くも―前編―



 2週間ほど前から僕の部屋の隅に、一匹のクモが巣を張っている。
 昼間、どうしているか解らないけれど。
 僕が居る時はじっとして、窓の外を眺めているようだった。




 ――僕は毎朝嫌で仕方がない。
 また今日も長い1日が始まる――そう思うと。

 ――だるい。



「……あれ、上履きが……」
 昇降口に行くと、僕の上履きは下駄箱に入っていなかった。 
 どうしよう……
 このまま行ったら、皆に笑われる……
 僕は必死に探したけど、見つからなくて。そうしている内にチャイムが鳴り響いた。
 仕方無しに、上履きを履かないで廊下に上がる。靴下越しに、足の裏が汚れていくのが感じられた。
 静まり帰った廊下に、担任の点呼が聴こえる。やばいな、僕のクラスも、きっともう始まってる……
 小走りに駆け、自分の教室へと辿り着いた。案の定、クラスメイトの名を上げる先生の声が聞こえる。
「成歩堂。……成歩堂。休みか。
 まったくあいつは、ただえさえ存在感が薄いのに欠席はいかんなぁ」
 先生のセリフに、皆がクスクスと笑っている。
「……先生、僕、居ます……」
 カラカラと戸を開けて入る。途端、皆の目が僕の足元に集中した。先生もそれを見て、溜息と一緒に言う。
「……何だ、成歩堂。その泥足は。おまえ、貧乏で靴売ったのか?」
 それに、どっと笑い声が起こる。
「………そんなわけ……」
 そんな訳ない、と言いたいのに、声が上手く出てくれない。惨めな気持ちを誤魔化すように、頭を掻いた。
「ともかく遅刻だ。放課後、教官室に来い!」
 そう言って、先生は出欠席の続きを取っていく。
 席に向かおうとすると、僕を見てにやにやと笑う連中が居るのが否応にも見える。そいつらが僕の上履きを隠したんだって、解るのに、僕は何も出来ない。
 俯くと、汚れた足元が目に入る。
 これが、僕の日常だった。

――いつか。
 いつか嵐がやってきて、この世の汚いものや、僕の憎む全てを吹き飛ばしてくれると。

 16年間。僕はずっと思っている。


 放課後。朝言われた通り、僕は教官室へと赴いた。長い影が一つだけ、廊下に出来る。
「失礼します……」
 小さくノックして、入る。居ないといいな、と思う淡い僕の願望は叶わず、先生は居た。机に頬杖をついて、呆れた口調で言う。
「オマエなぁ、成歩堂。今月に入ってもう何回の遅刻だ?」
 ……つまり、それだけ僕は上履きを隠されてるという事なんだな。
 項垂れる僕に、先生は尚も言う。
「だいたいオマエ、やる気あるのか。いつもボーっとして。
 覇気が無いんだよ、覇気が」
 先生は立ち上がり、僕の背後にと回った。
「…………ハイ」
 少しでも早く説教を終わらせたくて、僕は反論しないで相槌だけ打った。
「ハイじゃないだろ?このままだと、進学も危ういぞ?」
 留年……は、困る。でもどうすればいい?
 止めてと言って止めてくれるとも思えない。
 ……そもそも、僕に言える勇気が無い。
 うっかり口を出して、今以上にイジメられたらと思うと、何もしないで現状のままを保ちたいと思う。
 打破出来ないのなら、せめて悪化もないように、と。
「………………」
 言葉も無くただ沈黙する僕を、先生は。
 突然、後ろから力強く抱き締めた。
「―――っ………!?」
 先生は背後から、息がかかるくらい近くその顔を僕に近寄せた。
 ……気持ち悪い。
 振り解いて逃げたいのに、体が動かない……!
 ドックンドックンと大きく鼓動する胸の上を、先生の掌が這う。シャツの間に入り込む。それを眼で見ながら、僕はどうする事も出来ないで居た。
 耳元で先生が囁く。
「……まあ、何。他の事で挽回すればいいんだから……な?」
「………………」
 口が戦慄いて、叫ぶ事も出来ない僕に、先生は更に言った。
「……誰にも言うんじゃないぞ。じゃないとな、オマエ一人くらい退学にさせるのは簡単なんだ。
 俺は理事長の甥だからな。オマエみたいな生徒一人、どうにもできるんだ」
 誰か助けて、と思った時。
 助けてくれる人が誰も無いのを、気づいた。


 ――お腹が痛い――
 ――頭も痛い――
 晩御飯で母親の呼ぶ声がしたけど、僕はそれに答えもせずにベッドにうつ伏せていた。やがて、その声も消える。
 夕方の薄暗い自室で、僕は一人きりだった。

 ――イタイ――
 こんなに痛いのに、どうして誰も気づいてくれないんだ――

 どうしてこんなに苦しいんだろう。僕が何をしたっていうんだ――

 色んな事をぐるぐる思う。その先の底が見えない。
 僕は、ずっと。
 こんな風に生きていくしかないんだろうか……
 カサカサと音がした。
 何かと思って顔を上げれば、あのクモだった。見ると、その巣に別の大きなクモが居て、小さなそのクモはその大きなクモに追い詰められていた。
 ……可哀想に。
 小さくて弱いから、食べられちゃうんだ。  
 小さなクモがついに大きなクモの手に捕らえられる。
 大きなクモの牙が、小さいクモへと向かった。

 小さくて
 弱いから

 食べられても、仕方ない………

 ――パシッ
 小さいクモが食べられようとしているその瞬間。
 僕は定規を手にし、それで大きなクモを巣から叩き落した。
 落ちたクモは、そのまま部屋の隅へと逃げて行った。
 小さなクモは――首元に大きな傷をこさえよろよろしていたけど、まだ動いていた。どうやら、生きてはいるようだった。
 侵入者が消えると、小さなクモは元の定位置へと戻って行き、そこへと納まった。
 小さなクモは、それでもその巣を離れていかなかった。
 危ない目に遭うのに、どうしてだろう……
 そこには、何かがあるんだろうか……
 僕が見ている先で、クモはじっとしていた。


 次の日。
 物凄く突然に転入生が来る事になった。皆、その話題で持ちきりで、僕の方へ意識が向かないのがありがたい。久しぶりに何事も無く、今日を過ごせそうだ。
 それにしても、なんでこんな急なんだろう。それについて、前の学校を退学したからだとか親の離婚だとか、周囲では勝手な憶測が飛び交っていた。
 やがて、先生がその転入生と連れだってやって来る。
 まず先生が教室に入り、その後ろに転入生が少し見せた。
「わっ………」
 彼が入って来た時、開けられた窓と戸の間に風が通った。
 ひゅぅ、と軽く過ぎ去っていく風に煽られ、その転入生の髪が揺れる。
 僕は相手の姿を確認して、目を見張った。
 ――綺麗な、とても綺麗な人だった。
 同い年の男性に対して綺麗なんて使うのは可笑しいかもしれないけど、でもそうとしか言いようが無かった。
 その揺れる髪も、切れ長の双眸も、まるで誰かが秀麗さを意識して作ったように整っている。
 女子にとてもモテそうな顔立ちだけど、生憎ここは男子校だ。でも、男の僕から見ても、彼はとても魅力的だと思える。
 世の中には、こんな風に生れ付いている人もいるんだなぁ、と。僕は思わず彼を見つめてしまった。彼に見惚れている僕の耳に、先生の口上が流れ込む。
「転入生を紹介する。御剣怜侍くんだ。ご両親の仕事の都合で急遽こちらへ来る事になった。
 向こうの学校では非常に成績優秀だったそうだ」
 顔もいいのに、頭もいいんだ……凄いなぁ……
「えー、席は一番後ろの、成歩堂の横という事でしばらく」
 そういえば、僕の横の席は空だった。必然の流れなんだろうけど、僕の近くに人が来るというのが何となく思いつかない。
 彼は――御剣は、まるで軍人かモデルのようにつかつかと真っ直ぐ自分の席に、つまり僕の隣へとやって来た。近くで見ると、改めて整った顔立ちというのが解る。
 僕のすぐ前にまで来た御剣は、僕に、にこ、と優しく微笑んだ。
 元の作りがいいせいか、凄く綺麗な笑みだった。しかもそれが自分へ向けられたものだと思うと、ドキンと胸が撥ねて何だか顔が熱くなってくる。
 御剣は僕に言う。
「よろしく、成歩堂」
「えっ……あ、……う……うん……」
 こんな風に普通に話しかけられるなんて、もう滅多にない事だったから、僕はとてもドギマギしてしまった。凄く嬉しいのに、普通に返事を返す事が出来なくて、僕は御剣に不格好な挨拶をした。変に思われたかな。
 それを笑ったのは、御剣じゃなくて周りの連中だ。
「成歩堂の隣だってよ」
「転校早々気の毒になぁ」
 周囲か聴こえる囁き声に、熱に浮かされていた僕の意識が一気に現実へと引き戻された。頬に集まっていた熱も、あっという間に下がる。
 ……ああ、そうだ。
 御剣はまだ僕の事を知らないから、声もかけてくれたし、笑ってくれたりしたんだ。解ってしまえば、今すぐにでも離れていくだろう。
 ……無視されるのは構わないから……せめて、あいつらと一緒になって僕をイジメたりしないといいな……
 泣きそうになるのを堪え、膝の上で拳を握る。
 と、不意に。
 周りの声が止み、水を打ったように静かになる。
 どうしたんだろう、と顔を上げると、御剣がその鋭い目で囃し立てる周囲を睨みつけていた。その顔は、さっき僕に微笑みかけててくれた優しい表情とは違い、怒りに満ちている。それに気圧され、皆は沈黙していた。
(…………どうして……?)
 悪口を言われたのは、僕だけなのに……
 御剣には、関係ないのに……
 御剣のその態度に、さっきとは違うざわめきが教室に起こる。
「なんだ、あいつ………」
「睨んでるぜ……」
 陰口の対象が、僕から御剣へ移る。
 でも、御剣にはそれにはまるで興味が無いように無関心な素振りを見せ、何事も無かったかのように席に着いた。


 ――それが、恐怖の始まりだとは。
 この時、誰も知らなかった――




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そんな訳でWパロです。西.炯.子の「くも」。
Wパロっていうか元ネタというか。まあWパロだな。