イベントの日はすでに決まっていて、そしてその日に時間が取れるとも限らない。こんな時は、所詮雇われるだけの勤め人の悲哀さを感じてやまない。
 そんな事を仲間達に相談すれば、ここぞとばかりに本格的な開業――というか開店を進められるから、ある種の禁句である。
 バレンタイの付近は丁度繁忙期になってしまい、吉田へのチョコレートは今年は既製品になってしまった。それでも、吉田の好みを完全に把握した佐藤の、厳正なる判断を経て選ばれたチョコレートは、吉田の舌鼓を大いに打った。
 けれどやはり、その顔をさせるのは自分で作った物が良くて。
 イベントにかこつけるのはただの口実だ。だから、本当は時期や季節も関係なく贈ってやりたい。いや、贈らせてほしい。
 その幸せそうな顔を見て、自分は天にも昇る心地になれるのだ。


 吉田の生活範囲はここから外れてており、佐藤との予定が無い時に立ち寄った事は無い。だから、吉田はここが開店している時しか見た事が無い。強いて言うのなら、佐藤と一緒に訪れて店を開く場合もあるので、無人の状態をまるで見ていない訳でも無いのだが。
 今夜は佐藤からの誘いでここへ訪れた。吉田の予定を聞かれ、都合の良い日はと尋ねられいつでも良いとメールの返信を返す。すると、そこから一番近い週末でと約束を取り付けた。今日がその日である。
 吉田はもう前日から浮き足立って居た。だって、絶対美味しい物が待っているから。
 この店は、吉田の為の店である。だから、吉田の好きな物、美味しいもので構築されている、というのは本人だけが知らない事実だった。

「いらっしゃい」
 一応「店」なのだからと、佐藤がそう言って出迎える。バーテン服に、前髪を後ろへ撫でつけた格好の佐藤は、ここでしか拝められない。
「外、やっぱり寒かったか?」
 そう言いながら、佐藤はすかさずグリューワインを差し出す。吉田の味の好みに合わせ、ナツメグやクローブの香辛料は控えめに、ハチミツはたっぷりと、カルダモンは欠かさずに。付け合わせにはシトロンのマカロンを出した。
「うん、昼間はまだ良いんだけど、夜になるとぐっと冷え込む」
 コートをハンガーにかけ、席に着いた吉田はまずはグリューワインの香りを楽しむ。温められた事で芳香と一緒に立ち昇る湯気だけで気持ち良くほろ酔い出来そうだ。
 フェルトで包まれた耐熱グラスをそっと持ち、ふうふうと息を吹きかけてそーっと口の中に流し込む。喉を通り、胃に届く。そうして体中をぽかぽかと温めた。一緒に出されたシトロンのマカロンは、しゅわしゅわとした口当たりが良い。
 入った時は強張っていた小さな体躯が、グリューワインで温まり綻んできた頃を見計らって佐藤が徐に言い出す。
「バレンタイは過ぎちゃったんだけど……まあ、その延長上でって事で」
 カウンター内の下部に取り付けられている業務用冷蔵庫から、佐藤がスマートな仕草で取り出すのは光を弾く表面をしたチョコレートケーキである。が、ただのチョコレートケーキではないのは、その断面を見て吉田はすぐに解った。単純にケーキを思い浮かべると、表面を覆うもので側面まで塗っている姿を連想するだろうが、このケーキでそれをやるのは頂けない。その綺麗な断層は、むしろ立派なデコレーションとも呼べるからだ。
「オペラ?!」
 思わず吉田は叫んでいた。佐藤は、正解というようにゆっくりと頷いた。


 オペラ、とは歌劇の事では無い。佐藤が手にする複数のスポンジやクリームを重ねて構成されるチョコレートケーキの事だ。けれど、その名の由来はオペラ座の施設を模した姿とも言われている。
 何とも艶やかなチョコレートのグラサージュを始めとし、アーモンドの風味が香しいビスキュイ・ジョコンダ。それでガナッシュやバタークリームを挟んでいる。その層が口の中で繰り広げられるハーモニーは、えも言われぬ恍惚である。そして、このケーキの欠点と言えば、小さい事。むしろそれは提供の問題であるが。
 美味しいのだから、もっと一杯頬張りたい。いつだったか、そう零していたのを佐藤は取り逃がさなかった。
 そして、この店で出されたという事は、つまり――
「作ったの!? これ!!」
「まあね」
 いつもの笑みで応える佐藤に、吉田はどひゃー、と変な声で驚きそうになった。料理が達者な佐藤の手伝いを、吉田もちょっとだが手助けする事もあり、だから完全に調理に関して無知という訳では無い。料理を見て「これはこの手間がかかりそうだ」という辺りくらいは着けられる。そしてこオペラというケーキは、層を作る為の複数の生地やクリームが必要なのだ。単純に考えてその手間は普通のケーキの2倍3倍だろう。それをこなしてしまうとは。佐藤の腕をまた改めて見せつけられた。
 けれど、佐藤だってそんなに無敵超人という訳では無い。手は二つしかないし、時間を引き延ばす事も出来ない。だから、時間的余裕の無かった時には作れなかったのだ。
「ホントは、バレンタインに間に合わせたかったんだけど」
 そう言いながら、四角形のケーキをカットして差し出す。店で出されるものより、うんと幅広にカットして。
 そっと吉田の前に差し出せば、わー!と出さずとも聴こえる声がする。
 早速、ケーキ用のフォークを持って食べようとする吉田なのだが、その次の行動に中々移らない。飲み物でも欲しいのか、と紅茶でも用意しようかとする所に、吉田が言う。
「な、なんか、勿体なくって……!」
 凄く綺麗で、凄く大きくて、凄く美味しそうで。食べたいのに、逆にその気持ちのせいで胸がいっぱいになってしまったような。
 いつになっても、いつまでも可愛い吉田の素行に、佐藤の方が口を綻ばせ、カウンターから身を乗り出し、大きめの一口分をフォークに刺す。
「ほら、アーン」
 にこっと絵顔で差し出す。その姿に、吉田はものすごい既視感に見舞われる。原因は突き止めるまでも無く、過去、そうされ続けてきた記憶からである。そして、こうした佐藤がその手を引っ込めた試しが無かった。
 ちょっと大きいんだけど、と吉田は気にしつつも、あ、と大きく口を開ける。上手に食べさそうとしているが、やはり口のサイズよりも少しだけ上回る為、口の端をチョコレートが汚して行った。
 それでも口の中に収めた分を、吉田は口全体で味わい、体中で歓喜を感じた。なんて、美味しい!!!ん~~、と唸るだけが精いっぱいだが、その表情が何よりも弁舌だった。
 吉田はとても幸せだった。いつもは、長く味わうためにちょっとづつしか舌の上に乗せられない所を、今日は存分に頬張る事が出来る。しかも、まだある!こんなに幸せで良いんだろうか、とすら思う吉田だった。実際、チョコレートには陶酔感を催す成分も含まれてはいるが。
 吉田が最初の大きな一口目を味わっている間、佐藤は手際よく紅茶を淹れていた。しっかりとした味のチョコレートには、アッサムを選んだ。紅茶は油分を洗い流してくれて、次の一口をまた新鮮に味わせてくれる。
 最初は佐藤の手から食べた吉田だが、その後は勿論自分の手だ。そしてとうとう、最後の一口だ。名残惜しそうにちょっと眺めてから、ぱくん、と最初と同じように口の中に収める。そして、最後にぺろりと舌で口に回りを掃除した。化粧っ気の薄い吉田は口紅なんて引かないから、こんな真似が今でも出来る。本当に変わらなくて、けれど想う気持ちばかりは年々膨らんでいる。まるで雲のようにふわふわで、それに乗ったらどこまでもどこまでも飛んで行けそうだ。
「うーん、全部食べてしまった……」
 紅茶を啜りながら、吉田は空になった皿を見つめ、いっそ恨めし気にすら言う。
「また、作るから」
 そう言って手を伸ばし、吉田の髪に触れる。グラサージュしたチョコレートより、余程艶やかなそれ。甘い香りで誘いを掛けるのは、チョコレートも吉田も同じだな、と佐藤は思っている。
 今日はレシピ通りのオペラだったけど、次はもっと吉田の好みに合うように改良しよう。ビスキュイ・ジョコンダに染み込ませるリキュールも種類は豊富にあるし、挟むガナッシュやバタークリームの配分も。そうしてもっと吉田に沢山の「美味しい」を感じて貰いたい。相手が吉田だからこそ、思う。
 だからやっぱり、「店主」には向いていないんだな、俺は。
 こうして仕事が忙しくなり、吉田に会えない時が続くと、ジャック達の悪魔の誘いに耳を貸しそうになるが、吉田に振る舞う場に立つと痛感する。吉田の好きな味を追求したいのだと。実際に店を開店したとして、それだけの集中出来なくなるのだから、そっちのストレスの方が余程膨大だ。今後とも、ジャック達の軽口は聞き逃すに限る。
「じゃあ、今度は一緒に作ろう。作るの、凄い大変そうだし」
 佐藤と労いつつ、吉田が言う。ああ、なるほど、それは素晴らしい事だと思った。
 佐藤は作る喜び、吉田は食べる喜びを知っている。それは、決して片方にだけ留まる事では無く、相互に干渉していく。 
 そうして、何倍も何乗にも幸せにに美味しくなって行くのだ。
 早速二人はその日の為の予定を立てて行く。当日が絶対、今日よりも良き日になるのを思いながら。



<END>