始まりのそれから。



「………御剣検事……週末は空いてるッスか……?」
 なんかついこの前もこんな風に週末の予定を聞かれたような気がするな、と思いながらも御剣は糸鋸を向き直った。御剣が「空いていたらどうだというのだ」と返す前に、糸鋸は言う。とても陰鬱な空気を背負いながら。
「……これ、映画のチケットなんスけど……よかったらあげるッス………」
「ム?」
 ずぃ、というよりのそり、と差し出されたそれは紛う事無き映画のチケットである。定評のある人気脚本家が制作する映画で、流行にとても敏感とは思えない糸鋸にしては結構いいチョイスだと御剣は思った。
 で、だ。
 御剣が引っ掛かったのはそこでどうして糸鋸が自分にチケットをくれるか、というよりもそのチケットが2枚だ、という事だ。つまり、2人が行くことを前提してこのチケットは事前に購入されている。
 しかし、目の前には非常に暗い糸鋸が1人。
「…………………」
 御剣は黙って受け取ってやるのが優しさというものだな、と思った。いい加減そのくらいは解るお年頃だ。
「………何だ、本当にギリギリではないか」
 糸鋸の訊いた今週末が期限だった。それを見て、御剣が呟くように言う。
「ヤッパリくんにあげるか、誘ったらどうッスか?どうせ暇に決まってるッス」
 糸鋸は何気に失礼な事をほざいてくれた。同刻、成歩堂がくしゃみをする。
「………………」
 ヤッパリではなく成歩堂だというのに、といういつもの注意を忘れ、御剣は浸っていた。
 映画。成歩堂と、映画。
 思えば想いを自覚してから、以前のようにちょろりと二人でどこかへちょっと出掛ける、というのが疎かになっていた。と、言うか毎日顔を見るだけで幸せでいっぱいいっぱいになってそれ以上の考えが頭を過ぎなかったというのが実情だが。
(多分、映画は2時間半くらいだろうな。チケットはすでに購入済みなのだから、食事がゆっくり出来る)
 その後は、そのまま自分の部屋にでも招いて寛いで貰おうか。それなら、成歩堂は結構飲むから、つまみになりそうなのでも買っておかねばな、と御剣は休日に向けて算段し始める。
(………何故ッスかねぇ………御剣検事の顔が、遠足前日におやつを買う小学生みたいな表情に見えるッス……)
 鼻歌でも歌いだしそうに、手帳に大事にチケットを挟む御剣を見て、糸鋸はそう思った。


 事務所の前にまで着いた。御剣は車から出る前に、手帳からチケットと取り出してポケットに移す。部屋に入ったらすぐにでも成歩堂に渡そう。そして一緒に行こうと誘おう。
 逸る気持ちを感じながら、御剣はゆっくりと階段を上がる。
 ドアを目の前にした所で、室内が思いのほか賑やかなのに気づいた。
 今日は真宵と春美の両方が来ているのだろうか。ここまで騒いでいるならノックはあらゆる意味で無用だな、と御剣はドアを開けた。
 真宵と春美が居るという御剣の予想は正しかった。そこまでは。
 室内には、もう一人居た。勿論、成歩堂の事ではない。
「じゃあね、じゃあね。夜はナルホドくんの奢りだよっ!勿論、ゴドーさんの分もね」
「奢ってくださいね、なるほどくんっ!」
「クッ………奢られちゃうぜ」
 真宵と春美が成歩堂の周りをぴょんぴょん撥ねるように言い、神乃木はソファに小憎たらしいくらいゆったり座っている。いつも通り、コーヒーを携えて。
「悪いけど、あまり高いものは期待しないでくれよ」
「当然。影の所長であるこの真宵ちゃんが、なるほどくんの財政状態見抜けない訳がないじゃない!」
「……だったら、お茶菓子のつまみ食いも控えてくれると嬉しいんだけど」
 真っ当な成歩堂の反論に、真宵は口笛を吹いてすっ惚けようとした……が、口笛が出来なかったので声で「ピーピー」と言った。
「まあ、そういう訳で。やたぶき屋のみそラーメンでいいから。ただし!チャーシューメンである事は譲れないよ!」
「……どういう訳かは知らないけど……まあ、いいよ。春美ちゃんもそれでいいかな」
「はいっ!みそラーメン大好きです!」
 春美は元気よく言う。その様子だと何だか春美自身の好物というより、真宵の好きな物だという方に重要が傾いているような気がする。春美ちゃんは本当に真宵ちゃんが好きなんだな、と成歩堂は微笑ましく思った。
「神乃木さんもいいですか?」
「ああ。坦々麺だとちとキツいかもしれないけどな」
 なんて事を言い、神乃木はレンズの厚い眼鏡の縁をコンコンと指で叩いた。あのマスクは細部にまで視界を効かせる必要がある時だけで、普段程度の日常なら今かけている眼鏡型の補強機で十分だった。
 神乃木のセリフに、真宵がうんうん、と頷く。
「そうだよねー。みそラーメンは赤くないもんね。よかったね、神乃木さん」
「でも真宵様。お味噌には白味噌と赤味噌がありますが、それはどうなんでしょう………」
 春美が何気に呟いた言葉に、真宵もはっとした表情になる。
「そうだよね。でも、赤味噌ってあんまり赤くないよね。むしろ茶色だよね。
 ねえ、なるほどくん!どうなってるの!?」
「僕に詰め寄るなよ!味噌作ってる人に聞けよ!」
「そんな人知らないから、なるほどくんに聞いてるんじゃない」
「………一体どういう二者択一なんだよ……」
 成歩堂が疲れたように言う。それに被さるように、クッと神乃木が喉の奥で笑った。
「…………………」
 この一連の遣り取りを、御剣は、口を挟まず見守っていてしまった。
 正確には、口を挟めなかったのだ。
「…………あっ、なるほどくん!御剣検事様がいらっしゃってます!」
「え?………あっ!!本当だ!」
 春美のセリフを受けて驚いたのは、真宵だった。成歩堂はその姿を確認すると、すぐに御剣の方へと駆け寄った。
「御剣!そんな所で立っててどうしたんだよ」
「………ぁ、……いや、…………」
 御剣は半ば無意識にポケットの中に手を入れた。チケットの感触が指先に伝わる。
「わたくしとした事が……今すぐに!お茶を淹れてまいります!!」
 何だか勇ましく春美が給湯室へと向かう。真宵は、御剣を招き入れる役目を請け負った。
「御剣検事!ほらこっちこっち!」
「ム…………」
 御剣は真宵に腕を引っ張られるようにしてソファに着いた。真向かいに、神乃木が居る。
「よぉ」
 久しぶりだな、という意味合いを込めて神乃木が軽くカップを掲げる。
「……………」
 御剣は、それにぺこりと頭を下げた。めちゃくちゃ警戒しているのが解る。
 もう少し打解けないものかな、と御剣の横に座った成歩堂が苦笑する。神乃木はそんな2人の対比を楽しんでいた。
「ねえ、なるほどくん。御剣検事も誘おうよ」
 真宵が明るく言う。何の話だ、と眉を顰める御剣に、成歩堂が説明する。
「今週の日曜にね、最近出来たテーマパークに行くんだ。霧緒さんから入場券沢山貰ってさ」
 まだ余りがあるんだ、と付け加える。
「そこね、遊園地みたいな所もあるし、動物園みたいな所もあるし、ソーセージ作ったりチーズ作ったりするのも出来るんだって!」
 つまり文化公園みたいなものか、と御剣は思った。
「で、どう?予定空いてるなら、行く?」
 予定なら、空いている。
 と、いうか。
 だからこそ、今ここに居るというか………
 日曜に行くなら土曜があるだろうけど、二日連続で外出させるのも疲れてしまうだろうし。それは自分としても本意じゃないし。
 だったら映画の事は忘れて、一緒にテーマパークに行けばいいのだろうけど。
 そう、一緒に。
 皆と、一緒に。
「………………」
 ポケットの中には、まだ映画のチケットがある。上着に入れたまま座ってしまったから、少し歪んでしまったかもしれないけど。
「お待たせいたしました!粗茶でございます」
 楚々とした仕草で春美が御剣の前に湯呑を差し出す。
「あ……ありが、とう」
 御剣はぎこちなく受け取る。
「? 御剣?」
 この時、御剣の様子が異変であると成歩堂が気付いた。そして、成歩堂が気付いた事に、御剣も気づいた。
「………………」
 急激に居た堪れなくなった御剣は、淹れて貰ったばかりの煎茶をごくーっと一気に飲み干した。それにぎょっとして目を見張る一同。
「み、御剣!?」
「来たばかりだが今日は時間がないのだ!ではさらば!」
「いやいやいや、さらばって!?」
「真宵くん!誘ってくれてありがたいが、今週末は予定があるのだすまない!またの機会に!」
「え、えーと御剣検事???」
「春美くん、お茶をありがとう!」
「は、はい」
 バタン!
「「「………………」」」
 これ以上ないってくらい、御剣は慌ただしく帰ってしまった。まあ、特に用もないのに顔を出すのはいつもの事とは言え、今日は明らかに様子が可笑しかった。
「俺には何もなしかよ」
 特に傷ついた風でもなく、神乃木が言った。そして、コーヒーを一口。
「御剣……………」
 成歩堂は御剣の名前を呟き、見事に空になった湯呑を見た。
「……………熱くなかったのかな」
 ねぇ、と真宵と春美も顔を見合わせたという。


 勿論熱かった御剣は、警察局の自販機で冷たいウーロン茶でひりひりする舌を癒していた。半分を空にしたが、まだ痛い。
 もう、いっその事氷が欲しいくらいだ。私は氷を求む!氷を寄越せ!と悶々する心のままに胸中で叫んでいると、そんな御剣に誰かが声をかける。
「あら、御剣くんじゃない?」
「……宝月捜査官………」
 先の一件から検事から捜査官に舞い戻った巴が居た。彼女の現在の配属はここの管轄ではないだろうから、何か所用でもあったのだろう。それも済んだ後らしく、巴は気軽に話しかけてきた。
「最近どう?成歩堂くんと会ってる?」
「………………」
 どうも元気なさそうにウーロン茶を飲んでるわね、と思って声をかけた御剣だが、自分が話すといよいよしょげかえったような気がした。
(何かまずい話題でも振ったかしら)
 巴が悩むと、成歩堂の名前が出た事でチケットの存在を思い出した御剣が、それを取り出す。長い間ポケットに入れっぱなしだったが、そう歪んではいなかった。
「よろしければ、これを」
「え?」
「今週末までなのですが、生憎、予定が合わなくて」
「………………」
 御剣が糸鋸に対してそう思ったように、巴もチケットが2枚だというのを鑑みて大人しく受け取ってあげる事にした。
(もしかして、誘おうとした相手は成歩堂くんかしら。いや、それしかないわね)
 先ほど、成歩堂の名前を出した時に一層肩が落ちたような気がする。本当に誰も居なかった昔と違って、一緒に居たくて居られないと悲しくなっちゃう相手が居る今の方がまだマシ……なのだろうか。巴にその結論は出せない。
「ありがとう。気になってたの、この作品」
「それは、どうも」
 一応受け答えするものの、心あらずといったような御剣だった。
 帰り、ちゃんと運転出来るのかしら、と哀愁が漂っているような御剣の背中を見て、巴が思った。


 その夜、御剣は無気力に家に着き、無気力にシャワーを浴びて、無気力に寝床に着いた。成歩堂を好きなんだと思ってからこっち、こんなに無気力になったのは初めてだった。
「………………」
 考えれば、至極当然の事だ。自分なんかが好きになったくらいなのだから、成歩堂を好ましく思い人はそれこそ大勢居る。
 自分だけが彼を好きだと気づいたなんて、そんな筈がある訳が無い。
 こんな風に落ち込むだけ、それこそ意味の無い、虚しい事だ。
 それはそれとして、自分が気づけた事に喜ぼう。幸せだと思おう。
 それで良い筈なのに。
「………………」
 別に、昨日までと何が変わったでもない筈だ。
 なのに、どうして、こんなに。
(………………。寂しい…………?)
 御剣は今の胸の内にある感情に名前をつけようと努めた。
 何度頑張っても、それしか出てこなかった。
 自分が居る。彼が居る。行けば会える。
 これ以上、何が欲しいんだろう。
 それすら、良く解らなくて。




<おわり>

ハッピー一色から周りが見れるようになりました。
いいか悪いかで言えば悪いんだと思いますがいつか通る道なのでな。