ミオソティス.4



 目的地は、電車で2時間もかかるような僻地だ。気持ちは焦っていても、電車の速度は上がらない。それがじれったい。酷くもどかしい。
 早く早く。もっと、早く走ってくれよ。
 早く、着け。
 早く――会いたい。


 まだこの日の約束を交わした事しか思い出していないけど、袋に空いた小さな穴のように、そこから少しずつ少しずつ記憶の欠片が零れ落ちていく。
 みぬきちゃんや茜さん、牙琉検事との出会いや、今までしてきた裁判の事。
 弁護士になろうと思った時の事。弁護士になった時の事。
 成歩堂さんに初めて会った時の事。
 最初、全部包み込んだような胡散臭い笑顔しか見せてくれなかったのに、段々と素の顔を見せてくれるようになって、オレはちょっとでもそれが見れたら凄く凄く嬉しくて。
 会いたい。成歩堂さんに会いたい。
 会いたくて仕方ない。それをどうしてと疑問に思う事も追いつかないくらいだ。
 電車が駅につくなり、オレは全力で車内から飛び出し、数人にぶつかってそれを悪いとは思いながら謝る余裕すらなかった。
 改札口から出て、オレは途方に暮れかけた。
 これから先、どこへ向かえばいいか解らない。
 動揺のあまり、せっかく今まで思いだした事もまた忘れそうになるのを、ゆっくり呼吸してそれだけは抑えた。
 もう忘れない。絶対、忘れるものか。
 少し落ち着くと、視線を感じた。正確に言うなら、その人がオレを見ている事が解った。
 茜さんと同じか、少し下くらいだろう。一風変わった着物を着たその女の人は、確かにオレを見ている。見ているというより、「見つけた」という感じだ。その証拠に、その人はオレの方へと向かって行く。
「みぬきちゃんから連絡貰ったから、もうすぐ着く頃だと思ってたんだ」
 その人は喋るとより若い印象を与えた。ほほ笑んだ顔があどけない。
 みぬきちゃんという知人の名前を聞いて、オレは纏っていた警戒心を全部解くまではいかないけど半減以下にさせた。それを計算してみぬきちゃんの名前を出したら大したもんだけど、こうして見る分にはどうやら天然でやってるようだ。
「ほら、行くよ。早く早く!」
 まるでオレが急いでいるのを解っているように、その人は駆け出した。決して軽装とは言えない服なのに、結構足が速い。オレは追い付くのに精一杯だった。
 アスファルトではなく、木々を切り開いて作ったような道を行き、大きな民家が集う群れが見えた。しかし、そこが目的地では無いようだった。オレも、何となくそんな気がした。
 その村のような場所からさらに走り、家が一軒も無くなった頃、やはり斜面を切り崩したような土の階段が見えた。ここを上った丘は、きっとさっきの村が見渡せるんだろう。
 その階段の前で、その人は止まった。そして、オレを振り向く。オレの顔を見て、その人はゆっくり頷いた。
 オレはなるべく深く頭を下げて、その階段を駆け上る。今までの走行で大分体力を消費したけど、そんな事を言ってられない。
 居るんだ。この先に成歩堂さんが。
 走り去るオレの視界の隅で、あの人がいってらっしゃいと、手をひらひらと振っているのが見えた。


 階段を駆け上がる毎に心臓の音が大きくなる。それは運動して息が上がったからじゃない。
 成歩堂さんに、会える。たったそれだけの事で、胸が壊れそうに鼓動する。
 会いたい、会いたい。
 会って何をするのか何をしたいのか、そんな事はちっとも分らないけど、会いたくて会いたくて、もうどうにかなってしまいそうだ。
 最後の段を踏み越える。予想はあった。そこは、墓地だった。
 間隔が窮屈にならない程度にぽつりぽつりと墓石が並んでいて、従来のものとは大分違う印象を受けた。まるで広場のように広々として見えて、墓場独特の陰鬱さが微塵も感じられない。夕日に墓石が照らされるこの光景は、むしろ美しいと称えられそうな気さえした。
 その中で。
 その風景に溶け込むように、ひとつの人影がある。
 一番小さくて古い墓石の前で、静かに佇んでいる人が居る――

「成歩堂さんっっ!」

 それが誰だと解る前に、オレはもう叫んでいた。


 その声の主がオレだというよりも、単に大きな音に驚いたように成歩堂さんはこっちを向いた。
「…………オドロキくん?」
 小さく、呟くような声でも、他に誰も居ないこの場でははっきりとオレの耳に届いた。成歩堂さんは、オレがここに来たというのが不思議でならないというように、きょとんとしていた。見開かれた黒目がちの双眸。オレはそれをもっと間近で見た事がある。オレの姿が鏡のように映るくらい。
 成歩堂さんは、ニット帽も無く、パーカーですらなくて黒いスーツを着こんでいた。

 ――青いスーツじゃ、ないんだな……

 オレがそう思った途端に。
 そんな他愛ない事で、記憶が一気に溢れた。


 全部思い出した。何もかも。
 あの夜、何があったのかも。
 そうだ、あの夜、仕事終わりの成歩堂さんと落ち合う約束をしていて、でもオレは待てなくてかなり早い時間に待ち合わせの場所へと行ってしまったんだ。
 そこで立っていたら、向こう側から誰かが来て。
 こんな道に人が通るなんて珍しいな、と思っていたら、その人が倒れこむようにオレへと近寄って来て、次の瞬間軽い衝撃と熱い感触を腹に感じた。
 刺された、と思ったのはその人がかなり後ろへと歩いて行った後だった。激痛がオレを襲う。意識が霞む。
 それでも、オレは足を必死に動かして場所を移動した。成歩堂さんの働く店へと歩いて行った。
 助けを求めたという以上に、この近くに刃物を持った物騒なヤツがいるのを成歩堂さんに教えなくちゃと思って。
 危険だから、気をつけてって言おうと思って。
 何とか辿り着いたけど、その時にはもうかなり気が遠くになって、とてもドアを叩いて成歩堂さんを呼ぶ力は無かった。オレが店に着いてから、どれだけ時間が過ぎたのか。すぐだったのか結構間があったのか、解らないくらい意識が混濁してきた。
 オドロキくん、オドロキくん、と2回オレを呼ぶ声がした。最初、オレが座り込んでいるのに吃驚して、次は血が出ているのに気づいたからなんだろう。声の調子で何となく解った。
 あまりに悲痛な声で呼ぶもんだから、いつもみたいに大丈夫です、って言おうとしたのに口が上手く動いてくれない。
 それで情けないなぁ、って。凄い自己嫌悪して。
 こんな自分、嫌だなとか思って。
 まさか、それで全部を忘れちゃったんだろうか。
 だとしたら、オレは本当に、なんて馬鹿なんだろう。
「成歩堂さん!」
 もう一度オレは叫んで、成歩堂さんに向かって走り出した。
 また、涙が浮かんできて視界がぼやける。
 体当たりをするように成歩堂さんに抱きついて――全部思い出したんだっていう説明するのももどかしくて、強引に顔を引き寄せて我武者羅に口づけた。
 柔らかくて温かい。一瞬息を詰めたのが、そのままオレに伝わる。
 不意打ちの口づけだったからか、薄く開いた口から舌を差し込む。後頭部に手を回し、より深いキスをした。舌で下の付け根の所をなぞると、成歩堂さんがピクリ、と小さく震えた。
 ああ、覚えてる。うん、成歩堂さんはここが弱いんだ。
 あと、耳も弱いし、脇腹はどっちかといえば左の方が敏感で、膝の裏とかもなぞると結構――
「ん、ぅ、んっ……んん―――っ!!」
 呻くような声がしたと思ったら、強引に口づけを解除された。勿論、成歩堂さんに腕を掴まれて。そして引き剥がされて。
「〜〜〜〜っ!な、何するんだよこんな場所で―――!!!」
 びばったーん!
「へぶ!」
 強烈な平手打ちを食らい、堪らず卒倒した。これは効いた。脳が揺れる。
 ……そう言えば、ここって墓地だったよな。いや、忘れた訳じゃないけど、頭からスポーンと抜けてたっていうか。それどころじゃないっていうか。
 ちょっと怒っているような成歩堂さんは顔が赤くて、息が乱れている。何かもう、色々堪らない表情だ。
 そして、スーツの乱れを直していた。
 …………。
 どうやら、オレは手まで出していたらしい。
「………。オドロキくん。……思い出した………の?」
 最後の最後で不確定要素を付け加えるのが可愛いな、と思う。
 その顔見てたら、まだ涙がぼろぼろ出てきた。この人を可愛いと思える自分の気持ちがある事が、嬉しい。
 オレはこの人が好きだ。凄く、好きだ。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
「? 何を謝るの?」
「だってオレ、忘れてた。成歩堂さんの事も、全部。今日の事だって。大事な事なのに。なんで」
 どういう気持ちで成歩堂さんがこの日、オレを誘ったか解らない程愚鈍じゃない。
 後から思い出していいってものでもない。今日なんだ。今日だからなんだ。
 バッジを失ってから初めて、成歩堂さんは今日、ここへ来た。今日が、決着がついてから初めて迎える命日だから――
「うん。でも思いだしたじゃないか。ほら、泣かないんだよ」
 ぐずぐずと泣いているオレの頬へ、その涙を拭おうと成歩堂さんは苦笑して手を伸ばす。
 しかし、その手が頬へ触れる前に、オレが掴み取った。成歩堂さんは少し怪訝そうな顔でオレを覗き込む。
「そういう事、言わなくていいです。怒ってください。よくも忘れたなって、凄く怒ってください。
 オレが成歩堂さんを忘れた事、成歩堂さん悲しくなかったんですか?」
 オレと会っていない時、成歩堂さんは泣いてたんだろうか。あの日みたいに、悲しいのを必死に隠してでも泣いていたんだろうか。
 もしそうだったら、そんなのは嫌だ。怒られて恨まれた方がまだいい。
「……………」
 成歩堂さんは、じっとオレを見つめ。掴まれていない方の手を徐に伸ばし、頬へと伸びたそれは涙を拭う為じゃなかった。
 ムギュ、と頬を摘む。イテ、と小さくオレは声を上げた。
「次忘れたら……その場で思いっきり頭殴ってでも、思い出させてやる」
 そう言って、成歩堂さんはふてぶてしく笑う。
 それを見て、オレは頬を摘まれたまま、涙もぬぐわないまま、おそらくかなり不細工に、笑った。


 成歩堂さんは、まだ来たばかりで墓参りをまだ済ませていなかった。まさにギリギリセーフだった訳だ。
 花を差し、オレはとても緊張して手桶の水をかけた。そんなオレを、隣に立つ成歩堂さんはじぃ、と見ていた。頬に微かな笑みを浮かべて。
 その後、二人揃って手を合わせ、目を綴じる。
 今はもう居ない成歩堂さんの大事な人に何を誓おうかと考えてみたものの、オレはまだ何も大した事は出来ない。
 結局、た成歩堂さんが大切で大好きなんだという事ばかりを、ただひたすら想ってた。
 そんな最中に、風が吹く。
 心地よいその風は、オレの頭をまるで撫でるように通り過ぎ去った。
「……それじゃ、オドロキくん」
 成歩堂さんの声がかかる。
 オレは成歩堂さんを見た。成歩堂さんも、オレを見ている。きっと、同時にほほ笑んだ。
「帰ろうか」
「はい」
 オレは頷いて、歩き出した。
 成歩堂さんの少し後をついて。
 いつか、隣に並べるといい。
 その為にも、どれだけ打ち拉ぐ事があっても、決して逃げ出さないでいよう。
 きっと大丈夫だ。だって、オレは成歩堂さんの事が凄く好きだから。




<終>




+おまけ+
「……成歩堂さん、今日スーツなんですね」
「そりゃ、いつもの恰好で行くわけにはいかないだろ」
「………………」
「……何をじっと見てるの」
「今日はそのまま、」
「ダメ」
「……………。ちぇ」

そんな訳で記憶喪失ネタでしたよ。ワタシはホースケをわんわん泣かすのがえらく好きなようですね(朗らかに)
大いに泣けばいいじゃないか!ホースケなんて!


どうでもいい話として、この話を思いついた経緯をば。
某赤川原作のノベライズゲームのアレで、主人公の名前と性別が自由設定機能で、何をとち狂ってるのか(まあいつもだけどな☆)主人公の名前をホースケに、パートナーの名前をナルホドウ設定してプレイしたんですよね。まあパートナーは異性の同級生なんですが、それこの際無視をしてだな。
そんなこんなでうっはー!とテンション上げつつプレイして(こいつ本当どうしようもないな)そしたらまぁ、このゲームの最終話でとんでもない流れにですね。
具体的にどうこう言うのはネタバレになりかねませんのでちょっと触りを言うと、離れてしまったパートナーに会いたい会いたいって胸中で連呼しつつ相手が居る場所へと駆け出すシーンがあるんですよね。
で、前述したようにワタシはホースケとナルホドウでプレイしてますので。
おぉぉぉ…なんだかえらい事になったなぁ…と自分でした事ながら思ったものでした。

でもそのシーンにぐっとくるものを感じたので、最終的にそういうシーンになるような話を、って事でこの話を考え付いた訳です。
まあこの話はその他にも、思わず涙を零しちゃった成歩堂さんとか、ノートの最後に好きだと書いてあるのを見つけるシーンとか、そういうのを書きたいな、と思ったものでもあるので。むしろそれを書きたい記憶喪失話にこのラストを持ってきたという感じかな。上手い事繋がってうっしっし、と思います。一挙両得(?)

さらにどうでもいい事ながらに。
このゲームの対パートナー初の選択肢は、電車内で相手が眠っている時に切符拝見を求められてどうするってのなんですが。
複数ある選択肢の中、ホースケは迷わず眠っている切符が入っている成歩堂さんの胸ポケットへ手を伸ばしました。
胸ポケットへ。
胸へ。
叩かれました。当然ですね。(人事のように)
あと基本この主人公は友達のように馴れ合っている今の関係から一歩でも二歩でも進みたいと思っているヤツなので、全体的にもあちゃ〜な感じです。ホースケが。