空に上がる気球



 最近、みぬきの愛しいパパの様子がなんだか可笑しい。
 具体的にどう、とは言えない。特に不自然な振る舞いも、目につく仕草も無い。
 ただ、こう、身に纏う雰囲気というか、空気だろうか。
 ああ、空気と言えば、そう。思いっきり膨らまし過ぎた風船。アレに近いものがあるかもしれない。
 多分、割れない。大丈夫。でも、表面がパンと這っていて今にも割れそうで、うっかり触れない。下手に突くと、とんでもない事になりそうな気もする。
(でも、早い所なんとかしなくちゃね)
 と、成歩堂と一緒にお風呂に入りながら、みぬきは一人考え込む。彼女のパパは、今、みぬきの髪を洗い終えて自分のに取り掛かっている。
 だって、もうすぐ成歩堂の誕生日なのだ。みぬきが祝う2回目の。彼にとっては28回目の。
 去年、ケーキを作ろうと散々挑戦したが、無理だった。けれど、今年から調理実習も始まり、料理のスキルもちょっとは上がった。去年の屈辱を晴らせるだろうと思っているのだが、当の祝う本人に問題があっては何もならない。
(パパ、何を悩んでいるの?何を困ってるの?)
 本当は悩んでも困ってもいないのかもしれない。けど、自分はまだ言葉を沢山知らなくて、成歩堂の今の状態にしっくり来る言葉が見つけられないのだ。
 髪を洗い終えた成歩堂が湯船に浸かる。その身体に、みぬきは凭れかかった。
「……あー、髪、伸びたなー」
 誰に言うでもなく、成歩堂は言う。
「そう?」
 と、みぬきが振り返って覗き込む。
「うん。髪洗うのが面倒くさくなった」
 彼らしい基準である。
「……いつ切りに行こうかなー……」
 そう考えて居るが、出来れば行きたくないな、と思っているのが手に取るように解る。
 こういう、表面的な事はすぐに解るのに。
 一番知りたい事は底の方に沈んでしまって、手が届かない。
 考え込むようにぽりぽりと頭を掻いていた成歩堂だが、何か思いついたようにみぬきを見た。
「そうだ。みぬき、図工とか得意だよな?」
「? うん」
「じゃ、ちょっとパパの髪、切ってくれないか?」
「え……ええええええっ!何言ってるの、パパ!本気!?」
 いくら自分が稼いでいてしっかりしているとは言え、理髪まで頼むとは。さすがのみぬきも仰天した。
 驚くみぬきに、しかし成歩堂は笑っている。
「平気平気。そう、酷い事にならければ。どうせ、帽子も被るしね」
「え。で、でも……」
「水に濡れてた方が切り易いよな。うん、出たらさっそく頼もうか」
「ええええええッ!」
 と、みぬきは叫んだ。本日二回目だ。
「大丈夫だって。みぬきは世界一の魔術師になる子なんだから、パパの髪切るくらいこなさないと」
「魔術師は髪は切らないのッ!」
「お客様の要望には応える……それがプロってものだろ?」
「………ううううう」
「そう難しく考えるなって。ただ、伸びたところを切ればいいんだから」
 と、何気なく言ってくれるが、それが難しいから商売として成り立っているんじゃないだろうか。
 まだ反論の余地は十分にありそうな気がする。でも、何だかんだで大好きなパパの頼みごとなのだ。出来れば、叶えてやりたい。
 結局、みぬきはその申し出を、引き受ける事になったのだった。


 脱衣所にパイプ椅子を持って来て、下に新聞紙を引いた。ゴミ袋に穴を開けて被り、スタンバイはオーケーだ。
「パパ……本当にいいの?」
 身長の都合でみかん箱に乗ったみぬきが、最後の確認のように聞く。
「いいって、いいって。思いっきりざっくりやっちゃってくれよ。あ。あくまで髪を、だけどな」
 あまり笑えない事だが、成歩堂は、ははは、と笑っていた。誰かが見れば恐ろしい男だ、と言っただろう。
「うーん……よし、じゃ、行くよ!」
 みぬきもいい加減覚悟を決めたのか、手にしたハサミでじゃきり、とまずひと房を切った。
 始めはハサミの先まで緊張が張り詰めていたのだが、段々と切る事に慣れて来たみたいで、次々と順調に切っていく。
(意外と、面白いかも)
 そんな事まで考える余裕も出来てきた。
「ね、パパ。今度はパパがみぬきの髪切ってね」
 当然のようにみぬきは言ったのだが。
「みぬきは女の子なんだから、ちゃんとした美容師さんに切って貰いなさい」
 と、いうにべもない返事だった。
「えー!それってズルい!ええと、アレ。異議あり!ってヤツだよ、パパ!」
「はは。異議貰っちゃったかー」
「あげちゃうよ!奢っちゃうよ!」
 ぷぅ、とみぬきは剥れた。成歩堂の背後に居るので、彼がそれを見る事は不可能だが。
「でもやっぱり、みぬきはパパと違って女の子なんだから、さ。身なりはちゃんとしないとな?」
「そーゆーのって、女の子とかカンケイないよ。パパも身なりはしゃんとしなくちゃ!」
 とは言うが、成歩堂は決して不潔ではない。そう、ただ少々だらしないだけで。
 ヒゲだって、最近は伸ばしている。髪も以前はもう少しセットしていたように思えた。
(あ、そうだ……)
 みぬきが成歩堂に何かを感じ始めた頃。丁度そのくらいの頃から、彼は一層身なりに無頓着になったように思えた。
 みぬきは一瞬、懸念する。もしや自分が原因なのだろうか、と。
 すると、まるでそれが伝わったかのように、成歩堂が言い出す。
「うーん、でもあんまり、オシャレとかは興味無いんだよなあ。暑さ寒さ凌げればいいっていうか」
 そしてそれでいて安ければ、と付け足した。
「……みぬき、ダサいパパは嫌だなあ」
「はっはっは。そう言うなら、ちょっとは考えてみようかな」
 そうは言ったが、改善するつもりはなさそうだ。みぬきだって、本気で成歩堂がトレンディーでファッショナブルになればいい、とか思っている訳ではないのだが。むしろ想像出来ない。
 散髪は順調に進む。みぬきは全体の形を考えて、髪を調整した。おかげで、口数がかなり減る。殆ど無言だ。
 そんな時。
「……パパのお師匠さんはね、」
 と、成歩堂がぽつりと言い出した。
 本当に、ぽつりと言ったような感じで。
 零れないよう、ちゃんと包み込んでいないといけないのに、一滴思わず零してしまった――そんな感じで――
「スーツが似合ってて、とても格好良い人だったんだけどね。本当はハイヒールが嫌いだったんだって。歩きにくいって」
 そんな成歩堂の声を聞いて、みぬきの手も止まる。
「……パパもね、本当はスーツとか嫌いだったんだ。髪とかヒゲを整えるも、面倒臭くて」
「……………」
 何か言いたかった。何か言いたくて仕方なかった。
 けれど、成歩堂の声を聞いていたら、何も言えなかった。
 胸がまるで内側から締め付けられているようで、ぎゅっと抱き締めたくなる。
 これが「切ない」っていう事なのかな。
 幼いみぬきは、そう覚えた。
 シャキシャキ、と髪を切るハサミの音が、静かにその場に響いた。


 ひとつ、成歩堂の変調に解った事がある。
 それはみぬきの父親としてでなく、まして元弁護士としてでもなく。成歩堂龍一という個人の問題なのだという事が。
 それならば、出会って関わって、たかが2年目の自分が解決出来る事ではない。そして、みぬきはそれ以上に知っている。こういう時、誰を頼るべきか。
 成歩堂の居ない時を見計らって、みぬきはパソコンを起動させた。一人でメールを送った事は無いが、文面はいつも二人で綴っていた。だから、手順は覚えている。
 父親譲りの1本指打法でぽちぽちと拙い手でキーボードを打ち、最後に送信ボタンを押して終了。
 これで、もう大丈夫な筈だ。
 少なくとも、自分にやれる事は全部した。
 ふう、やれやれ。とみぬきは嘆息した。
 この送信したメールも、削除しておくべきかな?と少し悩んだが、悩んだ結果、自分に正直に残す事にした。
 ちょっとあてつけがましいけど。自分がとても、パパの事で一生懸命だった、という証拠として。


 手は打ったが、すぐにそれが実現されるものでもない。夕食の場、成歩堂はやっぱりどこか上の空だ。そこまでではないけど、確実に何かに気を取られている。
 それでも、「みぬきのパパ」という事はしっかり全うしていて、醤油を自分で使った後はみぬきの取り易い場所に置いている。
「……ね、パパ」
 みぬきはふと思った。
 この状態の成歩堂なら、あるいは。
「何だい?」
 と、みぬきの顔を見る。
 その成歩堂の顔も、みぬきが見る。
 うん、初めて切ったにしては、結構見える。
「あのね、口にチューってしていい?」
「ダメ」
 ちぇっと、みぬきは唇を尖らせた。




<おわり>

SSSに乗っけてる千尋さんの年齢超えちゃうのにナイーブになってるナルホドくんのみぬき視線のような。
みぬき嬢の送った主は後々書くつもりです。ここまで持ってくのに少々話数を重ねないとならないのですが。
て言うか一番書きたかったのは唇を狙ってるみぬきちゃんですけどね。虎視眈々と狙ってます。
タイトルですが、英語の慣用句で「問題が迫っている」という意味は「気球が空に上がった」とか言うそうです。そこから。