雨に口付け
彼の娘となった初日、余分な寝具は無かったので、その夜は腕枕で眠った。ふわふわとしている本物の枕と違い、いくら肉があるとは言え、人の腕で、しかも体格のいい男性のものだからゴツゴツしていた。けれど安心して眠りにつけた。
その後、自分用の枕はちゃんと用意されたのだが、あの素晴らしいまでの寝心地が忘れがたくて、寝惚けたふりをしてこっそり腕の上に頭を乗せていた。
今朝も。
「……みぬき、みぬき!!」
「……うぅーん、パパ、どうしたの?」
眼を軽く擦りながら、体を起き上がらせる。今日は随分よく寝たあ、と思いながら。
眼を開ければニット帽を被っていない成歩堂の姿がすぐに入る。自分のパパとなって、ピアニストという肩書きを手に入れてから、ずっと飄々している彼だが、自分の前では素を見せる。それが堪らなく嬉しい。
今の彼は、店の人間が誰も見た事がないような、驚愕の表情を浮かべている。ニヒルな、と呼べそうな半眼ではなく、ぱちっと全開させた眼で、そうなると黒目がちだというのがよく解る。
(みぬきと二人っきりだと、いつもこんな目、してるけどね!)
ふふん、と無意味に優越感に浸ってみた。
「大変だよ、みぬき!」
「どうしたの。パパ。みぬきが何とかしてあげるよ!」
えっへん、と胸を張る。
すると、成歩堂は、いやいやいや、とまるで口癖のような文句を言った。
「大遅刻だ。もう、2時間目も始まってるよ」
「え……えええええッッ!!」
それはさすがのみぬきもどうしようもない。一緒になって驚くだけだ。
「ど、どうしよう、パパ!」
「……うーん、こうなったら、仕方無い」
成歩堂は、いかにも深刻そうな素振りを見せてから、にこっと笑いかけた。みぬきがとても好きな顔。
「学校、休んじまうか」
「えっ、いいの?」
「本当はよくないんだけどねえ。まぁ、今回は……特別?」
「あっ。これって、ズル休みだよね、パパ!」
「……人がせっかくその単語を使わないように、気を使ってたのに……」
敵わないなあ、みぬきには。と、前髪がぱらぱらと額に掛かる、無造作な頭の上に、ぺたんと掌を乗せ、笑った。
とりあえず、みぬきは役立たずな目覚まし時計にありがとう!と最大限の賛辞を贈りたくなった。そのおかげで、学校が休める。
とは言え、学校が嫌いな訳じゃない。自分は確かにプロだけど、やっぱり同じくらいの子と一緒に遊ぶのは、楽しい。
ただ、学校を休めば必然的に成歩堂と一緒に居る時間が長くなるのだ。それが、嬉しい。
「うわー、すごい雨だ。こりゃ、休んでよかったな?」
「パパ、だめだよそんな不真面目な発言は!」
しかし実際凄い雨だった。バケツをひっくり返したような、という誇称はこの為にこそあるのだ、と言うくらいの。その雨音はいっそ恐怖を覚えそうなくらい、激しい。
「……ノアの洪水って、こんな感じだったのかな」
窓の外を見て、ぽつり、と呟いた。
「みぬき、それ知ってるよ。神様が怒って降らせたんだよね?」
「お、偉いなぁー、みぬきは。そうだよ、たしか40日夜降り続いたんだっけ……」
「そんなに!それじゃ、皆、水に沈んじゃうね」
「うん、沈んじゃったんだよ。でもね、」
その後暫く、ノアの洪水のざっとした内容を喋った。一頻り喋った後、喉が渇いたらしく成歩堂はグレープジュースを取り出してきた。そして、そのまま瓶に口付ける。
「もう!ちゃんとコップに注いでって言ってるのに!」
「だって、それだと洗い物が出来るし。それにこうした方が美味しいんだよ?」
「だめ。お行儀が悪い!」
ぷんぷんと真面目に諫めているのだが、ははは、と受け流されてしまった。
まあ、いいか。とみぬきは思った。豪快に、というかモノグサに瓶からごいごい呑むパパだって好きなのだ。ちゃんとコップに注いで呑むパパも好きになるのだろうけど。
「これじゃ外にはあまり出たくないなー。みぬき、今日は一日家でごろごろしようか」
「転がるの?」
「いやいやいや。何にもしないでダラダラしよう、って事」
「…………。それって、いつものパパって事?」
「うわあ、ひどいなぁー」
そう言うが、あまり傷ついていないようだ。自覚があるのだろう。
「パジャマのままでいいよ」
洋服に着替えようとするみぬきに、成歩堂が言う。
「いいの?」
「どうせ外に出ないしね。もう、徹底的にだらけよう」
真宵ちゃんやら春美ちゃんに見られたら、往復ビンタされそうな光景だろうな、と成歩堂は思った。目の前のみぬきはわあい、と喜んでいる。
「ね、ね、こういうのって、『ジダラク』って言うんだよね」
「……よく知ってるね。何処で覚えてくるの、そんな単語」
「壁に『ダテンシ』って書いて退屈な日常におさらばするんだよね!」
「…………本当に、どこで覚えたんだよ。そんな事」
「みぬきはね、パパの知らない事も知ってるんだよ!」
だから安心してお世話になるといいよ、と言えば、そうするよ、と笑う。
「えーい!」
と、みぬきは勢いよく座っている成歩堂に飛びついた。前から。
「お、何だ?」
「ジダラクな生活は、好きな人とひらすらイチャイチャするんだよ」
「ははは。本当に何でも知ってるなー」
よいしょ、と膝にみぬきを座り直させる。真正面に回り、成歩堂の首に、ぎゅ、としがみ付いた。
「パパ、大好きー」
「パパもみぬきが好きだよ」
「えへへ。ね、イチャイチャしよう」
「うん、いいよ」
ちゅ、と成歩堂がみぬきの柔らかい頬にキスを一つした。きゃ、とむずかるみぬき。
「お返しね」
「うん」
無精ひげがチクチクする頬に、手を添えて、ちゅ、ちゅ、と手当たり次第――手じゃなくてつけているのは口なのだが。キスをしていく。くすぐったいよ、と成歩堂が言う。それが面白くてどんどんした。
頬や額や鼻先や。
(そうだ!好きな人にはここにしなくちゃ!)
と、意気込んでみぬきは一層強く成歩堂の頬を両手で押さえ、口にキスをしようとする。
が。
「あ。そこは、ダメ」
ひょい、とみぬきを抱え、そのまま座りなおす。実に呆気なく中断されてしまった。
勿論……と言うかみぬきは怒った。
「どうして?好きな人にはそこにするんだよ」
「ここは、みぬきの一番大切で好きな人に、取っておかなくちゃいけないの」
そう言って、ちょい、と唇に指で触れる。
「だから、みぬきが一番大切で好きな人は、パパじゃない!」
何が可笑しいのか、とますます憤慨する。
「パパはだめなの」
「なんで?」
「パパだから」
「解らないよ、それじゃ」
「大きくなれば解るよ」
「………うー」
大人になれば解るよ、と言われたらすかさず「みぬきもう大人だもん、稼ぎ口あるもん!」と反論できたのだが。
「……みぬき、これからもパパ以上に大切で好きな人なんて、出来ないと思うな」
「未来は誰にも解らないよ。僕だって、みぬきの年齢の時には、今の生活想像すらしてなかったさ。だから人生面白いんだよ」
唇を尖らせてむくれる娘に、彼はもう一度頬にキスをしてやった。
「さて。そろそろメシにしようか。何かあったかなー」
いかにもモノグサな彼だが、毎回の食事にはインスタントを使わない。彼なりのポリシーなのだろうか。
(もう、パパったら解ってないんだから!)
むぅ、と成歩堂の後を追いながら、みぬきはまだ剥れていた。
外を見れば、勢いの劣らない大雨が続いている。
昔、この世界は雨のせいで一度沈没した。
この雨で、また世界が自分たちを残して全部沈めてしまったら。
他には誰も居ない世界なら、成歩堂以外に好きな人は居ないという自分の言い分を認めて、唇にキスをしてくれるのだろうか。そんな事を考えてみた。
(でも、ずっと雨だったら、お外で遊べないもんね)
それは嫌だな、と思ったので、テルテル坊主を作ろう、と決めた。勿論、愛するパパと一緒に、だ。
果たして窓の軒先にはテルテル坊主が山ほど並べられた。大きくない窓に数多く並べたので、所々で隣同士がぶつかる。
まるでキスしてるみたいね?と言うと、本当だね、と大好きなパパは笑い返してくれた。
終わり。
うーん、小学生の時分くらいかな?
その内初潮とか来て、「もうレディーとして一人前だから、一人でお風呂に入ろうね」とか言われる前くらい。
……ふと思っただけなんだけど、書きたいなこの話……!