黄昏時のウィクトリア
対象が何であれ、「怖い」と思う出来事は命の危険に関わる事なんだと勝手に思ってみる。
だからこそ、交通事故なんて下手すれば死んだだろう出来事に遭遇しておきながら、けろっとしている彼に怖いな、とか印象を持った訳だ。
その怖さは実は継続している。
もしかして、彼は死ぬ事が怖くないのだろうか。
そう思った時から。
(……いやいや、いくらなんでも、成歩堂さんでも死ぬのは怖い……と思う)
最後の最後に不確定要素を思わずつけてしまう法介だった。何しろ、肯定する材料も無ければ覆す証拠も無い。
しかし、彼が死ぬ事に対して恐怖していない事に自分が恐れているという事は(←ややこしい)自分は彼に死んで欲しくないのだろう。いや、相手がみぬきだったり茜だったり、響也だとしても同じ事を思うけど。
今、目の前に居る彼にあまり好感を抱けないのは、過去の姿からあまりにかけ離れているから、と言うより現在で彼が全く読めないからなのだろう。詳しい事はさっぱりだが、自分は相手が嘘をついている事が見抜ける。その力を自覚した後でも、彼はさっぱり判らない。
今だって。
「もーっ!パパ、散らかしすぎだよ!」
滝太の審理を終えて早々、二人が向かったのは成歩堂が入院していた病院だった。何故かと言えば、彼の荷物を持ち帰る為である。膨大と言って差し支えないDVDの山は、成歩堂一人ではとても持ちきれなかったのだ。彼は緊急入院だったし、とりあえず病院に居た時は外をうろついたりしないで大人しくしていた筈だ。と、言う事はこのDVDは差し入れなんだろうか。誰が持ってきたかは知らないが、持ち帰れるかどうか量を考えて差し入れてもらいたいものだ、とダンボールにせっせとDVDを詰めている法介は思う。法介のやや横では、みぬきがテーブルの上にある荷物を片付けていた。
愛娘の注意を受けて、成歩堂は肩を揺らして笑う。
「ごめんよ。パパ、みぬきが居ないと、どうもダメみたいだな」
「うん、それはいいんだけど」
(いいのかよ)
着実にDVDを詰め込んでいく法介は、心の中でひっそり突っ込んだ。
「……でも、こんな簡単に退院しちゃっていいんですか?」
とりあえず、こういう常識的な質問は、自分がしなければならないみたいだ。DVDの山をダンボールの中に納めた法介は、成歩堂に尋ねる。怪我は足の捻挫だけだが、頭を打ったのだ(この矛盾は誰も片付けてくれないのか、と法介は思う)。頭部の異常は足の怪我のようにほっといても治ってくれない。まぁ、足だって場合によってはほっといても治らないけど。
法介の質問を受けて、成歩堂は一層にっこりと笑う。おそらくは、法介の唱えた異議を吹き飛ばす用途の笑みなんだろう。真正面からそれを受けて法介は、う、と詰まる。
「僕だって、無断退院する訳じゃないんだよ?医院長さんの許可は貰ってるさ」
「……そうなんですか?」
疑ってる訳じゃないが、そのままを信じれない(と、言う事は疑っているのだろうか)。
「うん。僕が退院したいんですけど、って言ったら『いいんじゃない?』って」
(軽―――っ!)
法介は驚愕した。
「……そんなんだったら、どうして入院したんですか」
それをみぬきから聞いて、自分だって心臓が飛び上がるくらい驚いた。いや、心配したのだ。
「うん、まぁ、一応頭をぶつけた訳だからさ、『ちょっと寄ってく?』って」
(大丈夫なのかよこの病院!)
法介は戦慄した。
「……成歩堂さん。悪い事は言いませんから、他の病院で改めて診て貰いませんか?」
「平気だよ。心配性だな、オドロキくんは」
「……………」
なんだか宥めらるように言われてしまい、法介はそれ以上何も言えなかった。
それより、持ち上げたダンボールの重さに、事務所までの道のりを想定して、その距離にげんなりしたからだ。
帰路の途中でみぬきとは別れてしまった。そのまま彼女の職場へと直行したのだ。別れ際、なんとも見に来てね、と念を押された。あまりの念の押されように信用が無いのか、と思ったくらいで、「オドロキさん、ぼんやりしてるから心配なんです」なんて彼女の方から言われてしまった。まぁ、確かに彼女が居なければ今回の裁判、危うい所は何度もあった。
そんな訳で、事務所で成歩堂と二人きりになっていしまった。彼が入院していた都合もあり、みぬきと二人きりはしばしばあったが、このパターンは初めてだ。想像しなかった訳でもないけど、もっとずっと先。自分が彼への苦手意識を克服してからのように思っていた。
だから、かなり落ち着かない。
とりあえず、ダンボール箱をソファにどさり、と置く。さすがに元法律事務所なだけあり、ソファは来客用でとても立派なものだ。
重たい物を結構な時間持って移動したから、手がだるい。それを振り払うように、ぶらぶらさせた。その時、見えない視界の何処かでカチャリ、と瓶が軽くぶつかる音がした。
「ごくろうさま。はい、これご褒美」
そう言って、成歩堂がグレープジュースの瓶を差し出す。
「…………」
法介は、今自分の顔が感情に忠実になっていないか不安になった。
あの事件があってから、正直グレープジュースは飲む気になれない。ましてや、彼の差し出す瓶は凶器になった物と全く同じなのだ。法介は引き攣りそうになる自分の顔の筋肉と戦う。
「? 遠慮しなくてもいいよ。一杯あるから」
(違う!)
と心中では涙を流して反論した。
これがわざとなら悪趣味過ぎるが、どうやら本当にご褒美としてあげるつもりで居るらしい。使い方を最近覚えた腕輪のおかげで、そんな事まで判る。
「…………。はい、ありがとうございます………」
なので、受け取る事にした。人の好意は無下に扱うべきではない。
これはただのジュースなんだ。飲んだ所で死にはしない。と瓶を抱えたまま、法介は必死にマインドコントロールしていた。
「オドロキくん」
「はい」
今度は何なんだ、と思わず身構える。
「これから仕事に行くんだけど……君はどうする?」
「えっ、退院したばかりでしょう?」
呆れるくらい軽症だったとしても、今日は休むのだと思っていた。
「言っただろ?ウチは共働きだって。みぬきが働いてるんだから、僕も働かなくちゃね」
(……判ったような、判らないような……)
実際、成歩堂の父親っぷりがどれほどのものか、この短い付き合いでは全く掴めない。みぬきは完全に懐いているが、成歩堂みたいな父親が欲しいか、と聞かれるとそれはかなり微妙だった。
「……え、っと、それなら、もうこのままビビルバーに行こうかと……」
主どちらも不在の部屋で一人居るのは、想像するだけで寂しかった。まだ、自分はここでは余所者の感じが強い。いずれ、解消されるのだろうか。
「ああ、そうだね。約束したからね」
目を細めて成歩堂が微笑む。この優しい笑みがみぬきの父親として浮かべたものなら、彼はそれなりにいい父親なのかもな、と法介は認識を改めた。
カチャン、と鍵を掛けて、数回ドアノブを捻って施錠を確かめる。
そのドアには、成歩堂なんでも事務所、と書かれている。なんでも、の部分は紙で張り付けあるだけだが。その下には「法律」の二文字があるんじゃないだろうか。法介はそう思っている。
「ショーを見終わったら、そのまま帰っていいからね。今日はご苦労様でした」
労うように、しかし調子良く言う。法介は何処か照れ臭くそれを受け取った。
「成歩堂さんは、ソバ屋でピアノを弾くんですよね」
しかしながら、ピアノの音色と共に啜るソバなんてどんなもんなんだろうか。機会があれば確かめたい所だ。
「うん。その後でボルハチに行くけどね」
「――え?」
一瞬、足を止めそうになった。成歩堂が、そんな自分にどうしたの、と視線を投げかける。
「あ、いや……てっきり、辞めたとばかり思っていたので」
「どうして?辞める理由なんて無いだろう?」
「いやいや!だって、あそこ人が死んだんですよ!?事件があったんですよ!?」
しかも、地下室。自分ならもう絶対足は踏み入れたくは無い。拒める方法があるのなら、それに縋るだろう。
「オドロキくん。地球上、人が死んでいない所は無いよ」
何でもないように成歩堂が言う。本当に、何でもないと思っているんだろう。
「そ、そうですけど!」
そういう、物理的というか表面的な事ではなくて、もっと心境的に関わる事なんじゃないだろうか。
(全く、この人は――)
2ヶ月前、事件があった場所に平然と赴くわ、凶器になった同一の瓶のジュースを飲むわ、事故っても平然としているわ………
「……成歩堂さんは死ぬのが怖くないんですか?」
釈然としないものを抱えすぎて、思わず口から零れてしまっていた。
「………………」
この質問は成歩堂の意表を突いたのか、目を瞬かせてきょとんとなった。法介が見る初めての表情だったが、それをじっくりと眺める余裕は彼には無い。
「あ、いえ!すいません何かオレ、妙な事――」
「……人を、あえて死ぬのが「怖い」のと「怖くない」のとで分けるのならば………」
なんだその勿体ぶった言い方、と法介は思う。
「僕なんかは、さしずめ「怖くない」寄り……かな?」
「………………」
にっこり。と。
出会ってから、法介が何度も見た彼の笑顔だった。
(怖い)
自分の腕輪をぎゅう、と握り締める。彼のセリフに、腕輪は何も反応しなかった。
つまり、彼の言う事は全て真実。
彼は本当に、死ぬのが怖くないのだ。
「………どうして」
自分はパンドラの箱でも開けてしまったのか。寒気のような後悔に押され、押し留める事は出来ない、とばかりに説明を促す言葉を発する。
成歩堂は、うーん、と考えて居るようなふりをしているような、半眼で視線を宙に浮かす。
「……そもそもさ、何だって人は「死」ってものが怖いんだと思う?」
「………え?」
急に話題が明後日に飛んだみたいで、一瞬遅れた。
「まぁ、人によって色々違うだろうし、色々あると思うんだけど。
僕はその中のひとつで「誰にも会えなくなるから」じゃないかな」
まあ、確かに。生きるって事は、誰かと出会う為だとも言えるだろうし。その論点で立てば、その逆は死んでいるという事になる。
「僕はね、」
と、またここで成歩堂は法介が初めて見る笑みを浮かべた。
その笑顔は、何て形容していいのか、法介には単語が見つからない。
子供のような、大人のような。清楚のような、妖艶のような。
奇しくも時間帯は黄昏時だった。昼でも夜でもない時間。今の彼にもっとも相応しい刻だろう。
「向こうにも、会いたい人が居るんだ」
「……………」
ここで言う所の向こう、とは。
……つまり、あの世、という事なんだろう。
彼の中にある真実に中てられて、停止しそうな自分を奮い立たせて当たり前の事実を確認する事で、どうにか動き続ける。
「でもね、勘違いしてもらっちゃ困るんだけど、別に進んで死のうなんてはこれぽっちも思っていないよ」
それまでの摩訶不思議な雰囲気を何処かに飛ばして、いつものように成歩堂は言う。
「こっちにはみぬきも居るし、その他諸々居るし」
大分省いたな、と法介は思った。
「それに、オドロキくんも増えたからね」
「……………」
彼にとっては、何でもない事なのかもしれない。ただ、思っただけの事を口走ったみたいな。
けれど、彼を生に縋らせている要因のひとつなのだと知れて、何だか酷く心が揺さぶられる。苦しいけれど、何だか甘い。
「……まぁその内、嫌でも死ぬんだから、あんまり怖がっても可哀想かな、なんて」
誰にと言うか、何に対しての配慮なのか、そんな事を彼は言った。
そして、ついでのように、「あ、そうだ」と呟いた。まるで独り言みたいに。
「……実は、僕のポーカーの常勝の秘密、まだあるんだけど、知りたい?」
知りたい?と意思を確認されている形ではあるが、いいえの返答は自分には無いのだろうな、と思った。法介は、はい、と返事をする。
法介から快い返事を貰った成歩堂は、いたずらっ子みたいな無邪気な笑顔を浮かべた。
「……あのね、ここだけの話なんだけど、」
「は、はい?」
そんなに深刻な話なのか?と顔を近づけて低い声で言う成歩堂に、動揺を隠せない。
「僕にはね、女神様がついてるんだ」
「…………………。は?め、めが…………」
呆気に取られている法介を見て、成歩堂は満足そうに笑う。
「うん。この世と……天国と地獄。それぞれに」
「はぁ…………」
この世の居る女神、ってのはおそらくみぬきの事だろう。
問題は、天国と地獄に居る言う女神様。しかも、天国ならまだいいとして、地獄ってなんだ。地獄って。
嘘なのかからかっているのか、本当なのか。何か、いちいち確かめるのも馬鹿馬鹿しい気になってきた。
「バランスがいいだろう?」
「……はあ……まぁ………」
「で、オドロキくん」
「はい?」
今度は何だ?と変に音程が外れた返事をしてしまった。
「ビビルバーは、あっちなんだけど?」
「え、あ、はい!そうですね!」
横道を指差し、成歩堂が言う。何だか途中から、何処を歩いているのかをすっかり失念してしまっていた。方向音痴だと思われてしまっただろうか。
「じゃあね。みぬきによろしく言っておいて」
「はい!判りました!」
平常だったら、さっき会ったばかりで何言ってんだ、と突っ込んだだろうけど、まだそこまで平静には戻っていない。背後に見送る成歩堂の視線を感じながら、何かギクシャクとした動きで道を歩く。
(……女神、ねぇ……)
確かに3界全部に味方がついているというのなら、何かが欠ける事が無いのだろう。あくまでそれを事実と仮定して。
3人も女神が居るなら、それはもう無敵だろうて。
(……でも、何かオレとしては……)
女神がついているから強い、というより。
むしろ本人が勝利の女神のような――
「…………」
(って。成歩堂さんは大人の男性だぞ!?何とち狂ってんだ!!)
何か物凄い恥ずかしい事を思ってしまったみたいで、一人羞恥に悶える。
でも、物事の本質を捉えたいのなら、遺伝子の隅っこで決まる性別なんて、どうでもいいのかもしれない。そう、本質はもっと深いところにあるのだ。
だって、自分は。
彼に微笑まれたら、いつだって勝てそうな気がするから。
<END>
法介はあの事務所で成歩堂さんのお師匠さんが亡くなったのを知っているのか、という。
4終了後ならともかく、4−3以前ならそのまま飛び出して帰って来ないような。
ビビり法介。(←ビビる大木みたいな感じで)
いやまぁ、この話。最初アメリカの諺で天国と地獄に友達が居るのはいい事だ、というのがあるから、それを持って御剣と霧人の事を示唆しようかな、と思ったんだけど。
………御剣って、死んだら天国行くかなぁ、って……………
………どうだろうね………
………………