4.
係員に呼ばれた阿柴が赴いた取り調べつに待っていたのは、昨日自分を担当した刑事ではなく、鋭い美貌の女性検事であった。阿柴は彼女とは初対面ではあるが、その名前と素性は知っている。
「狩魔検事……」
思わず、彼は確認のように呟いていた。それは囁くような声だったが、証言を得る為だけこの部屋ではそんな声も相手の耳まで届けた。
「あら、私を知っているの?」
腕を組んだ冥は、尊大に言い放つ。
いまやかなりの実力と実績のある彼女は、薄暗い部屋の中でも自身が放つオーラで輪郭がはっきりと見えるようだった。
「まあ、貴方も大概有名らしいわね。昨日から検事局には人が押しかけてるわよ。死神検事・立件される、とかいう見出しが躍ってたみたいね」
「それは、迷惑をかけてしまいました」
「本当よ。いい迷惑だわ」
冥はイラついたように吐き捨てた。
「私としてはこの裁判、早い所終わらせたいのよ。だから率直に訊くわ。貴方、本当に殺してないの?」
「殺してません」
相変わらず、抑揚のない発言だった。冥が彼のこんな口調を訊くのは、これが始めてだろうが。
「なら、最初からそう言えば良かったじゃない。貴方も検事なら、裁判で隠し事なんかするんじゃないわよ」
「……生憎、私は検事という職に理念も思想も持ってませんから。職務倫理を違反しなければいい、くらいのモラルしかありませんよ」
「そう」
と、冥は短く返事をした。
それから。
「志も無いのに、貴方には検事として居る必要はあった訳ね。
給与が欲しいだけなら、もっと他に効率よく稼げる仕事はいくらでもあるのだし」
「……………」
阿柴は内心臍を噛んだ。
聡明な彼女は気づいているのだろう。真相が自分の中にある事を。
それを検事としてのプライドを突く事で導きだそうとしている、と思って上手く逃げたつもりだったが、結果として自分の本心の一部を暴露してしまう事になってしまった。
今更それも違うのだと言いつくろった所で、彼女には通用しないだろう。
阿柴はふ、と口元を歪めた。この日、初めて浮かべた感情だった。
「さすが狩魔弁護士。成歩堂龍一とやりあった事はありますね」
「成歩堂龍一を知っているの?」
「ええ。法曹界であの人を知らずに居る方が難しいですよ」
阿柴がそう言った時、冥が彼の視線が僅かにずれた事を見抜いた。
この仕草は、誰かに思いを馳せている時の目であると、冥はよく知っている。
何故ならば執務中である御剣がよくする目だからだ。だいたい一ヶ月過ぎる頃になると色々危ない。
(まあ、それも今頃解消しているでしょうけどね)
返す返すも、どうしてあそこで自分はチョキなんて出してしまったのか。完璧が枕詞の狩魔らしくないわ、と冥はこっそり思い出してギリギリした。
「僅かに知られただけではこちらも座りが悪いので、それについてだけは白状しましょう。
貴女の言う通り、私は検事というものに何も求めてはいない。しかし、その立場である必要はあった。それだけの事です」
そして、と彼は続けた。
「この事は事件となんら関わりはありません。ですから、徹底に黙秘を決め込みますよ」
「無関係なら、むしろ黙秘の必要はないんじゃなくて?」
「それは取り方の違いですね。私は余計な事まで知られたく無いので、黙秘を決め込みます」
冥の言葉を切り落とすような言い方だった。裁判中の彼を彷彿させる。
「……おそらく、このまま捜査に進展が無ければ貴方は無罪でしょうね」
「そうですか」
冥の言葉に、阿柴はただ頷く。
「でもそれは、事件の真相なのかしら?」
冥が直球に訊いた。それに、阿柴は。
「……裁判は、被告の有罪と無罪を決める場です」
鋭利とも茫洋ともつかない眼差しを浮かべ、阿柴が言った。
「そしてそれを決めるのに、真相は必要ない」
「真相を隠したまま判決なんて出しちゃダメなんだよ。それじゃ、アイツはいよいよ捻くれる」
とりあえず3人は事務所に入り、法介の入れたお茶を啜りつつまずはこの依頼人の自己紹介から入った。
彼の名前は茶紀(さき)と言い、阿柴の古い知人と自分を称した。
「古い、っていうとどのくらいですか?」
みぬきが訊く。
「んー……向こうが15の時だったかな。バイト先でちょっとね」
今から15年前か。って事は、オレが新品のランドセルで小学校の校門を潜った時だな、と法介は過去を振り返る。
そしてそれくらい昔なら、自分の調査の時に茶紀が浮かび上がってこなくても可笑しくないとも思った。法介が主に調べたのは彼が検事となってからここ7年の事だ。目の前に居る茶紀と付き合いがあったのは、それよりまた8年も前だ。
「あの、改めて訊くような事じゃないかもしれませんが……」
と、彼の対面、みぬきの横に座っている法介が尋ねる。
「茶紀さんは、阿柴さんの無実を信じてるんですか?」
「うん。信じてるよ。殺人なんてする訳が無い」
一点の曇りも無く歪みも無く。
実に澄んだ声色で彼は言い切った。
これなら、法介のような特殊能力が無くても、彼が本心から言っているのが判る。
「……その理由、訊いてもいいですか?」
法介は、なるべく失礼にならないよう、気をつけて訊く。誰だって自分の信じているものを疑われて、いい気はしないだろう。
「理由っていうか……だって、アイツ物凄い面倒くさがりだから」
あっさりとした口調で彼は言った。きっぱりとした口調と言ってもいいかもしれない。
「………面倒くさがり?」
今まで彼という人物を語るのに出てこなかった表現に、法介は一瞬聞き間違いかと思った。
「そうだよ。殺人なんてどうやって殺すとか考えるの凄い手間じゃないか。今やってる事の手順だってどうにか省こうとしている人間が、そんな事する筈がない。
口数少ないのは言うのが面倒なだけだし、黒い服ばっかり着てるのもカラーコーディネイトが面倒なだけだし、部屋を綺麗にしてるのだって散らかすと片付けるのが面倒だから、っていう方針なんだから」
本当に仕様がないヤツだ、と茶紀は最後には溜息交じりになった。
「……最後に関しては微妙につっこみたい所もありますけど……
なんだか、全然違う人みたいに聞こえますね……」
法介は率直に思った事を言った。すると、茶紀は苦笑した。
「見ているものは皆と同じだと思うよ。ただ、取り方がちょっと違うだけ。
だから王泥喜先生が見ている阿柴が違うとも言わないよ。それだって、ちゃんと阿柴だ」
「へ?……せん……せい……?」
法介はいよいよ聞き間違えかと思った。今、彼は自分を指してそう言ったような気がする。
「え、だって弁護士なんだから、先生って呼ぶのが普通じゃないかな?」
やや首をかしげて言う茶紀に答えたのは、法介ではなくてみぬきだった。
「そんな!オドロキさんに先生なんて勿体無い!オドロキさんなんて、呼び捨てでもいいんですよ!なんだったら、「オ」だけでも!」
「それじゃ人物の識別が出来ないよ、みぬきちゃん」
確かに「先生」なんて呼称は自分には恐れ多い、とは思うがそこまで言われる筋合いも無いと思った。
「じゃあ、オドロキさんにしようかな。阿柴の弁護をよろしくね、オドロキさん」
場を和ますように、彼は改めて法介に依頼した。その柔らかい笑みを見ると、法介には無い年長者の落ち着きが見受けられる。
「あ、はい。それはもう。
……それで、さっきの質問の続きなんですけど、阿柴さんが無罪だとしたら、今の状況は一体どういう事なんですかね?」
法介が阿柴の潔白を信じら切れないのは、現在の状態からだ。裁判に出されたのは偽りの凶器で、彼はそれを認めて立件され裁判でそれを覆した。それだけならまだ信じれるだろうが、法介には彼が事件の事について何か隠し事をしているのが判っているのだ。一体何を隠しているのか。それが判らなくて、疑うにも宙ぶらりんで消化不良もいい所なのだった。
「それも、あいつの事面倒くさがりって言ったままかな」
と、言いながら茶紀は緑茶を啜った。
「美味しいね。いい淹れ方してるよ」
味わった茶紀が微笑んで言うと、法介がいやぁ、そんな、と照れた。
「まあ、今の所それくらいしか取りえもないですから」
朗らかに言うみぬきだった。横でブルーになる法介。
「多分、現状が自分にとってかなり不利だってのがその場で判ったんだよ。だから、手っ取り早く無罪になるよう、現場に手を加えた」
それだけを訊くとかつての成歩堂がした事と同じように見えるが、中身はかなり違う。成歩堂はそれで真相を暴き、阿柴は逆に隠そうとしているのだから。
「では、阿柴さんは本当の凶器が何で何処にあるかを知っている――?」
「そうだと思う」
茶紀は頷いた。
真の凶器の居場所。阿柴が隠している事は、これなのだろうか。
(いや………)
そんな、事件の表面に存在する証拠なんてものではないような気がする。もっと深く、根源にある、それを見つけられれば、真相が一発で現れるくらいの、確かなもの。
真の凶器が出てくれば、これで被害者が殺害されたという事実は判るだろう。しかし、どうしてそれで被害者が刺されたのかは判らない。法介は、その「どうして」すら解明出来るものではないか、と思っている。
「それじゃ善は急げですよ、オドロキさん!!今から調査に出かけましょう!阿柴さんの無罪を真相掲げて立証するんですよ!!」
みぬきが意気揚々と立ち上がり、法介の腕を引っ張り挙げる。イテテ、イテテ、と法介が腕の痛みを主張したが、意に介さず。
「あの、」
と、茶紀が控えめに声をあげた。
「ついて行っても……いいかな」
突飛な申し出に、みぬきの法介の腕を引っ張る動きが止まる。その隙に、法介はみぬきから逃れる事が出来た。
「遊びで参加するもんじゃないってのも判ってる。でも、行動パターンとか結構判るから、隠し場所とかも予想つくかもしれないし……」
「わぁ!協力してくれるなら、大賛成ですよ!ね、オドロキさん」
みぬきは喜色を浮かべ、法介に向き直った。
「うん。そうだね。それに、茶紀さんも一緒に面会すれば、阿柴さんももう少し口を開くかもしれないし」
法介が言う事に、しかし茶紀は表情を曇らせた。
「……いや、残念だけど、それはちょっと無理かもしれない。むしろ、余計に頑なになるかも」
え、と思わず法介は茶紀を見やった。
(仲が悪いのかな?)
思わずそんな事を考える。
「こんな惨めな所見られたくないって……それ以上、もう何も表さなくなるかもしれない」
その心情なら、想像つきそうな気がした。好印象を持たせたい相手に、見っとも無い所は見られたくない物だ。法介だって、あのパンツまみれになった法廷を、成歩堂が傍聴してなくて本当に良かったと思うくらいだから。
「……そうですね。それでプライド傷ついて、1年も失踪されても困りますもんね」
みぬきがそんな事を呟く。
「大袈裟だなぁ。そこまでするか?」
「する人はするんです!知らない人は黙っててください!!」
法介はみぬきに怒られた。納得いかない。
「じゃあ、現場を調べましょうか。牙琉検事の話だと、阿柴さんがあっさり認めたせいであまり捜査しなかったみたいですし」
まあ、それも彼の計算の内だろうな、と法介は思った。裁判が始まってしまえば、途端に3日というリミットが出来る。これは弁護士に限らず、検事や警察も縛られる事だ。増加する犯罪に合わせた裁判制度だが、やはり穴は多い。しかし、その穴を埋めようとする動きがあるのも法介は知っているから、嘆くばかりではない。
「じゃあ、早速行こうか。えーっと、確か現場は都内だったな」
「オドロキさん、場所知らないんですか?昨日、行かなかったんですか?」
ばたばたと資料を漁る法介に、みぬきは咎めるような目を向けた。法介はそれにう、となる。
「い、いや……今回有罪は決まってるから、現場調べても意味無いかなぁって……」
気まずそうにぼしょぼしょ喋る法介。
阿柴の両親は都心近くのホテルに泊まっていたので、法介はそこへ赴いて話を聞いたのだった。
自宅は現場だったし、例え捜査官が居なくなった後でもそんな場所に居たくは無いだろう。少なくとも、何らかの決着がつかなければ。
「もう!オドロキさんも牙琉検事から給与に何か凄いサプライズ貰えばいいんですよ!」
憤ったみぬきが言う。どんなサプライズかは知らないが、不吉で嫌な予感しかしないから法介としては遠慮したい。
「とりあえず書類持って。行き方は歩きながら調べてください。
――ごめんなさい、手順悪くって」
法介を部屋から押し出すように背中を押して、みぬきは茶紀にぺこりと頭を下げた。
「いや、いいんじゃないかな。調査してる、って感じでさ」
2人のやり取りを笑みを押し殺して見ながら、茶紀が楽しそうに言った。
ここはいわゆる、高級住宅街なのだろう。街の光景を見て、法介はそう思った。
最寄の駅から、歩いて20分は掛かる。きっと本来は車で行くべき場所なのだ。
現場となった実家に行くまでの道中を利用して、法介は今回の事件の概要を改めた。ここでの事件の概要とは、裁判として取り上げられた事実の事だ。真相はまだ闇の中。
「……犯行を目撃された時刻は夜中の12時半。
より詳しい殺害現場は階段で。倒れていた位置を考えると、下段に居た被告が上段に居る被害者を刺したという形らしい。
第一目撃者は母親。それまで眠っていたけど何か物音を感じ、部屋から階段のある方へと行った所、階段上でぐったりしている被害者とすぐ階段下で立っている被告を見つける。何事かと声を掛ける前、被害者の胸から流れる血を見て悲鳴を上げた。警察への通報は、それから10分後の事だった……」
おそらく、この10分は混乱の時間だったのだろう。通報できるまでに冷静になるには、これくらいの時間が必要だったのかもしれない。そして通報からさらに10分後に警察が到着。逮捕されてから彼から否認の言葉は発せられなかった為、随分早い立件となったようだ。そして、それが後に仇となった訳だ。
「凶器を隠すとしたら、見つかる前でしょうか。それとも、後?」
みぬきは歩行と思考を同時進行させて行った。
「見つかった後は、母親が阿柴さんの腕をずっと掴んでいたそうだよ。隙を見てこっそり、ってのも無理そうだな。だから、見つかる前だとオレは思うよ」
「うん、そうだね。母親が起きて来たのも、きっとその音も含めての事だったんじゃないかな」
と、法介の言葉を受けて茶紀は言った。
「死亡推定時刻は見つかる直前、12時から12時半の間か」
それを踏まえ、一応30分の枠を作り、その範囲で何が出来るか。おそらく、これが本当の凶器を見つける道標となるだろう。
そこまで話したら、現場が目の前に聳え立った。3人が住むには、広い家だろう。道すがらに真っ赤な郵便ポストの前を通った。ここの近辺を始めて訪れる人の目印になりそうだな、とそれを見た法介は思った。
この家に一家が越してきたのは15年前。
そう言えば、茶紀が阿柴と知り合ったといったのも15年前だった。もしかして、ここに越す前に知り合ったという事だろうか。
阿柴の冤罪を心から信じながらも、妙に彼に直接会うのに遠慮がありそうなのはその辺に原因があるのだろうか、と法介は勝手に勘繰ってみた。
「やっぱり、捜査員沢山居ますねぇ」
みぬきが呟くように言った。あの裁判の直後、当初より多く動員されたのだろうという事が、昨日を知らないみぬきでも予想出来た。
「茜さんは担当じゃないですし……いつみみたいに捜査出来るでしょうか」
ううん、とみぬきが考え込む。
確かに成歩堂と面識のある茜は、自分たちに甘い。まあ、純粋に親切なのはみぬきだけで、法介は生傷が絶えない対応をされているが。
今日はかりんとうが飛ぶ事に怯えなくてもいいんだ、とどこか晴れやかな心境で法介が黄色いテープを潜って現場へと入る。
そうしたら。
「おっそいわよ!何やってるの!」
カツン、と法介の無防備な額にかりんとうが直撃した。
***
唐突に冥さん登場!しかし冥さんの心のセリフだけで仔犬全開っぷりが見える御剣って凄いよね!!
しかも33歳なのに。