過去を礎とする現在について




「うぉぉぉぉぉぉっ!!大変だよ、なるほどくん!大変!変態じゃないよ!」
 最後にどうでもいい事を付け加えながら、真宵が雑誌片手に成歩堂に詰め寄る。
 その手にしてた雑誌が、礼の自分の偽物が敗訴した記事が乗っていたアレなので、いきなり嫌な予感が満載過ぎてお腹がいっぱいだ。
「どうしたって言うんだよ」
 面倒は後回しにすればする程、雪だるまよろしく転がって肥大するというのは思い知っているので、その場起こったアクシデントは出来ればその場で納めたい。本当に、出来れば、の話で。哀しい事に大概出来ていない。
 真宵が拳を両手でググッと作って言う。
「御剣検事に、ゲイ疑惑がかかっちゃったよ!」
 ゴッ。
 成歩堂は机に額を打ち付けた。
「え……へ………なっ………!」
 のっそりと起き上がった成歩堂に、ほら!と真宵が記事を突きつける。確かに、そんな感じの内容だった。
(ど、どうして何がこうなったんだ?)
 確かに御剣は自分を恋人みたいな付き合いがしたいと駄々を捏ねているので、それを踏まえるとそれは真実なのだが一体どうして露見したのか。御剣は自分の個人的な情報を決して公開しない。良くも悪くも。
 真宵は拳を頬に当て、うーんと唸るように考えて居る。
「こりゃぁ、ほっとけないね、なるほどくん」
「うん……まぁ………」
 どうせ御剣の事だから、払拭しきれずに無意味に圧して沈黙させるしかないんだろう。そうなると睨まれた日地たちも気の毒だ。渦中に居る御剣にしても。
「その内、記者とかがなるほどくんの事、突き止めちゃうかも!」
 真宵がその時の事を、今から危惧するみたいに言った。
「……………。って、え?」
 今の真宵の口ぶりだと、まるで。
 自分たちの事を知っているようではないか。
 成歩堂は勿論言っていない。御剣だって言いふらしてよもや自慢とか……してないと思う。
「真宵ちゃん?今のって……」
 しかし尋ねようとしている成歩堂を、真宵は遮る。
「いいから!2人の事をいつあたしがどうやって知りえたのかなんてのは長くなるからおいおい話すとして、今は知ってるって事で話を進めてよ!」
 何か凄い勝手な事情で推し進められている気がしないでもないが、真宵の言う事に間違いは無い。なので従う事にしよう。
「ほら!ぼさっとしてないで!」
「ちょ、ちょっと?」
 真宵は成歩堂の腕を掴み、強引に立たせようとする。力で真宵に負ける筈が無いが、成歩堂は何となく逆らえずに立ち上がってしまう。そして、そのまま引っ張られた。
「何処に行くんだよ?」
「何処にって、御剣検事の所に決まってるじゃない!」
 決まってるんだ。一瞬視線が遠くなった。
「御剣検事がこの事態上手く収められると思う?」
「いや、それは思わない。絶対無い」
 真宵の言葉に、成歩堂は力強く肯定した。
「だから!なるほどくんが行って御剣検事を助けてあげなきゃ!」
 真宵はぐいぐいと成歩堂を引っ張る。
「王子様がお姫様を助ける時代は90年代で終わったんだよ!21世紀は、お姫様が王子様を救ってあげなきゃ!」
「いやいやいや、何言ってるんだか、おーい、ちょっと、ねぇ、真宵ちゃん?」
 結局、そのまま本当に引きずられて成歩堂は連れて行かれてしまった。


 執務室に入るなり見えた御剣の眉間には、やっぱり皹が入っていた。
「……君も記事を呼んだのかね?」
 御剣がやや疲れながら言う。
 どうして判ったんだろう、と思ったがよく見れば真宵が雑誌を握り締めたままだった。
「えーと、その……とりあえず、何か心当たりある?」
 言えば眉間の皹が増えて深くなった。あるらしい。
 珍しいと言うか、彼は矢張とはまた一味違った意味での無自覚トラブルメーカーなのだから。まぁ、あまり自分も人の事言えないかもしれないが。
「この前それとは違う雑誌のインタビューが来てな」
 うん、と相槌を打つ。
 今まではそんな申し出は蹴散らして来たらしいが、最近は引き受ける事にしているらしい。まぁ、成歩堂がそうしろよと一口添えたからのだが。出なければ未だに「断る」の一言で切り捨てているだろう。とにかく、彼には色んな人と触れ合う機会を作った方がいい。そうすれば、コミュニケーションの取り方も覚える筈だ。……と、信じたい。
「それで、好みの女性を訊かれた訳だが」
「………」
 成歩堂はちょっと嫌な予感がした。
「正直に『女性には興味が無い』と言ったのが歪曲して流出したようだな」
「………………………」
 やっぱりかー!と成歩堂は頭を抱えたくなった。
「……そりゃ、誤解もされるよな……」
「何故だ。確かに女性に興味が無いと言ったが、男性に積極的に関心があるとも言ってはいないではないか!女がダメなら男だという、その考え方が短絡的と言うのだよ!」
「うん、その言い分は正しいけどさ」
 激昂する御剣に落ち着け、と言いたい。
 しかし御剣はヒートアップしている。自分が居るからいつも張っているバリケードが緩んでだろうか。それに気が立っているせいで、すぐに感情的になってしまうようだ。
「第一、私は君以外に特別な好意を抱いたりしないッ!」
 ………………。
 どーんと言い切ったままの姿勢で、御剣が固まった。
「―――――ッッッ!!!!!」
 30秒くらいの間を置いて、御剣は真宵の存在に気づいたようだった。
 まぁ、自分で気づけただけマシかな……と成歩堂は達観している。
「ぅ……い、いや、……今のはつまり、そのようなアレと言うか……!!」
「あー、御剣。いいから」
 手をぱたぱた振ってそう言うと、御剣が「ム?」という顔でこっちを見た。
「真宵ちゃん、知ってるというか判ってるんだって。……僕たちの事」
 直接的に言った訳では無いが、最後の付け加えをした時やや顔が熱くなる。それに真宵はにやりとして、御剣は気づかない。
「な、何故?」
 御剣がうろたえる。
 そして真宵は答える。
「主に御剣検事が解り易いから!」
 長いという割には一言で終わったではないか、説明。
「それより!今はこの事態をどうやって乗り切るかだよ御剣検事!!」
「どうやっても何も……やり過すしかなんじゃない?」
「もーっ!なるほどくん乗り気じゃないなぁ!素っ気無いよ!」
「そうなのだよ、素っ気無いのだ。彼は」
「真宵ちゃんを味方に引き込もうとしても無駄だと思うよ、御剣」
 真宵は御剣の完全な味方にはならないが、その反面自分の絶対的な味方にもならないと思う。彼女はいつだって自分の楽しみ最優先で生きる自由な旅人だ。
「こんなゴシップなんて、一時的なものだよ。他にまた何かあったら、そっちに乗り移るって」
 だからそこまで深刻に捕らえる事も無いと思うのだ。
「何かって、何なんの?」
「何だというのだ」
「いやいやいや、御剣。真宵ちゃんと全く同レベルのセリフ言うなよ」
 やっぱり趣味が似ると考え方も似るのだろうか。
「まぁ、例えば他に大きな事件が出来たら、とか?」
「なるほどくんて、「何か」とか「例えば」とか、あやふやな表現が多いよね〜」
「煩いな。たいした憶測も無しに勝手に確定したら嘘になるじゃないか」
 やれやれ、とばかり息を吐く真宵にそう言う。
「そういや、なるほどくんが好きな女の人のタイプを訊かれた時、いつもみたいに適当な事言ってたよね」
「いつもみたいも適当も余計だって」
 と、言うか今の真宵の発言自体が余計だ。御剣が「そんなインタビュー受けてたのか」と自分をじっと見ているのがひしひしと感じる。いっそその視線はセリフつきみたいに解り易い。
「だいたいあんなのはね、話の流れっていうか、お約束みたいな問答なの。向こうだって真剣に探ろうって訳じゃないから、それなりな平均的な答えでいいの」
「そんな曖昧な言い方で、誤解されたらどうする」
 顔を顰めた御剣は言う。
「それはそうだけど、君の場合率直に言いすぎて誤解受けてるんだよ?現状判ってる?」
「………………」
 判っているらしく、沈黙している。
「………しかし…………」
 言いたい事があるがまとめきれていないようで、睨むように黙る。険しい顔だが、どうしてか幼く映ってしまう。真宵が居なかったら頭でも撫でていたかもしれない。
「まぁ、これも経験って事でさ。次からは上手くやるんだよ?」
「……そうだな。偽りと紙一重くらいの自分に都合のいいような一面だけを取った事実の表現には、慣れているからな」
「……それは直せよ………」
 多分次ももめるだろうな。そんな未来が過ぎる。


 御剣はこれから警察局に行く予定があるとの事なので、それについていくように成歩堂達も後をついていく。
「これでドアを出たら、記者がビッシリ!……とかね」
「それはないだろう」
 真宵の軽口に苦笑して答え、扉を潜る。
 と、同時にフラッシュの嵐に見舞われた。
 何十人とは居ないけど、十何人かは居るだろう。
「………………」
「居たねぇ……記者がビッシリ」
「うん………」
「って事でみそラーメン奢ってね」
「どうしてだよ」
「え。それはあたしの言った通りだったから!」
「賭けを約束した記憶が無いんだけど?」
 何て言いながら、ドアに向かって行く。ここから出なければ仕様がないのだ。
 大勢の記者に圧巻されて立ち止まった成歩堂達とは裏腹に、御剣はそんな2人を置いてスタスタと1人歩き進めてしまった。自分にだけ、纏わせればいいと思ったのだろう。
 大勢の頭越しに、御剣を見る。身長がある彼は、記者群よりやや飛び出ていた。
「いやー、改めて御剣検事の人気を見せ付けられたねー」
「うん、そうだね………」
 1年不在にしていたとは言え、そのネームバリューは未だにこの国で健在だった。海外研修に渡っている時でさえ、御剣の名前を出すとああ、と頷かれる事の方が多い。
 御剣は荒波を掻き分けるように、ひたすら前に突き進んでいる。前に立ちふさがるヤツが居ようものなら、それを吹っ飛ばす勢いだ。いや、多分本当に吹っ飛ばすだろう。彼の体躯と性格ならそれが出来る。
「……………」
 目の前のこの光景を見ながら、成歩堂は数年前、黒い疑惑に包まれていた時もこんな感じだったのだろうか、と思う。実際にここまでは無かったかもしれないが、御剣の心情としては似たようなものだったのだろう。
 彼は出会った当初言って居た。その人が本当に罪を犯したかなんて判りはしないのだから、有罪と送られた被告人をそうであると立証するのが自分の役目だと。
 こんな風に周囲に群がる人々で、誰がいい人かなんて判りはしないから、全部捨てた。そんな感じなのだろうか。
 そんな事を考えながら、どうやってあの集団から御剣を上手い事連れ出すかを考えた。御剣の臨界点は、そんなに高くない。爆発しないでも、燻り続けているのだ。
 実際、御剣はこの時点でかなりイライラしている。
 折角成歩堂が来てくれて(まぁ、理由としてはあまり嬉しくは無いものだったが)少しの時間でも一緒に居れると思ったのに、これだ。
 余程一括して蹴散らしてやろうかと思ったが、成歩堂の居る前では出来ない。と、言うかしたくない。
 ただえさえ、自分のコミュニケーション不足を心配している彼なのだ。また余計に気遣いさせるかもしれない。何より本気で怒られるのが怖い。
 正直今でも怒鳴ってしまいそうだが、最悪成歩堂に被害が及ばなければまだ我慢がつく。何か答えて変に解釈されては堪らないので、始終無言を突き通す。
 その時、群がる中の誰かが言った。人の耳とは面白うように出来ていて、どんなに色んな音が一斉鳴った煩い中でも一つの音は正確に聞き取れるのだそうだ。
「もしかして、今一緒に出て来た彼が恋人ですか?」
「っ!」
 しまった。つい、反応してしまった。
 それが命令みたいに、記者たちが一斉に後ろ、つまり成歩堂を見る。
 やばい!と警告音が頭の中で鳴り響く。
「に………!」
 逃げろ、と言う前に、あっと言う間に囲まれてしまった。あれでは、抜け出せれない。
 御剣は騒ぎになるのを承知で無理矢理掻き分けて成歩堂の傍に寄る。
「すまない。しくじった」
「い、いや、それはいいけど…………」
 いつにない質問攻めに突っ込みの鬼も戸惑うようだ。真宵もやや背後で「りんごとミカンではバナナが好きです」とか言っている。
「ここは強引に突破するぞ。いいな」
「うん」
 声を潜めて言う。成歩堂は真宵の手をしっかり握った。御剣は成歩堂の手を。
 さぁ行くぞ、と言う時に強いフラッシュがした。直接浴びれば目が焼けるくらいの。
 御剣は、無事だった。丁度、成歩堂が影になっていたから。
 と、言う事は――
「成歩堂!」
 案の定、彼は目を押さえて俯いていた。
「大丈夫か!?」
「あ、うん、暫く経てば平気だよ」
 目を細め、確かめるように指の間から覗き込む。
 しかし目なんて人体の中で最もデリケートな場所だ。用心する事は無いと思うから、後で医者に見てもらうよう、本人ではなく真宵に言おう。絶対、首に縄つけて連れて行ってくれる。本当に縄つけるかもしれないけど。
「なるほどくん、大丈夫?」
 真宵も成歩堂を気遣う。
 御剣の視界の隅で、また誰かがカメラを構えた。
 さっきのフラッシュを焚いたのと、同じカメラかは知らない。――そんなのはどうでもいい。
 そのカメラのレンズを、問答無用とばかりにがっ!と鷲掴む。
「……事実とは全く無根の、ゴシップばかりに群がる蛆虫どもが…………」
 決して怒鳴った訳ではなかったが、その言葉で周囲はぴた、と静止した。
「そんなに発言が欲しいならくれてやる。
 女性に興味が無いと言ったのは事実だ。しかし、男性がとりわけ好きという事も無い。人柄を重視したいだけだ。
 ――だいたい女にしても男にしても、人として腐って居たら最初から話にならないだろう?」
 貴様らみたいに。
 言葉にはしてみなかったが、通じたらしくて一斉に顔を青ざめる。
 レンズを掴まれているカメラマンなんかはガタガタと震えている。手で塞がれているから見えない筈なのに、構えたままなのがいっそ滑稽だ。
 言いたい事は言い終えたので、カメラから手を離す。相手はその場にへたり込んだ。
 行くぞ。
 そう言うかわりに、成歩堂の手を引いた。もう、記者たちに食い下がる気力は無かったようだ。彼らは、それを黙って見送った。


 そのまま、御剣は警察局へと行き、自分達に軽い別れの挨拶を返事も待たずにさっさと建物内へと入って言ってしまった。まるで逃げるように。いや、確実に逃げた。
 そして自分たちも、事務所へと戻った。一体、何をしに行った事やら。
 真宵は興奮が収まらないみたいに目をキラキラさせている。
「いやー!さっきの御剣検事凄かったよねー!何て言うかさ、ミスター・鬼検事って感じ?」
「………まあね」
 的確すぎる真宵の表現に遠い目をしてしまう。
「俗に言うあれだよね!目で殺すってヤツ?」
 確かに本当に殺せそうだったが。
「あっ!目で思い出した。なるほどくん、目、平気?」
 フラッシュを至近距離で思いっきり浴びてしまったのだ。さぞかし目がチカチカするだろう。
 様子を窺う真宵に、苦笑で返す。
「もう平気だよ。どれくらい時間が経ったと思うんだよ」
「でも、御剣検事は納得しないかもよ。多分病院連れて行かれるかも」
「そんな大袈裟な……」
「何言ってるの。それまで無言でスルーしてた御剣検事がいきなり魔王になったのって、なるほどくんに危害加わったからじゃない!」
 そこまで大事にしてるんだから、大袈裟でもするよ!と彼女は言い切る。自分達の関係を知れたのは、毎度のようにあてずっぽうの勘かと思ったら本当にちゃんと見えてるようだった。まぁ、確かに彼女自身が言い切ったように、御剣が解り易いから。しかし、御剣は自分が判りにくい性格だと思っているようだった。
(判りにくいって思うのは、感情を出さないからだよなぁ……)
 出してみせれば、真宵にだって気づけるのだ。
 と、その時トノサマンのメインテーマが携帯から愉快に鳴り響く。
「おっ!依頼が来たね」
「生憎だけど、違うと思うよ」
 携帯を見る前から成歩堂は言い切った。
「メールか。……………」
 呟いた後、沈黙したので真宵はそれの送信者が御剣だと容易く予想できた。
「何て?」
 真宵が興味津々の顔で聞く。答えない限りは絶対に引かなさそうなので、大人しく答える事にした。
「………眼科に行きたまえ。時間が経ったからもう大丈夫だと軽んじてはいけない。……だって」
「ほーら!あたしの言った通り!だからみそラーメン奢ってね」
 真宵が鬼の首(というか魔王の証言)を取ったかのように威張る。
「だから賭けなんかしてないって。どうしてそんなにみそラーメンが食べたいんだよ」
「そこにみそラーメンがあるから!」
「此処には無いよ」
「やだなぁ。やたぶき屋に行けばあるじゃない」
「………………」
 そんな訳で、眼科に行くついでにみそラーメンを食べに行った。みそラーメンを食べるついでに眼科に行ったのかもしれないが。


 そろそろ就業時間なので、閉める準備を始める。
 その時、またしても携帯が鳴る。
 表示を見れば、御剣だった。
「……どうしたの?」
 何となく、予想はつくけど。
『…………』
「御剣?」
 電話に出たというのに、沈黙が続いた。もしかして、彼は自分が怒っていると思っているのだろうかと、そんな事は無いというように名前を呼んでやれば、ようやく話し始めた。呼ばなかったらまだ口は閉じたままだったかもしれない。
『今から、そっちへ行ってもいいだろうか』
「うん、いいよ」
 昼間の事について、話したいことがあるのだろう。なので承諾すると、すぐに後ろでガチャリをドアが開く。早すぎる。
「………何処から電話を掛けてたんだよ?」
 やや呆れながら言う。
「……ここに車を止めた時に」
「だったら、もう入ってこればいいじゃないか」
「……………」
 しかし御剣は窺うようにじ、とこっちを見ている。怒って無いというのは、さっきので通じたと思ったのに。
「ソファに座りなよ。紅茶入れてくるから」
「ム」
 と唸るように声を発し、眉間に皹を入れてとりあえずは言う通りにした。まるでハウスと言えば小屋に戻る犬のようである。それにこっそり苦笑しながら、彼が持ち込んだ茶葉で紅茶を入れる。
 馴染んだ香りを嗅いだ為か、御剣の緊張がやや薄れる。
「それで、その…………」
 御剣はかなり考え込んで、言うべきセリフを探す。かなり頭を回転させているのだが、空回りなのでいい文句が浮かんでこない。
「…………。眼科には行ったのかね?」
 そこから来るのかよ、と隣で座る成歩堂はガクッと来た。
「うん。診て貰ったよ。異常なしだって。でも疲れ目だからって、目薬は貰ったよ」
 さすがに病院で貰ったのはよく効くね、と話すと御剣は安心したように顔を綻ばせた。しかし、すぐに影が落ちる。
「すまなかったな。今日は」
 ぽつりと言った。
「どうしておまえが謝るんだよ。僕らが勝手に行ったんじゃないか」
 不器用に謝罪する御剣に、成歩堂は微苦笑で宥める。
「しかし、まだ対処の仕方は………」
 御剣はセリフ途中に、ぐっと口元を引き締めてから、続けた。
「い、いつもはあのようにしている訳ではないのだよ。何も答えないでいれば、向こうが飽きて離れるのだからな。だが……」
 自分になんか、いくらでも降りかかっていい。それを鉄壁の無反応でやり過す事は出来るから。今までだってそうしてきた。
 けれど、今はそれが周囲に及ぶのは、とりわけ目の前に座る彼にかかったのでは、もう我慢が出来ない。
 人を排他するような真似は、彼が最も悲しむのだとは判っているのだが、手が口が止まらなかった。
 今回のケースがそれに当て嵌まるのか、それとも大目に見てくれるのか、それすら判らない。
「……………」
 何を言っても言い訳になりそうで怖くて、口を噤んでしまう。
 自然に下に向かう視線で、彼の動きが見えなかった。頬に触れた温もりではた、と気づく。
 俯いた顔を上げるように、優しく何度か往復する。
 重なった視線の向こうに居る彼の表情は、やはり双眸が哀しみにくれていて、やはりまた悲しませたのか、と御剣は今度は目だけ伏せた。
「……あんな感じだったの?昔……」
 囁くように耳に届けられたセリフ。
 昔、というのはつまり、彼が手紙をくれるようになった記事が掲載された当時の事だろう。
「まぁ……似たようなものだったな」
 過去を思い出しながら、言う。あまり思い出したくない事は、すっかり風化してしまっている。断片的に、すべてを排除していた感覚だけが残っている。そう、すべてを排除していた。彼からの手紙さえも。
 次のゴシップを探すハイエナのような連中に囲まれるのが常だったせいか、それ以外で関わろうとする彼が異質に思えたのだ。だから、何だか怖くて、それを避けた。
 その彼が今はこうして、触れるまでに近くに居るのだ。自分はこの奇跡を、今後守り抜いていかなければならないと思う。何をしてでも。
 そんな事を考えていたら、唐突に抱き締められた。かなり珍しい成歩堂からの抱擁に、嬉しさより一瞬驚きが勝る。
「………成歩堂?」
 抱き締め返すような真似をしたら、体を強張らすかもしれない。腕を垂れ下げたまま、御剣は自分の死角に入ってしまった成歩堂に言う。
「うん…………」
 と、意味の無い相槌を返す。
 距離は縮まらなかったが、自分を抱き締める腕にやや力が篭ったような気がした。
 一体、彼は自分を何から守ろうとしているんだろうか。
 そんな事をしなくても、自分は彼が笑ってくれれば、それだけで救われるのに。
 ただ訳も判らないまま、抱き締められていた。




<END>

成歩堂がなんで悲しそうかと言えば、過去が御剣に与えた影響の事を思っているからです。
でも御剣はそれが判らんとです。とりあえず悲しんでるのだなぁ、としか判りませんのです。だって言ってくれないから!

真宵ちゃんが動き出して来たので書いてて楽しいです。
やっぱみぬき&ホースケとは一風違った感じですよね。会話に殺伐さが無いというか。(←殺伐て)
まぁあれはみぬきちゃんが最強過ぎるからというのと、パパをガチで狙っているからというバックボーンがあるからですけどねー。