ミオソティス.2
――オドロキくん、オドロキくん
暗い。真っ暗だ。
――嫌だよ、死んじゃ嫌だよ
意識はあるのに、手足が動かない。
一体、オレはどうなってるんだろう。どうなるんだろう。
――お願いだから、目を開けてよ
何をしてたんだっけ。何をしようとしてたんだっけ。
何も思い出せないな。
――そんなぐったりしてないで。いつもみたいに、馬鹿みたいに大きな声で、ダイジョーブですって言ってよ
ああ、今日は雨みたいだな。さっきから、水滴が顔にかかる。
――死なないでよ、生きてよ
お願いだから、僕を置いて、逝かないで――……
雨が一滴、口の中に入った。
――ねぇ…………法介ぇ……っ……
――しょっぱい。
記憶が無いとはいえ、生活するには金がかかるし、それを手に入れる為には働かなくてはならない。
何と驚く事にオレは弁護士だという結構インテリジェンスな職にあった。が、その知識もすぽーんと抜けている為、弁護士として働くのは無理のような気がする。少なくとも、今はまだ。
とりあえず、オレはオレという自分を知る為、非公開の自らつけた公判記録を認めてあるノートを手に取った。この自分の部屋には、久しぶり……いや、初めて入った。退院してからは、みぬきちゃんが強引に「記憶が戻るまで、ウチに泊まればいいですよ!」と引っ張って行ったからだ。オレはその迫力に負けるように、逆らう事無く彼女の要求に従った。なんか、体が逆らう事を諦めているような気がしてならない。記憶には弊害が起きても身体は以前のままだからな。妙な言い回しだけど身体は正直ってヤツだろうか。
このノートの存在も、みぬきちゃんが教えてくれた。みぬきちゃんがいうには、公判記録というより下手な自叙伝みたいな感じだった、との事だ。それをどうしてみぬきちゃんが知っているのか果てしなく気になるものの、それを聞いてオレはそれを読もうと思った。
オレの携帯電話は、襲われたあの時のせいで折りたたむ所から見事に真っ二つになってしまった。オレという個人情報は役所とかに行けば解る事だ。でも、どういう人間だったのかは解らない。何が好きで嫌いか、どういう時にどんな反応をするのか、という事は。
しかしいくら書いたのは自分とは言え、その記憶が全く無いとなるとまるで他人の日記を覗き見するような後ろめたさに襲われる。その場合、許すも許されるも両方ともオレなんだろうな。全く記憶喪失ってややこしい。
「………………」
罪悪感と闘い、意を決してページを捲る。テレビも着けていない室内で、その音は大きく聴こえた。
確かに公判記録というには砕けた文体だ。ほとんど日記と大差ない。事件の概要や捜査の進展。裁判でのやり取りに加え、端々にその時思ったちょっとした事が書かれている。例えば、この日の昼食は天丼だったけど、横でせがむみぬきちゃんにしぶしぶ海老を一匹あげてやった、とかそんな事が。
オレがこれまで扱った案件は4つ。その4つ目の裁判の描写も終わり、後は後日談が書かれている。裁判中に毒を飲まされたまことさんという女性は、かなり危険な状態だったらしいけど、無事に意識を回復したそうだ。「よかった」という単語が5つくらい書かれている。……あ、6つめ発見。
この案件の最後は、こう締めくくられた。
”そういえば、成歩堂さんが居ない。まだ他にも極秘任務があるのかな。”
そして、一行改行してから。
”早く成歩堂さんに会いたい。”
と、書かれてあった。
「…………………」
何となく、だけども。その文に何かの引っかかりを感じたオレは、もう一度日記(もう日記でいいや)を見返してみた。
そこで、「成歩堂さん」に関する部分を抜擢して読むと、その人に対する意識の推移のようなものが見て取れた。
徐々に「成歩堂さん」の事が増えていく。最初は「何なんだあの人は」とか「どうしてああなんだろう」とかいう苦言が多いけど、それだって気にしている事には変わりはない。
「オレ」は「成歩堂さん」の事が気になって気になって、仕方ないようだった。
オレも気になる。それは、何故なのかが。
とても。
そしてまた、最後のページについた。
でも、オレはまだページを捲った。
何かがまだ書かれているのを期待するように。
探すように。
もっと確かな事が知りたくて。
捲って捲って。
そこで手が止まる。
その一文を見た時、オレは胸がなんだか熱くなって、締め付けられるようで。
そう、記憶は無いけど。
身体は、何も変わらないから。だから覚えてるんだ。激しく鼓動する事は。
あの人の涙を目撃した時のように、胸の上を握りしめる。
オレはきっと、この文を零すように書いたのだろう。
悲しみに耐えきれず涙を落すように。
溢れる気持ちを抑えられなくて。
最後の前のページの一番下の行に、こう書かれてあった。
”オレは成歩堂さんが好きだ”
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