩堂に、霧人がふぅ、とため息をついた。
「この状況で貴方が言い出しそうな事くらい、推理の必要も要りませんよ」
霧人は机の上の紙を纏める。
「だ、だってさ、店だけでも無理させてると思ってるのに、牙琉はその上ホテルの分もあるんだから……」
ちょっとくらい気遣いさせてよ、と拗ねるように成歩堂は言った。製菓学校での同級生、という過去があるからか、霧人と話す成歩堂はどこか幼い……と、法介はそれを羨ましく見た。これからどれだけ製菓の技術を身につけて一人前のパティシエとなっても、そんな過去は手に入らないからだ。
「僕はあまりチョコに詳しくないから、気の利いたアドバイスとか出来ないし……」
「貴方から何かコメントを貰おうなんて、そんな無謀な事は頼みませんよ」
製菓学校時代、成歩堂はチョコのテンパリングがどうしても出来なくて、文字通り霧人に泣きついた事があった。それを揶揄して言ったのだと解った成歩堂は、それ以上人目のある所で言うなよ、と霧人を睨んだ。赤面してのそれは効力があまりに虚しく、霧人もしれっとした顔をしているだけだ。
そんな二人のやり取りを眺め、神乃木は甘味のないコーヒーを啜る。
神乃木もまた霧人同様、バンドーにタルトを委託している。が、その話は神乃木がこの店に来る前から持ちかけられていた話で、霧人が付随したような形となっている。本人は修業の一環だ、みたいな事を言っていたが、神乃木はそれだけではないだろうと思う。
店を再開するにあたり、まず必要なのは人員だ。それまでこの店は千尋と成歩堂の二人で切り盛りしていたが、亡くなった千尋の夢であるイートインのスペースも展開したい、という希望を果たすには神乃木以外の人手が必要だ。成歩堂には製菓学校の時の同級生が居るから、あるいは人を紹介出来るかも知れないと神乃木に言い、その同級生に連絡を取った。そして、その当人の霧人がやって来た訳だ。
神乃木を見た時、霧人はまるで意表を突かれたような顔になった。かなりテンパってた成歩堂は、すでにパティシエとして神乃木が居る事を伝えなかったようだ。経営に関して何のスキルも無い成歩堂に代わり、当面店長を代行していくという事も。
人が成歩堂しか居ないと思いこんでいたのなら、あれだけ素早い行動にも頷ける。そして、初対面の時のあの顔も。
もしかして、霧人としては自分こそが現在の神乃木の位置に立つのだと思ってここへ来たのかも知れない。だとしたら、さぞかし自分は邪魔に違いないだろうと、神乃木はそれをむしろ愉快に思う。バンドーにボンボンを委託する事にしたのも、自分への対抗心だとしたらあの青年も可愛いものだ。
いつだったか、颯爽と現れた霧人の事を「王子みたいだ」と言ってからかった事があったが、霧人は王子というより騎士かもしれない。お姫様とハッピーエンドは迎えられないかもしれないが、その大切な人の幸せを守り抜く事の出来る立場に在る。
今度機会があれば、そんな風に霧人を称してやろうと、神乃木はからかいのネタをストックした。
そんな神乃木の前では、成歩堂に味の感想を貰う霧人が微笑を浮かべていた。
柔らかく、優しく。心の思うままに、素直に。
他の誰の前では浮かべないだろう、その顔を。
<おわり>
御剣が王子で霧人さんが騎士なら、神乃木さんは魔法使いで響也さんは僧侶かなぁ。
ホースケは村人Aくらいでいいや(酷い)
神乃木さんに対して御剣は警戒だけど霧人さんは対抗なんだな。すっきり分けると解り易い。
あ、まだ御剣が居ない頃です(後付けくさい!)
一応時代としては3つに区切れるのかな。
千尋存命・再開・ホースケ参入・御剣参入…あ、4つジャン。