成長するショップカード
それは夏の終わりに新人としてこの店に入った法介が、パティシエとして働く事にそれなりに慣れた頃だった。
レジの横に置かれてあるショップカードを何気なく手に取り、そして何気なく呟く。
「このイラストの黒い犬って、ミツルギさんでしょ?どうして仔犬なんですか?」
その一言に、他4名は皆手にしてあるものを思わず落としたのだった。
冥の姉の飼い犬から産まれたその黒い子犬は自ら飼い主を選んだようで、その場に居る時は元より、成歩堂が帰ろうとしても決して離れようとはしなかった。それに根負けしたのは周囲の方で、真宵がけしかけたのもあったが成歩堂は文字通りその仔犬をお持ち帰りにしたのだった。
赤ん坊が決して母親から離れないように、いやその子犬には実の母犬は居る訳だが、とにかくそんな感じでミツルギという名となった子犬は片時も成歩堂から離れない。成歩堂の仕事中も、キッチンには入れないが、そのぎりぎりの境界線を陣取ってちょこんと黒い塊のように居座っている。じっと大人しくしている様を見ていると、聞き訳がいいのか悪いのか、考える程に曖昧になっていく。
しかし、そんなミツルギもこの前2回目のバースディを真宵たちにハッピーだと祝って貰った成犬一歩手前の体格で、完全仔犬時代が描かれてあるショップカードのイラストとは、いつの間にか体格的にかなりの隔たりがあった。そう、いつの間にか。
「……そうだねぇ。ミツルギも、おっきくなったんだよね。もう、2歳だもんね」
すでに店を閉じた後だったので、成歩堂はしゃがんでミツルギの頭を撫でながら言う。どこか、遠い視線で。
「中身に全く成長が見られないので、失念していましたよ」
「時が経つのは、早いよね……」
「クッ……!俺とした事が、うっかりしちゃったぜ」
当のミツルギと言えば、3人の勝手は発言は丸無視し、飼い主のスキンシップを尻尾を振って堪能している。飼い主の儚げな目には、気づかずに。
「……あのー、オレ、言っちゃいけない事でも言っちゃったんですか?」
あまり平静とは言えないような面々に、法介はおずおずと口を開いた。
「ん?いや、オドロキくんは実にいい事言ってくれたよ。うん」
「おそらく、誰かに指摘して貰わなければ、一生気づかなかったでしょうからね」
霧人の言葉にそこまで言うか、と響也は思ったが、そこまでかもしれない、とも思ったので何も言わなかった。神乃木なんて最初からそこまでだと思っている。
「おデコくんが気づいた、って事は他にも気になる人とかが居るかもしれないね」
響也も実際にショップカードを手に取り、イラストと実物のミツルギを見比べていた。仔犬だ仔犬だと思っていたが、ずっと仔犬のままではないのだ。当然だが。
イラストの仔犬には、赤い蝶ネクタイを首につけ、そして籠を咥えている。はっきりした表記は無いが、この絵は見る人が見ればミツルギを描いたのだと推し量れるものだ。だからこそ、体格の違いが浮き彫りになるのだろう。
「まあ、それでも通せない事は無いぜ。さて、どうするんだい、まるほどう?」
と、仮の店長が未来の店長に意見を伺う。
「うーん……やっぱり、替えたい所です。だって、これはおつかいしているミツルギの絵だから」
実際に忠実でありたい、と成歩堂は言う。自分を思った発言に気づいたのか、足元のミツルギが飼い主を見上げ、尻尾をはたはたと振る。そして、嬉しそうに身体をなすりつけた。
「替える事に異存はありませんが、頼めれるんですか?彼に」
「え、コレって神乃木さんとかが描いたんじゃないんですか?」
法介は目を瞬かせた。冷たい口調のせいで、詰問みたいになる霧人に最初は法介も一々畏れていたが、今となっては慣れっこだった。
そして、神乃木の多種に渡る芸達者ぶりも日に日に窺えて、だから法介はてっきりそうなのだと思い込んでいたのだが。
「ああ、この絵はね、僕の親友が描いてくれたんだ。矢張って言うんだけどね」
小学校からの付き合いだよ、と付け加えると、法介がへぇー!と声を上げた。
「幼馴染なんですね!小学校からの友達が続いてるのって、何か凄いっていうか、いいですよね!」
「まあ、ね。殆ど腐れ縁だけど」
成歩堂が苦笑しながら腐れ縁、と言ったのに、法介はその相手の性格が何だか想像つきそうな気がした。だから、霧人も懸念したのだろうか。
「セリフを繰り返しちまうが、アイツの居所は掴めるのかい?」
「確か……前に店に来たのは春先で、彼女を追いかけてパリに行ったとかで、イタリアから帰国した帰りにお土産にカンガルーのぬいぐるみを持ってきたっけ」
「響也くん、よく覚えてるね」
「ええ、まぁ。忘れる方が難しいインパクトの塊でしたから」
先ほどは想像つきそう、とか言ったが響也のセリフでいきなり想像外になってしまった。どんな人なんだ!一体!
「でも、あの愛の為に身を捧げられる人には、ある種敬いたくなりますね」
響也は続けてそう言う。その、「ある種」というのがやや気になるが。
「多分、矢張もうすぐ店に来るんじゃないかなー」
ミツルギを撫でながら、成歩堂はあっさり言う。
「この前、彼女が出来たってメールが来たからさ。破局するにしろ、上手くするにしろ、どうせ駆け込んでくるよ」
その時、オドロキくんが居たら紹介してあげるね、と成歩堂は法介に微笑む。
そうすれば法介は顔を真っ赤にし、上擦った声で返事をしたのだった。
さて、それから1週間後。
成歩堂の想像通り、矢張が駆け込んできた。
「成歩堂ぉぉぉぉ〜〜〜〜ぃッ!!」
情けない声と情けない面を引っさげて来訪してきたので、ああもうフラれたんだな、と皆は推測した。そして多分それで正しい。
「成歩堂ぉっ!居るんだろ、出て来いッ!!」
「ああもう、煩いなぁ」
開店前だが、店へのドアは開錠されてある。勿論表にOPENの看板が出ていなければ、店内に入る人物は居ない。……こんな特例を除いて。
「聞いてくれよぉ!ユカリったら「生まれ変わったら一緒になろうね」って言ってよぉ!」
「つまり、飽きられたって事ですね」
霧人が聴こえないようにぼそりと呟いた。
「あー、はいはい。こっち座ろうね」
外側付近で喚かれては、道路にまで声が響いてしまう。成歩堂は文字通り押し込むように、矢張を一番奥の席へと導いた。しかし、開店前に突撃をしかける所は、この店の迷惑を考えて居るのか……いないのか。
その成歩堂の足を、ミツルギが追いかける。職務外でキッチン外なので、ミツルギは遠慮なく飼い主の傍へ赴く。
「へー、あれが成歩堂さんのお友達」
霧人といい、今の人物といい、成歩堂の交流関係って案外深くて濃いな、と法介は思った。
「おい、デコ」
と、神乃木に呼ばれ、振り返る。見れば、大きなキッチン台の上にすでに淹れられたコーヒーが2杯、置かれてあった。
「それを持っていってやりな。おそらく、カードについての打ち合わせをしているだろうからよ」
「あっ、は、はい!!!」
法介は慌ててその2つのカップをトレイに乗せ、成歩堂達が座るテーブルへと向かう。
神乃木のこういう気遣いとか、響也の周囲への心配りとか、霧人の常に冷静な仕事っぷりとか。見習う所の多い自分を振り返りながら。
神乃木はカードの打ち合わせをしている、とは言ったが、あの状態で果たして務まるものなのだろうか。法介は訝しんだが。
「んー、座ってる所がいいかな。傾向は前のと同じのがいい」
「おう、じゃ、こんなもんか?」
「うん、そうそう」
かなり順調に話が進んでいるので、法介は成歩堂がどんなやり取りを果たしたのか、かなり気になった。神乃木さんに比べて僕は要領が悪くて、と本人はいうが、成歩堂も結構やり手だ。
「ついでだから、裏のイラストも新しいのにしてやるよ!」
ショップカードは、表に店のロゴと籠を咥えて鎮座するミツルギ。そして裏側には店の地図の下に住所、電話番号、営業時間、定休日、HPのアドレス等の情報が書かれている。それは全体の左半分……3分の2を占めていて、隣の空いたスペースにはイラストがある。月替わりで出す主な12種類のケーキがケーキスタンドに乗っている絵で、そのケーキスタンドにケーキのどさくさに小さいミツルギが紛れているのだった。
「本当?だったら、頼もうかな」
「そうだな。今度はワンコをケーキスタンドから下ろして、ケーキ取ろうとしてる所。なんてどうよ?」
「うわぁー!可愛いなぁ!それ、いいよ!」
「ちなみに取ろうとしてんのはお前が作った菓子な」
「……そこに拘るんだ」
「だって、ミツルギだぜ。譲れないだろー、そこはよ!」
なっ!と成歩堂の足元のミツルギに同意を求めたが、威嚇するようにグルルルッ!と唸れてしまった。が、矢張は特に気にしない。彼が機嫌取りに失敗して凹むのは妙齢の美人に対してだけだからだ!
「まあ、いいけど……あ、オドロキくん、コーヒー淹れてくれたの?」
とんとん拍子に進む会話に割り込めない法介に、気づいたのは成歩堂だった。
「あ、神乃木さんからです!どうぞ!」
「お?新入りか?」
いつの前に入ったんだ?という矢張の質問に、成歩堂は少し疲れた顔を見せた。
「……この前のメールの返事に、新しい子来たよ、って書いたじゃないか……」
「あー、スマンスマン。俺、その時ユカリの事で頭一杯だったからよ!他の事一切入らないんだわ。これが」
「……。ま、いいけどね」
たはー!と悪びれもなく笑って言いのける矢張に、成歩堂はそれだけ返して後は溜息に変えた。その様子に、よくある事なんだろうな、と法介は思う。
あまり反省の無い矢張はほっといて、成歩堂は法介に向き直る。視線が合うと、どうしても心臓が跳ねる法介だ。
「オドロキくん。コレが例の矢張だよ」
「おい!コレってなんだよぉ!コレって!」
矢張がブーイングを飛ばすが、成歩堂はさらりとスルーする。
「多分、これからもこうして奇襲かけてくると思うけど。まあ、その時は適当にしてやってね?」
「あ、は、はい………」
おそらく法介は反射神経だけで頷いた。
「だから適当って何だよオイ!」
再び矢張がツッコミを飛ばすが、それを成歩堂は笑って流した。
「でも、絵は上手なんだよ。ほら、コレ」
と、言って成歩堂は紙ナプキンの一枚を法介に見せる。
テーブルの上に散らばる店の紙ナプキン数枚に描かれたミツルギのイラストは、ラブラドールレトリバーの特徴をよく捉えて描かれていた。下書きも無しにこう描くのは、自分には無理だろうと法介は思った。
「ああ、確かに。上手ですね。凄いです」
「おっ、何だ。いいヤツじゃねえかよ、成歩堂?」
褒められた途端気を良くする矢張に、成歩堂は苦笑した。
「まあね。可愛い後輩だよ」
「っっ!!!!」
いや、その「可愛い」がかかっているのは「後輩」の部分だと解っているのだが、解ってはいるが成歩堂の口から自分に向かって言われるとやっぱり何かこう、……盛り上がるものがある!!と法介は盛り上がっている。
「…………」
(ふぅ〜ん……)
そして。
無駄に恋愛の場数を踏んでいない矢張は、その態度で法介を一発で見抜いてしまった。
(ついに成歩堂も年下を手玉に取るようになったか……)
矢張はしみじみした。
「? 何だよ、急にこっち見て」
「うんや。別に?」
不自然な凝視に、ミツルギも唸る。
と、矢張は徐に自分の手帖を取り出し、何やらどこかのページにペンを走らす。
ややしてから、それをビリリと破いた。
「はい、プレゼントv」
破いたそれは2つ折りにし、法介に何故か手渡された。
「? 何ですか?」
――――ぶっっっっ!
見るなり法介は鼻血ぶっこいた。
勿論、成歩堂はそれに慌てる。
「オオオ、オドロキくん―――――!!?
ちょっと、どうしちゃったの!!」
どうしたも何も、鼻血ブーになっていると思うのだが。
「あああ、あまり上向いちゃいけないよ!血が逆流するから!
で、矢張!お前、オドロキくんに何見せたんだよ!!」
「うーん、ここで公開してもいいけどよ、その際は黄色い下地で「成人向け」のシールを貼らないとならん。最近富みに厳しくてなぁー」
「だから何描いてんだ―――――ッッ!!!」
「FOR アダルティ?」
「英語で言ってんなよ!!!ああもう、オドロキくん、大丈夫!?平気!!?」
顔を覗き込むようにして言う。
「!!! だっ……ダイジョーブでふ……っ」
「本当!?心なしか量が増えてるような気がするんだけど!?」
「い、いえ、そんな事は………っ!」
「……多分、お前が近寄ったら逆効果だと思うぜー………」
肝心な事はこっそり言う矢張だった。そして法介は手渡された紙をポケットに仕舞いこんでいる。ちゃっかりさん。
「何だ何だ。そこまで刺激的だったのかい?」
「……いやー、………触手………」
「………ほほう」
「神乃木さん!何を唐突に出て来て興味深そうに訊いてるんですかッ!!」
「おーい、腹減ったよー。何か恵んでくれそうなの無いのー?」
「ありません。帰れ」
霧人は矢張相手には、愛想や笑顔を取り繕う事を放棄している。
この遠慮の無さは、いい事か悪い事か判断しかねる響也だった。
そしてこの1ヵ月後に。
表のミツルギのイラストは仔犬から大きな体躯に描き直された、現行のデザインのショップカードが出来上がった。矢張は性格はアレだが、情熱を向けてくれればいい仕事をしてくれる。
そして、以前のと今のショップカードを両方持っているのが、常連のちょっとした自慢だったりするという。
<おわり>
そんな訳で矢張出ました。法介にあげた絵が気になります。
今度は御剣(人間)が居る時に来てもらいたいですね。きっともっと混沌とするよ。