眠る為の場所



『あのね、なるほどくんがいっくらメール送っても、全然返事返して来ないの!
 多分充電切れてるからだと思うから、行って注意してきてよ!』


 真宵からそんな文面のメールが届いたのが、1時間前。そして、1時間後の今、神乃木は彼の事務所の前へと辿り着いていた。
(クッ……この借りは高くつくぜ、まるほどう……)
 と、本人にとっては言いがかり以外何物でもない事を考えながら、意地悪く笑みを浮かべたりしていた。そもそも、これで貸し借りが出来るのは成歩堂ではなく、真宵の方だろうに。しかし1本筋の通ったゴーイングマイウェイな神乃木にとっては、当然の思考回路なのだろう。
 ノックも無しにドアを開けた。
「まるほど……って、なんだい、こりゃ」
 呼びかけもそこそこに、神乃木は室内を見て、そう呟かずには居られなかった。
 散らかっている。しかし、いつもの散らかり具合が10だとしたら、今の状況は25くらいになっている。まあ、早い話がいつもより散らかっているって事だが。
「……いけねえな。恋人は綺麗に着飾らせといてなんぼだぜ。おい、まるほどう!」
 聴こえてるんだろ、とばかりに声を張り上げた。
 ややあって、所長室から成歩堂が顔を出す。彼は、ある意味この部屋の主に相応しい表情で出来た。
「……アンタもまた、どんな有様だい。どんなに窮地に立たされようが、一杯のコーヒーを嗜む余裕を残すのが男ってもんだぜ」
「……コーヒーか……飲みたいな」
 ぽそり、と呟く成歩堂は、……これは、憔悴している、というべきなのか、そんな顔をしていた。別に痩せこけたりはしてないが、目が充血していて、視線がぼおっとしている。そして、何よりセリフに突っ込みを入れなかった。
 過労による寝不足で頭の回転が鈍っている。そう判断して間違いないだろう。
「ちょっと依頼が立て続けに入っちゃって……こんな有様ですから、もてなす事は出来ませんよ」
 それでも依頼の事はしっかり考えて居るのか、自分でそう言った途端に目に力が戻る。しかし、やっぱり上手く働いていないのか、何故神乃木が来たのか何の用なのか、という事は問わずにさっさと部屋に戻ってしまった。
(ひとつの事しか見えないコネコちゃん……キライじゃねえぜ)
 クッ、と喉の奥で笑い、勝手知ったるとばかりに所長室に続く。そこは、さらに混沌としていた。見散らかした、とばかりに書類が散乱している。ある種、この散らばり具合は何か芸術的なものを感じるな、と無責任な事を神乃木は思った。
「…………。アンタ、椅子のアイデンディティは認めてあげるべきだぜ」
 室内の惨状っぷりを楽しんだ神乃木は、ついで忙殺されている成歩堂に目を移す。そして、出た言葉がそれだった。何故って、成歩堂は椅子を傍らに押しのけ、立ったまま机に向かっているからだ。
「…………る、」
「あん?」
 ぼそ、と何か成歩堂が呟いた。
「座ったら……寝る」
 その声は妙な迫力に満ちていた。
「………………」
 何と答えていいのやら、神乃木もまた立ち尽くす。
 成歩堂は、その書類に何か引っ掛かるものを感じたのか、凝視している。そんなに見詰めたら穴が開いちまうぜ、とか神乃木は思った。
 と、その時。机についていた手の位置を、何気なく成歩堂は動かした。
 そうしたら。
 ばささささッ!
「あ………あああああッ!」
 たかが書類が落ちたくらいで、悲鳴みたいな声を出す。30枚くらいはありそうだったその束は、床に広がった。
「ああ、もう、何してんだよ……!」
 イラついているのか、落ち込んでいるのか。神乃木の存在すら気づいていないかのように、成歩堂は書類を拾う為、屈みこむ。神乃木もまた、手伝う為にそこへと向かう。
「もてもてじゃねえか。まるほどう」
 仕事を恋人と引っ掛けて、そんな風に揶揄した。
 が、返答も反応も無い。
 それどころか、動きすらなかった。
 そこまで激しく落ち込んだのか、と屈みこんだ神乃木は、何気なく肩を触ろうと手を伸ばす。
 すると、その肩が動く。触る前に、だ。
 成歩堂の身体は、そのままぐらりと傾いた。
「うぉっ……っと」
 受け止める体制ではなかった為、成歩堂を抱き留めた後、その場に尻餅をついてしまった。それでも、衝撃を和らげる事は出来たが。
「まるほどう。おい………っ……?」
 無骨なマスクの向こう、神乃木は何度も瞬きをして確認した。
 自分の胸の中、くったりしている成歩堂は……そう、眠っている。スースーと浅いような深いような寝息を立てて。
「……………」
 座ったら、寝る。あの証言に偽りは無かったようだ。
 成歩堂を腕に収めたまま、開いている方の手で、ぽりぽりと頭を掻いた。普段の彼にしては、愉快な仕草だ。
「……………」
 考える事は決まっている。起こすか……起こさないか。少し視線を移せば、ゴミ箱には栄養ドリンクの瓶が何本か放り込まれていた。
 それを見て、神乃木はこのままにする事に決めた。睡眠は、何かでは補えないのだから。


 どれだけ時間が経っただろう、と神乃木はぼんやりと思った。窓からは、夕日が差しているから、そんな時間なのだろう。自分の位置からは、時計が見えない。
 ソファに寝させてやろうかとも思った。けれど、何となく腕に抱きとめた姿勢のまま留まっていた。
(……こんな体格のいい男2人が抱き合ってるなんてな……ゾッとしねえぜ)
 とか自分で皮肉って見ても、手放す気にはなれなかった。一方、成歩堂と言えば、自分がどんな状況かなのか全く知らない無防備な寝顔で惰眠を貪っている。
 起きたら成歩堂は……自分を責めるだろう。何故、起こしてくれなかったのか、と。
(別に構わないだろう。コイツは、追い込まれた方が頭が回るんだ)
 これまた無責任ないい訳を、神乃木は用意していた。
 と、ごそり、と成歩堂が動いた。
 起きるか?と思えば、少し頭を移動しただけで、また寝入ってしまった。
 やれやれ、と思いながら、身体がずり落ちてしまわないよう、肩を抱く。
 その身体は、温かい。
「……………」
 彼の身体が温かい。そして、それ以上に、それを自分が感じられる事が、不思議のような、奇跡のような。
「………ん、」
 と、もぞっと成歩堂の身体が動いた。今度こそ、起きるようだ。
 目が一度きつく閉じられ、開かれる。まるで雛が卵から孵るみたいだ、と本人が聞いたら怒り出すような事を思う。
「…………っあー、よく寝た……
 ……………
 …………………………
 って、寝たらダメだろ!うわ、今何時……!!!」
 時計を探していたらしいが、それよりも先に夕日が目につく。それを見て、成歩堂は悲鳴みたいな絶叫みたいな声を発した。それを、笑いを堪えながら見る神乃木。
「な、なんで、どうして、僕は……!
 ……って、神乃木さん、まだ居たんですかッ!?」
 今それに気づいたのかい、と心の中で突っ込む。この調子では、自分に抱き締められたまま寝ていたなんて事も、忘れている……どころか、最初から頭に無いだろう。
「居たぜ」
 不敵に言ってやった。ぽかん、としていた成歩堂は、やがて眉を吊り上げる。自分が予定していた通りの展開だ。
「だったら!どうして!起こしてくれなかったんですか!僕が寝ていられない状況だって、見れば解るでしょう!?」
「見れば解る……?そりゃ、俺には酷だぜ。……俺の世界に、赤はねぇ」
「え、あ、ああ、そうで………って、異議あり!!それとこれとは関係ありません!!」
 流される所だった!と成歩堂は憤慨する。あまりに予想通りの展開だったので、神乃木は噴出すのを必死に堪えた。
「……ちょっと!何笑ってるんですか!」
 どうやら彼は本気で怒ったらしい。いや、無理も無いが。
「いいですか!?僕個人をからかうなら、まだいいです!けどね、仕事の邪魔をするって事は、その依頼人に迷惑が……」
「まるほどう、」
「何ですかッ!」
 セリフを中断させられ、怒りは絶頂もいいところのようだ。けれど、話を聞く余裕はまだあるらしい。
「アンタ……目の前に敏腕のバリスタがいるのを知りながら、それでも自分で入れるインスタントに拘るかい?」
「………。ですから、言いたい事は簡潔にお願いします」
 低く言う成歩堂に、そう不機嫌になるな、と諫める。
「俺という人材を目の前にして、それを使わないでいる気かい?」
「……………………」
 成歩堂は、少し黙り込んだ。そして、
「……手伝ってくれる……って、事ですか?」
「クッ……ですかも何も、俺は最初からそう言ってるぜ」
「いやいやいや。こっちに通じてなければ意味がありませんから」
 いつもの調子で突っ込みを入れる成歩堂だ。自分が手伝ってやる、というので心にゆとりが出来たのだろうか。まあ、これは……ただの自分の願望なのだが。
「……ゴドーさん」
 と、立ち上がった神乃木に、成歩堂は改まる。
「では、お願いしますね。協力、してください」
「ああ」
 普段横柄に態度を取って過ごしているせいか、こう畏まれると、どうも照れてしまう。
「さて。まずは、そうだなあ……その、寝癖のついた頭に、ゴドーブレンド奢っちゃうぜ!」
「ま、待った!それは要りません!要りませんからっ!」
 本気に取った成歩堂は、必死に頭を死守した。
「それが嫌なら、とっととシャワーでも浴びるといいぜ。その間、俺は事件の概要でも眺めてるからな」
「はい。……お言葉に甘えて」
 最後に、人懐こそうな笑みを浮かべて、シャワー室へと入っていく。
 その背中を、何気なく見送った。
 床に散らばった書類をかき集め、適当に積み上げる。どれがどの続きかは、彼に任せるしかない。とりあえず整頓してあるのだろうファイルを一つ取り上げた。
 取り上げた時のその感触に、彼に触れていた事を思い出した。
「…………」
 あの身体に宿る信念に、彼女の信念もまた、眠っている。
 自分はそれを確かに”目撃”した。
 ……こんな風に。徐々に、徐々に彼の生活に溶け込んで、彼の心のどこか、僅かでもいいから、自分の居場所が出来たなら。
 そうしたら。

(なあ、千尋)

 アンタの居る場所に、俺も逝く事が出来るかい?
 アンタと一緒にアイツを見守る事が、出来るかい……?

 パラリ、パラリと紙を捲る。
 うっかりタオルを忘れてシャワー室に入ってしまった成歩堂が、情けない声で助けを呼ぶまで。




<終>

ゴドナルのいい所は千尋さんがナチュナルに出せる所です。