遠い涙

 ちょっとこの前までは滅多に事務所に顔を出さなかった彼は、ここ最近事務所でずっと寝転がっている。
(これだから、みぬきちゃんにノラ猫みたい、って言われるんだよなあ)
 と、ソファで眠りこけてる成歩堂を横目でちらりと見やり、そんな事を法介は思う。しかし実際として、ノラ猫と表現したのはみぬきではなく彼本人なのだが。
 少し前、ほんの一週間前くらいなら、彼のこの怠慢ぷりを見て、自分は怒ったり怒鳴ったかもしれない。けれど、彼の不在の理由を知って、その結果を見せられたのなら、とてもそんな事は出来ない。
 おそらく――自分の想像でしかないが、”ゴクヒ任務”中は、彼は休息らしい休息もろくに取らなかったのではないだろうか。何せ、最高責任者だ。全ての権限を持ち、全ての責任を持つ。その重圧は、とても自分には計り知れない。
(結局……なんか、オレ。この人の掌の上だったなあ……)
 しかも踊らされてるのではなく、守られていたのだ。
 情けない。けれど、彼の懐に入ってるのだと思うと、どうしようもなく、嬉しくて、同時にその心地よさに酔ってしまう。。それではいけない、と、それは強く思うのだけど。
 ついで言えば、彼の眠りを妨げないよう、この場から退散すべきかもしれない。けれど、仮にもここは事務所で、万が一来客の事を思うとおいそれと外出は出来ないし、それになにより、彼の姿を拝みたいのだ。自分が。それと、楽観的でご都合な主観かもしれないが、成歩堂だって一人で休みたいのなら、場所を選ぶと思うのだ。それなのに、自分が居る事が前提のここに来ている、という事は。
(オレと一緒に居たい。……って、それはないか)
 あまりに恥ずかしい考えに、一人羞恥で照れてみる。
 誰かの気配のする場所に居たい。そんな時は自分にもある。それと全く同じかどうかは解らないけど。
 だから法介としては、成歩堂に暗に褒めのかされたりしない以上は、ここを動くまい、と決めたのだった。
(それにしても、よく眠るな)
 しかも帽子を被ったままで……と、付け加える。
 ソファに寝そべっている成歩堂は、手を腹の上で組んでいる。呼吸に合わせ、ゆったりと上下する。それを少し眺めてから、法介は本棚に向かった。成歩堂の師匠の物だと言う本は、どれもこれも難しいものばかりで、あまり理解は出来ない。が、頑張ればいつかは解るだろう、と若者らしい気合だけで法介はそれを読破するつもりだ。
 昨日、ついに一冊を読みきった。内容は半分も理解出来てないだろうけど。次はどれを読もうか、と目で羅列する背表紙を眺めていたら、後ろから不明瞭な声がした。おそらく、なんて使うまでもなく、成歩堂だ。というか、でなければ困る……というか怖い。
 後ろを振り向くと、彼は寝返りを打っていた。そして、身体をもぞもぞさせている。
 起きたのだろうか。何気なく近くに寄り、様子を窺った。目は、綴じている。
「……成歩堂さん?」
 起きたんですか、という意味を込めて呼んだ。けれど、返事は無い。まだ眠っているようだ。
 最後に、んん、とか声を出して、寝る姿勢を安定させた。
 やれやれ、といった心地で法介は本棚の位置に戻る。
 その時耳に飛び込んだ。

「…………チヒロサン……」

「――――えっ?」
 寝言にしてはやけにはっきりした声だった。微かだけれど、自分の耳に確かに言葉として届いたくらいに。
(やっぱり起きてるのか?)
 今呼んだ人物は誰なのか、というのはひとまず置いといて、法介は戻りかけた足を再び成歩堂の方へと向けた。
 そして。
 覗きこんだ彼の目元が――上からの電灯の光を受けて、光っているのが、見えた。
「ッッ!!!」
(な、泣いている!?)
 心臓が逆バンジーしたみたいに、法介は激しく動揺した。今までこんなにうろたえは事はない、というくらいうろたえた。
 覗き込んでいた顔を上げ、慌てて後ずさる。無論、物音を立てないように最新の気を配って、だ。とにかく、自分が見ていた事がバレてはならない――それだけを必死に。
 法介はドアを音無く開けて、外に出た。
 ドアに背を預ける。座り込むまではいかなかった。
 心臓がまだバクバクいっている。
 この動機は罪の意識というヤツだろうか。罪悪感とか。
 見てはいけないものを、見てしまった。
 いや。
 自分が見ていい筈が無いものを、見てしまった。
 泣いていた。泣いていた。涙を浮かべていた。
 涙を。
 彼の心の奥深く、脆くて柔い場所を見てしまった。
 いや、別に人は感情からでもなく、生理的に涙を流す事だってある。例えば目にゴミが入ったとか。
(って、眠ってただろ!)
 自分に突っ込みを入れて、
(ど、どうしよう……)
 そう思っても、自分が見てしまったという事実は消せようもなく、この先ずっとこんな意識を抱えたまま生きるのかと思うと、いっそ裁いてくれとすら思った。しかしその場合、罪状はなんとなるのだろう。プライバシーの侵害?今度、牙琉検事に相談してみようか、なんどと、法介が真剣なあまり滑稽な方向へと考えた走った時、みぬきが現れた。学校が終わったのだろう。気づけばもうそんな時間だった。
「オドロキさん!どうしたんですか、そんな所に突っ立っちゃって」
 まあ、確かにどうしたんですか、な状態だろう。今の自分は。
「い、いやちょっと……コンビニでも行こうかな、って」
「あれ、何か買うものありましたっけ?」
 さすが所長と言うべきか、事務所の備品はある程度把握しているようだ。法介としては、すぐに切り返されてしどろもどろになってしまい、迷惑なだけだが。
「え、ええっとね……」
 上手いいい訳が思いつかない。そんな法介に、みぬきは怪訝そうに見ていたが、深くは突っ込まないようだった。彼が困っている、というのが解ったのだろう。
「……わーッ!みぬきちゃんッ!!」
「きゃああッ?!」
 みぬきが事務所のドアを開けようとして、思わず法介は待ったをかけてしまった。当たり前のように驚くみぬき。
「なんなんですか、オドロキさん!さっきから」
 いや、全く本当だね、と反論すら出来ないで、法介は頭をフル回転させる。
 今は、成歩堂をそっとしておいた方がいい。例え、娘のみぬきでも。
 あの涙は……彼だけのものだ。誰かが見ていいものではない。そう、思った。
「あ、あのね、みぬきちゃん……その、ちょっとまだ中には……」
「中? ……パパがどうかしたんですか?」
 さすが鋭い、と法介はドキリというかギクリとなった。
「そのね、成歩堂さん、寝ているから」
 部分的に事実を伝える事にした。全くのウソは、見抜かれやすい。
 しかし、みぬきはきゃらっと笑って。
「パパが眠ってるのなんて、いつもの事じゃないですかー。エンリョしてもつまらないですよ」
「い、いやいや!そうなんだけどさ、でも、ぉごうッ!」
 セリフが途中の所で、後頭部に何かが強かに打ちつけられる。
 打ち付けられた、というか……
「……何やってるんだい、そんな所でさ」
「な、成歩堂さん……っ」
 背後のドアが開き、その前に立ちふさがるように居た法介に見事に当たった訳だ。完全隙だらけな所だったので、思いの他痛い。いってー、と涙が浮かぶ。
(涙……)
 途端、フラッシュバックした、先ほどの彼の寝顔。はっとしたように、後ろを振り返った。彼は丁度、大あくびをしていた。目元には、当然涙を浮かべる。それを軽く擦った。
「……………」
「あ〜あ、何か寝足りないな……うん?ぼくの顔がどうかしたか?」
「いっ………いえ、」
 成歩堂に見据えられ、さっきの涙を見た事に、問いただされたような錯覚に陥った。慌てて、謝りそうになる所を、普通に返事を返す事に成功したが。
「パパ、おはよう!よく眠れた?」
 と、みぬきが言う。夕方に交わす挨拶じゃないな、と法介は思った。
「みぬきも、おはよう。授業中、よく眠れたかい?」
「って。何て事言うんですか……」
 成歩堂のセリフに、思わず弱々しいながらも突っ込んでしまった。
 法介のそのツッコミを、成歩堂は笑って受け流す。
「で。いつまでもこんな所で喋ってないで、中に入りなよ。成歩堂なんでも事務所、全員集合なんだからさ」
「はあ……」
 と、促されるままに室内へと戻る。ソファを視界に入れて、また何だか法介はモヤモヤしてきてしまった。みぬきは、まさに早業といった感じで、ぱぱっとステージ衣装に着替えて現れた。
「へへっ」
 とはにかみながら、彼女は成歩堂の座る側のソファへと座った。
「最近ね、みぬき嬉しいんだ。だって、パパがいつも事務所に居てくれるんだもん」
 そう言って、それが本心なのだと訴えるかのように、満面の笑みを浮かべた。それを、成歩堂は優しく微笑んで眺める。
「でも、職員が全員たむろしてるってのは、事務所的にはいい事じゃないと思うよ。みぬきちゃん」
「もう、オドロキさん。人間が小さいですね。もっとゆとりを持っていきましょうよ!」
「沢山持てばいいってもんでもないと思うよ」
 と、自分が突っ込んでみても、みぬきはそのマイペースを崩さない。まあ、それで構わないのだが。この堂々巡りな問答も、最近ちょっと楽しくなってきたから。それに、そんな自分たちを見る、成歩堂の顔も。
 その後、いつものように、他愛ない会話をしていたら、みぬきは手品を披露しに、成歩堂は弾けないピアノを弾きに行った。そうなると、もうこの事務所には自分一人だ。ぽつん、といった具合で寂しくなるが、孤独だとは感じない。
 法介は、一応事務所を閉める時間まで、先ほど中断した読書を再開させた。
「…………」
(……そう、言えば)
 あまりに動揺してしまった為、一旦頭の奥深くに引っ込めてしまったけれど。
(……チヒロサン、って言ってたな)
 おそらく、それは人名だ。
 人だとしたら……彼の、大切な人なのだろう。その人の夢を見て。涙を流すまでに。
「…………………」
 どうして。
 どうして呼んだのだろう。どんな人だったのだろう。何の夢なのだろう。
 何を――泣いていたのだろう。
 一通りの疑問を浮かべ、はあー、と溜息を吐いた。
 この事務所の一員となって、彼の動向はある程度知れた。味の好みも、解ってきた。
 けれど、それだけだ。彼が何を思い、何を考え、何を愁いて何に心を向けているかは全く解らない。
 全く。
「……………」
 法介は本を持つ手に、僅かに力を込めた。
 早く、一人前の弁護士になるんだ。
 そうしたら、彼の涙も、受け止められるだろう。




<おわり>

ほんとにホースケがどこまで成歩堂の何を知っているのかが気になるんですが。これで千尋さんを知ってたらとんだ赤っ恥じゃないですか!
ゲーム中は「お師匠さん」として出て来ましたが。しかし、お師匠さんね……なんか老獪してるおじーさんみたいな響きではないか、と。
この真実を突き止めるまでは千尋さんの墓参りはしない、と決めてたらいいな。