三.


 いつもとは違う道筋を辿って、あの向日葵の咲く庭へと目指す。
 真夏の昼間、制服という走るにはいいコンディションではないけど、それでもオレは走った。
 早く会いたい。
 早く。
 やがて、あの黄色が見えた。
 スパートをかけてオレは駆ける。
「――成歩堂さんっ!」
 縁側に腰掛け、向日葵をぼんやり眺めていた成歩堂さんは、オレの大きな声でびっくりしたようにこっちを振り返った。いつもと違う所から声を掛けたから、余計に驚いたんだろう。
「オドロキくん、学校から直接来たの?」
 オレの姿を見て、成歩堂さんがそう問いかける。答えたいのは山々だけど、この日差しの中のほぼ全力疾走はかなり堪えた。ぜえぜえと息を整えるだけで精一杯だ。
 そんなオレに成歩堂さんは苦笑しながら中に招き入れる。室内に上がると、オレの体が熱いからだろう、余計に空気をひんやりと感じた。
「っは――………」
 堪らず、ごろんと寝そべる。それから、汗でべとべとになって肌に張り付くシャツをもがくように脱ぎ捨てた。そこまですると、ちょっと余裕が出来てきた。でもまだぐったりしているオレを観察するように、横からひょっこりと成歩堂さんが覗き込む。顔は笑いを堪えるような表情だった。ちょっと苦笑を交えて。
「冷たいお茶、持って来てあげるからね」
 それはとてもありがたい申し出だ、と、そう思うのに。思ったのに。
 何でオレは、それを阻止するような行動に出てるんだろうか。
 立ち上がろうとする成歩堂さんの、床についていた腕を掴み取る。自分でも驚くくらいの素早さで。力強さで。
「…………」
 成歩堂さんの視線とオレのとが交差する。緊張した糸が張った。それを打破しようと、オレは強引に抱き寄せた。成歩堂さんは、逆らわずに大人しくその流れに従う。
 自分に押さえつけるようにキスをする傍ら、手探りで成歩堂さんの帯を探し。
 手に当たったそれを、思いっきり引っ張った。



 差し出されたグラスを、一気に飲み干した。それを想定していた成歩堂さんは、おかわりの分も持って来ていた。
 手に持ったまま突き出し、それに新たに注いでくれる。
「あんな状態で出来る訳ないだろ。馬鹿だなぁ」
 成歩堂さんは、怒っているというよりは、呆れているようだった。久しぶりに、終わると同時にバテて伏せこんだ。なまじ慣れが出て来たものだから、驕ったんだろうか。情けない。
 2杯目は落ち着いて飲んだ。ここで出されるお茶は、どれもこれも美味しい。
 冷たいお茶のせいで熱は治まったけど、体のベト付までは取れない。いつもはここまでかかないけど、今日は外を走ってきたから。
「お風呂、入れる状態なんだけど、入っていく?」
 それを気にしているようなオレに気づいたのか。成歩堂さんがそんな事を行って来た。
「……いいんですか?」
「まあ、減るようなものじゃないしね」
 相変わらずよく判らない理由を言う人だ。
 勿論、オレがそれを断る事は無かった。風呂に入ってさっぱりしたいというのが第一だけど、この部屋以外に家の中を見れる、というのもあった。
 2週間くらいだろうか。ここに来るようになって。それでも、オレはこの縁側に面したこの部屋しか知らない。
「おいで」
 招く声に誘われて、オレは廊下に出た。
 廊下に一歩踏み出すと、そこは結構薄暗かった。窓はあるけど、藪のせいで光が入らないからだ。奥に行くにつれ、闇が濃くなって行く。昼間なのに……
 何だか、廊下が永遠に続いているようで、少し怖かった。
 キィ、と少し軋む音を立てながら、廊下を歩く。前を歩く成歩堂さんは、オレを振り返って特に何を言うでもなかった。
 やがて、ガラス戸の前に辿り着く。
 そこでようやっと成歩堂さんがオレを振り向いて、顔が見れた事に何だかとても安堵した。
「一応張ってはあるけど、温度調節がしたかったら自分でしていいよ。当たり前だけど、赤い蛇口がお湯で、青いのが水だからね」
 シャワーもあるよ、と説明してくれた。
 脱衣所にオレを通すと、成歩堂さんはこの間におやつを用意すると言って台所へと向かってしまった。出来れば、一緒に入りたかったんだけどな。言う隙が無かった。
 当たり前の日常空間なのに、人気が無いだけでずいぶん異質なものに見えてくる。下半身しか着けていない衣服を籠に入れて、オレは風呂場へと入った。
 ちょっと高い所に格子窓があって、水面が反射させているからだろうか。廊下よりかは明るかった。
 タイル張りの床をペタペタ歩き、湯船に入る前に一回お湯を浴びる。丁度いい温度だったから、そのまま入る事にした。お湯は溢れるでもなく、胸のちょっと下の所でたゆたう。
「…………ふぅ、」
 窓際の壁に凭れ、一息つく。思いっきり汗をかいたあとの風呂はとても気持ちがいい。顔を拭った。
 ……成歩堂さんは、ここに住んでるんだから、この風呂にも入ってるんだよな……当たり前だけど……
「…………」
 何か、またもやもやしてきたから、思い切って水を浴びた。
 ちょっとは、頭も冷えた……と、思う。
 風呂から上がると、浴衣が用意されてあった。
 成歩堂さんの物だろうから当然サイズは合わないで、裾が大いに余った。ズボンを片手に持ち、布を引きずりながら廊下を歩く。
 こうしてちょっとでも歩き回ってみると、この家の広さを思い知らされる。初日にも思ったけど、やっぱりどう考えても1人で暮らすには広過ぎだ。
 もしかして、オレが知らない部屋で誰かが居るとか。
 そして、オレが来ているのも知っていたりするとか。
 あまり愉快ではない考えばっかり浮かぶのも、この暗い廊下のせいだろう。見慣れたあの部屋の襖は開けっ放しになっていた。庭や外が見られて、現実と繋がった、と何となく思った。
 縁側の軒下に、オレの白いシャツが風鈴みたいに時折風に揺られてはためいている。
「洗ってくれたんですか?」
「うん。この暑さだからね。すぐ乾くと思うよ」
 黒檀のテーブルに肘をついて寛いでいた成歩堂さんは、オレを振り返ってそう言った。それだけでも、どこか、気だるそうだった。
「髪、下ろすとそうなるんだ」
 風呂上りのオレを見て、成歩堂さんが小さく笑う。
「……どうせ、子供っぽいって言うんでしょ」
「可愛くていいよ」
 否定しない、って事はやっぱりそう思ってるんだ。
 でもまぁ、貶している訳じゃないから、いいかな。可愛くないってはっきり言われても嬉しくないし。
「ねぇ、成歩堂さん」
 ちゃんと用意されていたおやつを食べながら言う。今日は珍しく洋菓子で、チーズケーキだった。レアだったりベイクドだったりしないで、しっとりしてふわっとしたケーキだ。
「今日の夜の花火大会、一緒に行きませんか?」
 ここではお盆の終わりを締めくくるように、川原で花火大会が催される。屋台とかは出ないけど、花火の規模は中々のものだと思う。
 赤や青の光に彩られる成歩堂さんは、きっと綺麗に違いない。是非とも見てみたいと思う。
「……………」
 素焼きのティーカップを手にしていた成歩堂さんは、それをゆっくりと受け皿に置いた。
「……ごめん。行けないよ」
 成歩堂さんは静かに言う。
「……え、どうして……」
 まさか、他に行く当てがあるとか。
 はっきり拒否の言葉を言われて、思わず強張る。そう言えば、成歩堂さんが嫌だと突っぱねる事って、今までに無いかもしれない。そうだ、最初に来るな、と言ったくらいで。
 成歩堂さんは、その場でオレを覗き込むように首をやや傾けた。
 ぱら、と垂れている何本かの前髪がその動きに倣う。
 成歩堂さんは、こういう些細な動作が特に艶やかさを帯びていると思う。
「ここに僕が住んでいる理由……何て言ったか、覚えてる?」
「………”そういうものだから”……」
 オレが答えると、よく出来ました、という風に成歩堂さんが微笑む。
 一緒に行けないのは、そういうものだかららしい。
 その微笑は、頭を撫でられるよりもおやつを振舞われる事よりも、酷く子ども扱いされているように見えた。
 何だか、成歩堂さんが遠い。
「誘ってくれたのは本当に嬉しいんだけどね。でも、やっぱり行けないんだ。ごめんね」
 やや眉を下げて、本当に申し訳なく言うからオレもそれ以上駄々を捏ねるのを躊躇ってしまった。
 それが何だか詰まらなくて、その日の帰り道は小石を蹴りながら歩いた。
 途中、子供が固まって何か遊んでいる。「かごめかごめ」をしていた。
 中心に顔を追って屈んでいる子が1人、その子の回りに手を繋げて輪になった子供たちがぐるぐる回る。
「かぁーごめかごめ、かーごのなーかのとぉりぃーはぁー………」
 細くて高いトーンの歌が、夕暮れが近づく空に解けていく。
 ――かごめは、漢字で書くと籠女。つまり遊女の事を言っていて、この歌は足抜けしようとして失敗した遊女の無念さの歌だとかいうのを、歴史の先生が雑談で言って居たような気がする。
 あの大きな家は、成歩堂さんの籠なんだろうか。
 籠だから、出ていけれないんだろうか。
 そう思ったら、広い家だと思っていたのに、窮屈に思えてきた。成歩堂さんがあの家から出る日は、来るんだろうか。
 夜、成歩堂さんと一緒じゃないけど花火大会に行った。昼間会ったばかりのクラスメイトだけど、それなりに話をして盛り上がる。笑いあいながらも、頭の端では成歩堂さんを思っていた。
 いつも会うのは昼から昼下がりだけで、夜のあの人をオレは知らない。
 見せてくれないのは、見せたくないからだろう。
 いつか、見せてくれたらいい。
 あの家にも届いているだろう閃光と轟音を浴びて、オレはささやかにそう願う。

 ――そんな願いは、夜空にすぐ散ってしまう花火より儚いものだと知らずに。



 甘さの中に漂う清涼感。やっぱり梅はこの時期に取れてしかるべき果実なんだろう、と思わせる。梅のジュースって、初めて飲んだけど、美味しい。これからも飲んでみよう、と思いながら成歩堂さんを見やる。
 オレには下半分が磨りガラスになったグラスだけど、成歩堂さんは切り子のお猪口でちびちびとやっていた。見た目は、オレのと変わらないんだけど、ふと漂ってくる芳香には、オレのにはない鋭利さが含まれていた。鼻の奥が少しツンとするような。
「……成歩堂さん」
「うん?」
 とオレを向いた成歩堂さんの目元は、朱色に染まっているような気がした。それは、さっきの名残じゃなくて。
「それ、もしかして梅酒?」
「ああ、うん。だって僕は大人だからね」
 ガラスの銚子を持って、悪びれずにケラケラと笑う。意外と笑い上戸なんだろうか。
「美味しいですか?」
「だから飲んでるんだよ」
 新しく猪口に注いで、そっと啜る。
「…………」
「……ダメだよ、未成年なんだから」
 オレの物欲しげな視線に気づいた成歩堂さんが、窘めるように言って銚子をやや遠ざける。
「ちょっとくらい、いいでしょう?」
「ダメだってば」
 さっきオレとあんな事してたくせに、成歩堂さんって結構固い。
「味が知りたいだけですってば」
 そう言うと、成歩堂さんがちょっと考える素振りを見せた。これはいけるかもしれない、とオレもちょっと期待し始める。
 眼をそらして考えていた成歩堂さんは、決まったのかオレを向き直る。
 その眼に、妖しい光を見たような気がした。
「じゃあ……味を見るだけだから、ね。飲んじゃダメだよ」
 はい!とオレは揚々と返事をした。成歩堂さんが、雰囲気だけで微笑む。
 対面じゃなく傍に回りこみ、オレに梅酒を注いでくれた。初めての酒にワクワクしてくる。
 手に持った猪口に薄い琥珀色の液体が注がれる。それだけでも、あの芳醇な香りが鼻腔の奥まで立ち込める。すぐ傍の成歩堂さんからも、似たような匂いがしていた。
 恐る恐る口に含くむ。水のようにサラサラしていなくて、ちょっとシロップみたいにどろりとしたような感覚だった。舌や口腔に梅酒が纏わりつくような。味をゆっくり見るよりも、刺激のように感じるアルコール感ばかりが気になってしまう。飲んではいけない、と言われたけど口にいれたこれはどうすればいいんだろう。どこに吐き出せばいいのか。
 とりあえず梅酒を堪能したオレに気づいて、成歩堂さんが顔を近づけた。その意図が飲めたオレは、待っているような成歩堂さんに口付ける。隙間無いように気をつけて合わせあったら、ゆっくり口を開いて中の梅酒を成歩堂さんに送り込んだ。飲み込む喉の音が、オレの中でも響くようだった。
 口の中にあった梅酒のせいだろうか。いつもより濡れた音が響く。
 飲み干した後にオレの口の中に残る梅酒を拭うように、熱い舌が弄るように絡みつく。拭い取る動きをオレは受け止めていたけども、いつのまにかそれを追いかけるようになり、普段とは違う香りを湛える成歩堂さんを求めて自分の方からも仕掛けた。
 口付けをしているのかされているのか判らなくなった頃、どちらともなく床に相手を巻き込んで横になる。
 その日、初めて2度、した。
 もう、1回だけじゃ満足できなくなっていた。



 オレの上に乗っている成歩堂さんが、ガクンと力をなくしたように前のめりに崩れ落ちる。
 手を差し出して用意していたけど、先に成歩堂さんが床に手を着いてオレに倒れこむのを寸前で防いだ。別に、構わなかったのに。
 はあはあ、と荒い息をして、立ち直る力は無いのかゆっくりとオレに覆いかぶさった。まだ呼吸は落ち着かなくて、吐き出される息は耳を擽る。オレの熱はまだ吐き出していなくて、中に燻ったままだから、それだけの刺激でも箍が外れそうになる。
 でも、疲れ果てて辛そうな成歩堂さんに、欲のまま腰を動かすと壊してしまうかもしれない。今日はここで終わりにした方がいい。
 それを言わせまいと、首を伸ばして成歩堂さんが唇を摺り寄せるように口を塞いできた。頭をがっちり固定させられ、背く事も出来なかった。
 苦しそうな声が互いの口腔を行ったり来たりする。腰が動いてしまいそうになるのを、畳に爪を立てて堪えた。
 唇は離れたけど、あまりに近くにあるから終わった気がしない。熱い唇がそのまま滑るように耳に移動して、熱を含ませて成歩堂さんが
吐息交じりに何とか言葉として聴こえる声で言う。
「………法介……」
 何とか抑えようとしていた劣情が、それで爆発した。頭からつま先で、一瞬に広がる。
 内側の衝動で、そのまま成歩堂さんを自分の下になるように押し倒した。



 成歩堂さんの呼気が静かになっていくと、そのまま呼吸も消えてしまいそうに思える。息は落ち着いても身体はまだ熱くて、胸に抱き寄せた背中をゆっくり摩る手の平には、まだ早い動悸が伝わってくる。
 頭を撫でると、まるで綻ぶように微笑んだ。だから、オレは優しく頭を撫で続けた。少しの間そうしていたら、ちょっとは回復してきた成歩堂さんが身を起こす。頭からオレの手が滑り落ちる。
 着物の襟を合わせないで、殆ど半裸の成歩堂さんが、右の奥にある箪笥を指差した。
「……あの一番上におやつ入れといたから、取って来てくれるかな?」
 お茶はもう、テーブルの上に用意してあった。今日は熱いお茶なのだろう。ポットが置いてある。
 成歩堂さんはおやつに特別な拘りでもあるんだろうか。どんなに疲れていても、これを欠かす事は今までには無い。
 指された戸棚を開けると、マスカットと巨峰が乗ったガラスのサンデー皿が置かれてあった。手にすると、それだけで冷たい。
 今ぐらいの時間で食べるのによくなるように、冷凍しておいたのを出したのだと成歩堂さんは言った。
 成歩堂さんが淹れてくれた玉露を、そっと啜る。程よい温度のそれは、まるで甘露だった。
 オレはマスカットと巨峰を何となく交互に食べて、お茶しか飲んでいない成歩堂さんに気づいた。大概、おやつを食べる時は向かい合わせに座るけど、今は横に並んでいる。
 皮を剥いた巨峰を、成歩堂さんの口元へ運ぶ。
 ありがとう、と成歩堂さんは小さく礼を言って、オレの手から直接食べた。
 巨峰の身は結構大きいから、一口では入りきらない。齧って半分を食べる。その時に、成歩堂さんの唇から果汁が滴った。赤い舌がそれを追いかける。それに欲情がドクンと疼いて、ちょっとまずいなと思う。さすがに、これ以上は。もう。
 残りの半分を、成歩堂さんが口に含む。
 オレの指ごと。
「っ…………」
 そこについた果汁も舐めとるように、執拗に指が這う。伝った液を追いかけ、指の間に舌でなぞられて、あからさまに身体が跳ねた。
 これ以上は危険だ、と思ったオレは腕を引こうとしたのだけど、成歩堂さんにその腕を掴まれて、そのままいいように舐られ続けた。
「……成歩堂、さん……」
 牽制のように、名前を呼んだ。これ以上は、成歩堂さんの方が辛いはずなのに。受け入れる側の負担の方が、絶対大きい。
 ちゅる、と中指を根元から先まで口に含んで梳く。他の所をそうされているのを否応無しに連想した。だからだろう、肩を押された手は力強くないのに、そのまま畳に寝そべってしまったのは。もう、打ち消す事が出来ない火種がついてしまった。
「………いいんだよ」
 オレの胸に手を置いた成歩堂さんが、そんな事を言う。薄っすらと白痴めいた笑みで。
 何がいいのか。
 我慢をしなくてもいいと言うのか。
 してもいいと言うのか。
 それは、どっちの事なのか。
 成歩堂さんを気遣って止めようとしても、その成歩堂さんが更に誘う。
 オレはしてはいけない事をしているのか、と思う事はとっくに麻痺していた。



 話をする時間が減り、その代わりに触れ合う時間が随分長くなった。成歩堂さんが法介、と名前で呼ぶ回数も、徐々に増えていく。
 そんな中で、勿論オレは自由研究の課題を怠るような事はしなかった。今日も、情後で力のあまり入らない成歩堂さんの頭をを肩に凭れかけさせて、向日葵のスケッチをする。
「大分、種になってきましたね。ヒマワリ」
 観察しながら、言う。
 ここから見ても、あの雫型で黒と白の縞模様の種が何となく見えた。食用や観賞用の種は縞模様だけど、油を取る為の種は黒一色なんだそうだ。
「うん………」
 まだ戻っていないような成歩堂さんは、それでも返事をしてくれた。それが嬉しい。
 成歩堂さんを倒してしまわないようにゆっくり向くと、オレに気づいた成歩堂さんが視線を合わせる。それから、口も合わせた。
 相手の舌と口の中を、一通り弄った後、ゆっくり離れる。そして、どちらともなく笑いあう。
 ――ここに居ると、まるで現実から切って離された空間のようで、時の流れすら違って動いているように思える。勿論そんな事は無く、満開だった向日葵もその花を散らし始めていた。
 あんなに意気揚々と前を向いていた向日葵の頭が、段々と下を向いていく。
 衰えていく様を見ると、時間の流れは残酷だと思う。
 人の命すら奪っていく。
 帰り道、どこかで葬式があるのか木魚を叩く音がした。
 この暑い時に黒い喪服を着るのか、と思っただけで色々と気の毒に思う。
 たったそれだけを思って、オレは明日を待った。

 ――後から振り返るにオレはこの時の事を、最も後悔した。



 40日はあった夏休みが、明日を残してもうすぐ終わろうとしている。蝉の声も、思えば随分少なくなった。
 オレは新学期まで一週間を切った辺りから、学校が始まってからここへどうくるかという事を考えていた。放課後の時間に訪れようか。日も短くなる事で随分時間は今までより無くなるし、おそらく抱き合うのも毎日じゃ無くなるかもしれないけど、全く会えないよりはいい。
 そう、会えなくなるよりは。
 その日の成歩堂さんは、どこか様子が可笑しかった。明らかに何かあったと、オレにすら判らせる程に。
 レポートが書き終わると早々に、何度も何度もオレを求めて、でもさすがにほっとけなくなってオレは強引に事を止めた。オレの力で無理矢理押さえ込められるくらい、成歩堂さんの疲労は溜まっている。そうまでなって、してもらいたい訳じゃない。
「――成歩堂さん!どうしたんですか、今日は一体……」
 でも、思い返してみれば今日だけじゃなく、最近なんか妙だった。
 ちょっと、ぼうっとしているというか、違う何かを思っているというか。
 それを指すと今の状況が崩れそうで、オレは怖くて言い出せなかった。
 それでも、今日は特にそれが酷くて。
 向かい合わせに座って、肩を掴んで顔を逸らさせないように見詰める。
 成歩堂さんは、呆けたような表情だった。……自覚が無かったんだろうか。
「そんな……あからさまだったかな………参った、な」
 笑うのを失敗して、泣きそうな顔で俯く。そんな顔を見ると、胸がキリリと痛くなるようだった。
「……………」
 沈黙の静けさが耳に痛い。
 身体中に届く大きな鼓動は、情事の最中じゃなくてもっと違う事をオレに報せているように響く。
 何かを言おうとしている成歩堂さんに、オレは何故だか逃げ出してしまいたい衝動にかられる。でも、ちゃんと聞かなくちゃいけないと叱咤して、どうにかこの場に留まっていた。
 やがて、成歩堂さんがゆっくり口を開く。いつものように微笑を乗せて、眼には力強さが戻っていた。
「僕、今日でここを出て行くんだ」
「――――…………」
 何も難しい事は言われていないのに、意味が理解できなかった。
 ただのノイズのように、耳を通り抜けていく――
 ――何だ――今、この人は何を言ったんだ――?
 何を、言ったんだ――?
 おそらく、今年最後の蝉達の鳴き声が頭に鳴り響く。
「オドロキくんが気づかなかったら、黙って行くつもりだったんだよ。酷いだろ?」
 自分の事と他人のように言って、成歩堂さんは苦笑する。
 そこでようやく、オレは頭が動き出した。
 言われた事の恐ろしさに、背筋が凍りつく。
「だからね。こういう事するのは、もう今日で終わり」
 青ざめるオレの顔を、熱い手の成歩堂さんが摩る。
「何――で………どうして………どうしてッ!!」
 上手く口も回らない。
 成歩堂さんは、少し言うのを躊躇ったようだった。
 でも、オレに知る権利があると判断したのか、話してくれた。
「……最近、この近くでお葬式がったの、知ってる?」
「…………――――ッ!」
 ……人なんてものは、嫌気が指すくらい自分に都合よく機能する。
 どうして、あの時この可能性に思い至らなかったのか。
 成歩堂さんが誰かに囲われて、ここに住んでいるのは最初に日に判った事だったのに。
 ちょっと様子が可笑しいな、と思ったのもあの日の後の事だった。
 それを照らし合わせれば、簡単に解る事なのに。
 忘れたかったんだろうか。
 この人がとっくに誰かの物だという事に。
 その事実が基になって、こうして会えたっていうのに。
 ――誰かの物だという事実を忘れて、自分の物にでもしていたつもりか。その傲慢さに吐き気がする。
「……で、でも……それでも、ここから出て行かなくても……」
 歯の根が上手く合わない。
 熱いのに――寒い。
 助けて。
 でも、成歩堂さんはゆっくり首を振った。
「……最初に言っただろ。僕は元は1人だけのものじゃないんだ。ここに居る役目が終わったら――元に戻るだけ」
「で……でも……でもっ………!!」
 上手く言いこめてここに留まらせるようにしないと。
 そう思うのに、言葉が出なくて代わりに涙が出る。言葉を紡ごうにも、喉がしゃくり上げて引き攣るばかりだ。
 オレが、何も出来ない子供なんだと、思い知らされた。
「じゃあ、どこに行くかくらいは教えてください!」
 そうだ、出て行ってしまうのなら、オレはそれを追いかければいい。
 しかし、それにも、成歩堂さんは首を振る。
「僕も、次に何処へ行かされるかは判らないんだ」
「――でも、連絡くらいは……!!」
「オドロキくん」
 そっと指を口に押し当てて、成歩堂さんはオレを黙らせた。そして、ゆっくりその手で頬を挟む。
「……本当なら、僕たちは出会うはずも無かったんだ。それが、何かの弾みでこうして出会えた。
 それを喜んで……別れは黙って受けれようよ……」
 これが大人と言うものか。言う言葉には力があって、オレは危うく頷きそうになる。それと成歩堂さんの手を振り切って、首を激しく振った。
「……ゃ……だ……やだ!いやだ!嫌だ嫌だ嫌だッ!!」
 そんな事は考えたくもないし聞きたくもない。
 何でだ。
 何で、今まで美味しいお菓子と気持ちいい事だけ教えておいて、どうして急にそんな酷い事ばかり言う。
 酷い。
 こんなの、酷い。
 酷い………!
「……やだ……一緒に居てよぉ……ずっと………!!」
 夏が終わっても。
 秋が来ても。
 冬を迎えても。
 寒くなる頃には、そんな時こそオレがこの人温めてあげるんだって、そう思っていたのに。
 一緒に行きたい所だって沢山あるんだ。それで、いつかオレが大人になって、そうしたら成歩堂さんをここから連れ出せるって。
 思って……居たのに……
 どうして。
「やだ……いやだ………やだぁ……っ!」
 もう、オレには泣く事しか出来なくて。
 ぽたぽたと畳の上に涙が落ちる。
 成歩堂さんはその場に居て、黙って戯言ばかり言うオレの言葉を聞いていた。
 何も言わない事が、事態がもうオレの手が及ばない所にあるのだと判って。
 すがり付いてわんわんと泣くオレを、成歩堂さんは優しく頭を撫でてくれて。
 冷やし飴飲む?と最初に成歩堂さんを抱いた日と同じ事を言った。



 日が暮れる前に、帰らなければならない。
 何があってもそれが絶対だ。
 同級生より多くを知ってる身体になっても、オレは子供だから、成歩堂さんが周囲に知れられた時、守りきる事が出来ない。
 だから、今日もいつも通りに別れないといけない……
 それまで縁側で別れていたのを、成歩堂さんは見送りしてあげるね、と開いた勝手口に立っていた。
「じゃあね、オドロキくん」
 元気で。
 軽く手を振って、成歩堂さんは明日にも会えるような事を言う。
「…………」
 オレは黙ったまま、成歩堂さんに背を向けて……5歩くらい歩いた所で踵を返し、突進するように成歩堂さんに抱きついた。
 情後で疲れている成歩堂さんに勢いよく抱きついたオレを支えきる力は無くて、そのまま地面の上に倒れこむ。
 ああ、浴衣を汚してしまったな、と思った。
 抱きつくと同時に、オレは口付けていた。いや、どっちが先だっただろうか。それは倒れこんだ衝撃でも外れないで、貪るように口付けた。
「………キスは最後って言わなかったから……」
 未練がましく、子供の駄々のような屁理屈を捏ねる。
「………。そうだったね」
 成歩堂さんは咎めるでもなく、微笑んで受け答える。
 じゃあ今ので最後、と成歩堂さんが言う前にもう一度深く口付けた。
 家の中とは違い、ここは一応公道だから誰かが来るかもしれなかった。実際、オレが通りかかった訳だし。
 でも、誰かに見られても全く構わなかった。
 むしろ、オレが成歩堂さんが本当に欲しくて欲しくて堪らない所を見せ付けて、オレからこの人を取り上げようとする人が諦めればいいと、この時は本当にそう思っていた。
 どうしてオレは、今までただ何もせずにこの人と会い続けていたんだろう。
 最初から、こんな風に懇願しながら我武者羅に口付けていれば、成歩堂さんももしかしたら絆されて、ずっと居てくれたかもしれないのに。
 終わりが来ない無いようにひたすら続けていたキスだけど、息継ぎに離れた時、オレの顔をそっと成歩堂さんが押し返した。
 そして、言う。今ので最後、と。
 ……終わって、しまった。
 口付けの最中にもオレは泣いていて、それは顔がくっ付くくらいに近くに居た成歩堂さんに殆ど零れ落ちた。まるで、成歩堂さん自身の涙のようだった。
 自分についたのよりも先に、オレの頬と口を拭って、成歩堂さんが言う。
「キス、上手になったね。最初は、舌を入れられただけで目を白黒させてたのに」
 クスクスと笑って言う。
 ああ、そう言えばそうだったな、とあの日の事が随分懐かしく思えた。
 ――懐かしい、と思った事にぞくりとした。もう、記憶が遠くなって行く。
 まだ、成歩堂さんはここに居るのに。触れて、温かいのに。
 そう思うと、また涙が溢れてきた。
「……成歩堂さん……狡い……卑怯だ……っ!」
 喉を振り絞って、呻くように言う。
 だって、酷いじゃないか。教えるだけ教えておいて、そのまま置いて何処かに行ってしまうだなんて。
 オレはこれから、どうすればいいんだろう。何をすればいいんだろう。
 すっかりオレを作り変えたんだから、その責任は取って欲しいと思った。
 成歩堂さんは、駄々っ子をあやす時のような困った笑みで見詰め返す。
「……最初に言ったじゃないか。僕は悪い大人だって……」
 こんな、オドロキくんみたいないい子を泣かしてね?ときりがないのに零れる涙を指で掬っていく。案の定、成歩堂さんの手は涙まみれになった。
「………嘘」
 しゃくり上げる喉のせいで、変なイントネーションになった。
「……成歩堂さんは、悪い大人なんかじゃない……」
「? どうしてそう思うの?」
 成歩堂さんは、不思議そうに黒目がちの双眸を瞬かせた。
「だって……おやつくれたし………」
 オレが言うと、成歩堂さんは噴出した。
 そして、顔を引寄せ、額をコツンと合わせる。
「僕はね。オドロキくんの、おやつくれるからいい人って言う所とか、気持ちがいいからHするっていう所が大好きだったよ。
 温かくて、抱き締めるといい匂いがする所もね」
 温かくて抱き締めるといい匂いがするのは、成歩堂さんの方じゃないんだろうか。
 それよりも。
(大好き”だった”……)
 過去形なんだ。
 もう、この人の中でオレは終わった事なんだろうか。
 ……哀しい。
 哀しい哀しい。
 死にそうにくらい哀しい。
 死なないのが不思議なくらい、哀しい。
「今度はね、オドロキくんの事をちゃんと愛してくれて、ずっと傍に居てくれる子を気持ちよくさせてあげるんだよ。僕なんかじゃなくてね」
 そっとオレを抱き締めて。
 目を閉じて、ゆっくりと言い聞かした。捧げる祈りみたいに。
「……今度、なんて………」
 成歩堂さんみたいな人、もう居る筈が無いのに。
 今度も次も、ある訳が無い。
 こんなに胸をかき乱すのはたった1人、この人だけだ。
 他に……居ない……
「……成歩……堂……さんは……っ」
 ぐずぐずになる声で、なんとか言った。
「……オレと離れるの……哀しくないの………?」
「…………」
 成歩堂さんは、悪い大人らしく何も答えなかった。
 でも、額に軽くキスをしてくれた。



***