向日葵の庭
よく見渡してみれば、中々に広いこの庭に咲いている花は、向日葵しかなかった。
素直にそれを口にしてみると、あの人は自分は花と言えばこれとチューリップくらいしか知らないから、と事も無げに言って微笑む。
庭に巻かれた打ち水が熱気で空間を揺らがし、その中で佇む彼をまるで夏が作った儚い幻のように仕立て上げていた。
咽帰る夏の暑さと一緒に思い出されるのは、その庭の向日葵と甘くて美味しいおやつ。
それから、互いの肌の熱さ。
2週間そこそこしかない冬休みや春休みと違って、一ヶ月が丸まる休みの夏休みはかなり羽振りがいいと思わせる。しかし2回ある登校日の初日で、その休みは永遠に続くものではないと思い知らされるのだった。そして全くの休みではなく、結構な量の課題が存在するのだという事も。
他の課題はともかく、自由研究はそろそろ手をつけないといいものが出来ない。自分で自覚する前に、先日の登校日で担任が呼びかけた。
15の夏休みと言えば、余所の学校は受験を控えた時期だからと少々多めに見てくれるのだろうけど、生憎通っている学校は中高一貫性なので、自由研究の評価も実にシビアだ。
それなりに見栄えのするものを作り上げる為のテーマを、オレはまだ見つけていない。
ちょっと焦る。
そしてこれが今後雪だるまのように膨らみ行き、かなり焦る危機的状況の前触れのようでそわそわとして落ち着かない。
部屋に篭っても仕方無いからと、何となく外に出た。当ても無くふらふらと。
が、10分もしない内に後悔する。
暑い。何せ、暑い。
思えば一番暑い時期の一番暑い時間帯じゃないだろうか。オレも大概馬鹿な真似をしたもんだ。
本当にじりじりとウエルダンにされてるような日差しで、麦藁帽子が無ければ早い段階で日射病になって卒倒していただろう。
それでも、住んでいる町の知らない道を適当に歩くというのは、結構面白かった。
知らない場所に鶏舎があったり、ネコの多い路地があったり。地味ながらも探検をしているようで、小学校の頃読んだトム・ソーヤが思い出された。
途中、あまりにも喉が渇いたのでジュースを買って飲みながら探索を続けた。
しかし、目的を持たずに彷徨っているのが悪いのか、良さそうな題材は中々見つからない。
はぁ、と吐き出された溜息はその為か、はたまたこの暑さにいい加減辟易としてきたからだろうか。
どっちにしろ、もう家に戻った方がいいだろうと、来た道を引き返した。
その時、夏にしては珍しい突風が吹いた。春一番みたいな風だった。
その風はオレから帽子を奪い去り、その帽子と言えば羽でも生えたかのように大空を楽しそうに舞っている。
「っあ―――――ッッ!!!」
誰かに目撃されたら恥ずかしい所かもしれないが、オレは大声を発して帽子を追いかけた。
帽子は高く高く舞い上がり、小高い丘のような場所に落ちた。多分ススキだろう草が生えた土手に隠れ、帽子の行き先は不明だ。草は腰元まで伸びていて、オレは苦労してその土手を登った。3回くらいずっこけそうになった危ない場面があり、そして1回は本当に転んだ。
本当にひいひい言いながら上りきると、目についたのは目当ての麦藁帽子ではなく、黄色い花だった。黄色い絨毯となりそうなくらい、群集している。
すぐ傍に藪がある。それと紛れるように立っている民家の庭に、鮮烈な黄色が咲いていた。
「……ヒマワリ?」
思わず、呟く。
花屋に置かれている観賞用のヒメヒマワリじゃなくて、種が取れるしっかりした向日葵だった。
「そうだよ」
背の高い向日葵の中から声がして、オレは一瞬向日葵が喋ったのかと馬鹿なさえ思った。これも夏の暑さがいけない。
勿論喋ったのは向日葵ではなくて、人間だった。
この場所は近所からやや離れているとは言え、全く見知らぬ土地でもない。ここに家があって、誰かが住んでいるなんて、オレは初めて知った。
その人はいい所、20代半ばだろう。白地に藍色の筆を引いたような太い流線の走る浴衣を着ている。着こなしているとも着崩しているとも言えないような出で立ちだった。
顔は特別秀麗でもないんだけど、オレは何となくその人から眼が外せなかった。この時はまだ判らなかったけど、この人はとても肌が白く、思わずそれに意識が集中したのだと思える。だって、この暑い日差しの中、日焼けをしていないだなんて。まるで夢の中のように白い肌だった。
「これ、君の?」
そう言って掲げたものは、間違いなくオレの麦藁帽子だ。人には判らないオレだけの目印があるんだ。
「あ、はい。そうです」
ここでようやっと、オレはその人をぼーっと見ていただけに気づき、何となくバツが悪そうに小走りで駆け寄った。オレの胸元まである垣根越しに、その人と対面する。はっきり見えた顔は疲れているような、それでいて精気に溢れているような、そんな不思議な印象だった。完全に後ろに撫で付けれていないで、ぱらりと何本かの前髪が額に掛かっている。やけに色っぽいと思った。男の人なのに。
「すいません。風で飛ばされちゃって」
オレは帽子がここに紛れ込んでしまった経緯を言う。
「ああ、さっき強いのが吹いたね」
にっこり笑って彼は答える。そして、言った。
「君、暑そうだね」
「え?」
それは事実だけど、かなり唐突に言い出されたから一瞬きょとんとしてしまった。
「冷たい麦茶ならあるけど、どう?」
軽くそう言って、オレを誘う。
「………どう、って……えーと………」
これは何だ?
ナンパなのか?
逆ナンってヤツか?
いや、相手は男だから普通のナンパでいい訳か?
でも、オレも男だしその辺は……
「別に取って肥やして食おうって訳じゃないよ。ここはお菓子の家じゃないだろ?」
返答を困っているオレに、かなりメルヘンな例えで彼は自分の潔白を証明しようとしている。
まぁ、確かに取って肥やして食おうって魂胆では無いだろうし、オレの服装を見て誘拐を企む筈も無いだろう。
でも、何だろう。本能とは別のところが警鐘を鳴らしているように思える。それとも、周囲の蝉の声をそれと勘違いしているのか?
さっき買ったジュースは、もうとっくの昔に飲み干して空き缶もきちんとゴミ箱の中だ。一時潤された喉は、またそれを強く渇望している。文字通りに。
「……じゃ、頂きます」
オレは夏休みの注意の第6条3項目の「見知らぬ人についていかない」という決まりを無視する事に決めた。決まりにだけ従って自分で判断するという事を怠ったら、充実した人生は送れないような気がする。
と、格好つけて単に喉が渇いて仕方無いだけだったんだけどね。
オレがそう答えると、その人は満足そうに微笑む。
「うん。子供が辛いのを我慢するのを見過ごすのは、忍びないからね」
「…………」
オレはそんなに子供子供したように見えるのだろうか。この丸出しの額がいけないのか。でも、この人だって額は出ているし。
悶々と考え込むオレを余所に、割と傍にあった勝手口が開かれてオレは招かれた。
初めて来た家だから、勿論間取りなんて判らない。でも、自分の家より狭いか広いかくらいは判る。いかにも日本家屋らしいこの家は、オレの家より広い。目に見えた部分だけですでに広いんだから、実際はもっと広いんだろう。室内は、お寺のお堂みたいに薄暗くて、涼しい。風の通りとかに丁寧に考えて作られているのだろう。これなら扇風機も要らない。
オレは庭が見える縁側に続く部屋に上がり、長方形のテーブルの長い辺に当たる部分を前に座っていた。そして、麦茶の到着を待っていた。台所に引っ込んだ彼の姿は見えない。
下の畳はひんやりと心地いい。
ややあって、漆のお盆に自分のとオレの分の麦茶を入れたグラスと、何か和菓子を持って現れた。
「あ、お構いなく」
菓子まで振舞われるとは思わなかったオレは、差し出されたそれに恐縮して言った。その言葉に、彼はちょっときょとんとして、噴出すように小さく笑った。
両親ではなく父方の祖父母と暮らしているからだろうか。時々オレは言い方や言い回しが古臭いじじ臭いとよく言われる。
「いいえ、お気になさらずに」
でも彼はそれを指してからかう事も無く、むしろオレに合わせるように言う。なので、オレも遠慮なく出された菓子に素直に手を出す事にした。
それは水菓子で、透明な羊羹の上に小豆が乗っているようなものだった。三角に切られているそれが、2切れガラスの皿に乗っている。オレのだけで、彼の分は無かった。
「ああ、僕、水菓子って苦手なんだよね」
訝しんだオレに気づいたのか、彼がそう言った。
「だから、君が来て助かったよ。捨てるのは勿体無いし」
続けて、そんな事をしれっと言う。
「……………」
さっきは子供が辛そうにしているのは忍びないから、とか言ってたくせに、あれは何だったんだ。
それに、苦手なら、買わなければいいのに。そう思ったら、それも見透かしたようにまた言う。
「何、人には色々事情ってものがあるものだよ」
(事情……ねぇ………)
確かに、この人には色々事情がありそうだ。
さっきからこの人以外、誰も見ない。この広い家に、この人は1人で住んでいるようだ。
しかも、よく考えてみたらオレ達学生は思いっきり休みだけど、勤め人はまだ夏季休暇には早いんじゃないだろうか。お盆はまだ先だ。
働きに出ていない……でも、金にも困っていないのは着ている物を見れば判る。それに、このお菓子はとても美味しい。その辺のスーパーで買ったものじゃないのは間違いない。
何をしてるんですか、と単刀を直入するみたいに聞いても、答えてはくれないだろう。やや焦点をずらして尋ねてみる。
初対面の相手に不躾だろうけど、オレは疑問に思った事は口に出さないと収まらない性分なんだ。
「ここに住んでるんですか?」
もしかして、あるいは彼も客人かもしれないという考えを持って言ってみる。
「…………」
でも、彼はこの質問でも答えなかった。答えの代わりのように、ただ遠いような眼をする。
「……。そういうものだから、かな」
そして返事が来たかと思えば、やや意味不明だった。質問とかなりずれているように思う。
「あの花が咲く理由と同じだよ。……僕がここに住んでる意味は。そういうものだから。ね?」
庭の方を向いて、同じだよ、と言ってくれたけどさっぱり判らない。
でも、どうやってもオレが望むような返しをしてくれないのは、判った。
オレがする事はお菓子を堪能して、麦茶を飲んで喉を潤わせる事だけのようだ。
昨日、いやほんの1時間も前まではその顔も存在すら知らなかった人に、美味しいお菓子と冷たい麦茶をご馳走になっている。
かなり妙な出来事といえるだろうけど、夏休みはやっぱり長い。こういう不思議な事が1つや2つ、あってもいいだろう。
ぱくぱくとお菓子を食べるオレを、彼はただ眼を細めて楽しそうに眺めていた。
そうして、麦茶も全部飲んだ後、彼は傍らに置いていた麦藁帽子を手に取り、オレの横へと回って来た。
オレは手を差し出し、その手に返してくれると思ったのにその人はオレの手を無視して、帽子を頭に直接被せた。
ぽんぽん、とオレの頭を優しく叩いて、その人は言う。
「出来れば、ここに僕が居る事は家の人にも誰にも言わないで欲しいな。それから君も、もうここに来ない方がいい」
「……え?」
結構広い帽子のツバのせいで、しかも目深に被せてくれたので、そんな事を言う相手の顔は鼻から下しか見えなかった。だから、本気なのか冗談なのかが、今一判断付かない。
ツバを掴んでちょっと持ち上げ、顔が全部見れるようにすると、その人はまるで挑むような挑発的な微笑を浮かべていた。その双眸を直に見た途端、心臓が大きく一回ドクリと跳ねた。その感覚が何に近いかと言えば……それが初めての経験だった。他にこんな感覚は知らない。こんな、自分の奥にある自分でも知らないような場所が揺さぶられた事は、無い。
その人は、笑みは崩さず口元だけ動かしてオレに告げる。
「僕は、悪い大人だから」
「………???」
またよく判らない事を言う。
「判らないかな?」
その人は、微笑をやや苦笑に変えた。
判らないも何も、あれで判れという方が無理だと思う。
「さっきみたいな質問したから、勘がいい子だと思ったんだけど」
さっきみたいな質問……?
この人がどういう人なのか、何をしているのか知りたくてそれを探るような事を言ったのを指しているのだろうか。あっさり玉砕したけど。それは自分の魂胆を相手が見透かしていたからなのか。
彼は顎を軽く抓んで、考えるような素振りを見せる。そして、いい悪戯でも思いついたような笑顔を浮かべた。
それに、この家に招かれた時に聴こえたような警鐘がまた聴こえる。耳鳴りのようなそれ。
「君、ファーストキスは済ませた?」
「え?えぇ、まぁ………」
また突然な質問に、オレも引っ張り出されるように答えを口にしていた。
あれは小6の時だった。初めて出来た彼女に、その子の部屋でした訳だけど、中学に上がると同時に何となく関係は自然消滅してしまった。思うにあの子は恋愛やキスってものが体験したくて、別にオレじゃなくてもよかったんだろう。たまたま、オレにしよう、と思っただけで。でもそれは結構お互い様だから、何の蟠りも無い。
それにキスなんて、たかが口の皮膚同士が触れ合うだけなんだから、初めてだのなんだのと騒ぐ方が理解に苦しむ。
オレが経験済みだ、と言うと、その人はいっそ無邪気に見える凶悪な悪戯な笑みを一層濃くされた。
「そう。じゃ、トラウマにはならないかな?」
……何か今、割と物騒な単語が出て来たような気がした。トラウマとか何とか。
それについて追求しようと思ったけど、出来なかった。
何故って、口が塞がれていたから。
彼の唇で。
「…………ん、む……うー?うぅぅぅ――――――???」
眼を何度も瞬かせて、正気を取り戻そうとする傍から口付けされてる現実を認識して、またパニックに戻る。
オレの後頭部を抱えるようにしてオレを覗き込むような。オレは喉と顎が水平になるみたいに上向けられて。やや伏せられた黒目がちの双眸に何となく自分が見える。
口付けされる前に、するりと首筋が撫でられたような感触がして、そう思った直後もう口に柔らかいものが当たっていた。速い。速過ぎる!こういうのは、もっと間を溜めてするものじゃないのか!?
手が、縋る何かを求めて迷子になったように空中で止まる。
もう触れ合っているというのに、この人はさらに何をしようというのか、さらにオレに身を寄せてきた。
触れていた唇が離れ、より隙間無くぴったり合わされた。唇全体でキスしている。オレのファーストキスなんて、唇がちょっと触れる、本当にままごとみたいな子供だましなものだったんだと、改めて思い知らされた感じだ。
でも、普通のキスにしても凄いような気がするような。しないような。
もう判らない。
「う、ぅ、ぅー…………っ!」
さらにぐぐぐ、と体重を掛けられて、半端な姿勢だったオレは腹筋だけで到底それを支えきれず、畳の上にやんわりと押し倒されてしまった。天井が見える。
そう言えば、いつの間にか帽子が無い。
さっき、キスされた直後にぱさっというような乾いた音がしたような気がしたから、アレだろうか?
「っは………ぅ……!」
何度か角度を変えて重ねられて、もうすっかり唇で彼の触れていない場所は無いだろう。
何でかな。ただ口を合わせているだけなのに、息が乱れて、ちょっと疲れてくる。頭もぼーっとしてきた。
……暑い。
……熱い……
段々と時間の感覚が失われつつある。オレは長い事こうしているような気になってきて、していない状態の時の事すら忘れそうだった。
しかし、その時感じたかなり異質な感触に、眼が見開く。
ぬるりとしたような、ざらりとした熱いモノが、下唇をなぞる。驚いて、食い縛っていた歯が開くと、そこに早速侵入してきた。
「うぅ!?う、う――――………!」
ばたばたと両足で暴れたし、手の横に置かれただけの手も相手を引き剥がそうと背中の布を掴んで抵抗した。でも、自分の舌の付け根を撫でられた時、ぞわりとしたものが身体中を駆け巡って、手も足も動きが全部止まった。ぱちん、と頭の奥で何かが弾けた。
口の中にあるモノが相手の舌だと判ったのは、それがオレの舌と絡み合った時だった。ああ、同じものだ、みたいに。
耳からじゃなくて、頭の置くの方から音が響く。
くちゅくちゅと濡れた音だった。
口の中に溜まった唾液は、時折彼が舌で掬い取って、おかげでオレは咽る事は無かった。
抵抗をやめた手は、また身体の横に落ちていた。手の平を畳に向けて、冷たい感触がする。そう思うのは、身体の方が熱いからだ。
「ん………」
と、彼が小さく呻いて、唇の重ねを変えた。唇は離れても、絡みついた舌はそのままで、それがまた酷く淫靡な感じがした。
口の中なんて、喉の炎症を起こして風邪を引いた時、医者にしか触れられた事は無くて。それでもそんなに濃厚には触れてはこなかった。
口が閉じているのか開いているのかも判らない。
彼が息継ぎに吐息を漏らす度に、果実香のようなものが濃く漂って、それが一層意識に霞をかける。
ざらついてねとつくものが、縦横無尽に口内を漁る。
この感覚を何ていうんだろう。
(……気持ちいい………?)
陽炎が掛かったような思考の中で、オレは、そう思った。
果ても無く続くように思えたが、やっぱり終わりは来る。
じゅる、とオレの舌ごと自分の口に入れて唾液を飲み干した彼は、そのまま口を解放した。長いことそうしていたから、離れても名残のように唾液の糸で繋がる。それは切れる前に彼が口で追いかけ、最後にちゅ、と軽い口付けをして後始末をつけた。
その時になってようやく、オレは呼吸してなかった事に気づき、それを思い知らされるように肺が痛いくらい呼吸し始めた。咽こむように苦しく息を吸って吐いてを繰り返すオレに、彼はごめんね、息出来なかったね、と言いあやすように頭を撫でた。息苦しさに少し涙ぐむ。
「…………」
はあ、はあ、と吐き出す息が一個一個大きい。胸が上下しているのが判る。
離れても至近距離に居る彼は、今の口付けのせいなのかで零れ落ちる前髪の量が増していた。それを耳の後ろにやる仕草が、とても妖艶だった。
ふぅ、と一息ついただけで、彼は呼吸を落ち着かせた。オレは、まだとても平常通りとは言えない。喋ろうとしても、口が上手く動いてくれなかった。
そんなオレを見てか、彼がふふ、と小さく、しかしとてつもない妖艶さを含ませた笑みで言った。
「こういう事をする為に、居るから。……ちょっと前は色んな人に、今は1人の為に」
その一言に、家の中に欠片のように散らばった出来事が整理されていく。
(……これって、男娼って言うんだっけ……身請けとか……)
実践は無いくせに知識はあるオレは耳年増なんだと思う。話には聞いていたけど、本当にそういう世界があるなんて、とちょっとカルチャーショックだ。まして、それに結構自分が関わったとなっては。
その人は、優しくオレの両頬を手で挟む。やっぱり今ので乱れたのか、合わせ目がだいぶずれて鎖骨まで見えた。
白い肌が多くなった。
「……今度来たら、君にもそういう事をするよ。今よりもっと凄い事を、ね。これは警告だよ……?」
言い聞かすような物言いは保護者みたいなのに、声色はゆっくりと優しいのに。
オレの唇を拭う仕草も、食べ残しと取り除く時みたいなのに。
唇は、妖しく濡れそぼっていて。
そのギャップに平衡感覚が無くなる。
その後の記憶はぷっつりと切れていて、足で歩いて帰った筈なのにその経緯が思い出せない。気づけば家に居た。そんな感じ。
口の中がまだ痺れている。炭酸のジュースを飲んだような感じ。
まだあの人にキスされ続けているような感覚が続いて、その最中のようにぼんやりしたまま夕食と風呂を済まし寝巻きに着替えて布団に転がった。横になるとなお更あの激しい口付けが思い出されて、ぼーっとしているのに眠気はちっともやって来ない。却って眼が冴えて仕方無い。
これで忘れろって言う方が無理だよな。いや、忘れろまでは居なかったけど。
来るな、と言われただけで。
あの人の顔が次々と脳裏に現れる。フィルムを交換するみたいに。
初対面の時の人が良さそうな青年の顔や、お茶とお菓子をくれたようなオレを子ども扱いした時の顔。
それから――………
痺れるような唇が気になって、手の甲で拭ってみれば触れた感触で鮮やかにあの顔が蘇る。
白い肌。
涼しい風が通りぬく空間で、身体の中も外も熱かった。
そればかりを思い出す。
ごろん、と寝返りを打ってうつ伏せになる。
誰も知らないものを、オレだけが見つけたという優越感からなのか。思い出したり考えてばかりなのは、また会いたいからに違いない。そう結論を出した所で、何の違和感も無かった。
そう思った時、最後のあのセリフが妖しい微笑と一緒に蘇る。
”……今度来たら、君にもそういう事をするよ。今よりもっと凄い事を、ね”
警告とは言って居たけど、あのセリフは嘘じゃないだろう。
会いに行けばきっと、とんでもない事になる。祖父母にも担任にも誰にも言えない事を、オレは抱える事になる。
何より、昨日までの自分とは完全に違う自分になる。それは自分が見知らぬ他人のようになってしまう恐怖が、微かにあるんだけども。
それでも、この時点でオレの中で「会わずにこのまま終わらす」という選択肢は、無かった。
単純な話だ。
綺麗なものは危険を冒してでも拝みたい。
そしてあれがこの世にあるものかを確認したかった。
たったそれだけの事。
来るのは簡単だった。そりゃそうだ、途中に困難な道のりがある訳でもない。
昨日、度々滑り落ちた土手も、獣道のような階段を見つけて割りとスムーズに上れた。
彼は、日陰に立っていて向日葵を眺めていた。
人の気配に敏感なのか、声を掛ける前にオレに気づいた。
一瞬、その眼が見開く。
はっきりオレを確認した彼は、見咎めるでもなくただそこに居るのだと眼で認識していた。
昨日と違うのは、浴衣の柄とその表情。
笑みは無く、口は真一文字に閉じられている。
その顔は最もだと思う。だって、多分オレはどっちかと言えば悪い事をしているから。人のいう事を無視して行動した。
帰れという怒声が飛ぶ覚悟をしていたが、現実はとても静かで。いや蝉が泣き喚いているから静かではないんだけど、あの人が無口で居ると静寂に包まれているような心地になる。
「…………」
その人は長い間何も言わず、オレを見つけた後、ややしてから眼を伏せた。
その後にひたと向き合った双眸は、明らかに今までと何かを一線を超えていた。変化が判っても、何が、が相変わらず掴めなくて不確定要素だけが増えていく。
判らない事ばかりで、不安だけど立ち去る事は出来ない。
彼はそのまま手を伸ばし、勝手口の閂が外された。
入って来い、という事なんだろうか。オレは何も言われないのをいい事に、入らせてもらった。入った後、閂はちゃんと下ろす。
彼は侵入するオレを見向きもせず、縁側を上がって室内へと入る。襖が全開の家だが、壁側に入ったのかその姿は見えない。追いかけるように、オレも靴を脱いで部屋にあがる。
途端。
ぐぃっ、と強い力で引かれて、壁に押さえつけられる。誰がしたのかと言えば、当然あの人だった。
掴まれた肩が痛い。
「……昨日の脅し、足りなかったかな。僕は来るなと言ったつもりだったんだけど?」
笑みの消えた彼は、抵抗すら許さないような独特の凄味があった。
双眸には強い、とても強い光がある。それは捕食者の目だった。獲物の命を手中に全て収めている支配者の顔だ。
勝手口側からは、壁でオレ達の姿は見えないだろうけど、開けられた襖から、外の風景が見える。外の風景は当たり前のように当たり前が広がっていた。なのにこの部屋には緊張で張り詰めている。
彼に頭の奥まで覗き込まれるように睨まれ、昨日より余程乾いた喉で掠れる声で何とか言った。
「……それでも……会いたかった………から………」
顔を逸らさないでうわ言みたいに呟くと、彼の表情がぴくり、と動いたような気がした。それがどんなものかまでは、判らなくて。
そう、と彼も小さい声で頷いた。
「判って来たなのら……遠慮はしなくていいね」
しゅるり、と紐が擦れる音がした。ついで、ぱさり、と彼の衣が肌蹴落ちて、薄暗い室内の中で、海の底の真珠みたいに彼の半身が浮かび上がる。それに、眼も意識もすっかり奪われた。魅了される、というのはこの事なのだろう。オレはヘビに睨まれたカエルのように何も動けなかった。自分のボタンにその指が掛けられても。
自分を脱ぎ終えた彼は、次はオレの衣服に取り掛かった。
「他の子より大人にしてあげる」
耳元で囁かれた声にゾッとする。
しかし、それが冷たさのせいだったのかは、定かじゃなかった。
だって、露になっていく肌に、時折揺れる彼の指は酷く熱くて。
そして彼の身体の内は殊更熱かった。
――夢の中に居ながら、眼を覚ますような覚醒だった。
頬に畳の感触とい草の青臭い匂いがした。顔だけ横向かせ、仰向けでオレは寝ていたようだ。四肢が力を無くしたように畳の上に投げ出されている。
掛けられている布は――あの人の浴衣、か。それ以外考えられないけど。
シャツのボタンは全部外されたままだった。さらりとした麻の感触が気持ちいい。
そのまま、また寝入ってしまいそうだったけど、あの人の行方が気になって、オレは身を起こした。すとん、と浴衣が腰元に落ちる。
「――――…………」
呼ぼうとして、そういえば名前を知らなかった事実に気づいた。
うっかりしていたと言えばそれまでだけど、そんな事は気にならなったと言っても嘘じゃない。ここにはあの人とオレの二人だけだったのだし、こうして呼びかける必要が無ければ何の不都合も無かったから。
名は体を現すとか言うけど、あの人に名前なんてものは要らないのかもしれない。それだけ、存在が強烈過ぎる。
少しふらつくような身体で、一歩二歩踏み出し庭が見えるようになったら、彼はそこに立っていて庭に水を撒いていた。
たったそれだけの動作が、やけに艶かしいのは情事後だからだろうか。さっきと違う浴衣を着ている事が、それを彷彿させる。
「起きた?」
こっちの方を振り向いた時、オレに気づいた彼は満開の向日葵を背に微笑む。
「よく寝てるから、起こさなくちゃならいかと思ったよ」
自発的に目覚めてくれて良かった、と笑う。
よく見てみれば、広い庭なのに咲いている花といえばその背丈の高い向日葵しかなかった。
「……ヒマワリしか無いんですか?」
他に言うべき事はあるだろうに、判断力さえ欠落している今は見た事しか言えない。
「うん」
と、彼はあっさり頷いた。
「僕は、花と言えばこれかチューリップしか知らないからね」
断言できる所が凄いなと思う。
「オドロキくん、冷やし飴飲む?」
彼はにっこり笑ってオレに訊く。
「えっ?」
吃驚したのは、冷やし飴が何なのかという事や彼がとても愛想がいいからじゃなくて、オレの名前を知っていたからだ。まだ何も、自己紹介もしていないのに。
名前すら知らない相手と、オレはあんな事をしでかしたのか。これがバレたら一体何処の人から怒られるんだろう。
きょとんとするオレに、彼は説明をくれた。
「だって下着に書いてあったから。”3−3 王泥喜法介”って。フリガナつきで」
「へ?…………っ―――――ッッ!!!!」
ようやく、正常にオレが機能し始めたみたいだ。羞恥に顔が赤くなっていくのが判る。
「い、いや!それ!6月に修学旅行に行って、大浴場に入るから下着には名前を書いとけって!プリントに書いてあって!!」
動揺し過ぎて説明する順番がバラバラだ。
あああ〜、オレは何だってこんな日にタンスのあった下着をほいっと掴んで着てきたんだ!新調くらいしておけばいいのに!!
恥ずかしい……
あんな事して、こんな事を恥ずかしがるのも変だけど。いや、余計に恥ずかしいのか?
ひたすら赤面するオレに、あの人は可笑しそうに笑っている。
その笑顔を見ると、まぁいいかな、と思えてきた。何がいいのか、判らないけど。
さっき巻いた水のせいだろう。陽炎が出来て、その向こう側にいる彼の姿も歪む。
なんだか、彼が蜃気楼の中にだけ居る、夏が見せた幻のように見えた。
お猪口より一回りくらい大きいサイズのグラスに、並々と注がれた冷やし飴はとても甘くて後味がさっぱりしている。酷い夏バテや夏風邪の時でも、これは飲めそうだな、と思えるくらい。
1杯目は殆ど一気に飲み干してしまい、まだ要る?と訊かれたからそれには素直に甘える事にした。
「成歩堂さんって、京都の人ですか?」
3杯目に口を付けた時、オレはようやく冷やし飴という名前に引っ掛かっていた事柄を思い出せた。小学校の修学旅行には、京都に行った。その時、この冷やし飴という単語のついた幟をちょくちょく見かけたんだ。そして、それ以外に見かけた事が無い。
なので早速尋ねてみる。
一応、名前は教えてくれたけど(それも多分不可抗力にもオレの名前を知ったお返しからだと思う)今まで何をしてきたのかという事は闇の中もいい所だ。そもそも、名前だって戸籍を調べた訳じゃないから、果たして本名なのかどうか。
オレとは対照的に、成歩堂さんは1杯の冷やし飴をちびちびと飲んでいた。舐めるように。
「僕は違うよ」
そして、そう答える。
(僕”は”、ね………)
成歩堂さんが誰かの愛人のような事をする為に、ここに居る間違いない事実のようだ。
どんな人なんだろうか。
果てしなく気になるような……割とどうでもいいような。
目の前にこの人が居るなら、後の事は結構気にならない。
いや、気になるのが1個ある。
「……成歩堂さん、怒って無いんですか?」
壁際に追い込まれた時の、あの迫力が嘘のように消えてしまっている。でも、嘘でも夢でもないのはこの身体の怠惰感が証明していた。
「え、どうして?」
そこでこの人にどうしてと首を傾げられるとは思ってなかったな。
「だって、来るなって言われたのに来ちゃった訳だし………」
言いつけ破った本人が説明するとなんとも見っとも無いものがある。段々声が小さくなっていった。
合点が行ったのか、成歩堂さんはああ、と呟いた。
「まぁ、こうならない為に来るな、って厳しいめに言ったけどさ。だから、こうなっちゃった以上は特に怒る必要もないんじゃないかな」
………そんなものかなぁ。
怒られるよりうんといいけども。割り切っているというかさっぱりしているというか。
淡白っていうか。
大概オレもあっさりしているとか言われるけど、きっとこの人程じゃないだろう。
その後また成歩堂さんは何処かに引っ込んで、冷たい緑茶とワラビ餅を持ってきた。オレもここまで来たら遠慮はしないで、もしゃもしゃ食べる。
それにしても、成歩堂さん結構普通に動くなぁ。オレはまだだるいのが抜けきらないのに。やっぱり、初めてやったからだろうか。経験の差って大きい。
このままずっとだらだらしていたいけど、そうもいかないだろう。日が暮れる前には、帰らなければならない。
あ、そういえば自由研究のテーマまだ見つけてないや。学生の本分を疎かには出来ない。
うーん、一気に味気ない現実に戻されたな…… 身体の至る所に余韻や名残が残っているから、いまいち実感沸きにくいけど。
頭を抱える代わりに頬杖をつく。その時、ちらりと向日葵の黄色が見えた。
(……そうだ………)
かなり画期的なアイデアが閃く。
「成歩堂さんっ」
「うん、何?」
のんびり緑茶を飲んでいた成歩堂さんは、大きな声のオレに瞬きした。
「ここのヒマワリ、自由研究に使っていいですか!?」
「……自由研究?」
その単語に、また瞬きした。
「はい、そろそろ準備しないとまずいんですよね。色々と」
「……そうか。オドロキくんは学生なんだっけ」
やや顔を逸らし、呟く成歩堂さんだ。オレは何だと思われていたのか。
「今からヒマワリの種植えても半端なものしか出来ないし。ここのを使わせて貰えたら、オレ結構都合がいいんですけど。
……やっぱり、ダメですか?」
いくらなんでも、厚かましかっただろうか。
そう不安に思っていると、成歩堂さんが手を伸ばして頭を撫でる。指にあの熱さは引いていて、人肌の温もりがある。
「ううん。全然構わないよ。好きにして」
やった!
これで課題はクリアになるし、それにかこつけてここにも来れるってもんだ!まさに一石二鳥!
自分の思うとおりに事が運んで、それにばかり浮かれていたオレはその時成歩堂さんが何を思って承諾したのか、なんて全く考えなかった。
後から思うに、そういう大義名分をつける事で昨日や今日にオレがここに来た事を、別の目的に摩り替えられるようにと、成歩堂さんはそう慮ったのかもしれない。考えれば考える程、そうとしか思えなかった。
その時の成歩堂さんは、喜ぶオレを嬉しそうに見て、微笑んでいた。
***
とりあえず尺が90分くらいの昭和の映画みたいな感じを目指してみました。