安全地帯。



 熱があるはあるが、風邪を引いたとか病気になったというよりは、使い過ぎた機械が熱を持つように、オーバーヒートしているだけなのだと思う。過去何回かあった事だ。特に騒ぎはしない。
 だからこそ、いつものように成歩堂の事務所に訪れたのだが、それは失敗だったのかもしれないと思ったのは何時頃だろうか。
(………眠い………)
 単純な頭の酷使が原因なので、いつもより長めの睡眠を取ればば熱は治まる。だからこその、かなりの睡魔に見舞われている。ここの調度類は師からそのまま受け継いだ物で、自分の使う物はシンプルだが、その分客に対して使うものにはいい物を、という見上げた精神で購入されたこのソファは、大分座り心地がいい。それでも普段、このソファで眠りにつく事は無かったので、余程自分の体は休息が必要なのだな、とそこは他人のように冷静に判断してみた。
 事務所に来て、何か歓談する事もあるし、お互いする事をしているだけの時もある。今が後者なのは、幸いと呼べるだろう。パソコンに向かっている彼は、ディスプレイで隠れて自分の姿が見えないだろうから。
 こっちもこっちで、書類に目を通しているふりをして――いや、実際目を通しているのだが、意識がぷつんぷつんと途中で途切れる。うたた寝の様子を舟を漕ぐ、とはよく言ったものだ。
 眠い。
 頭が、いや体が、いや意識が重い。重くなった意識は、当然沈もうとしている。それに逆らうには力が必要で、しかしそれだけの体力は無かった。無いからこその、この眠気なのだが。
 だが、ここで眠ってしまう訳にはいかない。断じて。
 もし眠ってしまったら、いずれ彼は珍しくソファで寝込んだ自分に気づくだろう。勿論その原因を探るだろうし、その後どんなに誤魔化そうが、きっと彼は自分の不調を見抜いてしまう。ただえさえ、しょっちゅう此処に訪れるのを、訝しんでいる……と言うか大丈夫なのか?と気遣ってくれている。それを平気だ、と押し通すように通っている自分なのだ。
 それなのに、高熱出したと知られたら。
 それ見た事か、と出入りを禁止されるかもしれない。完全に、とまではいかないだろうけど、少なくとも当分は自粛されそうだ。
 それより、伝染るからすぐに出て行けとか、相手に伝染る可能性考えないでに来るなんて信じられない、とか言われたらどうしよう。
 想像がどんどんネガティブな方に傾くのは、体調を崩しているかななのか性格からなのかがちょっと曖昧だ。
 しかし、それなのに此処の空間は自分を優しく包んで、睡魔の味方をする。もっと早い段階なら、立ち去って帰る事も出来ただろうに、ここまで来てしまっては、もはや車を運転するのも危ない。
 バレない程度に短い眠りを断続させれば、ある程度回復するだろうかと思ったが、むしろその逆みたいだ。どんどん眠りの間隔が長くなり、逆に覚醒は短くなる。
 普段なら睡眠の妨げになる室内や外からの雑音は、子守唄のように眠りの世界へと導いていく。
 特に、彼が叩くキーボードの音が。
 自分が打つよりも幾分遅いそのリズムが、瞼を重くしていく。
「………………」
 眠ってはいけない。
 最後の最後まで、そう思うのは止めなかったけど。


 何かの異変を感じ取って、ゆるゆると意識が浮上していく。
 しかし、覚醒には全然届かない範囲での事だから、殆ど寝ているのも同義だった。
 が、それも次に発した音により、一気に目を覚ます事となる。
 カシャッ、ピロリ〜ン♪とシャッター音の次に軽いメロディー。携帯のカメラで自分の姿を撮られた、とすぐに判った。いや、例え違っても、その可能性を考慮して自分は起きなくてはならない。多少強引に、御剣は目を開けた。
「っ!!!」
 いつの間にか寝ていたという事実に気づく前、目の前の人物に意識が集中する。そこには、幼馴染が居た。ただし、ここの主ではない方の、だ。
「――矢張、貴様ッ………!!」
 そして彼の手には携帯電話が握られていて、そのレンズは自分の間近に迫っていた。
 なんという失態だ。寝顔を撮られてしまった。
 動揺するだけで、脳が揺さぶられる感覚がする。クラリとした。
「あっ、何だよ。起きちゃったのかよ」
 何だか残念そうに矢張は言った。
 まぁ、これも結構撮れたからいいか、と自分の携帯のディスプレイを見て呟く。
「何を、人の寝顔勝手に撮っている………!!」
 頼むから激昂させてくれるな、と相手に縋りたい。頭痛は無いのだが、クラクラする感じがずっと続くのはそれはそれでキツいものがある。
「だって、お前の寝顔なんて初めて見るからよ。珍しいもの見たら撮るだろ?フツー」
 と、矢張は御剣にとって理由にも何もならない戯言を言う。
「消せ。今すぐにだ!」
「何だよ。いーじゃねぇかよ寝顔くらい!」
 感情を露にする御剣に、矢張もすぐにエキサイトする。
 失敗した、と思った。こうなってしまったら、向こうも意地でも引かないだろう。
 しかし、それはこちらとて同じ事だ。
「いいから今すぐに消すんだ……肖像権の侵害で起訴してやろうか……!」
 まぁ、それは本気ではなくて脅しだが。
 しかし脅しとしては本気で言う。
 普段被疑者に向ける視線を、そのまま矢張へぶつければ、彼はヒィ、と青ざめた。
「んだよ御剣のケチ!撮ったものはオレのものなんだー!!」
「キサマッ………!!」
 言い捨てるようにセリフを吐いた後、矢張はドアへ向かってダッシュした。
 高熱を抱えた体は当然動きたく無いと訴える。
 しかし、それ以上に彼を追いかけて捕まえなければならない気持ちの方が強い。
 寝顔なんて、どんな顔して寝てるかなんて、自分には全く判らないのだ。どんな顔をしているのか判らない自分が曝されるなんて(おそらく矢張は他人に見せるだろう。絶対)想像だけで羞恥で焼ける。
 追いかけようとソファから立ち上がると、それだけでまたクラッとした。やはり、まだ動くのはキツい。
 それでも眩暈を押さえ込み、矢張に目を向けると、彼が「うぉぉぉぉっ!?」と間抜けな声を出して、ドアの前で急ブレーキをかけてた。その、彼の前にあるドアは、開いているみたいだ。
「何だよ成歩堂!吃驚したじゃねぇか!」
「……いやいやいや、こっちが驚いたよ」
 まぁ確かに、開けてすぐに誰かが居たら驚くだろう。お互いに。
 いや、それより。
 今の今まで、寝顔撮られてそれの消去だけを考えていたが、成歩堂は何処に行ったのか、何時の間に出て行ったのか。まるで記憶に無い。
 と言うか。外出する際には、どうあろうと同一空間に居る相手に声をかけるだろう。
 その時、絶対自分が眠っている事を、嫌でも気づくだろう。熱い顔とは裏腹に背筋がひゅっと冷えた。
(………いや、)
 寝ていたのはそれは気づくだろうけど、それが体調不良だとは気づいていないかもしれない。ただ、眠いのだ、と思われただけで。その方が出来ればありがたいのだが。
 下手にボロは出さず、まずは彼の動向を窺おう。
「成歩堂ォォ―――ッ!助けてくれよぉ、御剣が怖いんだよ!」
「はぁ?お前、何したんだよ」
 毎度の事に呆れながらも、成歩堂は矢張に尋ねる。
 縋る時には涙を流さんばかりに悲壮な顔だったが、説明するに当たって表情がけろっと一変した。
「いやな、ただアイツが珍しく寝てたから、そこを――――」
「――――矢張ィィィィィィッッ!!」
 ゆっくり動向を窺っている場合では無かったのだ。この場に残りの幼馴染が居合わせたら、彼は率先してさっき撮った画像を見せるだろうに!
 それこそ鬼の形相で駆け寄り、その甲斐あってか向こうが戦いた隙に携帯を奪取する事に成功した。
 その時、気を揺るめたのがまずかっただろうか。
 ぐわんと視界が回って、走って勢いのついた感覚が止まらない。足が踏ん張る事が出来ないで、その勢いに引きずられるように前のめりになった。
 そのまま倒れそうになる所を、近くに居た親友二人のお蔭で、地面と衝突する事は無かった。4本の腕がばらばらに自分を支える。目の前にある床をただ目に写して、危うく倒れる所だったとかなり遅い認識をした。
「……………」
「ちょ……どうしたんだよ、御剣?」
 自分に掛けられる成歩堂の声が、何処か遠い。一瞬、腕を掴んでいる彼の行方を探ってしまった。
 早く体制を整えようにも、大きな眩暈の余韻のせいで、体に上手く力が入らなかった。
「………あれ。お前、熱無くね?」
 携帯を取り返そうと、自分の手に直に触れた矢張がそう言った。
「え?」
 と、成歩堂が声を上げる。何でもない、といい訳をする暇も無く、額に彼の手が当てられる。
「……………ッ!!!」
 不意に触れられた皮膚の感触や自分より低い体温に、心臓が跳ねる。
「熱い………?あれ、本当に熱いよ!?」
 途端成歩堂が慌てだし、自分の顔を覗きこむ。驚きに染まった顔は、普段より目が大きく見えた。この時顔が赤かったとして、それは体調不良の熱からではない、と訴えてきいてもらえるだろうか。
「…………。いや、これは……」
 ようやく正常を取り戻した御剣が取り繕うとするが、成歩堂はそれを聞かない。
「体温計持って来るから!そこに座ってて!」
 そう言って、給湯室に駆けて行く。あそこに体温計があるんだろうか。
(……何故に給湯室に……)
 一抹の疑問が出来た。
 とりあえず、言われたままに腰を降ろす。正直、立ってるだけでも今は体力を使う。
 そして、自分の座った横にちゃっかり矢張が座った。
「んだよ。お前調子悪かったのかよー。ああ、だからあんなに怒りっぽかったんだな?」
「…………………」
 そもそも貴様が怒らせる真似をしたのはいけないんだろうが!と激を飛ばしてやりたいが、今はそんな力も無かった。中途半端に発散すればかえってストレスがたまる。完全回復した暁には、まずこいつに報復しよう。
 へらへらと明るい顔で笑う矢張に、御剣は黒い復讐計画を立てた。
「はい、これ。脇にさして」
 体温計を持って成歩堂が戻ってきた。取って来たそれを自分に渡し、座る事もしないで傍らでじっと自分を見ている。その視線がひどく居た堪れないのは、やはり自分に非があるという自覚故だろう。暫くし、電子音がした。取り出して、すぐに見えた数字に顔を顰めた。
(……38度5分………)
 これでは倒れるまでの眩暈もするはずだ。思わず納得してしまった。
 この事実は伏せておこう、と思っている間にに体温計は取られてしまった。しまった、と体温計を奪われた手が固まる。
「!御剣、お前……」
 成歩堂から、驚愕した声がする。
「熱だけだ。よくある事だ。慌てる必要も無い」
 それは事実なので、何も誤魔化す事無く告げる。
「熱だけって……こんな高熱、滅多に出るものじゃないだろ!?」
「………………」
 まぁ、彼の言い分もまた正しい。ので、御剣は反論しないで沈黙する事にした。
「いつから?」
 彼の方に顔は向けていないが、成歩堂が自分を見ているのが判る。
 ここまで来てしまっては、隠しても意味は無いだろう。
 出来れば、何にせよ、彼に対しては誠実にありたいと思っている自分なのだから。
「……今日、抱えていた審理が終わって、執務室に着いた時だったかな。本棚の前で、資料を見ながら立ち続けているだけで、何だか疲れが出たのだ」
 いつから熱が出始めたかは知らないが、自覚したのはその時だった。
「……って事は……ここに来る前に、自覚はあったって事?」
 確認するように成歩堂が尋ねる。
「………………。そうだ」
 地雷だと思う事実を、しかし肯定した。覚悟を決めて。
「……………。何で、」
 色々言いたい事があるのだろう。それを整理し終わったのか、やや間を開けて彼が言う。
「何で、そこまでして此処に来るんだよ。何も無いだろ?此処」
「………………」
「………成歩堂よぉ、それは無ぇんじゃねぇの?」
「え?どうして?」
「……………………………」
 矢張に気遣われた。このダメージは計り知れない。
「……だから、午後からの休みを申請しておいた。抱えていた仕事は粗方ひと段落ついたからな。ここで休息を多くとっても、後から挽回できる……」
 セリフが多くなって何だかいい訳くさいが、無計画でここに来た訳じゃない、と必死に伝える。
「だから。何で来たがるんだってば」
「…………………………………」
「成歩堂よぉ……その辺にしておいてやれよ」
「え?何が?」
「………………………………………」
 矢張に同情された。傷ついた部分の修復には時間がかかりそうだ。
「まあ……そういう事だから。邪魔したな」
 そう言って立ち上がったのを――戻される。
 成歩堂によって。
「……………」
 驚きを隠さずに彼を思わず見詰めてしまった。成歩堂は成歩堂で、焦ったように慌てている。
「何言ってるんだよ。こんな状態で帰れる訳ないだろ?」
「しかし…………」
「何だよ」
「……その、伝染るといけないから………」
 強くなった目の力に押されながら、しどろもどろに告げる。
「馬鹿じゃないのか。そんな事、気にするなよ。って言うか、疲れて熱が出てるだけなら、そんなの伝染したりしないってば。
 ほら、横になって。矢張、退いて!」
 有無を言わさないハキハキとした物言いで、御剣と矢張にに指示を出す。
「はいよー」
 と、矢張はまるで気の無い返事だった。この薄情さは絶対に忘れるものか、と御剣は自分の記憶に誓う。
「それより……お前、時間平気?」
「へ?……うわっ、ヤベ!もうこんな時間かよ!」
 壁にある時計を見て、慌てて上着を引っ掴んでドアの向こうに消えていく。せめて、さよならくらいの挨拶はしたらどうなんだろうか。アイツは。
「……10分くらい前に矢張が来てさ。今宅配のバイトらしいんだけど、近くに来たからって」
 所長室からブランケットを持って来て、成歩堂が言う。
「ちょっとその時外に出たかったからさ。でも、寝ている君を起こすのも忍びないしなぁ、って思ってた所に来たから、あいつに留守任せたんだ」
 起こすまいという気遣いは大変ありがたいが、どうせなら人選にもっと気をつけて欲しいと思った。
「………………」
 この時、何か忘れてはいないか、と思ったのだが、それは奥に引っ込む事になる。矢張との小競り合いで体力がそがれた分、それを補おうと体は今すぐにでも睡眠に入る姿勢になっている。横になった体の上にブランケットがかけられ、本来ひざ掛け用のそれは寸足らずもいい所だが、今の御剣にとってはそれでも十分な寝具だった。楽な姿勢になっている分、眠りにつくのに座っている状態の時程の睡魔は必要ないみたいだ。熱に浮かされた意識が、そのままどんどん遠くに行くような感じがする。それは酷く心地よいものだった。
 此処でなら、無防備な自分を曝しても安全で居られる。確信も、それを裏付ける証拠も無いのにはっきりした安心感があった。
 彼は最後に自分の頭をくしゃりと撫でて机に向かう。幼子にするような行動に、異議が浮かんだが寝具を提供してもらった身なので、あえて黙っておく。逆の立場になったら、やり返してやればいいだけだ。彼も大概、わが身を振り返らない。
 さっきの続きなのか、別のものなのか、またたどたどしくキーボードを打つ音がする。
 その音を聴いて、さっきと同じように眠りをつく。
(――そう言えば………)
 トラウマに固く封じられている子供の頃の記憶。その中で、いつか風邪で休んだ時、自分の部屋で寝るのが心細くて、母がいる居間に布団を移動させて眠った。そして、家事をする物音を聞きながら、眠りについたのだった。
 その時の眠りは、今と似ているような気がする。
 そんな事を考えながら、普段よりも大分早く御剣は眠りについた。
 そのちょっと後に、成歩堂が顔を覗きこんで、優しく微笑み、再び頭を優しくなでたのも気づかないくらい。


 そしてその頃、矢張の撮った御剣の寝顔の写メールがチェーンメール並に知り合い連中に出回っているのだが、当然この時の御剣は知る由もなかった。



<おわり>


成歩堂……お母さんみたいだ。二人の。
じゃあどっちが長男で次男なんだ……どうでもいいか。
真宵ちゃんが長女でハミちゃんが次女。
お父さんは千尋さんです!!!!!(超主張)
全く余談ですが一度座ったままうたた寝したあげくに寝涎した事があります。どれだけ寝汚いんだ。