何で土曜なのに出勤しなければならないんだ、と佐藤は誰に当てるでもない不満を胸中で渦巻かせながら帰路を足早に行く。
 何でも何も、佐藤の会社は取引先に海外が多く、その為日付の方が優先されるために土日に出る必要が生じる、というのは面接の時点で説明されていた事だ。勿論、その出勤した分は別の日に休みが割り当てられる。けれど、その日は当然ながら吉田は休みではないのだ。吉田と一緒に過ごせない休みなんて、佐藤には何の意味も無かった。
 不思議な事に、一緒に暮らしている今の方がこうした状況に不満を強く感じるようになった。会っている時間は格段に増えたというのに。
 まぁ、別々に暮らしていた以前は休日でも必ずしも会う予定が立てられた訳でもなかったから、前述したようにそんな時間は佐藤によって休日ではない。だから会社に出るのも苦痛には思わなかったのだが、今は確実に吉田と過ごせる時間を割いてしまっているのだ。正直、これはかなり頂けない。
 職場の雰囲気としては佐藤にとって悪いものではなかった。飲み会を断っても追究されないのは有難い。もっとも、どれだけ深追いされても決して応じない佐藤ではあるが。
 それでも、こうした休日出勤が嵩むようであれば転職も辞さない。そんな決意を半ば固めながら、佐藤は夕方の街を歩く。
 吸い込む空気が冷たい。吉田と過ごす季節が1つ過ぎ、そしてまた1つを迎える。


 今日の吉田の予定に外出は含まれていなかった筈だ、と佐藤は記憶している。近くのコンビニくらいにはふらっと行ってるかもしれないが、夕飯に近い今の時間なら確実に家に居るだろう。
「ただいま」
 自分が点ける前から明かりが灯っている玄関で、吉田の姿を確認する前に佐藤が口にする。それに返る返事は無く、代わりに「わぎゃっ」という小さな悲鳴とどすん、という低く響く音。
 吉田以外の気配は感じられないから、泥棒やら不審者の可能性はなさそうだ。音と声がしたのは寝室の方だと佐藤は判断する。そこへ通じるドアは完全には締め切っておらず、細い線を作るように軽く開いていた。ドアノブを掴み、改めて開ける。
「吉田? 何してんの?」
「あっ、佐藤! えっ、もうそんな時間!?」
 わたわたと吉田は立ち上がる。その足元には大きな収納袋が転がっていた。
 そしてベッドの上には冬物と秋物がごっちゃになって置かれている。この様子から導き出される事と言えば。
「衣替えしてたの?」
 事前に断っておくとまではいかないが、昨日までそんなそぶりは全く見せてもいなかった為、唐突と言えば唐突だ。その理由を吉田は述べた。
「うん、来週からすごく寒くなるってニュースで言ってたから、今の内に冬物色々出しちゃおうって」
 言いながら、吉田はちょいちょいと頭に手をやり、乱れているだろう髪を整えていた。好きな人の前、少しでも可愛く見せたい、という仕草がいじましい。
「それなら、俺が帰るまで待っていれば良かったのに」
 佐藤は嘆息したい気持ちを抑え、タンスの上部に目をやった。今は空っぽなそこにこそ、床に点在する大きな収納袋が納められていたのだ。佐藤なら小さい踏み台で難なく取り出せる位置ではあるが、小さい吉田には大変な重労働だっただろう。中に入っているのは羽毛ジャケットや羽毛毛布で、軽いと言われる羽毛でも掛かる重量は中々のものだ。実際、吉田は抱えきれずに落としてしまっているし。
 佐藤の言わんとしている所を察したのだろう。だって、と吉田は指同時を弄りながら言う。
「佐藤は仕事だったんだし……」
 だから休日であった自分の務めであると吉田は思ったらしい。
「仕事があったって、何も出来ない程疲れてる訳じゃないんだしさ。ほら、」
 疲れていない事を証明したいのか、佐藤は吉田をひょいと抱きかかえた。「うわっ、ちょっ、なにっ、」といきなり抱きあげられた吉田は慌てたが、その体制のまま頬にキスされてしまい、動きが止まる。
 ホントに慣れないよなぁ、と佐藤にしてみれば十分スキンシップ内のキスにも真っ赤になって固まる吉田の初心さを微笑ましく、愛しく思う佐藤だ。
「片づけるのは後にして、先に晩御飯食べよう」
 佐藤が言うと、吉田もうん、と頷いた。
「今日はカレー作ったんだ」
 吉田の作るカレーは母親直伝である。店では決して味わえないものなので、佐藤のお気に入りと言ってよかった。玄関に入った時点でその献立には気づいていたので佐藤は空腹も感じている。
「いいね、たくさん食べたいな」
「うん、一杯作ったからおかわりも沢山出来る――って、」
 それまで普通にやり取りを交わしていた吉田だが、いつまで経っても抱き上げられたままの状態に不穏なものでも感じ取ったようだ。微妙な表情になる。
「お、降ろしてくれないと準備できない!!」
「そう? やってやれない事もないと思うけどなー」
「何言って……だから降ろしてってば――――!!」
 そのまま、寝室を出てキッチンへと向かう佐藤に、吉田は足をバタバタして抵抗した。


 結局、抵抗の甲斐はあったのかなかったのか、コンロの前に立つまでの間、ずっと佐藤に抱きかかえられっぱなしだった。もう、おちょくってばっかり!とプンスカしながらも吉田は夕食の用意を整える。カレーを温めなおしがてら、サラダを作っている。レタスにキュウリにトマト、と彩りよく並べ、最後にかけるドレッシングは市販のものではなく、自分で調味料を混ぜて作る。つい最近、自分でも作れるドレッシングのレシピを見つけ、それが思いのほか簡単だったのでちょっと吉田の中でマイブームとなっていた。白ワインから出来るビネガーで作るのがポイントらしい。
 シンクの前をちょこちょこ動いてサラダを作っていく吉田の様子を、佐藤はカウンター式のテーブルから頬杖ついて眺めていた。自分の拵えた食事を吉田が美味しそうに食べてくれる様子を見るのは佐藤にとって幸せなひと時であるが、こうして自分の為に吉田が食事を作っている光景もまた同じくらいの幸福に満たされる。まさかこの自分が食事の時間に喜びを抱こうとは、幼少の頃にはそれこそ夢にも思わなかった事だ。人生、何が起こるか本当に判らない。とりわけ、自分と吉田が出会い、こうして想いを交わすようになるなんて、それこそ奇跡としか言いようが無かった。
「ん、出来たよー」
 佐藤がカウンター部分に腰かけているのを、夕食を待ちわびているのだと思った吉田はやや急ぎ気味でカレーを差し出した。確かに待っていたには違いないが、食欲を満たしたいからでもなかったのだが。相変わらずちょっとずれている吉田だが、苛立ちよりも可愛さしか感じられない。
 カレーにはただの白飯ではなく、麦ご飯が使われていた。純粋に料理の腕、栄養の知識は佐藤の方が上である。けれど、吉田も自分に出来る範囲で精一杯を務めている。この麦ご飯はその一例だ。麦を混ぜるとただの白飯よりも栄養が高くなる。
 真ん中にサラダの入ったガラスの器を置き、無糖のアイスティーを淹れた所でお互いに対しいただきます、と手を合わせる。
「わっ、熱ッ!!」
 早速一口を頬張った所で、吉田が目を白黒させながらアイスティーに手を伸ばす。本当に出来立てだった為、ほぼ冷める事もなかったようだ。舌を火傷していなきゃいいけど、とちょっと心配しながらも佐藤もカレーを口にした。
 うん、美味しい。
 辛さは相変わらず抑え気味だけど、とそこがいかにも吉田らしくて、食べながら口元が緩んでしまう佐藤だった。


 食器洗いは佐藤が担おうと思ったのだが、そこも吉田がかたくなに自分がするから!と言い張ってシンクに近寄らせてもくれなかった。それじゃあ、と大人しく引き下がった佐藤は寝室へ向かい、衣替えの続きに手を付ける。すっかり片づけてしまったら、また吉田がむくれるんだろうなぁ、とその時をむしろ楽しみにしている佐藤だった。吉田は怒った顔も可愛いのだ。
 傍目多く散らばっているように見えたが、所詮は2人分の衣類である。入れ替えはすぐに終わった。吉田が外出時――言ってしまえばデートの時によく着ているコートを手にし、その小ささにも何となく笑ってしまう。妙な皺がつかないようにハンガーにかけ、クローゼットに仕舞った所で吉田が顔を出した。
「あっ! んもー、佐藤はしなくても良かったのに!」
 案の定、佐藤の想像通りに、けれどそれ以上に可愛らしく怒りながら吉田も寝室へと足を踏み入れる。
「だって吉田が相手にしてくれないからつまんなくて」
「だったらテレビとかでも見てればいいのに」
「特に見たいのも無いし、吉田と一緒じゃないとやっぱりつまらないよ。
 ていうか、テレビよりテレビ見てる吉田の方がよっぽど面白いし」
「それ、どーゆー意味だ!?」
 プンスカを通り越した吉田の怒りように、佐藤は自分が原因ながらまぁまぁ、と諌めた。
 と、そのタイミングで電子音でのオルゴールの音色が寝室の中にまで及ぶ。
「あ、風呂沸いたみたい」
 佐藤に対し怒髪天を突いていた態度をコロリと変えて吉田が行った。皿洗いが済んだ時点でスイッチを押していたのだろう。
 丁度寝室に居る事だし、と下着とパジャマを取り出し始める。おそらく、この後にでも吉田は「先に入ってて」と自分に言うのだろう。そう踏まえて佐藤が先に切り出す。
「なあ、今日は一緒に風呂入ろ」
 まさに吉田が言おうと口を開いた時だった為、その口はセリフを発するに適わず、ぽかんと開きっぱなしになってしまった。
 そしてその後、じわじわと、そして急速に顔が赤く染まる。
 あー、うー、と意味のない音を喉から出し、覚悟を決めたようにこくん、と頷く。察する分には、吉田も折角の休日に佐藤が一緒じゃない事に多少は詰まらない思いを抱いていてくれたみたいだ。でなければ、こうもすんなり頷いてはくれまい。
 じゃあ早速、と浮足立つ気持ちを抑えながら、佐藤は吉田の背中を押すように浴室へと向かった。


 吉田は入浴剤に特に拘りはない。けれど、ただのお湯よりは何かが入っていた方が良いな、という感覚はある。
 それを知ってか知らずでか、艶子なんかはちょいちょい贈ってくれたりもする。海外遠征の多い彼女からは日本では手に入らないような、珍しいものをくれるので吉田もちょっと楽しみににしていた。
 しかし今日の入浴剤は佐藤が用意したものを入れる。粉末状の入浴剤がさぁっと湯に混ざる。そうして、湯気と共に芳香が天井に向けてふわりと立ち上る瞬間が、吉田は好きだった。
「ん? 何か、知ってる匂いだな」
 くん、と鼻を動かして吉田が言った。ちょっとスパイシーのような、けれど本物の香辛料ほどには鼻腔を刺激しない。
 何だっけ~、と吉田はうんうんと考える。佐藤は勿論香りの正体を知っている訳だから、吉田がどんな答えを導くのか、わくわくして見守っていた。
 首を傾けていた吉田が、急に晴れやかな表情を浮かべる。どの香りかを思い出したのだろう。嗅覚というのは記憶と深く結びついているから、視覚や聴覚に比べて思い出しやすいのだろう。
「判った! これ、ショウガの香りだ!」
「当たり」
 自信はあったようだが、改めて正解だと認められた吉田は「やった!」と浴槽の中ながらにガッツポーズを決める。
「体を温める食材で、日本人はショウガが一番良いんだって」
「へー、トウガラシとかもよく温まる聞くけど」
「トウガラシだとちょっと強すぎるんだよな」
 食べたら口の中がヒリヒリするだろ、と判りやすく述べると吉田もなるほど、と納得したようだった。
 吉田がショウガの効能を思い知るのは浴槽から出た後だった。風呂から上がり、普段なら引いている熱が今でもぽっぽと体を芯から温めている。持続性があるのは有難い。、風呂から出てもすぐには寝ないで、そのままベッドやリビングで他愛も無い事を喋ったりして寛ぐ時間があるからだ。それを過ごして今日も良い日だった、と安らかな心地で眠りにつける。
 冬の間はずっと今日の入浴剤にしてもらおうかな、と佐藤に髪を拭かれながら吉田はそんな事を思った。
 そして、佐藤もまた、吉田の肌で入浴剤の効能を実感していた。背後に居る佐藤からは吉田の顔色は伺えないが、代わりに目の前にあるうなじはほんのりと来い桜色に染まっている。そして、それがずっと引かない。
「………………」
 美味しそうなその色合いに、佐藤は堪らず、といった具合で唇を落とす。途端、ぎゃっ!と吉田がはねた。
「な、な、な、何!」
「んー、」
 わたわたと暴れる吉田を押さえ、佐藤は鼻にかかったような、甘えたような声を出す。職場での知り合いや、あるいは施設で知り合った旧友達でさえ、今の佐藤の態度を見たら度肝を抜かすかもしれない。が、吉田には結構慣れ親しんだものでもある。
「ねえ、しよ」
 かなり端折った言い回しだが、そこが通じない程吉田も鈍くは無かった。
「え、え、えっと……」
 あわあわ、とパジャマの胸元をかき抱く吉田に、その耳に息を吹き込むように佐藤が囁いた。
「いいだろ? 最近ちゃんとしてないし」
 直接的な意味をあらわす単語は出されないものの、それでもある種ダイレクトな物言いに、吉田は声も出せずにぎゃーっ!と心の悲鳴を上げた。
「そっ、そ、そーゆー事言うなッ!!
 それに!してないって程でもなかったじゃん!!」
 羞恥で若干目を潤ませて言う吉田に、佐藤は軽く肩を竦めさせた。
「あれくらい、カウントの内に入らない」
「ま、マジか……!」
 認識の差に、吉田は戦慄を受ける。吉田の言う通り、確かにまるきり手を出さない訳でもなかったが、佐藤としては最後までちゃんとしてそこで初めて回数を数えたい。
「まぁ、どうしても吉田が嫌だって言うならしないけど……」
 佐藤は語尾を濁すように、思わせぶりに呟く。そしてその思惑通り、吉田は真っ赤な顔のまま、困ったように眉を下げていた。
 もっとも、佐藤もまるきり嘘を言っている訳では無い。どう足掻いたって、あの行為は受け入れる側の負担の方が大きくなる。ならばその方の都合に合わせるのが筋というものだ。ともすれば片方しか快楽を得られない独善的なものにもなってしまうから、そこは佐藤も慎重に運びたかった。
「……い、嫌、っていうか……」
 あうあう、と沸騰しそうな顔色で吉田は言う。
「明日まで気温もそう低くないし……いい天気っぽいから、佐藤と出かけたいなって……」
 正直、佐藤が満足するまで付き合うとなると、その翌日は普通に動けるようになるまで半日はかかる。風邪や病気の時とは違う倦怠感が纏わりつくし、あと単純に睡眠不足だという面もある。
 吉田だって出来るなら佐藤が満足するまでしてあげたい。こういうのって体力つければ良いのかな~と事情が事情な為、相談も出来ずに一人で悩む吉田であった。
「うん、出かけるのもいいな」
 くるり、と背後から抱いていた姿勢を替え、正面から抱き合う。そして、そっとベッドの上に横たわらせた。
 着たばかりのパジャマのボタンが外されていく。今日が初めてでもないけれど、毎回その時と同じくらいドキドキしてしまう。佐藤は最後までと言っているが、吉田の感覚だとこれだけでカウントしたいくらいだ。
「吉田」
 佐藤が優しく呼びかける。それは始める合図のようだった。
 すっかり吉田の上着は肌蹴られてしまった。素肌がむき出しになっても、さほど寒さを感じないがそれが入浴剤の為か、それとも激しく動悸している心臓の為か、吉田には判断の出来ない事だった。


<END>