今は勤め人と相成った2人の主な時間は、専ら夜である。あるいは朝早く起きて出勤前に優雅に時間を過ごしても良いが、2人とも夜、寝る前にのんびりと過ごしたい性質だった。どちらがどちらに合わせるでも無く、両方のリズムにあったこの生活は実に心地よい。
 そして、この部屋に越して冬を迎えるに辺り、吉田には小さな悩み事が生じていた。高橋とシェア生活をしていた空間から、吉田がこの部屋へ持ち込んだのは衣類を含めて本当に身の回りのものだ。その中に湯たんぽがある。金魚のカバーが着いた可愛い代物だが、これを使うか否かで吉田は頭を使っていた。
 何せ佐藤の部屋にあるベッドは、新進気鋭のデザイナーが作成したかとでも言うくらい、シンプルでスタイリッシュなものだ。余計な小物は必要無く、あったらむしろバランスを崩してしまいそうだ。それになりより、もはや付属品も要らないような仕上がりになっている。
 この、何とも格好良いベッドに、果たして湯たんぽなんて庶民的なものを入れても良いものだろうか。聞けば佐藤は良いよ、と言ってくれるだろうけど、吉田の懸念はもう一つ。そもそもの使う必要だ。吉田がかつて使っていた布団とは違い、このベッドの羽毛布団はとても軽く、そして周りの冷気をシャットダウンしてくれる。
 そして、何よりも。
 ドアが開き、佐藤が室内へと踏み込む。その背後にはすでに廊下の明かりは消されていた。今この家で、明かりが点いているのはこの部屋だけだろう。
 吉田が空けてくれたスペースに、佐藤も潜り込む。そうして吉田はいつも思う。今日はそれを口にしてみた。
「佐藤って、やっぱり温かい」
 少し開いた空間を埋めるよう、吉田がぴったりと佐藤の体躯に寄りそう。佐藤はベッドに入ってもまだ眠るつもりはなく、寝る前の読書の為に枕を肘の下に置いて俯せていた。
 一人でベッドに入った時、どんなに寒かろうと佐藤がそこに加われば、そんな寒さ冷たさも一瞬で吹き飛んでしまう。おかげで、湯たんぽは未だその役割も出番も全うする事は無い。
「ん、そう?」
 擦り寄る吉田の柔い体に気をよくしながら、佐藤は言われた台詞に返事をしてみる。すると、吉田は確信を持ってるようにうん、と頷く。
「やっぱり、筋肉があるからかな~」
 そう言って吉田は、パジャマの上からぺたぺたと佐藤の肩や腕に触る。目に見えて筋肉質では無いが、冬用のパジャマからでも解るように、その肢体は鍛え抜かれている。
「あ~、吉田はセクハラする~」
 ぺたぺたと触る小さな手に、こそばゆく思いながら悪戯心を覗かせ、佐藤がそう口遊む。途端に吉田が目を真ん丸にし、触っていた手をぴゅっと引っ込めた。
「そんなんじゃない!!!佐藤の馬鹿ッ!」
 場所が場所なので、吉田はぼふり、と布団の中へと潜ってしまう。カメというかカタツムリというか。そのまま寝てしまうのかな、なんて佐藤は枕だけの空間を見る。
「吉田だったらセクハラされても良いのに」
「だから、そんなんじゃないって!」
 吉田が顔を覗かせるのは案外早かった。佐藤の一言に、律儀に反応してしまう吉田なのだった。
 まあ確かに、吉田が指摘する所とは違うだろうが、セクハラでは無い。セクシャルでも、ハラスメント(嫌がらせ)ではないのだし。
 なんて思ってにやにやしていると、何やらその頭の中で妙な展開を繰り広げた吉田が、唐突に言う。
「ま、まさか佐藤! 会社でそういう目に遭ってんの!?」
「……はっ?」
 純情で単純で、扱いやすい反面それ故に時に佐藤の予想を大幅に外れる吉田でもあった。なんでそんな台詞が飛び出たんだろう、といっそ興味深く見守ると、吉田は佐藤にして突拍子もない事を言い始める。
「そ、そういう時、泣き寝入りはダメなんだからな!? ちゃんと、誰かに相談しないと!!」
「あのな……そもそも俺、男だけど」
 あまりに真っ当な事を言ってみる。しかし、吉田は。
「最近は男だとか女だとか関係ないんだってば!」
 逆に解ってない!と怒られる始末である。解ってないのはそっちだろうに、とある意味お互い様な事を佐藤は思う。
「吉田こそ、セクハラに遭ってないの?」
「へ? なんで遭うの??」
 佐藤みたいに整った顔をしている訳でも無しに。心の底からそう思っている吉田の頬を、ちょっぴり抓りたくなる佐藤である。
 突っ込んだ事は聞いていないが、吉田が勤める部署では女性の方が比率が多いらしい。けれど、男性が決していない訳でも無い。セクハラ云々はさておき、吉田の無垢で無邪気な優しさに、いつ誰が惚れ込んでしまわないとどうやって断言出来よう。
 心配だなぁ、と思いつつも、仮に告白されたとしても断る時はきっぱり断る吉田とも解っている。西田からの無意識の猛攻に、その都度その都度交わしていた経歴持ちだ。
 しかしあの頃と違い、今は社会的立場も持つ。それを振りかざしたりして強要しようものなら、それこそ跡形もなく消し去ってやる覚悟は決めている佐藤だ。どれだけ懇願されても容赦なんてしない。
「まあ、何かあったら、何でも言えよ」
 物騒な決意を胸に隠し、佐藤はおざなりのように言って吉田の頭を撫でる。何か釈然としないような面持ちでも、その手はしっかり受け止める吉田である。その掌の下、吉田の瞼がゆるゆると下がり落ちて行くのが見えた。
 眠るか、という言葉の代わりに、佐藤は寝室の証明を落とす。
 佐藤も寝る為に布団の中へと潜ると、さっきのように吉田が身を寄せて来る。暖を取っているのだと解る。
 こんな自分で温もりが取れるのであれば、何よりだ。
 しかし吉田は解っているのだろうか。さっきの様子だとその見込みは無さそうだが、吉田が佐藤を温かいと思うように、あるいはそれ以上に佐藤は吉田と居て温かく思う。
 すでに寝息を立てる吉田に、佐藤はそっと腕を回す。そうして、より自分の方へと寄せた。
 吉田と居ると、良く眠れる。
 自分にとって何よりの防寒アイテムだし、安眠グッズだ。
 そうして佐藤も瞼を落としかけた時、寝る前にキスをするのを忘れていたのを思い出した。直前に妙な流れの会話になってしまったのが良く無かっただろうか。
 起こしてまでするのは忍びない。今夜の分は明日の朝に加算しよう。
 そうして安らかな寝顔を浮かべる吉田の額に、佐藤はそっと口付けた。



<END>