この季節は寒くて嫌だけれど、この時期は好きだ。何せ、自分の好物が至る所に蔓延るのだから。
 去年までは傍観者としてこのイベントを楽しんでいたが、今年からは当事者だ。自分が何を食べよう、よりも何を贈ろうという所に悩まなければならない。
(やっぱ手作り、かなぁ)
 とても保持する度胸が無くて、申し訳ないと思いつつも立ち読みで見たティーンエイジャー向けの情報雑誌を見れば、手作りの文字が躍る。何となく、市販の高いチョコは自分用で、恋人に送るのはやっぱり手作りが主流のようだ。ひねくれた考えをすれば、慣れてない素人が作る物より、プロ中のプロが作った物の方が良いかもしれないと思う。けれど、自分の想いを伝えるのにやはり市販品では役不足か。
 そりゃぁ、自分でも貰うとしたら手作りが良いけれど、と吉田は自分に置き換えて考える。佐藤から手作りのチョコなんて貰えたら、嬉しくて嬉しくて、想像だけでどうすれば良いのか解らなくなるくらいだ。そしてきっと、佐藤はそんな自分を見越して手作りの品を贈ってくるのだと思う。慌てふためく自分を見て楽しむために。
 そうなった時のせめてもの対処として、こちらも手作りで迎え撃ちたい。せめて条件が同じなら、まだその場で落ち着いていられる……と、思う。
 けれど手作りするにあたって、何を置いても解決しなければならないのは、作るための場所と時間の確保だ。何せ吉田は佐藤と付き合っているのを両親にも親友にも秘密にしている。そんな立場を隠しおおせたまま、自宅でチョコ作りはちょっと、いやかなり難しい。素知らぬ顔して作ってしまっても良いけれど、あの母親はそういう所は目敏く突いてくるだろうし。
 どこか、バレンタインの少し前くらいで上手い具合に出掛けたりはしないだろうか。純チョコ製品じゃなくても、物を選べば少しは保管が効くだろうし。今だって、こうして部屋でバラエティ番組見てるようなふりしてるけど、頭の中は佐藤に贈るチョコの事で一杯だ。普段は突込み所の多すぎる両親のいちゃつきにも気にならない程に。
「もうすぐバレンタインだね」
 そう言ったのは父親だ。バレンタイン、という言葉に、吉田がドキリとなりながら反応してしまった。
 両親のバレンタンは、その時によってバージョンが変わる。当日、本人が家に帰れるのならその時チョコも渡すが、出張なので居ない時はまずメールと電話(どっちかではなく、両方)チョコレートは帰って来てから。そして、時間が取れた時は2人してディナーである。今年はどのパターンになるだろう、と吉田も子供としてそれなりに気にした。
「今年のバレンタインだけど、母さんの手作りが良いなぁ」
「あら、そう?」
「うん、もう用意してたなら、良いんだけど」
「ううん、今年のはまだよ。そうね、ずっと買った物ばかりだから、今年は手作りにしましょうか」
 自分の要望はまず跳ね除けるのに、父親のはすぐに聞き入れるんだなぁ、と両親のやり取りを眺め、子供と夫の立場の違いを思い知った。結局は、自分は愛される順番で2番目だ。でも、それが一番望ましい形に違いない。
 自分の望みが叶って、元から綻ばせていた父親の表情がいよいよ締りを無くしていく。嬉しくて仕方ないと、吉田でも見て解るくらいだ。
 結婚する前はよく手作りだったね、と頭の中のアルバムを捲りながら父親が言う。中には記念日を忘れた事で大喧嘩に発展するそうだが、この夫婦に限っては少なくともそれが喧嘩の原因になる事は無いだろう。何せ自分の父親と来たら、その時着ていた服までも思い出せるのだから。
 いつものように思い出話なんだか惚気話なんだかで花を咲かせている両親の会話を聴いて、母ちゃん、手作りなんてしてたのか~、とある意味他人事のように思っていた。その認識が、それこそチョコより甘かったのは次の週末に知る事になる。
「お父さんに手作りのチョコ作るから、あんたも手伝いなさいね」
「え、えぇっ!?」
「良いじゃない、日曜には予定が無いんでしょ?」
「そ、そうだけど、」
 土曜は佐藤の部屋に行くが、日曜日は空白である。その週末の予定を母親に聞かれ、答えた後に言われたものだから吉田に逃げ場は無かった。久しぶりに腕が鳴るわ~、と母親は今から気分を盛り上げている。逆に吉田のテンションは下がる。日曜は母親の雑用係り決定だ。
 そして、その日曜日。
 テーブルの上には普段は並ばない品々の数。卵、小麦粉、バターにチョコレート。これを見て、余程ひねくれたりしなければ、チョコレートケーキを作るのだと想像できる。
「ココアじゃなくて、ちゃんとチョコを使うの」
 母親が材料と一緒に置いたのは、1冊の本だ。お菓子の作り方が書かれた、使い古された感のある表紙だ。結婚前に手作りチョコを貰ったと父親は言っていたから、これは結婚前から持ち続けていた物だろうか。年代が籠っている。
「まずは、チョコを細かく切ってね」
 言われて、吉田は包丁を持って板チョコをみじん切りの様にして切って行く。切る度にチョコレートの芳香が届き、つまみ食いしたい衝動にかられた。
「そして湯煎ね」
 本のページを捲り、チョコの湯煎のやり方を記した所を出す。へぇ、これが湯煎かぁ、と吉田は興味深くそのページを覗き込む。直接お湯で溶かすのではなく、お湯の熱で溶かす。普段の料理ではあまりしない事だ。吉田はまずやった事が無い。
 これで本当に溶けるのかな?と半信半疑な吉田だったが、ボウルの中にチョコを入れると、たちまち原型を無くしてどろどろの液体へと変貌していった。おお、すごい、と感心してしまった。
「じゃあ、それこっちね」
 吉田がチョコを担当し、母親が生地を作っていた。おそらくは卵の黄身が生み出した優しい黄色をした生地の中、吉田は溶かしたチョコを注ぐ。そしてすかさず、母親がダイナミックな手つきでチョコと生地を混ぜる。泡立たせた後の作業はとにかく回数少なく済ます必要がある。かき混ぜた時に含ませた空気を抜かない為だ。
「後は型に流して―――」
 言いながら、大きなボウルを傾ける。その先にはハートの形をした型が、大きいのが1つ、小さめのが1つ。今日、手伝う駄賃として出来上がったケーキは吉田の分も含まれる。自分だって作業に加担しているのだから、駄賃も何も無いと思うけど、貰えるのなら貰おう。佐藤に手作りのを上げたかったから、丁度良い――のだが。
「ねえー、ハート以外に型って無いの?」
 手作りでハートだなんて、色々盛り過ぎである。恥ずかしいったらない。けれど、母親の返事はきっぱりとして「無い」の一言だった。
「だって、お菓子を作る時ってお父さんにあげる時だけだったもの。だったら、ハートにしなくちゃだめじゃない?」
 どんな理屈だ、と吉田は母親に胸中で突っ込んだ。ともあれ、生地を流し込まれた2つのハートの型は、オーブンの中へと納まった。全てが終わった訳では無いにしろ、まずは一休みである。と、思ったらこの時間の間に後片付け、と休む暇もなく流し台の方へと連れて行かれた。
「ちゃんと片づけまで入れての作業だからね」
「うへぇ~~」
 ケーキ作りで使われた道具は思いのほか多かった。色んなサイズのボウルに、泡だて器。ハンドミキサーも使ったから、それも分解して。
 ケーキに限った事ではないが、お菓子作りというのは手間だ。そうして出来上がったものも、栄養面でさして重要なものでは無い。
 けれど、だからこそ普段の食事では得られないものがそこにあった。

 まずは予定通りの時間で取り出してみる。香りは表面は上々。さて中身は、と母親は手にした竹串をす、と刺す。とりだした竹串には、何もついてはいなかった。と、いうことは。
「うん、完成ね」
 母親の発言により、目の前のケーキは完成品となった。今まで菓子類をまるで作らなかった訳じゃないが、こういうスポンジケーキ系を作るのは初めてだ。いつもは、パウンドケーキやカップケーキが多い。
 室内には焼きたてのケーキから漂うチョコレートの香りが充満している。鼻孔を擽る芳香を、口内でも味わいたいと食欲中枢が刺激され、唾液が分泌されるがごくり、と飲込む事で逆に抑え込む。これは自分で作った物だが、しかし佐藤の物なのだ。
 箱に詰めるにも、まずは少し放置して粗熱を取らねばならない。焼いている間に片づけを済ませたため、後はお茶でも読んで待つだけでも良い。作業中に全てを済ませば、終わった後がのんびり出来る訳か。吉田は学んだ。
「あのケーキ、どうするの?」
「え、」
「誰かに渡すの?」
「う、ううん、友達と食べる……」
 母親の問いかけに答える。声や態度に動揺が現れてなければ良いけど。吉田にとってはまさに渡りに船のケーキ作りだったけど、母親にとっては単にお手伝い要員の筈だ。
「へえ、そう」
 吉田の懸念を余所に、母親はあっさり頷いてそれ以上追究してこなかった。何か、普段と思えばあっさり過ぎる態度には不信感を抱くが、へたに突いて蛇を出してもつまらない。
 とりあえず、今はおやつにしよう。出来上がったケーキには手を付けないで、吉田はクッキーの缶を取り出した。


 さて、バレンタイン当日――その日は、本命以外からのチョコ受け取り拒否を佐藤に公言された女子の悲しみや怨念がそうさせたのか、交通機関に影響が出る程の積雪を見せた。ケーキ、凍っちゃうんじゃないかな、というくらいの心配を吉田に抱かせるほどに。
 幸いにもケーキは冷凍されなかった。佐藤の部屋でこっそり蓋を開けて確認し、吉田は妙な安心をする。このケーキを渡すのは、もうちょっと後だ。先に渡したいものがあると佐藤が言った。けれど、それは佐藤からのチョコでは無い。
「皆からも来てたぞ」
 小包を佐藤はテーブルに置いた。皆、とは佐藤の居た施設の皆である。そこには艶子も含まれる。生憎来日までは叶わなかったが、この日のイベントを吉田に贈りたい気持ちは強かった。
 佐藤の家に、吉田宛ての物が届く。皆の認識が良く解る行為だ。
 開けるのが吉田の務め。海の向こうからはるばるやってきた包を、丁寧に開く。
「わ、可愛い!」
 吉田が声を上げる。そこに入っていたのは、チョコレートを模した雑貨やアクセサリの数々。ノックボタンにチョコレートボンボンの模型がついたシャープペンやボールペンに、板チョコがプリントされたメモ。その他、マグネットやシールや、とにかくいろんなものが入っていた。けれど、本物のチョコが入っていない。
 吉田も、彼らとの付き合いもそれなりに出来て来たので、要するに本物のチョコは佐藤に貰うと良い、という事なのだろう。
「はい、吉田。チョコ」
 吉田が包の中を一通り見終わった後、佐藤が手渡す。ありがとう、とちょっとの、いやかなりのくすぐったさを感じながら、吉田は佐藤の視線に促されて箱を空ける。
 そこにはたっぷり入ったトリュフが入っていた。早速とばかりに1つ摘まんで、ぱくりっと食む。一口で食べてしまえる物は一口で食べてしまう吉田だ。
 パリっとした薄いチョコの膜の下には、とろりとしたガナッシュが舌の上に蕩ける。チョコレートの香りに混じり、別の香りを感じる。
「何か、花みたいな匂いがする」
「ああ、ジャスミンだよ。前外でお茶した時、良い香りだって言ってたからな」
 その時も、そう言った時も吉田は覚えていたが、そんな些細な事をくみ取ってまで作ってくれたとは。箱の外装からチョコ自体の見た目、そして何より味もプロが作った物のようだが、紛れもなくこれは佐藤の手作りだ。だって、佐藤の味がするから。
 佐藤の部屋に来る度という訳でもないが、週末に訪れる分には毎回食事が振る舞われる。吉田も作る事もあるし、二人で作業に取り掛かる事もある。けれどやはり、佐藤が作る事が多かった。色んな料理を作ってくれて、その度に舌を巻く程美味しいのだが、その根底には同じ味のようなものを感じる。それが佐藤の味だった。このチョコは、それと同じものを感じるのだ。
 佐藤の方が腕が上なのは解り切った事だが、こうなると自分のケーキが粗末に思えてくる。いや、そんな風に思ってはいけないのだろうが、何せ自分のケーキときたら、味もそっけもないスポンジのままだ。せめて表面にチョコ掛けすれば見栄えも良かったかもしれないが、生憎そんな技術は持ち合わせていない。
 それに折角母親と作ったものだし、余計な事をしたくないという気持ちもあった。ここに来て迷っても仕方ないと、吉田は持って来た小箱を手渡す。リボンには、佐藤に似合いそうなコバルトブルーを選んだ。自分では上手く結べたと思っている。
「開けて良い?」
「うん」
 ちゃんと聞いてくる佐藤の態度が胸を暖かくする。あげたものだから、佐藤のタイミングで開けてくれても構わないのだけど。
 その長くて綺麗な指で、白い箱をそっと開ける。わくわくとしているのが見て解った。明けた所で素っ気無いケーキが1つ入ってるだけなんだけど……、と居心地悪く身じろぎした。来年、頑張ろうと今から決意する。
「あっ、」
 中身を見た佐藤が声を上げる。ああ、どうしよう。こういう所では揶揄しない佐藤だけど、とそっと見上げると、そこには。
「ハートだ。嬉しいな」
 クラスメイトには見せない、佐藤の素の笑顔があった。目を弧の字にして、無邪気に嬉しそうに。佐藤は自分自身に対し、笑うのが下手だという認識を持っているみたいだが、この顔を見たとしたらとてもそんな判断は下せないだろう。
「そ、そんなので良かった?? 間にも何も挟んでないんだけど……」
「あっても良いけど、無いからってそんなにがっかりでもないよ。
 他に飾りが無くても、吉田の気持ちが一杯だって十分解るから」
「……………」
 そーゆー事をさらっと言うな!!と言えない吉田はむぐむぐとチョコを食む。心なしか、さっきよりも口の中のチョコが溶けるのが早い様な。
 しばらく自分の文を食べるのに熱中してると、隣の佐藤が気になった。味、どうだろうか。味見が出来なかったけども。
 見れば、佐藤はケーキを見つめるだけで手を出そうとしていない。「食べないの?」と吉田は尋ねてみる。佐藤が甘いものがそう好きでは無い事は解っている。けれど、意外にベタなイベントが好きな佐藤だから、バレンタインにはチョコを贈ったのだ。
「食べたいんだけど……」
 うーん、と悩むような佐藤。
「ハートの形が崩れるのが勿体ない……」
「…………は、」
 そんな事をそんな真剣に悩んでいたのか。元から点の目が、もっと点になる。
「でも、手作りなんだから早く食べて貰わないと……」
 まあ、言わなくともそこは佐藤も解ってると思うけども。
 吉田はちょっと間を明けて、次の台詞を言う。
「また来年、作るから……」
 佐藤はこのままでも良いと言ってくれたけど、来年はもっと華やかに、デコレーションしたのを贈りたい。佐藤と居ると、彩りが増えるのだという事を、ちょっとでも表したくて。
「うん、絶対作って」
 吉田の言葉に、佐藤がにこ、と笑って言う。これはもしかして、言ったのではなく言わされたのだろうか。まあ、本心だから良いけども。
「とりあえず、写メ撮っておこう♪」
 携帯を取り出し、佐藤がチョコケーキを取る。機種替えしたのか最新機種である。佐藤の行動を見て、吉田があぁっと声をかける。
「あー、撮ろうと思ってたのに忘れてた……!」
 すでに中身も半分ほど無くなっており、綺麗な外装も剥いでしまった。留めておくより、早く中身を見たいという気持ちに知らない間に負けてしまったようだ。
 もう一度包み直しても変だろうしな……と、吉田はリボンを触る。吉田が佐藤に送ったリボンはコバルトブルーだが、佐藤から吉田へはサーモン・ピンクだ。これがこげ茶色の箱ととてもよくマッチしていた。
 そんな吉田を見て、今度は佐藤が。
「また来年、もっと良いのを贈るよ」
 ――そう言って、きっと来年にはまた同じような事を言ってるような気がする。
 そうしてまた来年また来年と、更新されてどんどん良い物になっていくのだろう。
 ようやっとケーキに口をつけ、いつもの表情になった佐藤を見て、よしだはそう思った。



<END>