メヌエット−円舞曲−
バッジを無くしてから久しく経つ。
不意に街のウィンドウ等にスーツを着ていない自分の姿を見つけ、ギクリと強張る回数も減ってきた。ポーカーでの不敗神話も続き、それを目当てにやってくる客すらも現れる次第だ。
着実に移り変わる自分の生活。けれどもその中で、散らばる証拠をかき集めるように東奔西走していた。バッジの無い今、どこまで手が出せるのか解らないけど。
真実はまだ解らない。けれど、事件の輪郭はおぼろげながら見えてきたと思える。
そして今日、捏造犯に関してのはっきりとした証言を聞いた。
「…………」
幼い贋作師は、依頼人は自分の親友を名乗るあの男だと言った。持ってきた勾玉は、サイコロックを出さなかった。つまり、これは”真実”。
(解らない……)
みぬきを寝かしつけた後、こっそり寝床を抜け出して、ソファで膝を抱える。
確かに彼女に訊くまでは自分も彼を怪しいと思っていた。しかし、何故だろうか。いざ明確な証言を得てみれば浮かんでくるのは”何故”という疑問ばかり。……普通、事実を確認すればそんなものは無くなる筈なのに。
牙琉こそが捏造犯だった。そうすれば事態に簡単に説明がつくが、動機だけが闇に沈んだままなのだ。いや、むしろさらに深みに嵌ったと言える。
自分が急遽担当弁護士となったのは依頼人の、ザックの意思なのだ。彼が心変わりさえしなければ、あの法廷では牙琉兄弟が戦う事になっていた。
つまり、彼は当初、弟にあの捏造した証拠を突きつけるつもりでいた、という事だ。
(そんな事、するのか……?)
マコトから証言を得てから、これがぐるぐると頭の中を回り続けて、消えない。
……自分は一人っ子だから、兄弟間の確執なんて解りっこないんだろう。いや、でも……
「…………」
誰がやったか。
そんなものは調べれば解る。
どうしてやったか。それは本人しか、もしかしたら本人すら解らないのかもしれない。
激変した生活にも慣れてきたと油断でもしたのだろうか。後日、成歩堂は熱を出した。
(うーん、これはこれから上がりそうだなぁ……)
頭の中が絞られているように、鈍く痛い。目の周りが熱くて、意識がまるで夢の中のようにぼんやりとする。
(ここ最近、考えてばっかりだったからなぁ……。真宵ちゃんが見たら、知恵熱出したとか言われそうだな)
無理矢理楽しい方向へ思考を引っ張り、なんとか持ちこたえようとした。
「パパ」
そんな努力は嘘を見抜く自分のムスメには無力だったが。
「具合悪いの?寝てた方がいいんじゃない?」
お布団敷いて来ようか、とまるで母親みたいな事を言うみぬきの頭にぽん、と手を置いた。
「平気平気。どうせ店でも座りっぱなしだからね。じっとしておけば治るよ」
「……うーん、一応パパを信用するけど……熱が上がったら、すぐにお店の人に言って、早く帰して貰うんだよ」
「うん、解ったよ。……じゃ、いってきます」
幸い、笑顔を浮かべるだけの体力はあった。
やっぱり、みぬきのいう事を聞くべきだったかも。
店に来てから約1時間くらいで、成歩堂はそんな反省じみた事を思っていた。ロシア料理店ボルハチは、店内でロシアの気温を再現していて、恐ろしく寒い。成歩堂はここの出勤の日には、夏でも厚手のパーカーが欠かせない。
みぬきに言った通り、じっと座っているだけだが回りの寒さは体調を確実に悪化させていった。
(今日は、早くあがらせてもらおう……)
そう、牙琉との食事を終えてから。
とりあえず、彼とは色々話をしなければならないだろう。直接的な質問は無論避けるにしても、他愛無い会話からその言葉に潜んだ真理や本音を探る。
しかし、元々人を信じて生きてきたような自分には、こういう人の裏を取るやり方はあまり、いや多分向いていない。
酷く疲れる。
まるで命でも削ってるみたいに。いや、削られてるのは師匠から受け継いだ信念こそかもしれない。
(……だからか?この熱は……)
そう思った途端、頭の芯がぐらついた。いよいよ熱が上がってきたようだ。
少しでも冷気から逃れたくて、ポーカーもする訳でもなく地下室へ篭る事にした。店の人に牙琉が来たらそう言ってくれと一言告げて、薄暗い階段を用心深く降りて行った。
テーブルから落としてしまわないように、チップもカードも全て向こうへ押しやってから突っ伏す。古い木の匂いが鼻腔を擽って、そういや学校の机もこんな匂いがしたな、とぼんやり思っていた。
「――成歩堂、」
声がした。少し慌てているようなのは、気のせいだろうか。不調な身体を抱えた心細さからの錯覚だろうか。
「……あ、牙琉、……」
目の前のこの男は、いつだって嫌味なくらい余裕綽々な笑みを携えていた。しかし、今は柔和に細められている目は見開かれ、閉じて端緩やかに上げているだけの口は、何か言いたげに薄く開いていた。
「……具合が悪いのだと聞きましたが」
どれくらいなのか、と訊いているようだった。
「……………」
そんな牙琉を、探るようにじっと見据える。不躾なまでに。今なら体調不良のせいにして、少し怪しい素振りを見せても誤魔化せれるだろうと思ったのだ。
しかし、そんな成歩堂の内情を知らない牙琉は、彼は口を開くのすら辛い状態なのか、と判断した。
「馬鹿ですね。ディナーの約束なんて、メールの一つでも寄越してくれればそれで済んだんですよ」
「…………」
いや、ダメだ。それはダメだ。
一流の弁護士の君は中々時間が空かない。チャンスは一回だって、逃したくないんだ。
言えない本音が胸中に渦巻く。今自分に勾玉を突きつけたら、サイコロックはどれくらい現れるんだろう。
(一個だけだったら、少し寂しい)
どうでもいい事を、思った。
何も言わず、ただぼんやりと自分を眺めるだけの成歩堂に、牙琉は少し、顔を顰める。珍しい表情だった。初めて見たかもしれない。
「眠いのですか?」
「…………」
「薬は。飲みましたか?医者には?」
「…………」
「寒い、ですか?」
牙琉という人物は必要があれば話す人物だ。つまり、逆に言えばどうでもいい事は決して口にしない。そんな彼が、こんな矢継ぎ早に自分を気遣う発言をするのは――
(……心配してる……?)
本気で?
嘘も無く?
……陥れた相手なのに?
「……………………」
「……成歩堂?」
いつまで経っても何の反応もしない成歩堂を訝しんで、堪えきれなくなったように牙琉が問いかける。
自分の中に膨らむ疑問に堪えきれなくなったのは、成歩堂も一緒だった。
「なんで僕にそんな良くしてくれるの」
気づけばそう、口にしていた。
「……………」
自分を窺うように、少し身を屈めた牙琉がその言葉に背筋を伸ばした。
しまった、と成歩堂は自分の失態に悔やむ。バレたかもしれない。彼を疑っている事が、彼に。
それはそれで別の算段を立てなければならないが、今はせめてもの抵抗に、熱のせいで口走った戯言だとばかりに腕に顔を沈めた。
「それは……貴方が親友だから、ですよ」
「…………」
この言葉を信じていたいのなら、自分は真実を追うのを諦めなければならない。
けれど、自分をパパと呼ぶあの子の顔が浮かび、それだけは譲れないのだと、牙琉には気づかれないように、力強く拳を握った。
ああ、これは夢なのだと、成歩堂は瞬時に理解した。夢だと自覚する夢も珍しい、と成歩堂はそこに佇む。目の前に牙琉が居た。周囲は暗闇に満たされているのに、明かりも無しに彼の姿が明瞭に浮かんでいる。だからこそ、夢なのだと認知した訳だ。
目の前の彼は普段のように穏やかな隙の無い笑みを浮かべている。
そして、こう告げる。
「知っていますか?神の名を口にする者こそが悪魔なんですよ」
その言葉に何故か酷く安堵し、彼を残して自分は大人しく眠りの深淵に落ちていった。
もう、彼と話をしていても、熱を出す事も憔悴する事も無いだろう。
そうなると、この高熱からの頭痛すら今から懐かしく思えた。
<了>
一体お前らはどれだけ親友でどれだけ疑ってたんだと。
書けば書くほど切ないなぁ。