あら、小松菜が無い、というつぶやきを漏らした時、吉田はそれが自分に降りかかった事とは思わなかった。
「ねえ、ちょっと買って来てよ」
「え~~、」
 台所から顔を覗かせた母親に、吉田は不満な顔と声を漏らした。何せ、外はまだ蒸し暑いのだから。出来うる限り出たくない。必要があっても出たくない。
「いいから、さっさと行く! それともアンタがご飯作る?」
 それを言われては吉田もぐうの音も出ない。大人しく、言われた通りに小松菜を買いに出掛けた。近くのスーパーだから、服装に時に気を遣わない。吉田は元々お洒落に無頓着であるが、近ごろはちょっとだけそんな意識が芽生えていた。1人の為だけに。そしてそれは、吉田自身の事では無い。


 商店街を抜けるようにてくてく歩いていた吉田は、とある地点で足を止めた。そして、目は釘付けになった。
 ゲームセンター前で屯している女の子達。おそらくは中学生くらいだろう年頃だ。流行を取り入れ、髪も服装も、実に煌びやかな装いをしている。単純にTシャツとハーフパンツの吉田とはまさに雲泥の差だった。
 けれど吉田が注視したのは、その足。というか足元。彼女らは揃って、殆ど爪先立ちになりそうな踵の高いミュールを履いていた。お洒落だとかそんな前に、あんなの履いてよくコケないな、と吉田は何だか感心してしまった。
 それまでは「コケそう」としか印象の無かった踵の高い靴であるが、それは足を長く見せる為の演出だと、吉田はつい最近知る事が出来た。それと背を高くすることで全体的にもスマートに見せる事が出来る。単に綺麗な服を着るだけがお洒落ではないのだ、と吉田は学んだ。
 意識してみると、小学生ですら身に着ける小物に気を配っている。これまで全く無頓着で、困らなかったと言えば困らなかったのだが、早めに興味を抱けば良かったと思わないでもない。最も、佐藤と付き合いを始めなければ、今だってそんな意識にはなれないだろうけど。
 再び足を進めると、靴屋の前に差し掛かる。そこには、店頭にさっきの彼女たちが履いていたような、底の高いミュールが半額で売られていた。季節の節を一番感じるのは、こうしたセールを見た時だ。あまり服飾の類は滅多に買わない吉田であるが。
「……………」
 ふとした事が頭に浮かび、自分の財布の中を確かめた吉田はそのまま店内へと入って行った。


「なー、次の休み、どっか遊びに行こう」
 そんな風に吉田に言われたのは放課後の事だ。強請られて嬉しい気持ちの反面、その理由もちょっとだけ気になった。
「どっか行きたい所あるの?」
 佐藤が当然のように尋ねるが、そこは吉田はこてんと首を傾けるだけだった。
「んー、とにかく遊びに行きたいってだけで。佐藤は? 行きたい所ある?」
 むしろ佐藤の行きたい所が良い、と言わんばかりに言うような吉田に、佐藤もやにが下がろうというものだ。好きな子の手前、そんなだらしない態度は見せたくないけど。
「そうだな、水族館に行ってみたいかな」
「水族館! うん、行こう行こう!」
 ああ言ったのだから、例えどんな場所でも吉田は文句も言わないだろうけど、でもどうせなら吉田にも喜んで貰いたい。そう思って行き先を選んでみた。
 言われ、吉田もその行き先を楽しみに思っているらしい。良かった、と少しだけ嘆息しながら、無邪気に頷く吉田を見て、佐藤は優しく目を細めた。その一方で、些細な疑問はまだ消えてはいないが。
 普段、休日は部屋で寛ぐ事は多い。何せ女性の目を引く佐藤なのだ。そこは街中でも全く変わらず、単純に校内より人が増えた分、その集まる視線も増すだろう。そしてそれは必然的に、佐藤の傍を歩く吉田にも注がれる事となる。互いが思いやるような形で、会う時は2人きりの部屋が主体だ。とはいえ、敢えて出たくはない、というのでもないので、行きたい所があれば勿論今のように申し出たりもする。が、今の吉田は行きたい所があるというより、どこかへ出かける事こそが目的のようだった。気にはなるが、まあどうでも良い事だと歩きながらその日に向けての予定を吉田と話し始めた。


 そんな風に、心の片隅に保留されていた疑問はその当日、あっさりと氷解した。吉田は新しい靴を履いてきたのだ。佐藤は吉田の持って居る服飾を全て知っている訳ではないが、目の前で吉田が履いている物は明らかに普段の彼女が履くものとは思えなかった。
「吉田、その靴……」
 佐藤の指摘を待ってました、とばかりに吉田は言った。
 吉田が履いているのは、先日見かけた女の子達の履いていたような踵の高いミュールだった。普段よりも5,6センチよりは背が高くなっただろうか。
「いつもより、視界が高いんだ~」
 嬉しそうな吉田は、女性というより子供のようだった。実際、吉田が喜んでいるポイントを踏まえるとそこは決して見栄えではない。
 にこにことしている吉田に水を差すのは気が進まないが、ここで指摘して注意を促しておかなければ被害が起きそうなので佐藤は言っておく。
「コケない?」
 佐藤がそれだけ言うと、吉田は目に見えてむっとなった。可愛い子は怒っても可愛い、とは佐藤が最近見つけた真理である。
「コケないってば! ちょっと歩いたりして練習したし」
 どいつもこいつも、と言いたげなその様子と口ぶりからして、多分母親にでも同じ事を言われたのかな、と佐藤は思った。
 うっかりこけて、足首を捻ったりしたらえらい事だ。吉田の足元を特に気にしながら、佐藤は歩く。
 それにしても。
(吉田って足も綺麗だなぁ)
 自分にそんな目を向けられていると知らない吉田は、ちゃんと歩ける事をアピールするように、敢えて胸を張る様にして堂々と足を進めていた。


 訪れた水族館では、期間限定の特設スペースで多種多彩な金魚が展示されていた。金魚の雰囲気に合わせ、明るい光明の元に照らされた水槽もあれば、背景に黒いパネルを置いて金魚の持つ色彩を際立たせていたりしていた。どれもこれもが幻想的で、吉田は夢中になって眺めた。人込みの中をひょいひょいと泳ぐように進む吉田こそ、佐藤にしてみれば金魚のように見えた。何せ吉田は小さくて可愛いし。
 勿論常時施設の方でも吉田の好奇心は尽きない。色んな魚類、甲殻類。水棲の動物に、総じて「水族」とは上手い表現を使う物である。
 時間帯を決めて行われるショーもあり、まずはオットセイとアシカのショーを見る事にした。投げられるフラフープをひょいひょいと首に掛けて行き、鼻の先で器用にボールを支えて見せる。その度に餌を貰う様子も何とも微笑ましかった。座席が普通の長いすで、吉田との距離がかなり近くなった事が佐藤を喜ばせる。
 そうしてまた、館内と巡っていると。
(うーん………)
 吉田は足から感じるどうしようもない違和感に苛まれていた。この違和感は、アシカのショーを見る前から抱いていたものだ。ショーを見ている間に少し治まったのだが、それは単に歩いていないからだけで、再び歩き始めたら同じ事だった。
 平たく言えば、足が痛い。始終爪先立ちのようなものなので、、爪先に負荷がかかるのである。
 事前に少し歩いて足を慣らしたと思ったのだが、やはり長時間の歩き回りとなると話は別だったようだ。
 靴擦れは起きていないし、まだ大丈夫……と知らず慎重な足取りになる。と、そこで。
「ちょっと座ろうか」
 途中途中に設けられている休憩スペースを指し、佐藤が言う。断る理由もない吉田は勿論頷いた。テーブルの下、吉田はミュールをそっと脱ぐ。窮屈な場所から解放されて、ほ、と吉田も一息ついた。その間、佐藤は近くの紙コップの自販機からジュースを買っている。自分の分は無糖のコーヒーだ。コーヒーの香りを浴びながら、吉田はオレンジジュースに口をつける。
 自分の分をテーブルに置き、席に着くかと思った佐藤だが、椅子には座らずにその場でしゃがみ込む。何か落としたんだろうか、と思った吉田だが。
「ひゃっっ!!?!?」
 突然足に触れられ、変な声を上げて驚く。
 慌てて下を見れば、佐藤が爪先を解す様にマッサージをしていた。気付かれていた。それと同時に、労わるような優しい手つきに、吉田の顔がどんどん赤くなる。
「靴擦れはしてないみたいだな……」
 と、佐藤はまるで独り言のように言った。


 土産物にしては、というのもアレだが、佐藤が買って来てくれたビーチサンダルは中々履き心地が良かった。イルカの小さなチャームが可愛い。それまで履いていたミュールは、ビーチサンダルの入っていた袋に代わりに入れられ、佐藤の手から下がっている。
「痛くなったらすぐに言えば良いのに」
 ちょっとだけ非難しているような口ぶりは、子供っぽく拗ねているようにも見える。吉田にだけ見せる佐藤の一面だ。
「う……だって」
 中々言い出せなかった原因としては、佐藤も楽しんでいたし、それにさっき歩けると豪語した手前言い辛かったのだ。佐藤が思うのと同じく、吉田だって好きな人の前では良い格好をしたい。それになにより、あのミュールを脱ぎたくなかった、というのが第一だ。
 だって、あれを履いていたら。
(佐藤の顔が近かったのにな~……)
 かかとの高い履物を見て、吉田はすぐに思ったのはそれだった。足が長く見えるとかスマートに見えるとか、それよりも。
 吉田の背は中学で全く伸びなくて、すくすくと育った佐藤に対して身長の差がとても開いてしまった。並んで立った場合、かなり上を見上げる必要があり、首が疲れる。多少高くなっただけでは焼け石の水ではあるが、それでも近くなった分、ちょっと嬉しかった。
 痩せたり太ったりすることは出来るけど、背を伸ばす事は不可能だ。吉田の場合、あとそれと胸の大きさも。
「足、痛くないか?」
「うん、大丈夫」
 佐藤が気遣う。サンダルに履き替えたのだから、もうあの圧迫感とは無縁である。けれど、佐藤はじぃ、と吉田から目を逸らさない。
「また痛いのに黙っていたら、今度は担ぐからな」
「え、」
 担ぐ、という言葉を吉田は「抱っこ」と変換した。そしてそれは間違っていないだろう。
「へ、平気! 平気だってば!!!」
 必死に吉田が言い募ると、通じたのか「ならいいけど」と呟いて佐藤は視線を元に戻す。ほっとする吉田。何せまだ水族館内なのだ。抱っこなんかされて移動しては、目立つ所ではない。
「この靴、また履くのか?」
 手からぶら下がったら袋をちょっと持ち上げ、佐藤は言う。佐藤の指すこの靴とは、勿論その袋の中に入っているミュールの事である。う、と吉田は言葉を詰まらせた。
「……ダメ、かな?」
 吉田が伺うように言うと、佐藤は難しそうな顔になった。吉田の言う事を叶えたいと思うけれど、それが体に負担が掛かると思うと後押しは出来ない。けれど、こういうものは慣れだ。履き続けなければ何時かも足は慣れてくれるだろうが。
 そう思っている佐藤は、思いの外表情に力が入ってしまったらしく、眉間にしわが寄り始めていた。
「そ、そんなにダメならいいや。座ってれば近いし」
 佐藤のそんな様子を見て、吉田がフォローのつもりかそんな事を口走る。が、気を急いた為に、吉田はうっかり本音を零してしまった。それを、佐藤は見過ごさない。
 ”座っていれば近い”このキーワードで、吉田が踵の高い靴を選んできた理由が解ってしまった。そうか、そうだったのか、と何やら清々しく爽やかな気分になる。
 そして。
「よ、」
「わ―――――ッ!!!」
 後ろから救い上げるように、佐藤は吉田を片手一本で軽々と抱き上げる。
「な、な、何すっ!!」
 かなりびっくりした為、吉田の動悸も落ち着かない。
「これでも顔は近いだろ?」
 何やらしたり顔で言う佐藤。ばれた~、と羞恥で吉田は顔を赤らめた。いや、それより。
「お、お、お、降ろしてってば!!」
「いいじゃん、この辺人居ないし」
「来る! その内来る!!!!!」
 あんまり暴れると落ちそうで、吉田も激しく抵抗が出来ない。最も、全力の抵抗だとしても佐藤には敵わないかもしれないが。
 色々と困っているような吉田が可愛くて、顔が近い事を良い事に佐藤は思わず頬に口付た。途端、吉田が叫ぶと同時にがむしゃらに暴れたので、さすがの佐藤も慌てて両手で抱き抱え直した。
 吉田と付き合うようになって、思いの外佐藤は自分の理性の箍が緩い事を自覚した。
 だから、吉田の顔が離れていて正解なのかも、とすっかりへそを曲げてしまった彼女を宥めながら、ふとそんな事を思った。



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