再会早々
配属が決まるまでやや時間がある。茜はそれを利用して成歩堂に会おうと思った。
幸いあの事務所は手放していないみたいだ。おまけにメール番号もそのままだというので、会いに行く旨を伝えるメールをぶっ込んでみれば、いいよ、という簡素な返事とこの時間がいいという指定があった。
で、茜は事務所の前に来ている。
(……懐かしいなぁ……)
茜がここに居たのは3日足らずなのだが、その日数に似使わずに濃密な想い出が詰まっている。あの植物はまだ枯れていないのだろうか。机は整理されてないのだろうか。本棚には相変わらず難しい本が並んでいるのだろうか……実際に事務所を前にすると、そんな記憶が湯水のように沸き起こる。
だからこそ胸も痛む。彼が弁護士で無くなった事が。
(……ううん。弁護士辞めたって、成歩堂さんは成歩堂さんじゃない!何も哀しい事なんてないわ!)
己を奮い立たせ、茜は事務所のドアを開いた。
「やぁ、茜ちゃん」
茜がドアをきちんと閉めるのを見届けたようなタイミングで、成歩堂が声をかけた。
「お久しぶりです!成歩堂さ……」
佇まいを直立不動にして挨拶する言葉が途中で止まった。その分目を丸くして。
(まぁ、仕方ないよね)
成歩堂は苦笑する。
変に取り繕うのもアレかな、と思って成歩堂はうらぶれた部屋でポーカーをするピアニストのままの格好をしている。これだって、自分の姿なのだし。茜はその所を知りたくて来たのだろうし。
そんな成歩堂の姿を見て、茜はうっかり外に飛び出してしまった金魚のように口をパクパクさせた。
「なっ……なっ、なっ、成歩堂さん………ッ!!!」
「えっと、何処から話そうかな。うん、そうだな……」
「ななな、何ですかその全身から迸るエロス!!!」
「……………。エロス?」
見れば茜の目がキラキラと輝いている。ルミノール検査薬を撒き散らしている時のように輝いている。
「え――――ッ!ちょっともう、ホントどうしちゃったんですかもう!どうしてあの天然素朴な成歩堂さんがここまで色気たっぷりな大人に!こんな短期間での超変化、ポケモンだって追いつきませんよ!何ですかコレ科学への挑戦ですか!?」
「…………。えーっと、茜ちゃん?落ち着いて……」
「はっ!もしかして成歩堂さん妊娠してる!?」
「してないよ」
冷静な切り返しに、茜はそうですか、と返事した。がっかりしたような、安心したような曖昧な語感で。
「……妊娠もしてないのにその色気。やはり成歩堂さん、只者ではありませんね。9年前のお姉ちゃんの見立ては嘘じゃなかった……」
「……3年したら立派な弁護士になる以外に、巴さんから何かを僕は期待されてたの?」
ぶつぶつと深刻な表情で呟く茜には、成歩堂のそんな異議は届かなかったようだ。
「……とにかく、茜ちゃん。お帰り」
場を仕切りなおす目的で成歩堂が言う。
「はい。ただいま帰りました」
茜がノリよく敬礼した。それに、成歩堂はふ、と柔らかく微笑む。その笑顔に、茜はうっとなった。
(前の笑顔はストレートに効いたけど、これはボディブローのようにじわじわと効果が効いてくる感じだわ……!)
しかし、笑顔くらいでギブアップしていては、今後成歩堂と顔は合わせられない。ここは堪えるのよ、茜!
「9年ぶり、だね。すっかり大きくなっちゃって」
「いえいえ、そんな。成歩堂さんの魅力の増しっぷりには敵いませんよぉ」
にこにこする成歩堂に、茜もにこにこして言った。成歩堂は揶揄して言ったのだが、茜は本気だ。
いつまでも立ち話もアレなので、ソファに座らせてお茶を振舞う。その時、ようやく事務所内が妙な小道具で一杯なのに気づいたが、切り出すタイミングが掴めない。何せこっちには9年分語る事が山ほどあるし、成歩堂の現状も知りたい。ちょっとくらい正体不明な物体を後回しにしてしまっても、仕方無いだろう。
「科学捜査官にはなれそう?」
「はい!今日の午前中に試験受けて来ました!後は天に任せてみます」
「ふふっ、茜ちゃん、本当に変わらないなぁ」
成歩堂は目を細めて、楽しそうに笑う。
成歩堂のセリフに、茜はふふんと勝ち誇ったように笑い、紅茶のカップを受け皿に戻した。
「甘いですよ成歩堂さん!ハチミチツとコンデンスミルクをぶっかけたヨーカンみたいに甘いですね!」
確かにそれは甘そうだ。美味しいかはさておき。
「あたしもこれでいてグレードアップしてカスタマイズされてるんですよ。
例えば、このバッジ!」
どことなくムンクの叫びを彷彿しそうな表情をしているバッジを掲げる。確か、9年前にも胸に着けていたなぁ、と成歩堂は記憶を穿り返した。ちなみに彼女は今日もやっぱり白衣を着ている。9年前にも思った事だが、彼女はこの格好で道を行き来しているのだろうか。
茜はその細い指でバッジの口の部分を指す。
「なんとコレ、ビデオカメラだったりするんですよ!ここがカメラになっている訳です」
「えっ、そんなに薄くて小さいのに?」
「成歩堂さん。科学の力を舐めちゃいけませんよ。マティーニに入ってるオリーブの中にだって、盗聴器は入れられるんですから」
やった事もないだろうに、茜は得意げに言う。
「へぇー……それは、凄いなぁ」
成歩堂が心底感心しているようなので、茜も気を良くする。
「向こうの研究所で開発・作成してたヤツなんですけど、丁度あたしが帰国する頃試作品が出来たんで、記念に貰ってきました」
「ふぅん、良かったねぇ」
「はい!2つあったし、1こくらいいいだろうって思って勝手に持ってきちゃいました」
「……………」
今頃とんでもない大騒ぎなんじゃないかな、向こうの研究所……
成歩堂は行った事も見た事も無い海の向こうが気になった。
「…………。ねぇ、茜ちゃん」
成歩堂が茜に呼びかける。
「はい」
「それ……どれくらい時間が持つのかな」
「えーと、2時間ちょいくらいですかね。だいたい」
「そう、か………」
長時間であればある程いいに越した事は無いが、証拠を掴むのにはそれくらいの時間があれば充分だろう。
成歩堂はもう一度、茜ちゃんと呼びかける。成歩堂の雰囲気が変わったのに気づいて、茜がやや姿勢を正す。
「は、はい?」
「無理なお願いだと、判ってる。断っても君が気にする事は全然無いからね」
成歩堂は勿体ぶるようにそんな前置きをした。
「そのバッジ……貸してくれないかな?」
「え、コレですか?」
茜は白衣に着け直したバッジを弄る。
「うん。……本当に、出来ればだけど……」
「………。貸すのは、嫌です」
申し訳なく言う成歩堂に、茜はきっぱり言った。
だよね、と成歩堂は気を悪くするでもなく言う。
「貸すのは嫌です。あげます」
「えっ?」
「お姉ちゃんに訊きました。成歩堂さん、まだ真実を追ってるんだって。このバッジ、それに役立つって成歩堂さん思ったんでしょ?」
「そうだけど、別に貸してくれれば、」
「あたしだって、何かしたいんです!成歩堂さんの為に!」
続きそうな言葉を遮り、強引に手の平に押し付ける。成歩堂の手はややカサついているように思えた。
「成歩堂さん」
吃驚しているような成歩堂の顔を覗きこみ、茜が言う。
「科学捜査の力が欲しくなったら、いつでもあたしの所に来て下さいね。警察がダメって言っても、あたししますから!」
「そ、それはだめだよ」
「じゃあ個人的に思いっきり協力しますから!科学的に!」
昨日通販で足跡の型取るヤツ、頼んだし!と力強く言い放つ。
「……………」
成歩堂はその剣幕に、やや面食らったような顔だったが、やがて綻ぶように笑う。至近距離でそれを眺めてしまったので、茜がううぅ、となる。
「茜ちゃん、本当に変わらないなぁ……いや、いい意味で」
そう言って、手の平のバッジをニット帽に着ける。茜の笑顔も輝いた。
「決着は着けてみせるよ。茜ちゃんに協力してもらった訳だし」
科学的にね、と最後茶化すように付け加えた。
その時浮かべた笑顔は、茜が思い出として記憶に留めてある彼の笑顔と相違なく一致した。
そうとも、弁護士とか弁護士じゃないとか、本質はそこじゃないのだ。
彼は真実を暴く。それが全て。
今の成歩堂はピアニストで、そば屋とロシア料理店でピアノを弾いているらしい。
成歩堂さん弾けたんですか!と瞠目した茜だが、説明聞くとそれもはったりで通しているらしい。やっぱり成歩堂さんだ、と認識を改める。
彼の仕事状況に合わせ、茜は御暇する事になった。帰り際、「もしかしたら近いうちにもっと驚く事があるかもしれないけど、その時もよろしく頼むよ」と意味深な事を言われてしまった。首を捻る茜に、成歩堂はにこにこするばかりだ。
(えっへへー。成歩堂さんのお役に立っちゃったー)
それに浮かれている茜は、スキップでもしかねないご陽気だった。
これで科学捜査官になれれば万々歳である。茜はまだ目前に控えている悪夢(試験落選)を知らない。
(持ち帰るの、薬品にしようかと思ったけど、あのバッジにして良かったわ)
照れ屋なのか慣れて居ないのか、成歩堂は携帯のカメラで撮られるのがあまり好きでは無いようだ。強引に強請って嫌な子だと思われたら失態もいい所なので、彼に知られる事無く撮影出来るものを選んだ訳だ。しかしそれは盗撮だぞ茜。
(まぁ、結果的に成歩堂さんの為になるなら、あたしもそれで本望……)
ふふーんふーんと鼻歌うたって歩いていた茜は、この時自分が重大な過失を起こした事に気づいた。
(………。あの瞬間まで取っていた成歩堂さんの映像……一度家に持ち帰って、ダビングしておくべきだったぁぁぁぁぁぁ――――――ッッ!!!!!)
今ならまだ間に合うかもしれない!
茜は踵を返し、猛ダッシュした。あるまじき速さにて。
しかし、その瞬間に成歩堂は映像の全消去を行っていた。
茜が科学的に愕然となるまで、あと3分。
<終わり>
茜ちゃん話その2。
書いていていい感じに楽しいです。
でもみぬきちゃん出すとみぬきちゃんの方が前に出ちゃうんだよなぁ……ある意味仕方ないのか……?