遠い日のサウダーデ




 バッジを返却する時、身体の一部をもがれたというよりは心が欠けたような気がした。
 それはきっとあの人が眠っている部分。
 勿論ただ気がしただけで、実際はちゃんとあるのだろうけど。
(……あるのかな、ホントに)
 夢のような現のような、あの28歳の夜明けにそれでも弟子だとは言ってくれたけど。
 左胸が軽くて、上からその部分の服を掴んだ。




「ま。とりあえずはオメデトウだ」
「……ありがとうございます」
 自分はブドウジュース。そして相手はコーヒーと、何だかちぐはぐな乾杯だが、自分たちらしいと言ってしまえばこっちのものだ。白い陶磁器のカップとガラスのコップ。合わせると鋭いのか鈍いのか判断の難しい音がした。
 一口飲んで、テーブルに置く。そしてどちらともなく、ふ、と笑みを浮かべた。
「疲れた顔してるな」
 と、神乃木が労わる気でもなく言う。自覚のある成歩堂は、ちょっと力ない苦笑を浮かべた。
「これはまぁ……祝われ疲れ、ってヤツですか?次から次に来るんですから……」
 それがようやく収まってきた頃なんだ、と言って、溜息のように息を吐く。
「クッ……!仕方ねぇ。皆我慢出来ないんだろうさ。大人しく祝われてやれよ、まるほどう。アンタにゃその義務と責任がある」
「ええ。だから、今も果たしてる最中でしょ?」
 挑むように見やり、その視線を受け取った神乃木は不敵に笑う。その顔にマスクは無く、代わりにちょっと仰々しい補聴器みたいな機械のついた眼鏡をかけている。日々進歩している科学技術は、あのSFみたいなマスクをここまでシンプルさせるのに成功させた。
「あのヒラヒラのボウヤは何か言って来たのかい?」
「何かも何も、当日システム室から出た所に立ってたんですよ。あいつ」
 忙しいくせに何時間突っ立ってたんだ、と悪態ついてみるがあくまでフリなのは相手も承知だろう。
「一番乗りは譲れねぇ、か……いいぜ。そういう姿勢は嫌いじゃねぇな」
「でもねぇ、何にも言わないで、ただひたすらずーっと眉間に皹入れてたんですよ?」
 それは不機嫌ではなく、何と言えばいいのか解らなかったからだろう。相変わらず感情の示し方がヘタクソなヤツだ、と思わずにはいられない。結局部屋を出た所で鉢合わせた後は黙々と二人で廊下を歩き、自分が帰る本当の際になりようやく「待った」と口を開いた。けれどその後待ってもやっぱり何も言葉が出ないので、しまいにはこっちから「うん、解るから、無理して言わなくていいよ」と助け舟を出してやったくらいだ。全く手のかかる親友だ。
「……休みだってのにムスメ放り出してなぁ。悪いパパだぜ」
 そんな御剣の醜態に、目を片手で覆って肩を震わしていた神乃木だが、不意にそんな事を言い出す。
 大きな窓の外は綺麗な青空。所謂行楽日和なのでそれを差して言ったのだろう。
「今日はオドロキくんと遊園地に行ってますよ。今頃ジェットコースターにでも乗ってるんじゃないですかね。あそこ、絶叫マシーンで有名な所だから」
「……………。押し付けたな?さては」
「ああ、やっぱり解っちゃいます?」
 ころころと笑う。
 ちなみにその同時刻、ジェットコースターに強引につき合わされ登頂に届いて落下している法介が「成歩堂さんのバカ―――ッ!!」と叫んだのだがそんな事は知る由も無い。
「しかし、あのデコッパチがお嬢ちゃんのアニキとはなぁ………」
 似ている所を探しているのか、視線がどこかを彷徨う。
「ええ、おかげで僕もこれからは二児のパパですよ。もっと自分に厳しくならないと」
 ふざけていた色を少し薄くして、双眸に力を込める。そんな表情の彼は、法廷で真相を必死に探っている時と似ている。似ているも何も本人なのだから、そんな言い方は可笑しいかもしれないが。
 例えどんなに外見がやさぐれようが、彼が彼以外になれる筈がないのだ。
「…………。ねぇ、神乃木さん。聞いてくれますか?」
「…………。聞いてやろうじゃねえか」
 膝の上で組んだ指に視線を落とし、成歩堂が話を切り出す。その時の彼は無敗のポーカープレイヤーでも、父親でもなかった。
「……この前の裁判の時……一瞬ですけど、本当に一瞬なんですけど。
 最後の証拠品を突きつけた時のオドロキくんの姿が……千尋さんと被さったんですよ」
 被告人の自分ですら事実を隠していたのに、けれど懸命に証言に食いついて矛盾を見つけ、無実を証明したあの人の面影。
 依頼人を信じきるのにはまだその見抜く能力が邪魔してか、躊躇いがあるみたいだが、真実への飽くなき追求の手を緩める事はないあの姿勢は、自分の中では彼女そのものだった。
 ……自分がバッジを失ってしまったせいで、暫く遠ざけてしまったけど、法廷にこそあるべき彼女の信念が、本来の居場所に戻ってきたように思えた。
「……………」
「まだ、全然だけど……僕はちゃんとオドロキくんに渡せてるんだなって……千尋さんから教えてもらった、弁護士にとって必要な事。大事な事……」
 そうだったら、あの人の墓参りに行けるだろうか。バッジをなくしたあの日から、決めていた事。この一件が片付くまで、「会い」に行かない。
 でも、捏造疑惑は打ち払ったけど、一度そんな失態をしでかした自分に会わせる顔があるだろうか、と審理中にも悩んでいた。
 それが、あの時。そうする自分を許せそうに感じたのだ。
「そいつは違うぜ」
 異議を唱える鋭い声が上がった。彼女を思い起こしていた成歩堂ははっとなって顔を上げる。存外真剣な目とかち合った。
「ぇ…………」
「あいつの中に千尋が居る筈がねぇ」
 あまりにはっきりと違うと言い切れられて、怒るより戸惑う。彼はあの場には居合わせていなかったら、そんな判断の付きようもないのだが、それに突っ込むよりもあまりにきっぱりと撥ね付けられて、ただの独りよがりな自己陶酔だったのか?とそっちの方が気になる。
「あのデコッパチに何かを見たってんなら……それは千尋じゃねぇ。アンタ自身だ」
「………いや、でも」
 接続詞ばかりで言葉にならないセリフの彼は、まるで法廷で窮地に立たされた時のようだ。
「何を戸惑ってんだよ、まるほどう。千尋の信念を受け継いだアンタの意思がデコッパチに渡ったんだ。
 だからこそ、千尋が見えたんだろ。
 お前の中の、千尋が」
 自分の事は見えにくい。ましてそれより自分の見たいものが他にあればなお更だ。
「だ……だけど、僕はもう………」
 口調が震えるのは、口にしたくない事だからだ。
 もう弁護士ではない自分に彼女の教えがまだあるとは、とても思えない。
 思えない……けれど。
 でも……
「成歩堂龍一」
 本名をフルネームで呼ばれ、伏せてしまっていた顔を再び上げる。
 その厳しいながらも優しい双眸は、彼女を髣髴させた。
「自分が認めた事は認めてやれよ。
 あんたは今でも、千尋の弟子なんだぜ」

 ――貴方は私の弟子なのよ

「ぁ――――」
 自分でも何を言おうとしたのか。ただの音が口から零れ、目からも零れた。
「……わっ、何だコレ………」
 自分の涙に自分で驚き、手で拭ってみるがなかなか止まってはくれなかった。
「こんな……いい歳して………」
「ああ、全くだ」
「神乃、木さんの、せい、でしょ……」
 ぐずぐずになる声色の中、笑いを含んだ言葉が弾む。そんな彼をそのままにしておいて、コーヒーを啜った。正直、貰い泣きしそうだったのだ。
 歳食っていよいよ情に脆くなったのか、と自嘲してみる。
「………、神乃木さん………」
 ようやく落ち着いた成歩堂が、改めるように向き直る。
「今度の休み、千尋さんの所に行って来ます」
「そうかい」
「はい」
 そうはっきり答えた時ようやく、全部が終わったんだ、と。
 心にずしりと確かな重みが帰って来た。
(自分でまだ自分を許せない時に祝われたものだから、余計に疲れたのかな?)
 まぁ、かと言って、それが迷惑だとは思っていないが。
「それなら……俺も一緒に同伴するか?」
「ダメです。僕だけで行きます」
「クッ……、即行でフラれちゃったぜ」
 その割には何だか嬉しそうにゴーグルを指でずり上げている。
「合わせる顔が無いなんて、もう今更そんな弱音は吐きませんよ」
 コップを持ち上げ、くぅ、と一気に中を空ける。
 そして、不敵に笑って言ってみせる。
「僕は、あの人の弟子なんですから」
 ――ねぇ、千尋さん……
 心の中でだけ、そっと呼びかけたその声に。
 えぇ、そうよ、という彼女の言葉が聴こえたような気がした。




<END>

あまりに有名な某魔法少年の3巻で、父親かと思った姿が自分と見間違えていただけだった、としょげる主人公に校長が「それこそが君が息子である証拠だ」みたいな事を言うシーンがすっごい好きなんですよ。それまでにも父親の親友や知り合いがちらほら出てくるんですがその度に「あいつの息子だな」と言われてもピンときていないような主人公が、その言葉でようやく息子なんだ、と自覚できたようなあの場面が。
なので引用させてもらったでごんす。
4巻で実際に対面を果たすんですが、それよりこっちのシーンの方が感動したなぁ。

28歳バースデイのアレと若干リンクしてます。アレ、小説に上げた方がいいかなぁ……
それにしても情けねぇなミツルギとホースケ。