終章




 ショーダウン、と囁くような声で互いの手札が開かれる。
「……僕の勝ちのようだね?」
 相手がその確認をしたのを見計らってから、事実だけ告げるように淡々と言う。不思議と、あからさまに喜んで見せるよりこんな風に言った方が図太さを演出しやすい。
 相手の男はこれ見よがしな舌打ちをし、椅子を蹴ってこの地下室から出て行った。
 今日の客はマナーが悪いな、とその態度を不快に思うまでもなく、倒された椅子を直すか否かだけを迷っていた。
(次に来た客に直させればいいか)
 椅子だってたまには寝転がってみたいだろう、と呆れるような理由をつけて成歩堂は席を立つ事は無かった。静寂が地下室を占める。
 時間を潰す事になれている成歩堂は、頭の中で無意味にあれこれ考えて居る。それは今日食べる食事のメニューの選定だったり、次に来る客のあてもない予想だった。
(出来れば後腐れがないといいんだけどなぁ)
 ここに居座り続ける以上、自分が勝つと決まっている。
 そして勝利した後、その結果に納得出来ない客は多くも無いが少ないともいいきれない。罵詈雑言はいい方で、下手すれば殴られ最悪な場合は犯されそうになる。
 しかし、行動に出る分はまだいいのかもしれない。
 いつまでも引き下がらずに、やたら今のはイカサマだと自分のプライドを守る為に根拠の無い言い分を並べる輩が一番厄介だ。こういった相手は、例え真実を告げても素直に受け入れてはくれない。
(人間、素直が一番だよね)
 そう思った時、ふ、と成歩堂の顔が綻び、無敗で不敵なポーカープレイヤーの仮面が剥がれる。
(何をしてるかなぁ、オドロキくん)
 日中地下や室内に居る生活が長く続いたせいで、夏の空の色は忘れてしまった。でも、その空の下で出会った子供は忘れない。
 無垢な好奇心を保ったままの子供だった。
 それをちょっと穢してやりたくて、少し強烈な悪戯を仕掛けた。
 食べる物に不自由しないのはいい事なのだが、人は栄養の他に刺激も求めるものだから。その哀れな生贄にされた事を、きっと彼は知らない。
 普通、同性に舌が絡みつく程のディープな口付けをされたら、もう2度と近づいて来ないだろう。だからこそ招き入れて遊んだのだが、彼は後日また顔を出してきた。計算外も甚だしい。
 ――存外楽しかったのだ。あの大きな双眸が、未知の体験に戦く様は。
 初日の時点で、何も知らない彼をそこまで事を運ぶ手腕は自分は持っている。しかし、それはあんまりだろうと帰してやったのに、また、のこのこと彼はやって来たのだ。
 こっちの気も知らないで、と身勝手に苛立ち――最後まで果たしてしまった。情事後に彼が自分に怒っていないかと尋ねたが、それはむしろこっちが言うべきセリフだろうと、その時成歩堂は思った。
 きっと彼は気づいていない。した事もされた事も。
 現実が彼の容量を超えたのは、事が済んだ後に気を失った事で解る事だ。熱を持った肌のまま、意識を落とした彼の顔を見て、やっと成歩堂に罪悪感と、憐憫の情が沸いてきた。
 取り返しのつかない事をしてしまって――だからもう、戻せない。
 どう詫びようと思って、子供には甘いものという簡単な方程式でとりあえずあった菓子を振舞ってみた。それを美味しいと食べる彼の顔が好きだった、なんて言えば欺瞞だと言われるだろうか。彼は本当に子供で何も知らないから、次を望んでも続ける術も知らなくて、でも継続させたのもやっぱり自分だった。
 いつも物みたいに抱かれていたから、久しぶりに人の熱に触れたような気がした。それを欲する情に抗うのは、耐え難かった。
 最後の方、相手の体力に追いつけなくなっても、それでも情事後におやつを出す事に相手も怪訝に思っただろう。
 そうする事で自分の罪の意識が軽くなる、というより、子供の喜びを思い出させて彼の体をリセットしたかったのだと思う。
 それでも、後半になるにつれ、出会った当初は子供子供していた彼の顔は、時折こっちがどきりとするくらい雄臭く見える事がしばしばあった。殊更、自分を抱いている時の彼は子供の顔とはかけ離れていた。
 彼は確実に、少年から男になって行った。そうさせたのは、当然自分で。
 変わった事はどれだけ祈っても戻れないのは、自分がよく知っている。
 可哀想だ、と思って。
 でもそれと同じくらい、彼を変えたのが自分だという事実に、喜びを感じたのも事実だった。
 法介でなければ、こうはならなかった。というのは結果論だろう。あの日あの時、たまたま来たのが法介だったのだ。
 でもだからこそ、その偶然がより愛しい。
 こう言っては悪いのかもしれないが、自分をあの町に呼んだ人があのタイミングで亡くなったのは僥倖だった。そうでもないと、どこまで自分が法介を連れて堕ちるのか、判らなかった。
 その後、消えるように立ち去る筈だったのだが、それも敵わなかった。何から何まで自分を覆してくれた相手だった。
 黙って居なくなるのが、どれだけ彼にとって衝撃かは予測は出来る。そのショックに耐え切れないで、自己防護作用で記憶がすっかり塗り換われてしまえば、と愚かな画策を企んだ。
 そうして、誰かを抱いている時、自分を覚えている身体が脳裏に一瞬、自分の面影を過ぎらせてくれればそれだけで。それすらおこがましいのは、判っていたけど。
 最後、泣かせてしまったあの子が今はどうしているのか。生活の合間に、成歩堂はよくそんな事を夢想する。夏になれば、特に。
 今はもうすぐ夏休みに入ろうかという所だった。あと2週間くらいで、自分と法介が出会った日が巡ってくる。
 あれから7年経った。彼は22歳になっている事だろう。
 可愛い彼女でも見つけて、大切にしているだろうか。もしかして結婚をしていて、子供……は、まだ早いかもしれない。
(何をしていてもいいから、幸せに笑っているといいな)
 様々な想像をしておいて、結局は毎回そこに考えが還る。
 幸せに笑っているといい。
 あの笑顔で、自分も幸せだったから。
「…………」
 法介、と呟いて身体も彼を思い出させてやる。
 そのまま暫く浸っていたい所だったが、いつだって自分のしたい事は周りが許さないのだ。どうやら、次の客が来たらしい。
 さて、どんな勝負になる事やら、とまるで気のないように溜息を吐く。
 しかし、今度の客は随分威勢、というか元気が良い。
 足音を聞く限りでは、かなりの駆け足で殆ど落ちるように駆け下りているに違いない。結構段差の激しい階段だから、そんなスピードだと足を踏み外すと思うんだけどなぁ、と呑気に思っていたら本当に踏み外したようで、文字の表記が難しい叫び声の後に盛大な物が落ちる音がした。階段の突き当たりには空き箱が山ほど詰まれているのだ。それに突っ込んだようだ。まぁ、それが無ければもっと酷い事になっていたのだから、彼は運がいいのだろう。
 野次馬根性でどんな惨状になっているかが気になり、成歩堂は狭いドアからひょっこり顔を出した。
「大丈夫ー?」
 綺麗に摘まれていた空箱の山は、跡形も無い。上半身は完全に埋もれていて、成歩堂が見れるのは赤いスラックスだけだった。それだけだが、今日の客はそれなりに身だしなみがいい、というのが判った。最も、外見と中身が一致する確証はない。
「あ、ハイ。オレ、ダイジョーブですッ!」
 相手が起き上がると、また物音が起こった。上に被さっていた空き箱がずれて落ちたのだ。
 その声は大きくて、成歩堂は耳の奥でキィンと耳鳴りがしたように思えた。
 でも、それは想い出の琴線に触れた音だったかもしれない。
 その声は大切に仕舞ってある記憶に共鳴した。
 階段を転げ落ち、空き箱の山に埋もれていた間抜けな相手は、こちらを見て顔に満面の喜色を浮かべる。その顔に、成歩堂は絶句した。
 成長し、いくらか精悍な顔つきにはなったが顔の質までは変わらない。
 人違いであるはずがなかった。
 そして、彼は、その顔に劣らない嬉しそうな声で呼んだのだ。

「成歩堂さんっ!」

 瞬間、脳裏にあの庭が蘇る。  
 咽帰る夏の暑さと一緒に思い出されるのは、その庭の向日葵と甘くて美味しいおやつ。
 それから、互いの肌の熱さ。



 あの頃より若干大きくなった体躯が、腕を伸ばして自分を捕まえた。
 ドン、とぶつかった衝撃によろめいたが、倒れそうになるのを相手が支えて踏みとどまらせた。
「――――…………」
 見開いた眼で瞬きも出来ない。
「あー……良かった……見つけた………!」
 探し出し、見つけ出した存在をもう離したりしないと、法介は腕に力を込める。コトン、と額と相手の肩に押し付けた。
「……オドロキくん」
 ようやく、自分が動き出した成歩堂が呟く。
「僕が判るの………?」
 整形こそしていないが、あの頃とは大分様変わりしたのだ。今は浴衣でもないし、ふてぶてしさをかもし出す為に無精ひげを生やしている。特徴あるあの髪も、今はニット帽の中にすっぽり収まっているのだ。
 顔を上げ、眼を合わせた法介はその言葉に不思議そうに傾げる。
「え、だって思いっきり成歩堂さんですけど?」
 そう言った後、法介はふと何かを思いついたように口角を吊り上げる。
「なら、確かめましょうよ」
 そう言って、成歩堂の頬を包む。
 相手の意図が判った成歩堂は、薄っすら微笑んだ後、顔をやや傾けた。丁度いい角度に変わった唇に、法介のが触れる。下唇をなぞり上げるようにしてから、法介の舌が差し込まれた。
 中で絡み合う舌に連動するように、顔の向きが変わる。その合間に吐き出される成歩堂の吐息が、熱を含み始めた頃に口付けが終わった。離れ際、法介がチュ、と軽い音を立てて成歩堂の唇を吸う。そうしたおかげで、濃厚なキスの後でも唾液の糸が引くことは無かった。
「……やっぱり、成歩堂さんだ」
 不敵に法介がそう言う。
「……いけない子だな。どこでこんなの覚えたの?」
 成長しても自分まで背の届かなかった法介を見下ろして、成歩堂が挑発的に言った。背に回っていた法介の手が、腰に滑り落ちる。
「成歩堂さんですよ。勿論」
「……そっか」
 クスッと笑って、戯れに額を合わせて、近づいた顔にまた法介が口付けを仕掛ける。
「………あーあ、」
 2度目のキスが終わった後、さっき法介が成歩堂にしたように、成歩堂は法介の肩に額を落とした。
「何でまた戻ってきちゃうかな。折角離してあげたのに………」
 もう離してあげれないよ。
 冗談めかして本音を吐露すると、法介が成歩堂の肩を抱いて、顔を合わせるように起こさせる。
「……ねぇ、成歩堂さん。成歩堂さんから見ればオレは頼りない年下かもしれないけど、一応だけど弁護士になったんですよ」
 そう言えば、真っ赤なベストにきらりと金色のバッジがあった。向日葵のような、バッジ。
「……あの時は本当に何も出来ない子供だったけど、とりあえず今はあの時に成歩堂さんがオレから遠ざけようとしたものくらいは、自分で守れると思うんです。だから、傍に居させてください」
 その顔つきは記憶の中にある彼の少年時代と被さるものの、しっかりとした口調は確かに子供から脱した事を感じさせた。その一端を自分が担っているかと思うと、やっぱりそれは嬉しく思えた。
「断ったら、どうするの……?」
 成歩堂は、そんな事を言う。が、ふざけてそう言ったのは目に見えて解る事だった。
 法介も笑って、それに答える。
「そうしたら、ここでまたわんわん泣いちゃいますよ」
 言えば、成歩堂が小さく噴出す。
「何だ、オドロキくんちっとも変わってないじゃないか。まだ全然、子供のままだよ」
 クックック、とかみ殺した笑みを引きずって言う。
 それから、仕方無いなぁ、と呟いた。
「なら、一緒に居てあげるよ」
 あの日、心底哀しそうに泣いて縋る法介に、どれだけそう言ってやりたかった事か。
 でも、相手は子供で自分は大人だからと――だから、今はもう我慢する必要も無い。
「いつまでも階段で喋っててもあれだからさ。部屋の中に入ろうよ」
「あ、そうですね。……えーと、この箱は……」
「ああ、そのままでいいよ。どうせ明日回収するんだし」
 だったらなお更綺麗にしておかないとならないような気がしたのだが、成歩堂がいいというので法介もそれに従う事にした。
 喋る事は、山ほどある。
 法介がどうやって見つけたのか、成歩堂が何をしているのかとか。
 でも。
「オドロキくん」
 結局は自分で直す事になった椅子を立ち上がらせて、入り口付近に居る法介に告げる。
「鍵、締めてくれるかな?」
 艶やかさを帯びた成歩堂から目を離したくなくて、法介は、はい、と頷いて後ろ手で閉めた。

 きっと明日見上げる空はあの日みたいに濃く青いと、成歩堂はそう思った。





そういう訳でエピローグです。やっぱ最後はめでたしめでたしがいいやな。
最初の方の後書きで書きましたが、イメージとして(あくまでイメージとして)90分映画みたいな感じで書いてみました。実際に映像に起こすとそれを超えるかもですが、まぁなる訳も無いし。
開始10分くらいでホースケが成歩堂にちゅーされて、終わり前20分くらいで別れの日になって最後10分きったくらいに再会、と何となく区切っています。て事は1時間弱はひたすらおやつ食って微エロシーンが続くわけか。何て映画だ。