パンドラの箱
3年前、自分を独房へと追い込んだ弁護士が、証拠品の捏造だとかでクビになったらしい。彼がそんな事をする人物かどうか、ちょっと関わっただけの自分でも判断が下せるのに、四角四面でいて穴だらけの司法に、厳徒は他人事のように嘲笑した。
そして。
彼の相棒でもある赤いヒラヒラした検事が眉間に皹を入れて此処を訪れていた。
「や、ミツルギちゃん。お久しぶりだね、元気ー?」
泳いでる?といつもの挨拶をしてみたが、清々しくなるくらい無反応だった。
ならば、彼が反応するしかないような話題を振ってみようか。細めた目の奥で、厳徒に悪戯な光が篭る。
「こんな所で油売ってていいのかな?ナルホドちゃん、今大変でしょ?」
「………ああ、本当にな」
御剣は右斜め下を向いて、ふっ、と自嘲した。
「今こそ自分の持つ力全部使って彼をサポートしようと申し込んだら、自分の事は自分で決着つけるとやんわり断られた所だ」
「あーらら。可哀想に」
別に可哀想とも思ってなく厳徒は言う。
「……だったらこっちもこっちで好き勝手やらして貰おうと此処へ来た訳だ。笑いたければ笑え!」
「あーっはっはっは!」
「朗らかに笑うな――――ッッ!!」
笑えって言ったくせに理不尽だなー。と思いながらも厳徒は笑うのを止めた。御剣はぎりぎりと歯を食い縛っている。
「でもねぇ、ここには君が知って得するような事は無いと思うけどね?」
「それはこちらで判断する事だ」
どこまでも高圧的な御剣の態度に、厳徒は面白く思う。
御剣はこれが本題だ、と言うように厳かで静かな口調で告げる。
「はっきり言おう。貴様が持っている現警察局長の情報を渡してもらいたい」
「……本当にはっきり言ったねぇ。ボク、一瞬笑うの忘れたよ」
こんな疚しい取引を、正面切ってズバッと言ったのは彼が初めてだ。そして最後だろう。
最も、面会室ではなく直にここに訪れた時点で、そういう感じの流れにはなるだろうな、とは予感していた。まさかここまでダイレクトに来るとは思っていなかったが。
「回りくどいのは好かん。ついでに手間取らされるのもな」
御剣は暗にさっさと渡しやがれコンチクショーと言っている。
「待って。待ってよ御剣ちゃん」
厳徒は茶化すように、両手で御剣を宥める。
「急な申し出でボクもビックリだよ。どうしてそんな情報があると思うの?」
「なら逆に訊こう。どうして持っていないと思える?」
(おや)
取引自体を否定されたような言葉に、しかし御剣は怯む事無く威圧的な態度を続けた。口元に浮かべたのは、絶対優位な者の笑み。
「自分の地位に一番近い者……虎視眈々とその椅子を狙っているだろう存在に、貴方とあろう者が何も手を打たなかったとなると、それは愚鈍としか言いようが無いな」
御剣に今の自分を脅かす手持ちのカードは無い。だから、プライドをくすぐる方向で攻めるようだ。
最も、向こうとしてもあればラッキー、くらいのつもりで来たのだろう。無くて当たり前くらいの賭けで。
此処で断った所で、御剣のダメージも少ない。そして自分は、相手に嘲られて終わり、と。
終わらせる事は容易い。けれども。
(……これは、乗った方が楽しそうかな?)
そしてやはり、プライドを傷付けられるのが癪のようだ。自分を第一に考えて行動してきた自分なのだから、それを傷つかれては堪らない。
「ん。いいよ。あげちゃう」
「……ほほぅ、やはり持っていたか」
「自分で持ちかけといて、その言い方はあんまりなんじゃないかな?」
厳徒の言い分に、御剣はニヒルな笑みを濃くした。
「手に入れれば御の字、くらいのつもりで来ていたからな。例え無くても、成歩堂に振られた八つ当たりが出来ればそれでいいと思っていた」
「酷いなぁ、ミツルギちゃん」
御剣はそれを賛辞であるように受け取った。
「……で。その情報だけども。当然だけど此処には無いよ」
「だろうな」
御剣は素っ気無く賛同する。
「ついでに言えば家にも無いね」
「……警察庁にも無いと思うが」
無意味な駆け引きは好まないというだけあって、厳徒の言葉を先取る。
「ところが。警察にあったりするんだなー。ほら、例の保管庫」
色んな意味で自分の運命の場所だったな、と厳徒はちょっとだけ昔を反芻する。
「しかし、貴方の保管庫はすべて撤収されるか譲渡している筈だが」
眉を顰めて御剣は言う。その際、ロッカーの中の物は全部調べられた筈だ。その時、自分はもう異国へと旅立ってしまっていたから、詳細はわからないけども。
「うん。だからね、ダミーの警察官の保管庫をちょっと勝手に作らせてもらったんだ」
ちょっとね、と人差し指を親指でジェスチャーをする。
しかしまだ御剣は納得出来ない。
たとえ架空の人物を使って余計に保管庫を確保出来たとしても、それを開くための指紋はどうなるのか。データを操ってどうにかなる問題ではない。厳徒がこんな初歩の事を失念しているとも思えない。何か含みでもあるのか、と警戒心を強める。
その御剣の前で、厳徒はやおら手袋を脱ぎ始めた。そこで、はっと思いつく。
「……手袋の跡か……」
「そ。皆律儀に自分の指の跡で入力してるんだもんね。笑っちゃうよ」
まぁ、この手袋も普通のじゃなくてちょっと細工があるけどさ。
などと言いつつ手袋を完全に抜き取る。両方。
「オマケして、両方あげちゃう」
「…………」
片方でも事足りるだろうが、それについて言うのも面倒なので、御剣は両方とも受け取ろうとした。
しかし、御剣の手に渡ると思っていたそれは、遅くも無く早くも無く、自然な動きで引っ込められる。
ここまで来てまだ何かあるのか、と御剣の目も鋭くなる。
鋭利な視線を受けながら、厳徒はにこやかに告げる。
「………これさぁ、結構貴重な情報だったりするんだよね。ここから出た後、改めて使おうって思うくらいの。
そこまで大切なものをあげるとして、何か見返りは無いのかな?」
「見返り、だと?」
厳徒の申し出に、御剣は、何だそんな事か、と鼻で笑う。
「今しばらく刑に服していなければならない貴方が、真実を追う彼の一端に関われる。それ以上の見返りがあるというのか?」
「………………」
御剣のセリフを黙って聞いていた厳徒は、それを聞き終えて一拍の間を開け、拍手つきの大爆笑をした。独房というには豪奢な室内に、それが響く。
法廷で追い詰められた時みたく、気でも触れたか、と御剣はそれを温く見守った。
「あーっはっはっは!いいね!いい!その考え方、凄く好きだよ!
ああ、もう意地悪するのも詰まらなくなっちゃったな。はい、あげるv」
さっき焦らしたのは何だったんだ、と問い詰めたいくらい、あっさり御剣の手に手袋を押し付ける。さっさと渡せばいいんだ、とやや憮然しながらも、それを丁寧にたたんでポケットへと入れた。
「……ところで、その保管庫はどれの事なのだろうか」
「うん。それは自分で探して欲しいなぁ」
「………………」
御剣の厳徒を睨む目に殺意が篭る。
「だってね、ミツルギちゃん。価値あるものは苦労して手に入れなきゃ。どうせナルホドちゃんにフられて、時間あるんでしょ?」
「表立って協力するのを拒まれただけだ!実質的に絶縁された訳ではない!」
不吉な事を言うな!と血でも吐いてるような咆哮だった。
「………ま。頑張ってね。色々と」
口元の笑みはそのままに、見開かれた厳徒の双眸は相手に有無を言わせないプレッシャーがある。それは捕らえられた後でも健在だった。以前はそれに圧されてた御剣だが、今はさほど脅威でもない。……多分、もっと絶対なものを見つけた、いや自覚出来たからだ。
「あげたソレもね、玉石混合っていうか、バラしたこっちが危なくなっちゃうものも一杯あるから。
その辺気をつけないとね、ボクとお隣さん同士になっちゃうかも」
からかうような言い方だが、言った事は真実に違いない。
「厳徒海磁元警察局長」
御剣はわざと丁寧に彼を呼ぶ。皮肉って。
「誰に対してそのような事を言っている?釈迦に説法という諺でも、後ろの辞書で調べてみてはいかがだろうか」
「あっはっはー。そう言えばそうだったね」
こりゃまいった、と後頭部をぺしんと叩く。
「せいぜい上手く使ってやる。……有益な」
「それはそれでいいんだけど」
厳徒はやや身を屈め、御剣を下から覗き込むような、探るような目で見る。前髪を弄りながら。
「こんなきな臭い情報手に入れた、ってナルホドちゃんが知ったら、ややこしくならない?」
「………………」
あ、黙った。とその様子を愉快に眺める。
「……ややこしいと言うか、悲しむだろうな。彼は」
ほぼ間違いなく。
勇んで彼の元へ駆けつければ、その反応を待っていたように静かに宥める。そして言い聞かす。
自分の事は自分でやるから。
君は君の事をしていて。
……僕の事は気にしないで。
はっきりとは言わなかったが、言わんとしていた事は雰囲気や顔で何となく判った。いや、それで彼が伝えていたのだろう。そういう意思が向こうになければ、自分は一生気づかないままだ。
災難とも呼べたあの頃の黒い疑惑と違って、これは自らの意思で率先して掴んだ。違法な手段に出る気はさらさらないが、そうなる可能性もある事柄を自分が掴んでいると知ったら、彼はどう出るだろう。しかも、彼の為に。
悲しんで。
嘆いて。
あるいは自分のように、姿を晦ますだろうか?
(いや、そんな筈はあるまい)
きっと彼は自ら離れる真似はしないだろう。腕を伸ばせば差し出し、他の場所を見つけたらそっと見送る。そしてその時を待っている。娘として迎えた幼女も、自分も。
あの幼女はこれからどうなるか判らないが、自分は巣立つつもりなぞさらさら無い。選択した結果なのだから、それ以外を求める方が可笑しいと思う。見守ってくれる視線が優しくて、つい言いそびれてしまう事だが。
「悲しむって判ってるなら、しなければいいのに」
完璧に人事で厳徒が言う。
「……私は思うのだが」
御剣はゆっくり口を開く。
「例え貴方があの事件を起こさなかったとしても、他の誰かが似たような事をしでかしていただろうな。実際誰でも考え付きそうな事だ」
「ボクの場合、見事に失敗しちゃったけどね」
厳徒は肩を竦める。
「貴方が事件を起こさなかったとしても、やはりあの事件で傷ついた者達は、別の形で同じくらいの傷を受けたのだと思う。……まぁ、そんな「もしも」を考えていてもどうしようもないがな」
御剣は急に自分の意見を否定するような言葉を吐いた。その後、厳徒に目を向ける。
今までに無く研ぎ澄まされた視線に、厳徒が一瞬目を見張りたじろいだくらいだ。自分すら傷つけそうに、その目は鋭かった。
「何か取り返しのつかない事が起きるとしたら、だったらそれは自分でしでかした事の方が余程いい。事態の渦中に入れるからな。その方が深く関わる事が出来る。
……今回の事で、よく身に染みたよ」
それを覚悟して踏まえて、また彼の前に戻ったくせにな……
微かな声で、そう付け加えた。
「……あの時対峙してたのが私であれば、偽造は指摘しても、もっと……」
うわ言のように呟き、途中で止めた。此処が何処だか、思い出したのだろうか。
「例え彼を酷く傷付けても、それが彼の為になるのなら私は躊躇わない。決して」
「……………」
――邪魔をするヤツは、片っ端から消してやる。
押し込めてる彼の声が聴こえたような気がした。
「……覚悟を決めてるのは判ったけどさ、その「君のためなら死んでもいい」みたいな顔は止めた方がいいと思うなー。ボク。
……”先”を越されちゃうかもよ?ナルホドちゃんに」
「…………」
心得ている、とだけ、短く御剣は返した。
鉄仮面の如くの裏で、どれだけの劣情が渦を巻いているのか、厳徒の洞察力を持ってもそれは推し量れなかった。
人は何処までも強欲に狡猾になれるのは、経験で厳徒は知っている。
ただ、もしかしてそれは、自分の為よりも、誰かの、それも大切な人の為にの方がうんと性質が悪いものかもしれない。――純粋過ぎるから。
「しかしミツルギちゃんもすっかり危険な男になっちゃって。多分ここに居る誰よりもうんと危険だよ?」
厳徒は思ったままを口にしてみた。
しかし、御剣は余裕に笑みを浮かべて見せる。
「それには及ばん。私と言う劇薬を使いこなす名医は存在するのだからな」
そう、貴方と違って。
不敵な笑みとそれのセリフだけを空間に余韻として残し、御剣は颯爽と立ち去った。
それを見送り、厳徒はふと祈ってみようと思う。
どうか彼が、罪を犯すまでの愚かさが無いように。
そしてまた、罪を果たすまでの賢さも無いように、と。
(何事も、程々が一番って事だよね)
うんうん、と誰に言うでもなく一人呟いて、他に誰も居ない空間で厳徒は頷いた。
<了>
成歩堂の前だと仔犬になっちゃう御剣だけど、他の人の前じゃとんだ魔王なんだぜ!というのを書きたくて。
別にわざと仔犬になってんじゃなくて、勝手にそうなっちゃうのがなんだかなーな所だよね。
どうせ傷を付けるなら自分がいいと思ってる御剣と誰も傷付けたく無い成歩堂……凄まじいすれ違いぷりだのー。