二.


 次の日、昼食を食べ終わると早速成歩堂さんの家へ、筆記用具を携えて訪れた。
 街中にあるのは違いないのに、道から逸れているせいでここはあまり人気が無かった。でも、向日葵が庭に咲いているせいか寂しさは薄い。
 持って来た文房具を見て、正確にはその中のクーピーを見て成歩堂さんが何故だか歓声を上げた。
「うっわぁー、懐かしい!僕もよく使ったもんだよ」
 まぁ、大抵義務教育中の手軽な絵画用具と言えば、コレだろう。中学に上がってからは専ら図工のカリキュラムは水彩画を描かせてばかりだけど、社会見学とかで軽くスケッチする必要があると、これは重宝する。何せ、色鉛筆のように削らなくても塗れるというのがいい。削り器がついているけど、塗り方を工夫すればそれもいらない。
 庭の向日葵をスケッチする為、オレは縁側に腰掛けた。その間に、クーピーと烏龍茶の入ったグラスがある。勿論これは成歩堂さんが持って来た物だ。そして、実質オレの右となりに成歩堂さんが居る。今日も成歩堂さんは涼しげな浴衣姿だ。
 自分のすぐ傍らに置かれたクーピーを、成歩堂さんはさも懐かしそうに眺めていた。
「小学校の時さ、クラスに必ず居るんだよねー。どういう使い方してるんだかポキポキに折っちゃって、しかも色が足りなくてしょっちゅう友達に借りてるヤツとか、逆に24色とか36色もあるのを持って来てるヤツ。
 まぁ、両方とも僕の友達なんだけどね」
 そう言って、愉快そうに笑った。
 何だか、この人がそうやって昔話を語って人間臭い所を見せると、少し妙な気さえしてくる。
 成歩堂さんも、血の通った人間なんだ、みたいな……ちょっと酷い言い方だけども。 
 だってこの人は夢とか現実とか、男とか女とかも凌駕している。体躯は男のものだったけど、あれは抱く身体より抱かれる身体なんだろう。実際に体験したオレだから、言える。
 幽霊と違って、触れるしそこにちゃんと存在している。なのに、次元が少しずれた所に居るような感じがする。
 成歩堂さんは、そんな人。
 とりあえず、オレはまず向日葵のスケッチから入った。描き易そうな一本を見つけて、それを描く。
 その横で、成歩堂さんがあれこれ喋る。
「ヒマワリはね、キクの仲間なんだよ。ああやって小さい花が群がって一つの大きな花のように咲くのは、キク科によく見られる特徴なんだって」
 花と言えば向日葵とチューリップしか知らない、という成歩堂さんは、その2つの内の1つについて物凄い博識っぷりを見せていた。これだけ見れば、理科の教師に匹敵すると思わせるくらいに。
 オレも、ただの観察日記じゃつまらないからと、こうした雑談のネタも盛り込んでレポート風に仕立てた。
 原産国が北アメリカだとか、紀元前から発見されていたけど世界に広まるのはコロンブスが大陸を発見した後の17世紀からで日本もその頃に来たとか、昔のロシアの断食の決まりに大概の油脂食品は弾かれたけれども、ヒマワリの種は無かったから法律と矛盾する事無く常食されたとか、とにかく奥が深い。たかが向日葵とは言え、続く歴史があるんだなぁ、としみじみさせた。
「漢字で書けば”向日葵”――日に向かう葵、って事だね。英名のサンフラワーにしても学名のヘリアンサスにしても全部「太陽の花」って言う意味だよ。だから、太陽信仰の強いペルーだと、この花はとても神聖なものだと尊重されて巫女さんとかが向日葵の形の冠を被ってるんだってさ」
 ふんふん、と頷きながら筆を走らす。
 成歩堂さんも、書いているオレを待ちながら話を繋いだ。
「だから日を追う花っていうイメージが強いけど、そうやって追いかける動きを見せるのは成長している時で、蕾が大きくなる頃には成長が止まっているからほとんど動かなくなる。だから、完全に開花したヒマワリは、他の物に陽を遮らない条件の上だと東を向いたままなんだ」
「へぇー」
 と、思わずオレは簡単の声を漏らしていた。
「ギリシャ神話だと、ヒマワリの成り立ちに太陽神のアポロンが大いに関わってくるね」
 ギリシャ神話か。大抵のものはこの神話で産まれているな。星なんか全部関わるし。
 夜空を見ては、あの点在する星を繋げていろんな神に見立てたギリシャ人はとても暇な人種だったんだろうなぁ、と思う。何て事をいつだったかクラスの女子に言って、総スカンを食らった。
「水の妖精にクリュティエっていうのが居てね、アポロンは最初その子を愛していたんだけど、その内にオーチャマス王の娘を愛するようになった」
 何で神様ってすぐに浮気するんだろうなぁ。力の強い人は色も多いって言うけど。
「当然クリュティエとしては好ましくない事態だ。彼女はライバルを消すために、アポロンと娘の関係を父親の王に密告した。すると、王は激怒して、娘を生き埋めにして殺してしまった」
「ええっ!どうして!」
 そこはむしろアポロンを生き埋めにするのが筋ってもんじゃないだろうか。
「さあ……その辺は僕にも判らないけど。
 勝手な予想だけど、王はもしかして娘を女性として愛していたのかな。だから、他人にくれてやるよりは、みたいな」
 中々物騒な事を成歩堂さんは笑顔でさらっと言ってくれた。今のは……書かなくても、いいかな。レポートには。
 成歩堂さんは続ける。
「愛する人を間接的に殺した彼女を、勿論アポロンは許さなかったよ。
 でもクリュティエは諦めきれなくて、ひたすら彼の許しを乞い、9日9晩、何も食べずにただアポロンが振り向くのを待っていて、ついには足は根付き身体は茎となり顔が花になり彼女はヒマワリとなった。姿は変わっても、アポロンの愛を求める彼女の心はそのままだから、その花は太陽を追いかける、という話さ」
「それはさっきの説明と矛盾してますよね。花になったらもう回らないんでしょ?」
「ま、とにかくヒマワリって花が、日を追いかける花だっていう認識が強いって事だよ」
 成歩堂さんは適当に話を纏め、オレに笑いかける。なので、オレも笑い返した。
 成歩堂さんは、その話の蛇足に、王の娘じゃなくてクリュティエの姉という話もあると教えてくれた。でも、配役が変わっても相手が生き埋めにされて死ぬのは変わらないらしい。
「何か、誰を同情すればいいんだって気持ちになりますよね」
 あげるとすれば、生き埋めされてしまった娘にだろうか。成歩堂さんから教えてもらった話だと、実の父親に殺された事になる。ちなみに、クリュティエの姉の場合、生き埋めにするのはクリュティエ自身との事だ。
「まあ……ね。恋愛が絡んできたら、皆ハッピーエンド、っていう訳にはいかないよ」
 事も無げに呟き、足元に視線を移した。地面に足が届くから、突っ掛けを履いている。その足を眼を何気なく眼で追いかけたら、裾から白い肌が見えてちょっとドキリとした。他の部分も全部見ておいて、今更だけど。
 それにしても、今の口ぶりだと、成歩堂さん自身もその手の事に紛れ込んだような印象を受ける。
 まぁ……判らなくもないなかな。と、出会ってからの彼を思い出して、勝手な意見をつけた。
 そこに居るだけで、眼を引く。その理由が判らなくて、もっと見ようとする。
 そうしている内に、魅せられてしまっている。
 だからだろうか。こんな引っ込んでる場所に住んでいるのは。
 じろじろ見て変に思われるのもアレだから、オレは何となく真逆の方向にふぃっと顔を逸らす。あまりにあからさまで、成歩堂さんに気づかれたかもしれない。
 縁の下の隅に眼をやると、そこに小さな花があるのに今、気づいた。
「何だ、ヒマワリ以外にも咲いてるじゃないですか」
「それは……勝手に咲いているというか。ヒルガオだよ」
 確かに、アサガオに酷似していて尚且つこの時間に咲いている花と言えば、それだろう。
「根っこが深いからね。上だけ毟っても生えてきちゃうんだ。だから、そのままにしてある」
 中々綺麗に咲くしね、といい訳のように言った。
「そんな花だから、花言葉は「絆」とか「友達のよしみ」なんてのがある」
 へぇ、結構いい言葉だな。これから、ヒルガオを見る眼が変わりそうだ。
 オレの視界の死角に居る成歩堂さんは、まだ続ける。
「でもね、フランスだと大降りのヒルガオには「危険な幸福」っていう意味があって、小さいヒルガオには「昼の美人」って言う意味があるんだ」
 意味深にちょっと言葉が途切れ、オレは思わず顔を成歩堂さんに向けた。
「――どっちも、蔓が絡みつく事から、昼間の人妻の情事を準えたんだよ」
「――――…………」
 言いながら、その視線をオレのと絡ませる。
 微笑み、小首をかしげる。
 首筋が露になる。
 ――オレは、そこに触れるべきなのか?
 ドクンドクンと鼓動が耳元で響いて、汗が首を伝う。
 眼が離せない。
 どれくらいこの状態だったのか、不意に成歩堂さんが視線をオレから庭に移した。
 それだけで、間にあった空気ががらりと変わるから不思議だ。今の成歩堂さんを見ても、衝動みたいな劣情は沸いてこない。じわじわと浸されるようなのは、あるけど。
「……弁護士バッチも、ヒマワリがモチーフなんだよね」
 咲き乱れる向日葵を見て、零すように、ぽつりと言う。
 それはオレでも知ってるような、取るに足りない知識だけど。
 今まで話してくれた中で、成歩堂さんは一番大切そうに言って居た。



 メインテーマは向日葵の観察だから、一日で終わるような事じゃない。終わってもらっても困る。
 でも、一日でする量もたかが知れている。多分、今日できる事は終わっただろう。
 さて、どうしたものか……
 成歩堂さんは、向日葵に水をあげている。
 まだ成歩堂さんと一緒に居たいから、帰りたくないけど、何だか理由も無しに居座っているのが後ろめたい。
 ……いや、それより。
 今日はしないんだろうか。
 おそらく、オレは待っている。かなり期待している。はっきり言って、したい。
 成歩堂さんは、違うのかな……
 今自分がどんな顔しているのかが判らなくて、それを見られたくなくて庭に背を向けてレポートを整理している。
 水遣りが終わったようで、成歩堂さんが桶を置いて室内に上がってきた。
 そして。
 無言のまま。
 その胸を押し付けるように、背後からオレを抱き締めた。
「…………」
 折角綺麗にまとめたレポート用紙が、畳に乱雑に散らばる。その様子が、畳の上に落とされた浴衣を連想させた。
「オドロキくん………」
 耳の直ぐ後ろで囁かれ、昨日成歩堂さんに教えられた自分の官能がすぐに熱を持つ。自分の名前がこんなに甘美に誘うようなものだったなんで、初めて知った。
 昨日は上からだったけど、今日は下からボタンが外されていく。開いた隙間から、手の平が侵入する。
「成歩、」
 首だけで振り向きながら彼の名前を呼ぶ最中に、項を舐められて半端な口のまま開いて固まる。その隙間を狙って、舌が滑り込んだ。
 オレは、倒されながら体が成歩堂さんと対面するように仰向けになった。
 しばらく熱い口付けに身体が縺れ合い、途中息継ぎの為に顔が横を向く。
 見えるのは沢山の黄色と。
 小さい薄紅色。
 ヒルガオ。
 昼の美人。
 昼の人妻との情事。
 さっき言われたその事が、頭の中をぐるぐると回っていた。



 袖を通し、身体に巻きつけて帯を締める。
 動作で言えば、たったそれだけだけどそうもいかないのはオレは知っている。
「……簡単に着るなぁ……」
 感心に、思わず呟く。
「慣れれば簡単になるものだよ」
 聴こえていたらしく、成歩堂さんが頭だけこっちに向けて言った。
 言う事は最もだけど、鵜呑みには出来ない。
 浴衣を着付け終わった成歩堂さんは、前に零れた前髪を手で後ろに掬った。オレは、この動作がとても好きだ。後ろから見ても、色っぽい。
 オレはと言えばシャツの前全開で、まだ熱いしこのままでいいかな、と思ってそのままにしている。度々触れられた胸とかが、特にまだ疼くように熱かった。
「おやつ、持って来るからね」
 そう言って笑いかけた成歩堂さんは、襖の向こうに消えた。
 今日は何をくれるのかな、と昨日美味しかったお菓子を思い出しながら、改めてレポートを纏めた。そして鞄に仕舞う。
 出された菓子は、餡子が透明な分厚い何かで包れていた。炙ったのか、焦げ目がある。初めて見るお菓子だ。
「コレは何ですか?」
「葛焼って言うんだよ」
 なるほど。なら、この透明なのは葛なのか。
 そして出されたお茶は熱いほうじ茶だった。
「熱い時に熱いのを飲むと、さっぱりするよ」
 熱い時に熱いものか、と思っているとそれを見透かした成歩堂さんが言う。
 振舞われたものを拒むのはオレの倫理に反している。
 それに、香ばしい香りは飲む前から爽涼感を齎した。
 口にゆっくり含む。
 心地よく口内刺激する熱と、鼻腔から抜ける芳香に身体から余計な力が抜けていくようだった。
 そんな風に、リラックスしすぎたのがいけないのだろうか。
 葛焼き食べ終わると、それが合図だったみたいに猛烈な眠気が襲ってきた。授業中にくるのとは、比較にならない。
 眠い………
 抵抗して目を擦ると、転寝のように身体が揺れるオレを心配してか、傍に来ていた成歩堂さんがその腕をやんわり掴んで止めさせる。
 覗きこむ成歩堂さんが、特に霞が掛かっている訳でもないのに、見えにくい。
「大丈夫?眠い?」
 声には出さず、コクン、と首を縦に振った。
 昨日、やるだけやって寝付いちゃったのが格好悪くて、今日はそんな事はしないと気を張って、どうにかそのままばたんと寝込む事は無かったけど、さっきのお茶で気が抜けたようだ。
 誰かとHな事するのって、最中は気持ちいいけど、終わった後はどっと疲れる……体力が持っていかれる。いや、問題は体力なのだろうか?考えが纏まらない。
 何でこんなに眠いのか、と疑問に思う事すらままならない。意識が点滅していく。
「眠いなら、寝たほうがいいよ。我慢は身体によくない」
 言って、成歩堂さんはオレの身体を傾ける。膝枕をしてくれるようだった。気づけば、もうその体勢になっていた。移動していた時の記憶が無い。
 意識が睡魔に塗りつぶされる。
 かなりトロトロと眠りにつき始めた頃、成歩堂さんの声が聴こえた。
「……可哀想に、心の方が追いついていないんだね……」
 そして、オレの頭を何度も優しく撫でる。
 完全に眠りに落ちる寸前、成歩堂さんが「ごめんね」と言ったような気がした。
 それが現実なら、こういう事で成歩堂さんがそう謝ったのはそれが最初で、最後だった。少なくとも、オレはそれ以外に知らない。



 それから毎日、オレは成歩堂さんの所へ通った。幸い天候にも恵まれていたし。まぁ、台風が来ても行ったかもね。
 ヒマワリの観察をしていると言って、証拠のレポート見せれば何も詮索されなかった。
 それでなくても、家は結構放任だけどね。
「オレ、両親が居ないんですよ。父親は死んだって聞かされたけど、母親がいまいち生存も不明で」
 成歩堂さんの家に来て、する事は決まっていた。
 向日葵のレポートを書いて、談笑して、おやつを貰って……身体を重ねて。
 その順番はまちまちだけど、情事の後におやつを食べるのは変わらなかった。
 こうして成歩堂さんと関係を持った身体になって、それが家族に気づかれていないか、と気遣わしげに尋ねた彼に、オレはまずそう返した。
 まだ身体がだるくて、起きる気力が無いから、寝転んだまま。成歩堂さんも横向きに寝転んで、肩肘ついて顔を乗せてオレを見ていた。
「何度か教えてくれって言ったんですけどね。そしたら「話を聞いてオマエが変に恨んだり捻くれたり、ぐれたりしないくらいの大人になったら話してやる」って、それしか言ってくれないんですよ」
 爺さんのセリフをほぼそのまま言うと、成歩堂さんは面白そうに声を上げて笑った。
「いいねぇ、中々素敵なお爺様だ」
 クックッ、と笑いで引き攣る喉で言う。
「それと……まだ保護者出来る間に早く一人前になれって。そんな事言って、大概の事はやらされますよ」
 それを言うと、ますます成歩堂さんは受けた。
「だから、何も言わずにどこかに出かけても、無事に帰れば特に咎められたりもしませんよ。仮にバレていたとしても」
 オレが事実を嘘のないように言うと、成歩堂さんも安心してくれたようだった。
 あるいはもしかしたら、完全には気づいては居ないだろうけども、オレがあまり大っぴらに言えなくて、でも後悔はしていない事をしている、という事くらいは判っているのかもしれない。何故って、成歩堂さんに初めて会った日、オレはどうやっても挙動不審だっただろうから。それに何も気づかないでいられる筈も無い。
 今日は来て早々、成歩堂さんとしたからこれからレポートを作らないとならない。ダルさもある程度抜けたから、のっそりと起き上がる。
 成歩堂さんも起き上がり浴衣をちゃんと着なおして、今日のおやつを持って来てくれるようだ。立ち上がって待っててね、とオレに告げる。
 オレは縁側に腰掛けて、スケッチから入った。気分が乗っているから、鼻歌が自然に零れる。
 カタ、とお盆がテーブルに乗った音がした。
「オドロキくん、服はちゃんと着なきゃ」
「平気ですよー。熱いもん」
「だーめ。身体を冷やしたらダメだよ。夏風邪はしつこんだから」
 後ろ横に来た成歩堂さんは、オレのシャツを羽織らせた。
「拗らせて、死ぬ事だってあるんだから」
 そう言う成歩堂さんの口調も、俯かせた横顔も。何だか深刻な雰囲気をかもし出していて、オレは言う通りに従ってシャツを着る事にした。
 今日出されたのは、中国茶の紅茶と柿木で作った椀に入った甘納豆だった。それに、薄い水色をして金平糖が散っている。この金平糖がまた美味しかった。サイダーの味をしていて。
「ねぇ、オドロキくん」
「はい?」
 口の中に3つ4つ金平糖を入れたまま返事する。
「何か、食べたい物とかあるかな?その方が用意するのが楽でいいんだけど?」
 美味しいお菓子を振舞っておいて貰って、この上リクエストなんて、と遠慮してしまう所だけど、成歩堂さんは願う事は本当に願っている事で社交辞令は決して言わない。そして、断ると向こうが残念に思うのだとオレは判っているから、その好意にも素直に甘えた。
「えーと、……白玉とか、結構好きです」
 餅っぽいけど餅みたいに腹に凭れない所がいい。
 オレがそう答えると、成歩堂さんは満足そうに頷いた。
「判った。明日は、それを用意しておくよ」
 今まで出されたおやつはどれも美味しかったけど、好物となると嬉しさも一入だった。
 夜、布団に入った時、オレは早く明日にならないかな、とそわそわした。



 そして、次の日のおやつは公約(?)通り、白玉が出された。しかも、冷やしぜんざいとなって。これは嬉しい。
 冷たい小豆の中に、白玉が2つ。よく見てみれば真っ白なのだけじゃなく、仄かにピンク色をしたのが混じっていた。
「綺麗な色ですねー」
 言いながら、その色がかかった白玉を口に入れる。
「うん、昔住んでた近所にね。春だけの期間限定で色つきの白玉出してたのを思い出したからさ」
 確かにこの色は桜色と呼ぶに相応しい、優しい色彩だ。だからだろうか、真夏に食べているのがちょっと可笑しく思えてきた。
「改めて春に食べたいですよね。これ」
 何気なく、普通にオレは言ったのだけど。
 その時、成歩堂さんの匙を運ぶ手が、一瞬止まったような気がした。
 でも、気のせいだったかもしれない。成歩堂さんに、変わった所は見られなかった。
 その一口を口に入れて飲み込むと、成歩堂さんは顔を上げてオレに向いた。
「いっぱいあるよ。おかわりは?」
「要ります!」
 その時点でほぼ空になっていたお椀を、早速突きつけた。成歩堂さんは優しく微笑み、おかわりをくれる。口直しには柴漬けが出されて、間にポリポリと音を立てて噛んだ。梅酢のすっぱさが堪らない。
 4杯目のぜんざいに取り掛かるオレを残して、成歩堂さんは今日の水遣りをしに庭に出た。その後姿を黙って見詰める。
 水遣りが終わった成歩堂さんは、縁側に座った。4杯目も綺麗に食べつくしたオレも、そこへ赴く。
 最初は、した後は体がだるくて眠くて仕方なかったけど、今もちょっと疲れているけどそれほどでもない。体力や集中のし所を覚えたのかな。初めは何もかもを全力投球でしていたように思える。そんな真似をしていたら、終わった途端に倒れるのも当たり前だ。
 成歩堂さんと、ああいう事をするのも、話すのも、お茶を飲むのも好きだけど、こうして何も言わずにただ横に居るだけ、っていうのも結構好きだ。どこか透明な膜を貼っているような成歩堂さんのテリトリーの中に居られているような気がして。
 向日葵は、始めてきた時と変わらず豪奢に咲き誇っていた。
「………。ここのヒマワリって、全部綺麗に咲いていて凄いですよね」
 小学校のいつだったか、皆で育てても必ず誰かのは貧弱だったりしていた。でも、ここにはそんな花は無い。
「そう?育てている者としては、そう言われると嬉しいな」
 成歩堂さんがオレを向いて笑って言う。
 でも、すぐに顔を向日葵に戻して。
「……する事と言ったら、これくらいだしね………」
「…………?」
 どういう……事なんだろう。どういう意味なんだろう。
 オレじゃなくヒマワリを向いてしまった成歩堂さんに、顔を向ける。オレがそっちを見ても、成歩堂さんの顔の向きはそのままだった。庭を見詰めて、言う。
「だからチューリップと迷ったんだけどね。でも、ヒマワリの種って鳥のエサになるからさ。だからこっちがいいかなって」
 本当に知りたい事じゃなくて、別の理由を教えてくれた。
「………うわ。すっごい入道雲」
 仕方無しに、同じ方向を見てみれば、ペンキを塗りたくったような青い空に大きな綿飴みたいな雲が出来ていた。夏の風物詩だ。
「ああ、本当だ。雷雨になるかもねぇ」
 成歩堂さんも見て、そんな事を言う。入道雲は積乱雲で、この雲は雷を含んでいるのは小学校で習った。
「もう、帰った方がいいと思うよ」
「っえー」
 オレは不満をあからさまに声を上げた。だって、まだいつもの時間よりも早い。いつもだって、まだ長く居たいと思っているのに。
「雨に降られて帰るのも嫌だろ?帰りも気持ちよく行きたいじゃないか」
 オレだったら、成歩堂さんと少しでも長く居られるのなら、土砂降りの中疾走で帰るのだって厭わないけど。
 でも、存在を知られたく無い成歩堂さんは、傘を貸す事すら躊躇うんだろう。そのくらいが判らないオレじゃないから、素直に聞く事にして、その日は早くに帰路を歩いた。
 家に着いて数分してから、雨が降り始めた。成歩堂さんの読みは正しかった。
「…………」
 折角成歩堂さんは向日葵に水を遣ったのに、その手間が無駄になったな。無粋な雨だ。
 成歩堂さんも、そう思ってるのかな。
 明日、行ったら聞いてみよう。



 段々回数を重ねる毎に、オレには余裕が出来てきて逆に成歩堂さんが切羽詰っているような感じだった。自分で動くのが辛いようだったから、オレが覆いかぶさり、少ない情報を総動員させて事を終わらせる。
「……大丈夫、ですか?」
 上から覗き込む視界が新鮮だった。
「…………。……うん、もう平気、だよ」
 はぁっ、はぁっ、と短く荒い息を間断に続けいた成歩堂さんは、一回大きく息を吐くと通常の表情を取り戻した。最も、肌は汗ばんで色づいているし、眼は潤んでいる。最中と然程変わらない。
 成歩堂さんが起き上がる素振りを見せたから、オレはそれを邪魔しないように座りなおした。足が崩れたまま、とりあえず腰を落ち着けると、成歩堂さんはそこでもう一度深く呼吸をした。
 立ち上がり、帯はそのままに肌蹴るだけ肌蹴させた浴衣を一旦脱ぎ、改めてちゃんと着なおす。その様子を見ていると何だかまた頭がぼーっとしてきて口が渇いて、ごく、と喉が鳴った。
「持って来るからね」
 と、成歩堂さんはオレに一声かけて部屋を出る。
 成歩堂さんは、いつも浴衣だった。それも大抵青系の色で、水面をモチーフにした柄が多かった。……そう言えば、まだ同じ柄を見た事が無いぞ。どれだけあるんだろう……しかも、結構質が良さそうなのに。
 この日は、藍色くらいの濃い青色が基に、浴衣の右下端から円状のグラデーションで徐々に明るい青色になっていく柄だった。それは、水の色だけど、炎を連想させる。
 ロウソクのじゃなくて、バーナーの火は、青白くて揺らめきが少ない。
 そして、赤くてうねる炎より、何百倍もその温度が高い。
 薄暗い室内に、オレに背中を見せて歩く成歩堂さんは、その火のようだった。
 今日はみたらし団子だった。それと、熱い番茶。
 昨日の白玉が余ったから、それで作ってたのだそうだ。
 でも、この白玉は手作りだからという意味ではなく変わっていた。まず4つ串に刺さっていて、そこからちょっと離れて5つめがついている。
 それについて、成歩堂さんが説明をくれる。
「京都の下鴨神社前にこういうみたらし団子を出す茶屋があるんだって。
 このね、1個離れてるのが頭になってて、五体満足を祈願するんだって」
 そこで、成歩堂さんはオレに向けて笑いかける。
「だから、オドロキくんが大きくなりますように――って」
「……15にもなって祈られる事じゃないと思います」
 そりゃ確かに、オレは成歩堂さんより小さいし、背も標準よりもやや下だけど、横にしちゃえば関係無いって言うか……なんてぐちぐち言ってるオレがやっぱり一番気にしてるんだろうか。
 いじけるように団子を頬張るオレに、成歩堂さんは言う。
「15なんて、まだまだ子供だよ」
 何て言うが、オレは成歩堂さんの年齢を知らない。一体どれだけ、離れてるんだろうな。
 まあ、同性ってのが大きくて、この際どれだけ離れようが気にならないけど。
 成歩堂さんが、ちょっと悪戯っ子の顔になって言った。
「うーん、でもオドロキくんがあまり大きくなっても困るかな」
「どうしてですか」
「だって、小さい方が可愛いし」
 過去に渡り、幾度と無く言われたセリフだ。ただ、おそらくこの人は本気で言っている。
「や、オレ大きくなりますよ!まだこれから!成歩堂さんだって、抜いちゃいますからね!」
「ええー、困るよぉー」
 成歩堂さんはポーズだけ困ったように見せて、クスクスと愉快そうに微笑む。
 いや、でも。
 オレはやっぱり大きくなりたいよ。
 せめて、倒れこむ成歩堂さんを支えてあげれるくらいには。
 この人の全部、閉じ込めれるだけの腕が欲しい。
 例え、それが外見上だけの事だとしても。
 全部余すこと無く触れて、この人に実体があるって確かめたいんだ。
 ――火傷を残すだけの、炎の化身なんかじゃなくて、オレと同じ人間なんだって。
 同じ時の流れで生きる人間なんだって。
 成歩堂さんが触れた所は、手が離れた後でもまだ熱いままだった。



 恐らく、今この場に居る誰もが思っている。何で夏休みに登校日なんかがあるのか、と。
 盆の終わりの木曜日。この日は2回目の登校日だった。
 夏休み中の登校に、皆不平を漏らしていても何だかんだでちょっと楽しそうだ。社会に出れば改めて判るんだけどうけど、何の約束も無しに会えるってのは気楽で便利なんだな。
 がやがやする喧騒に包まれていても、その声が何だか一枚透明な壁を隔てた向こうから聴こえてくるような気がする。
 それはきっと、この中に居るのが快楽を他人と共有した事が無い奴らばかりだからだろう。
 成歩堂さんに会った初日の夜、会いに行くと決めた時に若干沸き起こった怯えが思い出されて。
 でも、包まれて蕩けるようなあの熱を思ってすぐに霧散した。



 オレは、美化委員なので皆が帰った後に草むしりをしなければならない。新学期に、安易にこの委員を選んだ自分を呪いたい。
 暑いし喉は渇くし、しゃがんだ姿勢を維持しなくちゃいけないから腰は痛いし、最悪だ。でも、何が一番最悪かと言えば、成歩堂さんの所へ行けない事だろう。今の時間だったら、もうあの家についていて、それから………
 それから…………
「…………」
「おデコくん?手が止まってるよ?」
 牙琉先輩の声で、意識が現実に戻る。脳内で成歩堂さんに触れていた指は軍手がはめられていて、雑草を握り締めていた。
 来客者用の駐車場が、オレ達に振り当てられた担当区域だ。ここの草を全滅させない事には、帰れない。
「……牙琉先輩」
「うん?何かな」
 こんな茹だるような暑さの中で、牙琉先輩はそれでも風の如く爽やかだ。癇に障るような、凄いと感心しそうな。
「何で、オレ達だけが草むしりしないとならないんですか?」
 今、猛烈にその異議を唱えたい。場所を問わずに。
「そりゃ、僕達が美化委員だからだよ」
 美化委員なのだから、学校を美しくする事に尽力を尽くさなければならない。とやっぱり爽やかに言う。
「それはいいんですよ。それはいいんですけどね。でも、オレが言いたいのは植物が相手なんだから、緑化委員も手伝ってもいいんじゃないか、って事ですよ!」
 クソゥ、あいつらさっさと帰りやがって。今に見ていろ!(何をすればいいのか判らないけど!)
 まあまあ、といきり立つオレを宥めながら、小さい鎌でちょっと厄介な雑草を刈っていく牙琉先輩。仕方無しに、オレも倣って、黙々と草を毟っていく。これらをやっつけない事には帰れないのは覆せない事実なんだし。
 人ってものは、単純作業していると頭が無駄に回るものだ。
 草むしりの最中、オレはあの人の事ばかり思っていた。  
 オレが今日行けなかったとして、成歩堂さんは寂しかったり、哀しんだりするのかな。どうだろう。昨日、今日は登校日だと言ってはおいたけど、オレが来ると期待していたりするんだろうか。
 どうなんだろう。
 成歩堂さんがオレの事どう思っているのかとか、離れている時は気になるのにいざ対面したら成歩堂さんが目の前に居る事だけで頭が一杯になって。
 帰ってからそれに気づくんだ。
 残りが50センチ平方メートルくらいになると、ゴールが見えて来た。この調子なら、成歩堂さんの所にいけるかな?
 でも、レポートは書けてもHするのは無理かもしれない。段々、成歩堂さんの回復が遅くなっている。終わった後にぼぉっとしている時間が増えた。そんな様子の成歩堂さんは妖艶で、ちょっと痛々しい。
 ……オレって、結構やり方乱暴なのかなぁ。
 うーん、でも一応、向こうがもっと動いていいよ、っていうから動いてるし……
「おデコくん?」
 また意識が成歩堂さんに飛んでいて、牙琉先輩の声で戻ってきた。
「あ、すいません」
 ぺこり、と謝ると、大して咎める事無く、暑さにやられたかな?と笑って流した。こういう所が、女子にモテる秘訣だろうか。
 さて、と牙琉先輩が残りの雑草に向き直る。
「これ、どうしちゃおうかな?」
 牙琉先輩が尋ねるのは、ユウガオだった。校舎の間にあるフェンスに、絡み付いている。花はもう萎んでいた。
 植えた訳でも無く勝手に生えているのだから、雑草の内だろうけど。差別かもしれないけど、やっぱり花が咲いているのは駆除するのに迷う。牙琉先輩もだった。
「……ユウガオは、根が深いし、半端に抜いても切れた所からまた根を伸ばしますよ」
 成歩堂さんに、教えてもらった事を言う。
 牙琉先輩は、そうなんだ、と素直にその知識に感心して頷いた。
「そういう性質から、その花言葉は「絆」と「友達のよしみ」……」
「おデコくん。花に詳しいねぇ」
 へぇー、という声を顔に乗せて、牙琉先輩が言う。
「いや、たまたまこれを知ってただけですから」
 あまり褒められる事になれていないから、恐縮してしまう。
「まぁ、ユウガオはあっても美観を損ねる訳じゃないから、それを言えば先生も無下に毟れとは言わないだろうね」
 牙琉先輩の中で、刈らないと決定されたらしい。そんな事を言っている。
「それじゃ、僕はそうやって報告しに行くから。おデコくんはもう帰っていいよ」
「えっ、いいんですか!?」
 大声で素っ頓狂な声を出してしまったオレに、腰に手を当てて牙琉先輩はゆったりと微笑む。
「何だか、今日の君はすっかり心がここにないからね」
 だから早く心を迎えに行っておいでよ、とかなり気障な事を言う。それが滑稽にならないのが、この人だろう。
「あ、ありがとうございます!それじゃ!!」
 ばたばたと駆け足で帰り支度を整え、鞄を引っさげて校門を潜った。その脇にも、ユウガオが絡みついている。
 ――小ぶりのユウガオは、蔓が絡みつく様を指して「昼の美人」と言われる。昼の人妻との情事、と――
 さっき、牙琉先輩には言わなかった。別に言わなくてもいい事だし。
 それに何だかそれを言うと、まるで罪を懺悔しているような気持ちになりそうな気がして。


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