四.


 何も誰も見えないように、下を向いて全力で走った。
 途中、2,3何かか誰かにぶつかったけど、それで立ち止まる事も無かった。立ち止まったら、家に帰れなくなるから。
 足を止めたのは、自室に着いた時だ。
 不幸中の幸いに、祖父母は知り合いの葬式に行っているとかで留守だった。オレは気兼ねる事なく、人生で最悪の感情を嫌と言う程味わった。
 座布団を頭から被って、うつ伏せに寝転ぶ。特に意味があった訳じゃないけど、何も目に入れないで聴こえないでいて、あの人の記憶を他のものに邪魔されたくなかった。押し潰されて消したくなかった。
 真っ暗な中に埋もれても、ちっとも眠たくなかった。眠りたくないからだ。
 このまま、眠らずに居れば明日にはならないで、成歩堂さんがまだ居る今日が続くなんて、馬鹿な事を考えた。
 竿竹屋の売り声や、廃品回収の声が外から鳴り響き、やがて犬の遠吠えが聴こえるようになり、ついに一番鳥が朝日を告げた。
 そこで、オレはのっそりと起き上がる。
「…………」
 涙のせいで、顔中がガビガビする。きっと酷い有様だろう。
 洗面台まで行って、顔を洗うついでに水を飲む。久しぶりに何かを口にした。空腹感も忘れていた。
 その後、何も考えないでオレは歩き出した。
 新学期を目前に控えた31日の朝は、嵐が来る前の静けさのようにしんとしていた。犬の散歩の時間にも早いんだろうか。誰にも会わない。
 行った先は、当然のように成歩堂さんの家だった。
 昨日、この場所に立った時はその日があの人と居る最後だなんて、全く思わなかった。
 夢にも思わなかった。だって、そこが夢みたいだったから。
 美味しいお菓子と熱くて気持ちいい事。そして抱き寄せる温かい腕。
 愉しい事ばかりで――そして、最後に猛烈な痛みを与えて現実に引き戻された。
 夢の中心に居たあの人は――もう、居なかった。



 これは不法侵入だと判ってはいるけど、抑える事なんて出来なかった。それは、成歩堂さんに2度目会いに行った時と同じような感覚だ。
 勝手口を乗り越えて、庭に立つ。
 靴を脱いで縁側から家の中に入る。
 いつか入った、あの風呂場にまで行ってみた。
 もう、お湯は張られていない。
 その間の部屋を隈なく覗いてみたけど、畳だけがある部屋だけが続いて生活臭が全く無かった。
 本当に、この家に誰かが住んでいたんだろうか。
 オレは、あの人と確かに抱き合ったんだろうか。
 そんな考えが過ぎる。
 一通り家を探索し終わると、いつもの縁側のあるあの部屋に来た。
 縁側に座って、ぼうっとする。
 今まで昼間から来ていたから、気づかなかった。この庭には、鳥が結構訪れる。小さくて可愛い泣き声が耳を擽った。
 すっかり種になった向日葵の種を、鳥たちがこぞって突いている。
 あの鳥達は知らないだろう。
 自分たちにエサを恵んでくれるその花を育てたのが、どういう人なのか。
 どれだけ鮮烈で、
 儚くて、
 熱くて、
 優しくて、
 意地悪で、
 無邪気で、
 温かい人なのか。
 きっと、誰も知らない。
 成歩堂さんをこの家に呼んだ人がもう亡くなったのなら、本当にオレだけしか知らない事になる。
 それは、ちょっと前までは優越感だったんだけども。
 今は、それが寂しくて仕方無い。
 あの人を確かめる術は、何処にも無いんだ。
「…………」
 ぱたん、と後ろに倒れる。足が空中に投げ出された。
 背中に畳の感触があると、上から成歩堂さんが覗き込んでくるような気がしてくる。
 おやつ持って来るから待っててね、って微笑みながらオレにそう告げて。
「……成歩堂さん……」
 声に出して呟くと、その存在がよりはっきりと浮かび上がってくる。
 なのにもう此処に居なくて、オレは泣き出しそうになるのを答える為、寝転んだまま横になり背を丸めた。
 その時、腰に何かあたった。
 畳の上にには何も無いから、あるとしたらオレのポケットだ。寝たまま探ってみると、親指と人差し指で作る輪の大きさくらいの琥珀があった。あまり詳しくないけど、多分、琥珀だと思う。
 いつの間にこんなものが入っていたんだろう。
 服は昨日のままで、昨日の朝穿いた時には確かにポケットが空だった。なら、成歩堂さんが入れたんだろうか。……いつの間に。
 横になった姿勢を仰向けに直して、上に翳してみる。直接ではないけど日の光が入り、キラキラと輝いた。琥珀の中には、二片の花の花弁のようなものが入っていた。
 じっくりく見て見ると、琥珀って梅酒を固めたものみたいだ。
 よく思えば、酒の味を教えてくれたのもあの人だった。
 本当に、ろくでもない事ばかり教えて……
 それで、そのままどこかに行っちゃって……
 さすがに自分を「悪い大人」と称するだけはあった人だ。
「…………」
 なんと無しに、その琥珀を口につけてみた。
 宝石は鉱物だから、熱伝導の都合で室内にあってもひんやりと冷たい。
 でも、琥珀は有機物だから。
 ――温かくて。
 仰向けになったまま、眼の端から涙が伝って耳に入る。水の中に浸かったみたいだ。
 遠くで、子供が何か喚く声がした。
 あの人が去って、オレの夏休みも終わって行く。
 ふわりと額を撫でた風は涼やかで、なんだか成歩堂さんが撫でているようだった。



 そして新学期が明けた。
 賑やかな談笑に混じって時折悲鳴のような声が聴こえる。おそらく、課題を消化しきれなかった輩が最後の足掻きでもしているのだろう。
 やがて担任がドアをスライドさせてやって来て、級長の号令で朝の時間が始まる。
 夏休みが始まる前と同じ光景。なのに、違って見えるのは他でもないオレが変わったからだ。
 それを知っている人は、何処かには居て、此処には居ない。
 もう、居ないんだ。
 そう言い聞かせておかないと、何度でもあの家に、空き家になったあの家に行ってしまいそうで、それは未練がましくて嫌だった。下手に見咎められて、余計な詮索をされても嫌だし。
 オレは、これからどういう行動を取るべきなんだろう――
 課題を提出しながら、それを思う。
 保護者にも担任にも友達に相談しても、きっと誰も答えられない。
 オレがちゃんと考えて行動しないと。
 オレが。



「おーい、オドロキくん!」
 女性の声に、オレはぎょっとなる。振り返ると、やっぱり茜さんだった。
「ね、どう?まだ諦めない?」
 にっこりとした彼女の笑みは凶悪だ。
 それはこちらのセリフだ、と思いながら引き攣った笑みを浮かべる。
 茜さんはこの学校で科学捜査を研究する事を活動する部を設立したいらしく、今はその人員集めに奔走している。その勧誘活動の中でぶすりとオレに白羽の矢を立てたらしい。はっきり言って、迷惑なんだけどな……
 出来ればオレは、自分で見つけて決めた事に積極的になりたい。休み前のオレだったら、このままなし崩し的に入ってしまうかもしれないけど、今はそうじゃない。
「オレは入りません!他を当たってください!」
 音量を気をつけて、でもきっぱり断った。
 茜さんは気風がいい姉御肌だから、こんな風に突っぱねても後腐れない……と、思う。
 でも覚悟して身を固くしていると、茜さんは瞬きを一回した。
 そして、オレをじろじろ眺める。
「な……何ですか」
 異様な行動に腰が引く。
 茜さんは、頬に手をぺたりと当てて、うーん?と疑問系のように唸った。
「オドロキくん……何かあった?」
「………え?」
 尋ねられ、心臓が数センチくらいジャンプした。
 何かあったも何も……
 絶対、忘れられない事があった。
 1ヵ月にも満たなくて、でもそれ以上会ってたような気がして。
 2日前まで会っていたのに、もうかなり昔のような気がする。
 茜さんは考えながら言う。
「何かさー、こう、雰囲気が大人になったみたいな?」
「そう……ですか?」
「ナマイキね、オドロキくんのくせに」
「……ちょっと、失礼ですよ。それ」
 本当にナマイキだと思っている顔で言われ、オレも思わず突っ込む。
 それにしても、さすがに女の勘は侮れないというか。
 クラスの誰にも気づかれないオレの変化を、茜さんはおぼろげに掴み取っているようだった。
 大人になった……か。
 耐え難い痛みに胸を打たれて、無力さに打ちひしがれた後、今自分が出来る事を模索する事を覚えるのが大人になるというなら、オレはただ無鉄砲で出来ない事が無いと粋がっているガキのままでも良かった。
 あの人と一緒に居られるのなら。
「ねぇ、本当に何かあった?」
 茜さんが興味津々な顔で尋ねる。
 一瞬、全部打ち明けてしまおうかと、迷った。
 この辛さを、誰かに同情してもらえるのなら、と。
 でも。
「何もありませんでしたけど?」
 オレは何でもない風に笑えただろうか。
 笑えただろうか。
 その後、茜さんはそれ以上追求する事無く、じゃあね、と軽く手を振って去って行った。
 どうやら上手に笑えたらしい。
 茜さんの指摘通り、オレは他の連中より大人になったようだ。

”他の子より大人にしてあげる”

 よく判らない抽象的な事を多く言う人だったけど、それでも偽りは言わなかった。
 あんな言葉でさえ。



 オレの提出した自由研究は、テーマは平凡だけど膨大な情報収集とそれをまとめたレポート作成の手腕が評価され、努力賞を貰い、ささやかな表彰状とささやかな額の図書券を貰った。
 その図書券は、教科書が上から下になる頃、ノートを買う為に使った。
 成歩堂さんが住んでいたあの家は、その後住人が入る事がないまま何処かの会社に買われたのか、土手を均して大きなマンションが建った。
 最後のあの日に、成歩堂さんを押し倒したあの地面に触れる事も、もう永遠に叶わなくなった。

 あの夏の日が、もう2度と戻らないのと同じように――






――了――


っあー!チクショウ、ようやく終わったよ!!何でおやつもらってHしてるだけの話がこんなに長いのよ!!ホースケか!ホースケのせいか!!呪いか!?

雰囲気として、こういうあからさまに何かあるくせにその描写が無いまでも常に匂わせつつ、みたいなのが好きなんです。下手なエロよりよっぽどアダルティックな感じとでもいうか。
ただ書くとしては普段のホースケがみぬきちゃんにベッコベコにやられてるのが超好きなんですけどね。
やじろべえでバランス取るみたいに、たまにはこうして対極に当たるのを書くわけとです。
そしてよりアップテンポの話を書く、と!
でも長くなったなぁ、これ。やっぱり呪い?

んでこれのエピローグでもう一話くらいあるんですよー
成歩堂さん視点ですよー
ワタシがハッピーエンド以外書くわけないじゃない!!(無意味にふんぞり返る)