日曜日のサイフォン



 ”もっと来てもいい”というのは”好きな時に来てもいい”という事に変換されてしまったのだろうか。
 まぁそれはそれで構わないのだけど。彼が訪れるようになって、初めて彼の居ない金曜日を迎えた。いつもあるものが無いという違和感はどうやっても拭えないもので、今日中に仕上げないというのに、書類作成に意識が集中しない。
「神乃木さん、今日は来ないね」
 口にしてしまえば余計に気になる、と自粛していたのを、あっさりと真宵が破ってくれた。
「うん……まぁ、ここの正式な所員って訳じゃないからね。来ても来なくても神乃木さんが悪い訳じゃない」
 と、自分に言い聞かせるように言った。
 ここでの彼の立場ははっきりしているようで曖昧で、ただの来客かと言えば仕事を頼んだりもするし、しかしさっき自分で言ったように契約を結んで通っている訳ではない。
 それでも最初は完全なお客様扱いだった。ふらりと顔を見に来て、する事と言えば真宵や春美と戯れるくらい。それが、何時だっただろうか。真宵が居なくて忙殺され、それこそ立ったまま眠ってしまいそうなまでに憔悴していた時に彼が来た。そうしたらいつの間にか眠ってしまっていて、切羽詰って彼に当たると、なら自分を使えば良い、と言ったのだ。それからだ。色々と頼むようになったのは。いまではすっかりそれに合わせて無意識にスケジュールを組んでしまうくらいだ。最も、何度も言うが正式なメンバーではないので、土壇場で来られなくなったとしてもいいように、とはしている。
(……何か、微妙だなぁ)
 微妙ではあるが、それにしては実にしっかりと存在をアピールしている。そういう所も、やっぱり微妙で。
 彼が此処に来るのは、愛した女の妹と弟子がいるから。そして、その個人も気に入っているから会いに来る。それくらいは、解るけども。
「う〜ん。金曜日は神乃木さんのコーヒー飲まないと、休みが来ない気がするよ!」
 以前自分が口にしたような事を、真宵までも言ったので思わず噴出した。
 そう言えば。
 あの時、コーヒーの入れ方を教えてくれと言ったような気がするけど。
 それは神乃木が金曜以外にも来るという事で収まったのだろうか。


 無趣味の人間は休みを貰うと文字通り休むしかない。他人から見れば哀れな、とか感想を貰うけど自分がそれで不便を感じてないんだから大きなお世話だと思う。出不精ではあるが引きこもりでもないので、誘われればそれに応じるけど、そういう約束もこの週末には無かった。
(…………DVDでも借りて来ようかなー)
 土曜の夜。時間を持て余した成歩堂は明日の予定を考える。明日借りて、月曜日の帰りに返す。返却ボックスは二十四時間対応だから、どれだけ残業しても構わない。
 そこまで考えた時だった。携帯電話が愉快なメロディーを奏でたのは。一律着信音はこの音で占められているので、ディスプレイを拝まない限り誰からは解らない。しかし、特に不便とも思わないので、今の設定でほったらかしにしてある。
「……神乃木さん?」
 ディスプレイを確認し、珍しい、というか初めて携帯電話に連絡を貰う相手に、一人意表を突かれた顔になる。
 彼の電話番号やメールアドレスは、訪れた初日に交換していた。自分の意思ではなく、真宵の意思であったが。この携帯電話は持ち主の手をよく離れて勝手に変化していく。
 一体どんな用件か見当もつかなくて、とりあえずメールを開いてみた。

[明日の午前11時。俺は高菱屋の屋上で金に行動を制限されている可哀想なパンダに跨るつもりだぜ。
 大の大人がパンダを占拠しているという摩訶不思議な光景を長時間展開させたくなけりゃ、アンタが止めるべきだろうな]

「…………………」
 何だ、コレ。
 最初に出た率直な感想はそれだった。
(えーと……)
 額を押さえて、冷静に考えとようとする。そうしなければ、突っ込みしか思い浮かばない。
 つまりとにかく。
 高菱屋に来いって事……何だろうか。多分そう……なんだろう。うん。そうだ。
 本当に行ってみて、居なかったら癪だけど、場所がデパートだからそこで時間が潰せそうだ。元から暇だったんだし、外に出る事くらいは構わない。
 なんて打算を立ててみるが、きっと、絶対、彼は屋上に来ているだろう。
 パンダに跨って。


(本当に跨ってるし……)
 目当ての人物を見つけ、けれども早々に回れ右をしたくなった。
 デパートの屋上。遊園地のミニチュアみたいなその場所に、確かに彼は居た。比率として子供の方が遥かに多いこの場で、一般男性よりよほどしっかりした体躯の彼はとてもよく目立った。それも、遊具のひとつに跨っているとなればなお更だった。
 しかし。
「…………。パンダじゃなかったんですか?」
 今、彼が乗っかっているのは、白黒のパンダではなく青色のゾウだった。鼻は垂れさせず、上がったまま固定されている。つぶらな目をしたファンシーなそれに、いつものように長い足を組んで座っているものだから、眩暈がしそうだった。
「ああ、俺の誤算でな。パンダは案外人気者だったぜ」
 親指で差した背後を見ると、男の子がパンダを乗り回している。それの後ろを、順番待ちなのか子供が数人、ハーメルンの笛吹きよろしく後をついて回る。
「……あの文面を忠実に守るべきか、かなり迷ったがいたいけな子供の時間を邪魔しちゃならねぇ、とこうして大人しく誰にも相手にされないゾウに跨ってるのさ」
「…………。はぁ」
 本当に何と言っていいか解らない。
 そもそも、そのゾウが子供に人気が無いのは貴方が跨っているからじゃないのか。ふと、そんな考えが過ぎる。
「ところで、」
 と、言い、ゾウの頭をコツン、と軽く小突いた。
「結構丈夫なモンだな。俺を乗せて園内一周してくれたぜ、コイツ」
「へぇ……って、乗ったんですか!?それに!!」
「動くものは動かす。……それが俺のルールだ」
 どうやら嘘じゃないみたいだ。思わず空を仰いだ。目に入った空はどこまでも青い。いい天気だ、今日と言う日は。
「アンタの来るのが遅いせいで、力尽きちまったがな」
 可哀想に、と頭を撫でる。
 ゾウの。
 良かった。早めに来ようなんて思わなくて、本当に良かった。
 いくらなんでもそんな所を目撃したら、自分は迷わず彼を見捨てただろう。
「ところで何の用なんです?まさかゾウに乗っている所を見せたかった訳じゃないんでしょ?」
 とは言うが、この人ならそれもアリだな、とも思った。
 自分がそう切り出すと、ようやくゾウから降り立った。座っていればさすがに自分より頭が低くなるが、立ち上がると頭一つ分は大きそうだ。今まで身近にここまで自分より大きい人が居なかったので、妙な感じがする。こんな背の高い人が居るんだ、みたいな。
「約束ってのはするだけでも意味はあるが、果たされてこそじゃねぇか、まるほどう?」
「……はい?」
 いつもながら解らない。数回瞬きして、首を傾げると、クッと喉の奥で鳴らす独特の笑みを浮かべる。
「豆だけ貰ってもコーヒーは出来ないぜ」
「…………」
 今のセリフと、ここがデパートの屋上という事。
 彼はコーヒー淹れる手立てを教えてくれるらしい。器具も一緒に選んでくれて。
(だったら普通にそう言えよ!)
 そんな人物ではないと、解っているのにやっぱりそう突っ込まずには居られなかった。恐怖の突っ込み男の名にかけて。


「今日はバッジは無ぇんだな」
 エレベーターへと向かう途中、神乃木がそう言った。
「さすがの僕も、休日にまでつきつけたりはしませんよ」
 いつぞや、なるほどくんてば、しょっちゅうバッジを突きつけるんだよ、と真宵が彼に面白おかしく言って居たのを覚えている。
「バッジが無けりゃ、ただの気のいいニイサンだな、アンタ」
「……………」
 ”気のいい”と称されたのだから、喜ぶべきなのだろうか。しかしかなり迷っているという事は、喜べないのだろうか。自分は。
「と、言うよりも………。……………。…………………」
 変に沈黙した。それでいて、視線は自分にひたすら向かっている。
 この視線は、幾度と無く感じたものだ。そう、幼馴染からも、助手からも。
 そして、その後決まって言われた事を自ら言う。
「………スーツ着てないと大学生に見えるな、とか思ったでしょう。今」
「………………」
「思ったんでしょう、やっぱり!」
「クッ……目的地はもうすぐ、だぜ………」
(はぐらかした……!)
 行き場の無い怒りを抑え、彼の背中を追う。
 キッチン用具があるフロアに辿り着くと、包丁か何かの実演販売でもしていたのか、タマネギ等の野菜の匂いがした。それを通り過ぎ、コーヒー用品が揃っているコーナーに着く。
「へぇ……コーヒー淹れる道具って、一杯あるもんだな……」
「……アンタはトイレ掃除以外にも気を配るといいだろうぜ」
 いかにも、初めて見ます。みたいな成歩堂に、思わずそう呟いていた神乃木だった。恐怖の突っ込み男にも突っ込み所は意外とある。
「異議あり!別にトイレ掃除は趣味じゃありません」
「その割りはちょっちゅう磨いてるがな。
 それならアンタの趣味はなんだって言うんだい?証拠品の提出を求める」
「……………」
 言葉に詰まってしまった時点でこっちの負けである。愉快そうに歪められた口元を、止める権利も無い。
「ま。別に無趣味が悪いって訳でもないさ」
 それでも一回愉快そうに見てから言う。
 揶揄されたとは言え、そんな風に言われたのは初めてで、目を見張る。
「そうですか?」
「ああ。これから見つける楽しみがあるって事だろ?俺にはもう無いから、羨ましいぜ」
 そうか、そういう見方もあるのか。思わず納得する。と、言うか、思ってみれば、今のも逆転の発想というヤツでは。千尋さんの先輩、という肩書きが大きく見える。
 ともあれ、今度から真宵ちゃん達に趣味が無いとからかわれたら、今のセリフで切り替えししよう。成歩堂はそう決めた。
「…………、事務所用に欲しいのかい?」
「え、あ、はい」
 よそ事を考えていたせいで、一瞬反応がずれた。教えてもらう身で失礼だ、と自分で反省した。
「そうですね。自宅だとあまり飲まないかも」
 帰ったら寝るだけの部屋で、コーヒーはあまり欲しいと思わない。休日は常にリラックスしているから、気を紛らわす強い芳香もいらないだろう。
「そうか。なら、サイフォンにするといいぜ」
「サイフォン……ねぇ……」
 何となく聞いたような覚えのある単語だが、実際どういうものかは全然知らない。
 全然解ってねぇだろ、というからかいに、いっそ開き直ってはい、と潔く返事をしてやった。
「素直なコネコちゃんは嫌いじゃねえぜ」
「コネ……って、ちょっと!」
 事務所ならともかく、衆人の中でなんてことを言い出すのか。うっかり聞かれようものなら、どんな印象を持たれた事やら。だと言うのに、相手は呑気に口元を上げている。何て人だろうか。全く。
 そう言えば、傍から見れば自分たちはどのように見られているのだろうか。実際は職場の知り合い……となるのだろうけども。互いにスーツ姿ならまだしも、まるっきり私服のこの状態では、その内情を推し量れるのか甚だしく疑問だ。最も、神乃木の今の姿は法廷の時とそう大差はない。顔には、いつものマスクが付けられている。法廷では奇抜としか言いようの無い場違いなマスクだったが、人の雑踏に紛れてしまえばそれほどでもなかった。むしろ、彼より突飛出た格好の者すら居る。
 あまり浮き出た、特異な存在になってなくて、どこか安心した。もし店員か誰かに邪険にされようものなら、その時は容赦なく異議を突きつけまくるだろう。当の本人の神乃木すら黙らせて。自分にはどこか無鉄砲というか、無茶な所があるのは自覚している。だからこそ絶体絶命の依頼人を信じれるのだろうし、真宵を助けようと燃える橋を渡ろうとしたのだ。
「こいつがいい」
 自分を振り返っている最中、彼はずっと器具の吟味をしていたみたいだ。
 選び抜ぬいたそれを、指差して勧める。自分にはそれが他のと何が違ってどういいのかがさっぱり解らないが、彼がいいというのだからいいのだろう。餅は餅屋である。あるいは、蛇の道は蛇といか。
「でもなんかコレって、理科の実験に使うみたいな………。……………」
 不自然にセリフが終わった。
「どうした。まるほどう」
「……い、いや……その………」
 冷や汗が出るくらいに案じているのは、勿論値段だった。びっくりする程高値ではないものの、この金額をぽんと出せる余裕は、無い。
(そうだよなー、高いんだよなぁ、こういうのは………)
 ちょっと考えれば解る事だったのに。
 いつぞや、御剣が使っているティーポットを店で見かけた時、提示された値段に「うぇぇえッ!?」と妙な声を発してしまったものだ。一体自分の使っている急須と何か違うというのか。
「…………その、神乃木さん………」
 何て言ったらいいものか。よく解らない呼び出しはされたものの、実質は彼の方が自分に付き合ってくれているのだ。それを金がありません、で終わらせるのはあまりにみっともなく思える。とは言えない袖は触れないし。
「あのですね…………」
 と、力なく言葉を紡ごうとしている前で、神乃木は近くを通りかかった店員を捕まえた。
「コレが欲しいんだが」
「ちょ………!?」
 接客態度のいい店員は、客の要望に応えるべく、在庫を納める裏側へと回った。
「か、神乃木さん!今、お金無いんですけど、僕!」
 あれだけ言うのを躊躇った事だが、感情に任せてしまえば言えるものだ。そんな慌てる自分に、神乃木はシニカルでニヒルな笑みを浮かべる。けれど、どこか優しい。
「開設祝い。……させちゃくれないか」
「…………………」
 自分の弁護を引き受けた時、千尋はまだ星影の事務所に所属していた。彼女が独立したのはその後で、当然その時彼はまだ眠っている真っ最中で。立ち会えなかったばかりか、当の相手はもう居ない。そんな思い出にならない記憶に、何かしたいという気持ちは痛いくらい解るけど。
(どうしよう………)
 この申し出を、どう対処するのが一番いいのか。どうすれば自分と彼にとって相応しいのか。
 そこまで甘えていいのか、一線を引いて厳しくなるべきなのか。
 こういう時、困ってしまうから、彼の立ち位置をもっと決めておかなければならかったのに。微妙だ、と思いながらその時特に困らなかったからほっといた自分の失態だ。
 自然と俯いてしまった頭に、何かががしり、と掴む。
「うわぁっ!?」
「何、難しく考えてんだ?止めときな。似合わないぜそんな面は、アンタには」
「それってどういう意味なんですか」
 頭の中をシャッフルするみたいに揺らしていた手を、少し力を込めて払う。そこまで強い力ではないが、向こうはあっさり引いた。
「事務所に器具がありゃ、俺もそのご相伴に預かれるって事だ。淹れ置きより、淹れ立ての方が美味いからな」
「………じゃ、じゃあせめて半分出します!」
「大人しく人の好意に甘えときゃいいのに。……可愛くねぇコネコだぜ」
 ふぅやれやれ、といった具合に呟く。その仕草に、半ば反射的に異議を唱えた。
「美味しいコーヒーが飲みたいのは、僕だって同じだ!」
 ズバッと反証してみせた後しかし、何か違うな?と自分でも首を捻る。相手と言えば、口元を押さえて肩を震わす。泣いている……わけが無い。笑っているのだ。
「なら、アンタの顔を立てて割り勘て事にするか」
「……………」
 何故だろう。自分の望む通りの展開になったのに、喜べないのは……
 次に言うセリフに困っていると、先ほどの店員がそれの入っている箱を持って来て、とりあえず二人してレジに向かった。


「……あの、今日は色々とありがとうございました」
 後生大事にサイフォンを抱え、丁寧におじきした。そうしなければならない理由が、自分にはいくつもある。
 コーヒーを淹れたい、という希望に応えてくれた事や、半分お金を出してくれた事。
 そして何より昼飯を奢ってもらった事だ。
 ただえさえあまり潤っていないサイフの中身は、サイフォンの半分を支払ってしまったらとても外食の出来る金額は残っていなかった。ATMで貯金を卸そうかと思った時、サイフの中身が管理が出来ないヤツに断る権利はねぇぜ、とか何とか押し切られて奢られてしまった。それでも、久々のラーメン以外の外食は美味しく感じてしまったのだから、人とは簡単に出来ている。
「よせやい。テレちまうぜ」
 顎を上げて笑ってみせて、手はスラックスのポケットに突っ込む。その振る舞いを見て、本当に照れているのかな、と何となく思った。
 今はデパートを出て、駅に向かっている所だ。それはそのまま帰路になっている。まだ夕方に差し入った時間帯で、大人が帰るには早いように思えるが、彼は視界に障害を抱えている。彼の視覚のシステムがどうなっているのか、詳しい事は知らないが、けれども常人でも視界が利きにくくなる夜に出歩かせるのは何となく不安だ。
 交わす会話の中の発言で、やはり彼自身も夜は特に果たすべき用事がなければあまり出歩かないようにしているらしい。
(でも、神乃木さんって、夜の男のイメージだよな……)
 その時はそんな事を考えてしまった。だって、あまりにもハードボイルドだから。ハードボイルドに晴れやかな青空はどうだろう。
(案外、似合うか?)
 今日は青空だったと思ったが、外に出る頃は半分赤く染まっていた。
 駅が近くなり、それと一緒に別れる時も近くなる。縮まる距離は、自分に覚悟を決めさせた。尋ねる勇気である。
「……ちょっと、聞いてもいいですか?」
「スリーサイズは内緒だぜ」
「……………そんなお約束はしなくていいですよ」
 ちょっと疲れたツッコミをしておいて、改めて尋ねた。
「………この前の金曜日、どうして来なかったんですか?いつもは来ていたのに」
「………………」
「あ……、いやいやいや!別に神乃木さんと契約している訳じゃないんですから、来なくても何かに反するって事でもないんですけど、ただちょっと気になっただけで………」
 相手が沈黙したのが気まずくて、いい訳のように口上を託しまくる。
「…………。知りたいかい?」
「え?」
「それを……知りたいのかい。アンタは」
 まるほどう。と、一体どいう経緯で間違われたのか解らない名前で呼ばれて。
「………………」
 知りたい……と言うか、気になる……と言うか。
 でも、相手のプライベートに踏み込んでもいい仲なのか、と問われると………
(…………。微妙、だな)
 こんな風に言葉に詰まったら、質問には質問で返してみよう。使い所を間違えると相手の神経を逆撫でしてしまうので、慎重に。
「訊いたら、いけませんか?」
「……………」
 自分の意思としては、知りたい。それを言外に込めて。
「…………」
「……………」
(ううう、何なんだ、この沈黙は………)
 やっぱり止めておけば良かったかも。
 でも、気になる事は訊かないと済まない性分だし……と、自己弁護に走り始めた時、ようやく神乃木が口を開く。
「………何か、友達以上恋人未満の知り合いに、女遊びの是非を詰問されてる気分だぜ……」
「………………。はっ?」
 今何か、物凄い内容を言わなかったか?
 しかし、訊き直す前に次のセリフに移ったものだから、今のが空耳なのか違うのかは、もう解らない。
「そこまで言われちゃ仕方ねぇな……この前行かなかった理由、教えちゃうぜ!」
「……………」
(何だろう。この無意味に居丈高しくも恩着せがましい感じは……)
 それに突っ込む隙も無く、神乃木が言う。
「いいか、よく聞けよ。あの日はな、事もあろうにその日まで順調に動き続けていた時計が、俺に断りも無しに急に休みやがったのさ」
 相変わらずそのままだとさっぱりな説明だが、こっちもいい加減慣れた頃だ。
「………………。それはつまり……寝坊して、半端に遅刻するくらいなら行かない事にした………?」
「クッ……察しのいい弁護士さん……嫌いじゃないぜ」
「格好つけてる場合かッ!心配した…………ッ!」
 思わず突いて出たセリフに、自分でもはっとなる。
(心配してたのか、僕は……)
 彼との関係は何なのか。自分の中の彼の居場所は何処なのか。未だにそれにはっきりとしたものは掴めないが、こうして彼の身を案じるまでには、なっていたようだ。そう言えば、今日はなんだかずっと彼を窺っていたように思える。周囲の目に嫌な思いをしていないか、と。それは真宵や春美が、事務所から家に無事に帰れたかな、と気にかけるのに近い。いつの間にか、そこまでの位置に居たのか。彼は。全く見当のつかなかったものが、ひとつ証明されたようで、ストンと納得出来た。
「心配したのか」
 言う声が柔らかい。皮肉屋みたいな彼は、けれどきっと自分の知る誰よりも優しい。年上だから、というのではなくて。
「………しましたよ。真宵ちゃんも気にしていました。だから、今度来た時、自分の口から言って下さいね」
 そしてせいぜい思いっきり笑われればいいんだ。助け舟は出してやらない、と責めるように半眼で睨んだ。
「………。ひょっとして、」
 と、成歩堂は言う。
「今日やたらと奢ろうとしたのは、無断欠勤が後ろめたかったからですか?」
「所員でもねぇのに、欠勤は可笑しいだろ?」
「残念ですが、真宵ちゃんには通じませんよ。そんな理屈は」
 さっきの自分の言い分とは矛盾する内容だったが、言われて神乃木は、違いねぇ、と愉快そうに笑った。
「休むって、メールでもくれれば良かったんですよ。言い辛かったら」
 心配していた、と自覚した途端、今更不安が押し寄せて来たようだ。一度毒に蝕まれた彼の身体の状態が知れない。ほんのちょっと前だと、こんな事を訊いてもいいのだろうか、とまた悩んだだろうが、今はもうそんな事はしない。気にかけてもいいのだ。彼の事を。
「しようとしたんだが、さすがに夕方の6時じゃあなぁ………」
「ああ、それはしても仕方無い。…………って、え?」
 確か彼は朝寝坊したのでは。夕方6時は……朝寝坊とは、言えない。むしろ、夜に近い。
(ままま、まさか、何か異常が起きて寝続けていたとか……?)
 ついこの間、そんな事が起きて、今こうして動き回ってもいいものなのか?病院には行ったのか?どう言えば理論整然と纏めれるだろう。次から次へと沸く質問に、自分がパニックになりそうだ。
「全く、参るぜ」
 神乃木が呟く。
「何だって懐かしのアニメ特集を真夜中から明け方にかけて流してくれるんだか」
「 録 画 し ろ よ !!」
 思わず特大のツッコミをしてしまい、周りが何事かと振り返った。慌てて口を塞ぐ。
「クッ……昔は徹夜なんて軽いモンだったんだがな。昔の自分に挑戦して負けちゃったぜ」
「徹夜なんて、身体に悪い事ばかりですよ」
 しないにこした事は無い、と自分は常に思っている。
「仮眠するつもりが、そのまままた夜までぐっすりだぜ。空腹も気にせずになぁ……」
 まぁテレビ観賞中につまむものはつまんでいたが、とどうでもいい説明をくれる。
「徹夜した反動の疲れが出たんですよ。僕も最近徹夜すると次の日がキツくてキツくて」
「歳は取りたくねぇもんだな、まるほどう」
「…………。一応、僕は貴方より若いですよ!」
 こっちの方がさも年寄りみたいに言わないでもらいたい、と訴える。
「異議あり」
「え?」
 なんで此処で異議を貰うのか、ときょとんとする。
「確かに俺はアンタよりずっと年上かもしれねぇ……けどな、よく考えてみな、まるほどう。
 毒にやられて昏睡して、周りは5年経ってたかもしれねぇが、俺としてはその間の記憶も経験も無ぇんだから、心意気としてはアンタとほぼタメだぜ」
「……………。そうですけど」
 毒盛られて死に掛けたショッキングな過去を、早々口にするのはどうだろう。まぁ、自分も恋人に毒を盛られそうになった負けず劣らずという過去があるけど。しかも彼と同じ人物に。
「身体的はさておき、うかうかしてるとアンタの方が俺よりジジ臭くなる可能性は、デカいぜ?」
「ううう……き、気をつけます」
 オッサン通り越してジジイかよ、と思う所はあるが、今はその言葉を素直に受け入れよう。ついこの前も、座る時どっこいしょなんて口走ってしまい、真宵にさんざんからかわれたものだ。
 真宵の事を思い出して、ふと考え付いた。
「あの、」
「うん?」
 先を促すように相槌を打つ。
「また、こうやって休みの日に何処か行きましょう。真宵ちゃん達も誘って」
「……………」
 神乃木は思案するように、顎鬚を摩るように撫でた。そしてやおら、ニ、と口角を吊り上げる。
「そいつはいい考えだな、まるほどう」
「はい」
「その時は今度こそ、パンダに乗らせてもらうぜ」
「それは止めて下さい」
 目の前で乗ってくれそうな神乃木に、すかさず待ったをかけた。


「おおっ、あたしの知らない内に事務所がパワーアップした!」
「サイフォン置いただけで大袈裟だな」
「へぇー、さいふぉん、って言うんだ」
 真宵が完全なひらがな発音なのが、聞いていて解った。
「これでコーヒーが淹れられるんだよね。ね、早速淹れてよ、なるほどくん!」
「…………うーん、出来ればその期待に応えたいんだけど………」
 期待をこめた視線に、気まずそうに逸らして頭をかく。
「え……なるほどくん、淹れ方解らないの?」
 じゃあ何で買うの、とじと目で眺めてくれる。
「これから教えてもらうんだよ、これから!」
 昨日ちょっと聞いた所によると、サイフォンは手入れが面倒だが、ネルドリップとは違い、手順さえ守れば一定の味が保たれるのだそうだ。だからこそ、これを勧めたのだろう。で、その手順をこれから教えてもらう、という訳だ。
「あ、じゃぁ、神乃木さん今日は来るんだね!」
「うん」
 真宵がはしゃいで言う。やっぱり、彼女も心配したのだろう。
「……でも、この前、何で来なかったのかなぁ」
「本人に聞くといいよ」
 その後を想像して、今から笑みが浮かぶ成歩堂だ。
「そう言えばさ」
「うん?」
 全く未使用のサイフォンを興味津々に眺めている真宵に呼びかける。
「それ買った時に神乃木さんと話したんだけど、今度真宵ちゃんと春美ちゃんも誘って何処か行こうって。
 だから、都合のいい日があったら教えてくれないかな?」
「………………」
「?」
 特に妙な事を言った訳でもないと思うのに、真宵は自分を何故だか凝視していた。
 そして、やおら口を膨らます。
「ずっるーい!なるほどくん、神乃木さんと二人きりで出かけたの!?」
「……え、あ、……いや、そうなんだけど……」
 事実としてはそうなんだが、二人きりとそこを取り上げられると何だか気恥ずかしいものがある。
 別に、意図して周囲から離れるように二人で出かけた訳でもないのに。
「いいなぁー!あたしも行きたかったよ!」
「だから、今度行こうね、って話を今してるんじゃないか!」
「あ、そうか」
 なんだか神乃木が来ても目の前で駄々を捏ねそうな真宵に反論する。今回はあっさり納得したようだった。
(やれやれ………)
 成歩堂はほっと胸を撫で下ろした。
 神乃木が来ても尚、今のように二人きりで出かけてずるい、とか言われたら、神乃木はどう出るだろうか。
 あの人は多分こう言うだろう。いつものように、ニヒルに笑った後で。

「そりゃ生憎だったが、デートは二人きりってのが俺のルールなもんでな」

 言う。
 多分言う。
 かなり言う。
 凄く言いそう。
「……………」
 自分の想像のセリフだと言うのに、何故だか実際に言われたみたいで頬が熱くなる。馬鹿みたいだ、と頬をさり気なく摩った。
「ねぇ、なるほどくん」
 と、真宵が呼びかける。
「え、何かな」
「神乃木さんと一緒で、楽しかった?」
「……………」
 成歩堂はちょっと考え。
「まぁ。退屈は、しなかったよ」
 そんな風に答えた。
 実に楽しそうに笑いながら。




<おわり>

作風としてはオドナルに近い所があると思うんですが(からかう大人にからかわれる子供?)、やっぱ何かこう……違うよな。うん。何か違うぞ。
なるほどくんの中で真宵ちゃんハミちゃんクラスっつったらとんだアリーナだよな。カミノギめ。
つーかサイフォン買いに行くだけでどうしてこんなに長いんだ。カミノギめ。
やっぱりパンダの件が余計なのか?いや、あれが書きたかったんだ……どうしても!
カミノギinパンダ(別に「in」じゃねぇよ)

いつぞや浅草花やしき行って、「あ。パンダがあるぞ、うひゃー!」と喜び勇んで乗っかったら皆に驚愕されました。
パンダは乗るものだろう、お前ら!!
(実際は高い所と絶叫マシーンが大嫌いなので、それしか乗るものが無かったというか。
 スワンは多人数アトラクションなので乗るのが躊躇われたのでした!)