手出し無用



 それまでいかにもどこかで拾ってきたよーな雑誌にあるクロスワードパズルを、これまたいい加減そーに解いていた成歩堂が、徐に立ち上がった。
「さて、と。そろそろ行かなきゃな」
 それで気合が入るのか、それとも最初からそんなつもりはないのか、呑気に言う。
 独り言にしては大きい。やっぱりこれは、自分に向けて言っているのかな?と自惚れを自覚した上で法介は思った。
「成歩堂さん、いってらしゃい」
 と、送る言葉を言ってから、自分はここの住人ではないのだから、いってらっしゃいはもしかして可笑しいのではなかろうか、と懸念した。
 そんな法介を面白そうに眺めて、成歩堂は、
「うん、行って来るよ」
 と、パーカーのポケットに手を突っ込み、にこ、と首を掲げて法介に返した。
 まさかきちんと返してくれるとは思ってもいなかったので、法介はそれはもう驚いた。それと同じ強さで歓喜した。
「あ、は、はい!いってらっしゃい!!」
「それはもう聞いたよ」
「!………あ、はぁ、そうでしたね……」
 はっはっは、と軽やかに笑われ、顔が熱いのは、マヌケな自分の発言を指摘されたからか、今の笑顔のせいかの判断がつかない。
 ひたすら羞恥する法介の前で、成歩堂はただにこにこしている。そろそろ行かなくては、と言ったくせに。
 もしかして自分を(また)からかって遊んでいるのだろうか?という考えが一瞬過ぎる。それが真実か考えすぎかははっきりしないが、それだけでは無さそうなのはみぬきが帰宅したからだ。
「ただいま、パパ、オドロキさん!あっ、パパ、もうお出かけ?」
「うん、」
 にっこり、とみぬきに笑いかける。その顔を見て、ただ笑うという表情にも、色々あるんだな、と法介は思う。先ほど自分に向けられていたのには、底にちょっと意地悪な悪戯さが潜んでいたが、今みぬきに向けられたのには優しい慈しみが込められている。
 みぬきちゃん、いいなー、と思わず羨んでしまい、次の瞬間その子供じみた感情にはっとなって必死に打ち消そうとした。
 そんな法介を置いて、成歩堂親子のやり取りが続く。
「じゃあ、パパに”行ってらっしゃい”のキスしなくちゃね」
 みぬきは成歩堂の顔を覗きこみながら言う。
(………”行ってらっしゃいのキス”……)
 本当にする人が居るんだ、と思うのと同時に、この親子ならやりかねん、と思った。
 さて、額か頬のどっちにするんだか……と、自分の存在をもしかして忘れられているのでは、という事はひとまず置いて考えた。
「パパ、屈んで」
 みぬきがそう言う。標準より若干高い成歩堂は、みぬきには高すぎるのだろう。成歩堂は素直にそれに従い、身を屈める。
 と、同時にパーカーのファスナーを下にずらした。
 何でだ?という無意識に感じた疑問は次の瞬間あっさりと氷解する。
 額か頬か、と言う法介の考えは最初から間違っていた。
 みぬきは。
 成歩堂の首に手を回し、それはもう見えているだけでその強さが窺える程熱烈に。
 うっちゅ〜〜〜〜〜とかいう音が聴こえそうなくらい、首筋に吸い付いていた。
「……………………………………………………」
 法介の思考が止まり、ただただ眼の前の光景が画像として脳に送られる。本人の意思を無視して、それを現実と認識していた。
 やがて、これまたちゅぽん、とかいう音が聴こえたかという感じでみぬきの唇がようやく離れる。
「今日はまた、ずいぶん念入りにしたね」
 成歩堂のセリフはコレだった。
「だって、最近学園祭の準備でみぬきと入れ違いが多いじゃない。これなら、しばらく持つでしょ?」
 そしてみぬきのセリフがコレだった。
 声色だけ見れば「明日晴れるかな?」「そうだといいね」くらいのやり取りのように思えるのだが。
「い、っ……いい、いいい、異議ありぃぃ――――――!!!」
 と、気づけば自分は叫んでしまっていた。疑問が上がれば問わずにはいられない――すっかり「ゆさぶり」が身に染みているようだ。いや、こんな事を自覚している時では今は。
「? どうしたんですか、オドロキさん。あっ、されはそれが巷で噂の発音練習ですね!」
「違うよッ!て言うかどこで噂になってるんだよ!」
「えーと、主に「ボルハチ」と「あるでん亭」?」
「何を人の事を言いふらしてるんですか成歩堂さん!!」
「じゃあ、今度もみぬきが「ビビルバー」の人にも言っておきますね」
「そうじゃない!そーじゃないぃぃぃぃぃぃ!!」
 と、法介は思わぬ指摘をされた響也のように頭をぶんぶん振った。首が取れるんじゃないかなーと、成歩堂はそれをぬるく見守った。
「だ、だから、そのー……い、今何をしたんですかッッ!!」
 びしぃ!と指先が痛くなるくらい人差し指を突きつけた。とりあえず、一応どちらかではなく二人に向けて。
 そのまま指先が飛んで来るんじゃないか、というくらい思いっきり突きつけられた成歩堂は、ぽりぽりと頬を掻いた。
「何と言うか――……キスマーク着けてもらったんだけど?」
「だけど?って、いかにもオレが物分り悪いみたいな言い方しないでくださいよッ!!
 そっ、そっ、そっ、………そんな事して許されると思ってるんですか―――――!!」
 法介が力いっぱい主張すると、みぬきは驚いた感じに口に手を当てた。
「ええっ!パパとみぬき、捕まっちゃうの?」
「……いや、そこまでは……」
 大丈夫だと思う、たぶん……とみぬきの驚きっぷりに当てられ、些かトーンダウンして法介は言う。
「うーん、そうなったらまた、みぬきが頑張ってパパを消そうかな?」
「しれっと大それた逃亡計画言うなよ」
 とりあえず法介はそこに突っ込んでみた。根本的には突っ込む場所が違うと思いながらも。
「そうそう、そんなのダメだよ、みぬき」
 と、成歩堂が(珍しく)まともに口を挟んだ。おお、さすが父親、と法介は少し感動した。このくらい、世間一般では感動する事でもないという事実はここでは伏せておいて。
 だめなの?と窺うようなみぬきに成歩堂は言う。
「だって、みぬきはまだ自分で自分を消せないだろ?パパだけ逃げられても、部屋の掃除とか誰がしてくれるんだい?」
「あ、そうかー。みぬきってばうっかりしてたよ」
 テヘッと舌を出してコツン、と頭を叩く。そんな頭を成歩堂は優しく撫でる。
「そういう所も、可愛いよ、みぬき」
「もう、パパってばー」
「話題戻してもよろしいでしょうか」
 自分の声が大きかった為か、二人がこちらを向く。法介の発音練習が報われた瞬間でもあった。法廷では疎まれてばかりだったが。まあそんな事は今の法介にはどうでもいい事だ。
 しかし、二人に揃ってこちらを見られると言葉に詰まる法介だ。だって、取り上げた内容が内容だから、その発言もそれなりな訳で。
「……だ、だから、その……スキンシップにしても、ちょっと度が過ぎるっていうか……」
 言ってて思い出して、顔が赤っていくのが解る。何で見られた二人じゃなくて、見たオレがこんなに恥ずかしがらなくちゃならないんだ!?と法介は現実の理不尽を厭という程味わった。
「だってね、オドロキさん」
 と、みぬきが腰に手を当てて言う。
 だから、どうしてオレの方が物分り悪いみたいな扱いされるんだよ……という異議は真夏の雪のようにあっと言う間に解ける。
「パパってこれでいて、自分の事にてんで無頓着なんです」
「……………………」
 いや、これでいてっていうか、初対面からそれはいっそあからさまだったよ、と心の中でだけ突っ込んだ。とても、口に出して言うだけの体力が湧き出てこなくて。
 へぇ、突っ込むのにも体力が居るんだ……と、ひとつの真理を法介は見つけた。
「何て言うんですかねー。まあ、ここで一つ具体的にあげるとしたら、自分の魅力解ってない?みたいな」
「……………………」
 とても義理とは言え父親に言うセリフとは思えない……と斜めに俯いて法介は思った。
「うーん、あれはみぬきが中学校に上がったくらいだったかな?仕事上がりに二人で歩いてたら、急に前からナイフだか包丁だか持った男の人が『俺と一緒に死んでくれ』とか言ってパパに突進して来て、」
「………………………………は?」
 法介が証言の確認を求める前に、みぬきはさっさと話を進める。
「まあ、その時は色々あって無事に済んだんですけど」
「い……いやいや、その色々の部分は詳しく言おうよ!気になるよ!!夜眠れなくなるよ!!」
「で、その日の夜さっそく家族会議したんですよ」
 法介の要求は聞き入れる前に受け付けてすら貰えなかった。アリだって目の前に塩を置かれても少しは気にかけるだろうに。
「一番の原因は何かっていうと、パパが新しいママを見つけない事なんですよねー。それでみぬきが見つけなよ、って言ってるのに、」
「まあ、そのうち、気が向いたらね」
「って、ほらぁ、こんな感じなんですよ!」
 自分のセリフに覆いかぶさった成歩堂の発言に、みぬきはぷんすかと怒った。
「いや、あの!色々は!相手の男はどうなったのって言うかどうしたの!」
「だから、一応パパにはママはいないけど、みぬきが居ますよって事でキスマークつけてるんです。解りましたか?オドロキさん」
「ええー!説明終わっちゃったー!!!?」
 がびーん、と戦慄する法介だった。
「い、いやいや、みぬきちゃん、待った!」
「! うわぁ、パパ!これってゆさぶり?みぬき、初めてゆさぶりかけられちゃった!」
「はっはっは、良かったなぁ、みぬき」
「人の必死の主張で和やかに団欒しないでくださいッッ!!」
 ダーン!と主張の為に机を叩くために手を振り下ろしたが、机がなかったので手がスカしただけだった。かなり虚しい。
「いやでもさ、だからってさ、キスマークってどうなんだよ、実際さぁ!みぬきちゃんの存在を証明するなら、それこそ写真持ってれば済む事だろ!?」
「……オドロキさん」
「な、なんだよ」
 みぬきがいつになく真面目な顔になったので、少したじろぐ。身構える法介の前で、みぬきは言う。
「これでも、みぬきは弁護士の助手なんですよ?」
「…………………………………うん。知ってるよ。ものすごく」
 おそらく、この世で最も一番オレがね、と法介。
「写真なら、パパもっと前から持っているんです。でも、それを出す前に幾度か押し倒された事があるんですよ。まぁ、その時も色々あってパパは無事だったんですけどね」
「だからその『色々』をはっきりしてもらえないかなぁ!?頼むから!!」
「ですからね、オドロキさん!」
 と、ここが肝ですよと言わんばかりにみぬきはずばーっ!と言い放つ。
「写真だと出すのに手間がかかるけど、首筋のキスマークなら、押し倒した時点で相手が勝手に気づいてくれるじゃないですか!つまり!襲われるという事が最後の防波堤になる、って寸法なんですよ!パパ譲りの逆転の発想です!!」
 すごいぞー、みぬきー、とずばばばーんと言い切ったみぬきに、成歩堂は拍手を送った。
「…………。
 ……………………。
 ………………………………。
 ……ごめんなさい、こんな時どんな顔していいのか、解りません……」
「笑えばいいと思うよ」
「いえ、別にオレ三体目とか居ませんし」
 ぱたぱたと手を振って法介は成歩堂に言う。が、自分が何を言ってるのか解ってないのかもしれない。視線が明後日に飛んでしまっている。
「まあ、実際役に立ってるしね。これを見つけると大抵の相手は一瞬止まるよ」
 それをつけた相手が15歳の義理の娘だと知ったら一瞬どころか長い時間凝固しますよ、と法介は心で呟く。
「で、僕はその止まった一瞬に……色々して難を逃れるって訳さ」
「いやだから。『色々』って。『色々』って」
 しかもそんないい笑顔で言ってくれても。
「最初の頃は吸い付きすぎで青紫とかになってたけど、最近はもう綺麗につけれるよね」
「うん!みぬき自分の腕とかで練習したもん」
「偉いなぁ、みぬきは」
「えへへへー」
「異議ありー!!!!」
 気づけば法介は叫んでいた。それもハラのソコから、大声で、人さし指までつきつけて。
「まだどんな異議があるって言うんだい?」
 成歩堂はそれを平然と受け止めた。
「い……いや、その……」
 法介はいよいよ言葉に困った。
 何かが間違っている。何かが間違っているのは確かなのに、立証出来ない。
 いや、立証出来ない、のではなく、立証するんだ!それがあの人、成歩堂龍一のやり方じゃないか!……って格好つけても何も思いかばないよッッ!!(自分に突っ込み)
「ほ、他の方法とか、考えた方がいいんじゃないですかね。その、やっぱり娘はまずいでしょう、娘は……」
「? ダメかな」
「ダメですよ!」
 と、ここはキッパリ言った法介だ。と、言うか頭の上にハテナマークを付けるような感じで不思議に思わないでもらいたい。
「えー、それじゃ、誰がパパにキスマーク付けるんですか。新しいママも居ないのに」
 みぬきは困ったように言う。
「いや、あのね、そもそもそこから考えを……」
「じゃ、オドロキくんに付けてもらおうか」
「改めるべき…………………
 …………………
 は?」
 自分のセリフと重なるように言われたセリフに、法介が発言途中で止まる。
「オドロキくんは僕のムスメじゃないからね。これで問題は解決、だろ?」
 にこにこ、と成歩堂は笑っている。
 笑っている。
 笑って…………
「え、ぇ、え…………ええええええええええッッ!!!え、それはっ!その、あの、それは――――――!!!」
 オレが!
 成歩堂さんに!
 キスマークを!
 つ け る !!
「!!!!」
 思わずその時の様子を想像してしまい、ぼかん、と頭が沸騰する。
「い、いや!それもだめでしょう!」
「今度は何がだめなんだい?」
「だからオレを物分り悪いみたいに言うのはやめてくださいってば!
 オレ、男ですよ!?同性はいかんでしょう、同性はぁ――――ッ!」
「大丈夫、言わなきゃバレないから」
「オレが困るんですよ、オレが!」
「どうして」
「ど、どどど、どうしてって」
 明確な理由を問われて、口篭る法介。成歩堂は、そんな法介を見て、にこ、と笑った。
 嫌な予感がする……と、法介はひしひしと感じた。
「やっぱり、こんなオジサン相手じゃ気持ち悪いよな。無精ひげも生えてるし」
 と、いかにも成歩堂は傷心したかのように、俯き気味に言う。
「い、いえ、そういう事じゃ……」
「えーッ!オドロキさん、酷いッ!パパの事、気持ち悪いなんて思ってたんですかっ!?」
 落ち込んで(いるように見せかけている)成歩堂に乗るように、みぬきが憤慨した。
「ちちち、違うよ!そんな事、思っていないよ!」
「そう、嬉しいなぁー」
 にこー。
「!!!!!!」
 何でここでとびっきりの笑顔してくれるかなこの人は!!と法介は激しく慟哭した。ついでに激しく動悸もした。
 もういっそ好きにしてくれ、と言いたくなるのを必死で堪える。そんな事を言ったら本当に好きにされてしまうからだ。
(ああ、でもそれでも……って、いかんいかんいかん!しっかりしろ、王泥喜法介!!)
「ね、パパ」
 と、法介が必死に自分を取り戻そうとしている前では、みぬきがくいっくいっと成歩堂の袖を引っ張っている。
「パパ。今度からは、オドロキさんに頼むの?みぬきとはもうしないの?」
「ううん、ただのジョークだよ」
「ジョークかよッッッッ!!!!!!」
 法介はびしぃ!と指を突きつけた。
 血涙が流れそうな胸の痛みを堪えて。
「馬鹿だなぁ、みぬきは。みぬきを差し置いてパパが他の人に首筋許す訳がないじゃないか」
「うん。そうだよね!馬鹿だったなぁ、みぬきは。もう」
「いいんだよ。馬鹿な子程可愛い、って言うから」
「じゃぁ、みぬきは可愛い?」
「うん、可愛いよ」
「えへへー」
「だから和まんでください!オレの話を聞いてください―――――!!!!」
 法介の叫びも虚しく、親子はにこにこと笑いあい、頭を撫でたり撫でてもらったりとまったりしていた。
 でもって至って普通に成歩堂は出勤して行った。
 みぬきもとっととビビルバーに行ってしまい、法介だけが事務所に残った。
 で。後日。
 法介が何度か吐いた血の叫びは隣のホテルに騒音として届き、この事務所は苦情を食らってしまった。
「もう、オドロキさん、今度から注意してくださいよ!みぬき達、ここから追い出されちゃう所でしたよ!」
 と、ここの最高権力者であるみぬきは、法介に厳重注意を施した。
「…………………………………」
 ならあんな事するなよ。もっと普通の親子で居ろよ。オレに突っ込みさせるなよ。世間の倫理とか鑑みようよ。
 と、色々思う事の多い法介だったが、甘んじでみぬきの説教を受け入れた。
 今日だって、さっきすれ違った成歩堂の首筋にはキスマークが付いて居たのだから。




<おわり>

まあ仮に血が繋がってても同じ事やってると思いますがねー(やっつけ気味にコメント)
ぶっちゃけキスを教えてあげる成歩堂パパか操を立てる事を教える成歩堂パパにするか迷いました。10秒くらい(悩んでないだろ)。御剣パパだったら教えてると思うんですけどね、大人のキス。

メモ的にオマケネタ
「パパがまた弁護士になるなら、みぬきが不利な証拠片っ端から消してあげるよ!」
「あはははは。……そーだよねぇ、そーすりゃいいんだよな、裁判なんて……」
「パパ、話題変えようか」
>ドギバク