ミオソティス.3




「――何か記憶喪失みたいだけど、オドロキさん。でも助かってよかったね、パパ。
 記憶が無くても生きていけるけど、命がないと生きていけないもん」
「はは、そうだね。
 ……あのさ、僕がずっと傍で看ていた事……オドロキくんには内緒にしてくれるかな?」
「………………。うん、解った。秘密だね」
「ありがとう、みぬき……」



 好きだと書かれた後は、もう何も書いていなかった。
 せめて告白したとか、それが成功したとか書いておけばいいのに。どうすればいいか、解らないじゃないか。
 成歩堂さん、泣いていた。目が疲れたとかゴミが入ったとかじゃない。
 泣いていた。あれは泣いていた。
 なんで泣いた?オレが記憶喪失になったから?
 今までの思い出を全部忘れたから?
 それが辛くて泣いた?
 泣くのを堪え切れなくなるくらい、辛かった?

 あの人にとって「オレ」はそこまで大切だったんだろうか?



 成歩堂さんは、あの日から事務所に来ていない。
 あの日とは勿論、オレの前で涙を零した日の事だ。
 そして、オレの記憶もまだ返らない。
 成歩堂さんの行方は、みぬきちゃんに訊いても「多分また極秘任務ですよ」とかケロっとしていて、その態度が余計にそれ以上の追及を許さないような雰囲気だった。彼女はきっと守りたいんだ。うっかり大事な記憶を無くしてしまった、馬鹿なでアホなオレから大事なパパを。そう考えると、オレを目が届く範囲におこうとしたみぬきちゃんの行動も理解出来なくもない。またうっかりオレがドジ踏まないか、監視しているんだろう。
 もし、オレと成歩堂さんがそれなりに親密な関係だとしたら、あんな夜更けの、人通りの全くないと言ってもいい路地での発見も、逢引の待ち合わせだったとして片付けられる。そして、うろ覚えだけど、オレがおぼろげに覚醒した時、それまでずっと傍に居てくれた人も成歩堂さんなんじゃないだろうか。本当かどうかは、オレじゃ解らないけど。
 あれから一週間経った。成歩堂さんの顔はまだ見ていない。
 ”早く会いたい”
 あの文が頭を過ぎる。


 あの日成歩堂さんが出て行った後のように、オレは事務所で一人きりだった。それまでは夏休みだったり、実力テストで早く授業が上がったりしていたみぬきちゃんだけど、ぼちぼち今日から平常運転が始まるようで昼を過ぎても事務所へは来ていない。
 まあ、9月もそろそろ一週間だからな。正確には、今日は6日だけど。カレンダーを見つつ、そんな事を思う。
「………………」

 ……9月……6日………

 どうしてか、オレの視線は6日の日付に釘付けになった。
 この日……この日に、何かあったのか?あるいは、何かあるのか?
 それとも、両方か?
 オレは立ち上がり、その日付を凝視した。何か見えるものが出てくる訳じゃないけど、じっとしてもいられない。
 ……6日……9月6日……
 思い出せ、思いだすんだ。記憶を失った訳じゃないんだから、思い出せれる筈なんだ。
 この日の出来事を、何で知ったか。文面だったか、光景だったか。はたまた、伝聞か。
 あるいは、何か約束でもしてたのか。
「……………」
 自分で思った事に、はっとなる。
 ……約、束………


 
――オドロキくん。この日、空いてるかな?……


「おっはよーございますっ!」
 微かな記憶の糸は、みぬきちゃんの挨拶の声でかき飛んだ。
「あれっ、オドロキさん。そんな所で転がってどうしました?」
「……い、いや、驚いたというか不意打ちに脱力したというか……
 それより!」
 尻もちついた状態からむく!と起き上がると、オレは下校したてのみぬきちゃんの前へ赴いた。
 しかし学校から帰ったばかりなのに、どうしてあのマント姿なんだ、この子は。まさかあのまま通ってるのか?
 いやだから、そんな事は後でいい!!
「ねえ、今日、何があるか知ってる?」
 みぬきちゃんは、それに軽く眼を見開かせた。心当たりはあるようだ。
「……何があるかを答える前に、何故知りたいかを教えてくれますか?」
 みぬきちゃんはやけに神妙な声で言った。なんだかオレは裁かれる被告人みたいな気分になった。
「何故といわれると……この日、何かあったなぁ、って思ったからっていうか……」
 そうとしか答えられないので、オレはそのままを伝える。みぬきちゃんは、そうですか、と静かに頷いた。笑ったりからかったりと、お茶目(では済まない時もあるが)な顔の時は幼いみぬきちゃんだけど、こういう真剣な顔になると同年代の子よりうんと大人びている。すでに稼ぎのあるプロとしての自覚や、乗り越えてきた過去の為だろう。自作の裁判記録を読んで、オレはその事を知った。
「確かに、今日は何かあった日です。オドロキさんも、おそらく知っていたかもしれません。調べれば解る事ですから。
 ……でも、みぬきからは教えられません」
「………どうして……」
 相手の雰囲気に飲まれるように、オレの呟きも低く掠れる。
「言って教える事は簡単です。
 でも、この日は、パパにとってとても大きな意味を持つ日だから。
 だから、みぬきの口からは言えません。パパの承諾無しに無暗に言いたくないんです」
「……………」
 言えないといいつつも、みぬきちゃんはこの日に過去がある事や、調べれば解る事だとオレに沢山の材料をくれた。
 葛藤しながらも教えてくれたみぬきちゃんに、オレは、それに感謝しなければならない。
 ……ならないんだろうけど……
「……ごめん……でも、教えて……」
 それでも、オレは尚もみぬきちゃんに乞う。それは困らせるだけだと、解っているのに。
「お願いだから教えて欲しいんだ。一刻も早く。
 オレも、記憶はないけどそんな気がしてる。オレなんかが首を突っ込んじゃいけない気がするけど、でもそれでも知らなきゃ。でないと、凄くとんでもない事が起きそうな気がする。
 あとから何しても、取り返しのつかない事が起きそうな気がするんだ」
「……………」
 みぬきちゃんは、何も言わずにいる。
「そんな凄く……大事な日だって思うのに……何も思い出せなくて……」
 情熱だけあって、全てが空回りしてるような。手を伸ばしても掴めれない、そんな虚しさ。
 何だか自分が情けなくて涙が出てきた。ここで泣けばみぬきちゃんを悪者にしちゃうのに、涙が溢れてしかたない。
 何でオレは記憶喪失なんかになっちゃったんだろう。こんなにも大事な日を控えていたのに。せめてこの日を迎えた後になればよかったのに。
 早く思い出さなきゃ。早く、早く。
 そんな風にプレッシャーを与えるのはよくないって言われたけど、今思い出さなければ例え記憶が戻った後でもそれまでが無になりそうな、焦燥感が募る。出来るというのであれば、オレは寿命の半分を使っても今日この日の事を思い出したい。
 焦れば焦るほど、頭の奥が熱くなって、目からはついに涙が零れた。一滴、二滴。地面に小さな丸を作る。
「…………」
 俯いているオレの視界からは、みぬきちゃんの爪先ぐらいしか見えない。でも、みぬきちゃんがゆっくり息を吐いたのは空気で解った。
「……今日は、パパのお師匠さんの、命日なんです」
「………――――」
 みぬきちゃんは、しっかりオレを見据えて言った。顔を上げて、それが解った。
 ――命日……
 その言葉を鍵に、記憶の一部分が拓ける。
 そして、倉院の里という地名と、そこへ行くまでの順路。それを思い出した途端、オレはみぬきちゃんに礼を言ったかどうかも怪しいくらいに急いで事務所を後にした。
 行くんだ、そこに。
 オレは、そこへ行くんだ!
 一緒に行くって、約束したんだ!!




――「この日さ、ちょっと付き合って欲しい所があるんだけど……」
――「………え、その日って事は、その、まさか、えーと、」
――「ダメかな?」
――「いや、ダメっていうか、オレなんかがその日に行ってもいいのかなって……イテテテ!」
――「……それ以上つまらない言ったら、もう片方も抓るよ」


 君だからだよ、と。
 少し怒ったように、あの人は言って、それからオレにキスをしたんだ。




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