ミオソティス
午後5時半――
事務所の窓から身を乗り出し、オレは街の様子をぼんやりと眺めていた。
そろそろ空が赤くなり始め、子供達は帰路につく。友達同士だったり、母親に手を引かれながら。
とてもありふれた光景だ。
そんな全くな日常の中で、オレは記憶喪失という非日常にあった。
目が覚めれば薄暗い白い天井だった。
まず、ここはどこだと思った次に、それどころか自分が誰なのかすらも思い出せない事に気づいた。この時誰かと何か受け答えのような事をしたような気がするが、一時的な覚醒だったらしく、オレの意識は再び闇に沈んだ。何か声が聴こえた。オレの名前だったのかもしれない。解らないけど。
次に、本格的に目を覚ました時には室内は明るくて、オレの周囲にはちょっとした人垣が出来ていた。なんかジャラジャラした格好いいけどチャラい人や、素で白衣を着ていたり水色のマントを着ていたりする一風変わった女の人や女の子。どれもオレの知り合いだというが、名前すら思い出せない。
オレがチャラい人だと印象を持ったその人は検事だそうで(それを聞いた時、オレは世も末だなとか思った)、オレがどうして病院のベッドに横たわる破目になったのか、その経過を教えてくれた。検事が事情を説明するのだから、事件絡みなのは必然だった。
なんでも、ここ最近男子高校生くらいの年代を狙う連続通り魔事件が近所で起こっていたそうだ。それらの事件は連日ワイドショーを賑わせていたみたいだけど、オレにはさっぱり覚えがない。一緒に見たのに、とみぬきと名乗った子が言っていた。
で、オレはその最後の被害者という訳らしい。犯人はもう捕まっている。捕まったのは40代後半の冴えない中年で、取り調べによると以前に高校生らしき集団からカツアゲされた復讐だそうだ。つまり、オレは高校生に見られたようだ。……オレ、22(らしい)なのに。
最初、腕を切りつける程度だった犯行は徐々にエスカレートし、オレのひとつ前ではついに死人が出たそうだ。
それを思うと重症とはいえ生還出来た君はラッキーだったね、と牙琉検事とやらは冗談めかして言った。それはオレの緊張を解そうとしているのが解った。見た目は軽薄そうでも、中身はそうではないらしい。いい意味での、人は見かけによらないの典型だな。
左の下腹部を深くぐっさり刺されたけど、内臓に傷は無いようで、この傷さえ癒えればすぐに退院出来る。あと1ミリずれてたら危なかった、というから、オレは確かにラッキーなのかもな、と思った。それとは別に、オレは胸に妙な違和感を覚えていた。それを医師に言うと、レントゲンで見た分には骨にや臓器に異常は無いというから精神的な痛みかもしれない、との事だった。
そして、退院の日を迎えた。一応、精神科の先生とかが来て記憶を呼び起こそうとしたけど、無理だった。よく記憶喪失とかいうけど、本当は記憶障害というらしい。記憶そのものに喪失や欠如異変が起こったのではなく、思いだす機能の方に支障が起きている。まあ、結果としてはどっちも似たようなものだと思うけど。
電車の乗り方や買い物の仕方とかいう一般常識はちゃんと思い出せるのに、オレに関する事だけがそこへ接続するコードを無くしたように思い出せない。何だか、不思議な感覚だった。次の駅が何所なのかは解るのに、自分が誰か解らないなんて。
そして自分の周りの人の事も思い出せない。でも、向こうはオレを知っている。これもまた、妙な感じだった。職場だという事務所に行くと、連日オレに会いに誰かがやって来た。この事務所はこんなに人が来るものなのかな、とか思ったが後から訊くとみぬきちゃんがオレの記憶喪失を直すべく、顔見知りにそれとなく声をかけていたのだそうだ。
色んな人が会いに来た。女も男も、年下から年上も。どう見ても堅気とは思えない人もいた(が、その人は真っ当なお菓子屋さんだった)。
その中で、どうも苦手だと思う人が居る。
成歩堂さんだ。
一応オレの職場の先輩(?)に当たるようだけど、ぱっと見住所不特定無職みたいな風貌をしている。あまつさえみぬきちゃんのお父さんで、ピアノが弾けないピアニストで無敗のポーカープレイヤーだという。もうなんだか訳が解らない。
でも訳が解らないから苦手なんじゃない。何ていうか、オレに対する当たりが他の人と違うというか。他の人達は、皆記憶がないオレの事を心配してくれて、でもそれ以上に無事に退院できた事を喜んでくれた。
でも、成歩堂さんは、この人は。
多分、「オレ」を歓迎してないんだろうな、というのを感じる。
理論立てて説明は出来ないけど、何となくそう思う。そういう勘は、あまり外れないように思う。
何だろう……仲、悪かったのかな。でも、毎日見舞いには来てくれたし……みぬきちゃんと一緒にだけど。
しかし、見舞いには来てくれたけど、あまり話したりとはしなかったな。みぬきちゃんが話題を振って、それに軽く答えている程度だ。
まあ、好かれていないというなら、近寄るのは止めておこう……
とか思っているのに、なんでその人と二人っきりの状態になっちゃってるんだろうかオレってば。
みぬきちゃんがマジックショーへ出稼ぎに行ってしまったから、必然の結果とは言え……何か、空気が重いっていうか、そこはかとなく心苦しいというか……てかめっちゃ見られてるし……
ど、どうしよう………
ここで「じゃあ、失礼しました」とか言って帰っちゃったらあからさまに避けてます、ってのがバレるよな……これ以上の関係悪化を避ける為に、それはちょっとまずいような。
「…………。オドロキくんさ」
うわ、話しかけられちゃったよ!
「は、はい?」
思わず声も裏返ろうってものだ。気を紛らわすために見ていた雑誌を力強く握った為に、表紙に皺が出来る。
成歩堂さんはソファの背もたれに全面的に体を預けていたのを、やや起こしていよいよオレをまっすぐ見据える。……かなり居心地が悪い。まるで取り調べでも受けてるような感じだ。この心の奥まで探る様な眼も、何となく苦手の原因のひとつだ。
成歩堂さんはオレに言う。
「本当に記憶喪失なのかい?」
「え?……まあ、そうみたい……ですけど」
何を言い出すかと思えばそれか。と、いうか今更それか。
成歩堂さんはふぅん、と呟くような相槌を打った。
「僕もね、前に記憶喪失になった事があるんだよ。こう、後ろ頭をガツンとやられてね。あれは痛かったなぁー」
「はあ………」
割と物騒な事を言いながら、成歩堂さんは朗らかに笑った。ガツンとやられたって……その言い方だとまるで誰かに故意に殴られたようなんだけど……しかしそれより恐ろしいのは、それを笑いながら話すこの人だよな……
一体何をしてきたんだか……オレの過去よりこの人の昔の方がちょっと気になるぞ。みぬきちゃん、よくこんな人をパパにしておけるもんだ。感心する。
「思い出す時もガツンとやられてね。思えば、そっちの方が痛かったなぁ」
思い出すようにしみじみ言った。ふと、成歩堂さんは面白そうに意地悪そうにオレを見た。嫌な予感がする。ひしひしと。
「あ、そうだ。キミも思いっきりガツンってやれば記憶戻るかな?」
「!!!??」
本気でやりそうな気がして、思わずオレは腰を半端に上げて逃げようとした。
しかし、そんなオレに、成歩堂さんのあまりに軽い笑い声がかかる。
「あはは。冗談だよ、冗談。記憶なくてもやっぱり面白いなぁ、オドロキくんって」
「……………………」
……世の中には、言っていい事と悪い事があると思う。そしてこれは悪い事だ。オレはそう思わずにいられなかった。
全く本当に何なんだこの人は!最初の病室でだって、この人は一度も「助かってよかったね」とかオレに言っていないんじゃないか!いや!別にそれに腹を立ててる訳じゃないんだけど!!記憶喪失だからって、腫物扱いもごめんだけど!
牙琉検事の話によれば、救急車を呼んでくれたのはこの人らしい……けど。でも、そもそも、どうしてその場にこの人は居合わせて居たんだ?時間は午前1時過ぎだそうじゃないか。そんな時間に歩いているオレもオレだけど、そんなオレを見つけたこの人も、何だか怪しいっていうか。
もしかして、この人がオレを刺したんじゃないか、とか。まあ、それはないとは思うけど。
「ねえ、オドロキくん」
また、オレに声をかけた。笑ってはいるものの、どうもその笑みが胡散臭い。むしろ嘘臭い。
成歩堂さんは言った。
かなりとんでもない事を。
「一か月前、僕たちはここでキスしたんだよって言ったらどう思う?」
「……………。また冗談でしょう?」
もう騙されないぞ。騙されるものか。いくら記憶喪失だって、オレとしてのプライドもあるし意地もある!
軽く睨んだオレに、成歩堂さんは身体を揺するように笑った。
全く、何が楽しんだか。オレは精いっぱい気分を害した事をアピールするように成歩堂さんをジト目で眺める。
成歩堂さんはまだ笑って。
その時、右目から一筋涙が零れた。
「………………」
ぽろり、と。
取りこぼしたように、一滴だけ。それは頬を伝って顎から滴り落ちた。
平手打ちを食らったような、水をかけられたような。そんな衝動見舞われオレはハッとなって、ジト目だったのを軽く見開いて成歩堂さんを見つめた。
自分の目から涙が出た事に気づいたらしい成歩堂さんは、何気なく手を上げ機械的な動作で涙を拭う。
オレは声を投げかけたりもせず、ただそれを眺めていた。
目も逸らさずに。
オレの腕は、無意識に胸の上の辺りの服を掴んでいた。――胸が痛い?
ドクリ、と何所かが脈打った。
「んー……目が疲れたかな?」
それだけ言って、僕も仕事あるから、とまた似非臭い軽い笑みを顔に乗せ、成歩堂さんは事務所から出て行った。
一人残されたオレは、今さっきの事を思い返していた。
……泣いていた……んだよな。多分。涙流してたし……
あれは……うん。涙だ。間違いない。他に見間違えもない。
……オレが泣かしたのか?他に誰も居ないし。今の交わした会話の中で、どこにそんな要素が潜んでいたのか全く思い当たらないけど。
まあ、生理的な理由で、悲しくなくても涙は出るけど。ゴミが入ったとか、成歩堂さんも言ったように眼が疲れたとか。
でも。
どういう訳か、目を覚ました時から左手手首にずっと嵌っている腕輪。
さっき、成歩堂さんが目が疲れたとか言った時。
この腕輪が、手首を締め付けたような気がした。
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ベタに記憶喪失ものです。ベタやなーとか言えばいいじゃないか!
ちなみにミオソティスは勿忘草の事です。
花言葉は真実の愛です。
が、そんなにロマンチックな事は起きないかと思います(えー)