金曜日のコーヒー



「真宵ちゃーん、お茶くれる?」
 資料に目を通しながら、若干気になった喉の渇きの訴えを、そのまま助手に伝える。すると、すぐさま「はぁーい!」と小気味いい元気な返事が返って来た。
(……女の人ばっかりにお茶汲みを頼むのって、セクハラになるんだっけ……)
 ふと思い浮かんだ戯言に、さてどうだっただろうかと書面から顔を上げて、判例の記憶を探ってみた。彼女にお茶を頼んだ時点で、すっかり頭が休憩に切り替わっているのだろう。その視界の端に、にゅ、と陶磁器の入れ物が割り込む。
「あ。ありが……」
 感謝の言葉は途中で途切れた。
 何故なら運ばれたのはお茶では無かったし、もっと言えば真宵でもなかったからだ。
「神乃木さん!?」
 吃驚しながら名前を呼べば、相手はその反応を楽しむかのように口元を上げてみせた。
「一体いつから……」
「10分くらい前に来たんだよ」
 そう言って、所長室にひょっこり真宵が現れた。手にはカフェオレの入ったマグカップを持って。
「そんな……来たなら一声かけてくださいよ!」
「来たぜ」
「遅い!!」
 即答で突っ込みを返すと、また愉快そうに笑う。
「本当に……もう……真宵ちゃんも、どうして教えてくれなかったんだよ」
 来訪に気づかずに放置しておけば、それについてかわかられる事は目に見えている。なので、つい、恨めしそうに当たってしまった。
「だって、あたしも教えようとしたんだけど、神乃木さんが「気づくまで黙っていよーぜ」とか言って」
 まぁそんな所じゃないかと思ったけど。
 こんな予想、当たっても嬉しくともなんともない。
「あたしもいつなるほどくんが気づくかなって、面白そうで乗っちゃった」
「………………」
 えっへへーと笑う彼女に、果たして責任がどっちが重いかと考えるが、早々に投げ出した。これはそういう問題ではないのだ。そう、そういう問題では……
「………で、」
 神乃木の訪問云々については終わった事にして、次に気になる事へ異議を申し立ててみる。
「僕お茶頂戴って言ったハズなんだけど……何で此処にあるのはコーヒー?」
 お茶に関してもコーヒーに関しても造詣が深い訳ではないが、それでもその2つを間違える程馬鹿ではない。
「クッ……コーヒーの苦味も飲み干せないヤツに事件の真相が掴めるとは思えねぇなぁ……」
「いやいやいや、意味が解らないですし。って言うか、別にコーヒーが嫌いだって訳じゃないんです。
 お茶が欲しいという、僕の言い分が何で無視されたのかを聞きたいんです!」
 何だかたかがお茶に大層な物言いだな、と自分で思った。
 しかし目の前のこの人は、例えそれが他愛無い日常会話であろうと、法廷の時のような、いやむしろ言語に一切の制限が無くなったせいかかなり容赦ない(そして訳の解らない)言葉の砲火をいくつも投げる。避けて無視してしまえばそれで済むのだろうが、そうはしないのは負けになるというプライドの為……というより、この妙なやり取りを楽しんでいる所があるのかもしれない。
 それに、こういう言葉の掛け合いは、弁論の練習にもなる。……と、思いたい。
「……いいか。まるほどう」
 笑みを浮かべていた口元を引き締め、マグカップを自分へ突きつける。ちなみに片方には自分用なのかやっぱりマグカップを持っていて、滑稽なんだか格好いいんだか判断が付きにくい。
「この俺の目の光っている内は、コーヒー以外口に出来るなんて思うなよ!」
「……………えー、」
 光ってるのはアンタの目じゃなくてマスクでしょ、とか、何をカッコイー!とか拍手してんだよ真宵ちゃん、とか突っ込む所は色々あるが、あまりに傍若無人な彼に、二の句が告げないというのはまさにこの事。
「アンタをカフェイン付けにしちゃうぜ」
 ニヤリ。と今日来て一番不敵な笑みを浮かべた。
 マジかよ、と頭を抱えたのは、それが出来そうだと思ったからに他ならない。
 そして相手の公言通り(?)飲み物で、自分がコーヒー以外を口にする事は無かった。


 どういう訳だか知らないが、神乃木が来るのは決まって金曜日だった。週末の休日前だからだろうか?日にち的はそうだけど、それがそのまま理由になっているのかどうかは本人に聞かなければ解らない。彼の中にあるルールは独特過ぎて、自分の想像を軽く蹴飛ばしてくれるから。
 だからいつの間にか、金曜日はコーヒーを飲む日だ、と変な覚悟を決めていた。コーヒーが嫌いではないが、お茶の準備をしている口にコーヒーが入ると、不味いとまではいかないが期待を裏切られた感が邪魔して味を素直に楽しめない。豆から入れるコーヒーは当然インスタントのそれより香りにも味にもコクがあり、独自のブレンドは余所に言っても味わえないものだ。コーヒーが飲みたい、と思った時に飲むそれはかなりの美味だ。
 なんて事を思っていたせいだろうか。今は水曜日だが、コーヒーが飲みたくなった。真宵は居なくて、そして金曜日ではないから神乃木は来ない。自分で調達すべく、給湯室に向かう。小さな冷蔵庫と戸棚には、一般家庭にある飲料は揃っている。パックのお茶や、インスタントコーヒー等は。
(これしかない、な……)
 ご無沙汰だったインスタトコーヒーのビンを取って、ポットのお湯で入れる。湯気と一緒に立ち上る香りは、何だかとても薄っぺらく感じた。その場で一口飲んでみると、味もいつものコーヒーを思いっきりお湯で薄めたような何とも言えないものだった。
 以前はこの味で満足していた筈なのに。
「……………」
 ちょっと思案したが、それは流し台に流してしまった。茶色い液体が飲まれていくのに、勿体無い事をしたと思うがどうしても飲めなかったのだ。
 出来合いのインスタントだったが、それはやっぱりコーヒーだから、カフェインの強い香りはする。まるで彼が来たような錯覚だが、今日は水曜日なので彼は来ないのだ。


 時期的に修行をするのに持って来いな周期なんだそうで、真宵は数週間の休みを申し出ている。彼女には何度も助けてもらっているが、本職は霊媒だと自分も思っているから跳ね除ける事はしない。
 神乃木と二人きりは静かなものだ。休憩に入れば何やかやと話しかけてくるが、自分が仕事に取り組んでいるとなると何か意見を求めて、こちから持ちかける以外話かけては来ない。時折、どうにも煮詰まっている時はさり気なく向こうから関わってくるけども。
 何も話さない沈黙が続いて、それでも無視されている、しているなんて思わないは、彼がそういう空気を作り出すのが上手いからだ。是非見習いたい所だ、と思う。
 書類整理は地道な単純作業なだけ、ゆっくり疲れが蓄積していく。厄介な案件を抱えてうんうん唸っている方がいい……というかそれに慣れている自分は、そんな緩慢な疲れは、その疲れ自体に疲れてしまう。
 目を綴じ、拳を作った手の親指を、ぐ、と額に押し付ける。暗闇に支配された意識の中、あの香りがやって来た。
「仕事している時の顔にオンナは惚れるってよく言うが、仕事に疲れた顔はどうなんだろうな」
 こうして、コーヒーを手渡す時に余計とも思える一言も添えてくれる。それに何か言い返そうと考えるのは、自分にとってとてもいい気分転換になるのだ。
「別に僕はモテる為に仕事する訳じゃありませんからね」
 受け取ったカップから、コーヒーを口に含む。芳醇な香りが鼻に抜けて、感じた香りが全身に行き渡るとほっと一息つける。アロマテラピーってこんな感じかな、と思う。しかしコーヒーの場合、香りだけではなく味もある。舌から受け取った苦味が頭をキリッと締めてくれる。等と色々感じる事はあるが、一言に要約してしまえば、美味しい、という事だ。
「……あー、美味しい」
 思った事を口にすると、疲労していた心も回復する。素直に生きるのが長生きの秘訣というのは、まんざら迷信でもない。
「ほぅ。アンタもようやくこの味が解るようになって来たか」
 向かいに座り、足を組んで飲む様はとても決まっている。多分自分が真似をしても、滑稽になるだけだろう。
「そりゃあね。あれだけコーヒーを淹れてくるんですから」
「クッ……あれでも足りねぇくらいだぜ」
 それは勘弁してくれよ、と胸中で苦笑する。
「…………。このコーヒー。豆から淹れてるんですよね?」
 カップの中に目を落として尋ねる。
「…………。久しぶりに頭から奢っちゃうぜ?」
「いやいやいや!ただの確認ですって!確認!!インスタントだんて思ってる訳じゃありませんから!」
 ならいいぜ、と構えたカップを机に置いた。本気でやろうとしたな、と冷や汗を流す。
「……この前、インスタントのを飲もうとしたら、何か飲めたものじゃなくて、」
 そりゃそうだろうな、と口を挟むように相槌を打つ。
「だから教えてもらおうかなって。……………」
 言葉は終わったが、何かセリフを考えるように視線が宙を彷徨う。それが口から出るまで、神乃木は待つ事にした。ややあって、ふ、と可笑しそうに微笑を浮かべる。大人びたそれではなく、子供が悪戯を思いついた時のに近いような。
「何か……変なの」
 独り言のように呟いて、またコーヒーを啜る。
「金曜日はコーヒーしか飲めないと思っていたのに、コーヒーは金曜日にしか飲めないんですよ」
 自分の言った事が気に入ったのか、ますます笑みを濃くした。
 そんな風に無邪気に笑えるのは、彼が本当に人を信じられる心を持っているからなんだろうな、と神乃木はぼんやりと思った。その笑顔を眺めて。
 しかしやられっぱなしでは自分の流儀に反する。不敵な笑みを浮かべて、言ってやった。
「そりゃぁ……俺と同じだな」
「?」
 きょとんとした目をする。それを向けられる心地よさに、マスクの下の双眸を細めた。
「金曜日にはアンタの顔しか見れないと思ったら、アンタの顔は金曜日にならなきゃ見れないんだろうぜ」
「…………」
 きょとんとした目を、今度は吃驚したように瞬かせた。丸くなった双眸は彼を幼く見せる。今の彼の年齢は、あの長い眠りに付く前の自分とそう違わない筈だが、自分はここまで若く見えなかったような気がする。今度この事を言ってみたら、どんな反応を示すのだろうか。ネタのストックをこっそり溜めた。
 成歩堂がまた大きな瞬きをする。何かを考えてるみたいに。言われた言葉の意味を探るように。
「えっと………」
 窺うように上目で自分を見る。
「それじゃ……もっと来ても、いいですよ?」
「……………」
 噴出しそうになるのを、喉の奥で堪えクッ、としたいつもの音が出る。
「そうだな。そうすりゃアンタは上手いコーヒーが飲めて、俺はアンタの顔が見れるって訳だ」
 交渉成立だな、とマスクに手を翳す。
「…………。はい」
 まるで自信の無さそうな先ほどとは違い、しっかりと声を発し頷いた。


 そしてその後。久しぶりに事務所を訪れた真宵は、入るなり早々に、挨拶をするよりも先にコーヒーの香りを全身に浴びたとか。




<おわり>

甘いなぁ……何だろうこのミツナルとの違いは……
大人だからか。大人だからなのか!カミノギ!!
これの続きみたいでコーヒーばかり飲んでるなるほどくんにムスッとしているミツルギとか書きたいね!子供だ!!