メヌエット−序曲



 あ、ヤバい、と、早急に、けれど呑気に危機感を抱いた。
 ついさっきまで、ポーカーをしていた相手は負けが決まった途端、胸倉を掴みかかり、その固く握った拳を顔か頭にぶつけんとしていた。その動きが、妙に遅く、スローモーションがかかって見える。走馬灯もこんな感じで見るのかな、とそんな事を考えた。
 顔は嫌だな。頭にしてくれ。顔に痣が残ると、みぬきに見つかる。みぬきが心配する。頭がいい。
 殴られると解った途端に、濁流のように思考が走る。それのどれも、この状況を回避も打破も出来ない意味のないものだったが。
 痛みに備えて歯を食いしばり、眼を瞑る。
 しかし、胸倉を掴んだ手に緊張が走り、来るだろう衝撃と痛みはいつまで経ってもやって来なかった。
「…………?」
 おそるおそる眼を開けてみる。
 今日の相手は、その辺に居そうな二十代後半のヤンキー風の男。顔だけで判断するなら、大物になろうとして悉く失敗するタイプだな、と思った。その人物は、顔を、驚愕と恐怖に固まらせていた。
「……………」
 相手が完全に凍ってるのを確認し、成歩堂はもっとよく状況を見た。何が起こったのか。
「……そのまま、手を離して帰りなさい」
 声がした。自分のものでも、相手のものでもない。
 この場には居ない筈の、でも割りと最近聞いた声。
「……牙琉……霧人?」
 はい、と相手はそれに頷いた。蜜色のその髪に、相応しい笑顔と共に。


 牙琉が僅かに動き、それと同時に相手は乱暴に自分から手を離し、変な言い方だが上に転がるように階段を駆け上がって行った。スタコラ、とかいう効果音をつけたくなるような逃げっぷりだった。
 何故そんなに慌てたのか、という疑問は牙琉が解消してくれた。
 彼の手には、万年筆が握られていた。
「まあ、後ろが見えない相手には、これが拳銃だかナイフだかに思えたんでしょうね?」
 背中にゴリッと押し付けてやったらしい。ゴリッと。
「……いい度胸してるな。ばれたら、君がボコボコにされてたかもしれないんだぞ」
「それはどうでしょう。二対一ですよ?」
 それとも、私がボコボコにされてるのを、貴方は黙って見ている気ですか?と何だか愉快に言われてしまった。それは無いよ、と返す。
「それで……何の用なんだ?」
 引っ掴まれてくしゃけた胸元を正す。
「何の用……というか、貴方を見に」
「? 僕を?」
「……そこできょとんとされると、私も困るんですけどね」
 緩く腕を組み、苦笑する。
「気にかけているんですよ。弁護士資格剥奪された、なんて事があっては。職を失った訳ですから」
 しかも自分の弟の手で、と付け加える。
「ああ、まあそれは仕方無いよ。出所不明な証拠品を持ち込んだ僕に非があるんだから」
 ふぅ、と微かな溜息と一緒に呟く。
「やけに達観してますね」
「うーん、達観というか……弁護士辞めても腹は空くし、腹が減ったら物食べないといけないし。その為には稼がないとならないし、今月の給食費もあるし……」
 そこまで言って、ぷっと牙琉が吹き出したので、成歩堂はセリフを途切った。
「何だよ」
 真面目に答えてたので、少し憮然とする。
「いえ……何と言うか……あまりに想像外の答えで……」
 口元に手をあて、緩んだままの頬を隠そうとしているのだろう。ムスメ直伝の見抜く技術を駆使しなくても解る。
「まあ、格好良く言うなら……後悔するのに厭きたんだ」
「なるほど。さっきよりかは、確かに格好がつくセリフですね」
「こんな部屋に居るからね。場に相応しいセリフとか考えるんだよ、思わず」
 そう言うと、また、ふふ、と牙琉が笑う。意外と笑い上戸なんだな、と思った。
「それにしても……」
「うん?」
「私の名前、覚えていてくれたんですね」
 ふ、と眼を細め、感慨深そうに言った。それにはちょっと大袈裟なんじゃないか、と思う成歩堂だ。
「そりゃあ、ね。査問会で一人だけ意を唱えてくれた人だから」
「それと、貴方がバッジを失った事件を持ち込んだ張本人」
 セリフを繋げるように言った。
 成歩堂は牙琉を少しじ、と見て。
「……ああ、それでもしかして、様子を見に来た訳か?」
「……最初からそう言ってるつもりだったんですけどね」
 牙琉は明らかな苦笑を浮かべた。
「なんだ、気にする事無いのに。さっきも言っただろ、仕方無いって」
「……そうなんですけどね。あそこまで気にしてないとは、こちらが吃驚です」
「気にしてないというか……さっきも言ったように、今は今月の家賃と給食費?で頭が一杯でさ」
「ここで、働いているんですね」
 と、話題を切り替えた。
「……店の人はピアニストって言っていたはずなのですが……弾いてませんね。ピアノ」
「ああ、何も曲知らないからね」
「………………」
 あ、黙った、と表情の消えた牙琉の顔を見る。
「……それで、よくもまあ、ピアニストだなんて……」
「いいんだよ、向こうだって精通している訳じゃないんだから。何か適当に弾いて「こういう曲だ」って言っておけばそれでいいんだ」
「ここでもハッタリで通そうとしますか」
「通じるなら、それでいいだろ」
「…………………」
 あ、また黙った。
「えーと、まぁそういう訳で、僕は元気だから……それなりに。特にそんなに気に掛けて貰わなくてもいいよ?」
 はたはたと手を振り、初対面から真面目そうだな、という印象を与えた相手に言ってみる。
 それに、気にかけてくれた所で、どうにもならないし、とこそっと心で付け足して。
「……夕食は食べましたか?」
「? いいや」
「では、一緒に食べましょうか。私が誘ったのだから、私の奢りで」
「へっ?」
 突拍子も無い展開に、間の抜けた声が出た。
「だめですか?」
「ダメじゃない……けど……」
 なんか急に進んだというか。何と言うか、事態に追いつけない。
(って言うか……気に掛けなくていい、って言った直ぐ後に、いきなり掛けられたような……)
「ほら、行きましょう、成歩堂」
 そう言って促されるように腕を軽く引っ張られ。
 微かに笑ったのだ。




 店を出る。少し歩いた所で、人影が佇んでいた。さっき、成歩堂を殴りかかろうとした男だ。
「よくやってくれました。はい、どうぞ」
 牙琉はそう言って、封筒を手渡す。それを受け取り、男は――何に怯えている。それも、かなり。まあ、その原因は自分だろうな、と牙琉はあっさり思った。
「何をそんなに怖がってるんですか?」
 と、ここで笑顔を浮かべたら余計に怖いだけだろうな、と解っていながら笑顔を浮かべた。案の定、相手が一層戦く。
「お……俺は、アンタの言う通りにしたよな?時間を見て、アイツを殴るような真似をすればいいって」
「ええ」
「……それじゃ、ど、どうして俺の事、……殺そうとしたんだよ」
「……してませんがね。別に」
「う、嘘だ!何か背中に硬い物、押し当てただろ!」
 みっともなく喚く男に、あれは万年筆で、一応それ相応のアクションをして見せた方が、相手の信頼を勝ち取り易いだろう、という自分の計画を話すのが、面倒になった。
「……煩いですね。あんまりくどく言うと……」
 ひっ、と相手が小さく悲鳴を上げる。
「本当に殺しますよ?」
「!………」
「さっさと、失せなさい。今すぐに」
 その言葉を待っていたように、男は想像以上の速さで去って行った。
「…………」
 なるべく頭の軽そうな、いい加減な人間を選んだつもりだったのだが……それでも、本気の殺気を感じ取れるくらいには敏感だったようだ。
 男が彼の胸倉を掴み、殴りかかろうとする。
 それは演技だと知っているのに、自分が計画した筈なのに。




 end.

馴れ初め、なのかな。つーか明らかに時系列めちゃくちゃに書いてるな……うん、気にしない気にしない(一休さんか)