日本には6月に雨季がある。折角プール開きをしたのに、これじゃ入れないなぁ、と水滴を落とす鉛色の空を眺めて吉田は思う。
「あーん、もう。うんざりするわ」
 そう言ったのは、隣を歩いていた井上だった。何をうんざりしているのかな、と横を見ると、髪に手を当てている辺りヘアスタイルに対しての事らしい。
「寝癖?」
 吉田が思いつく髪のトラブルと言えば、それくらいしかなかった。違うわよ、と井上。
「湿気のせいで逆に上手くまとまってくれないのよ。肌には良いんだけどね」
 肌は冬にヤバい、と頬に手を当てて井上は言った。そんなもんなんだー、と自分の容姿に関してはとんと無頓着な吉田は関心した面持ちで井上の発言を聞く。
「ヨシヨシの髪は良いよね。しっかりしてるから」
「え、そう?」
 確かに髪質は強い方だとは自負している。それが利点になるとも思っていなかったが。
「うん。最近艶も良くなったみたいだしね」
 そう言って、吉田の髪に触れる。決して痛みを与えない繊細な手つきだ。同じように優しい手つきでも、男女の差があるんだな、と思った吉田はちょっとだけ顔を赤らめた。吉田の髪の質が良くなったのは、本人の努力の賜物では無い。
 井上と別れ、自分の教室へ行けば、鬱陶しい湿度を吹き飛ばす程の爽やかな笑みを浮かべた佐藤が居た。女子に囲まれて会話をしているが、吉田が教室に入るなりすぐに気付き、顔を向けてくれる。そして、吉田にしか解らないように笑みを浮かべた。さっきの今で、吉田はこれだけの事に頬が熱くなる。
 吉田の髪質の向上は、佐藤の手に寄るものだ。


「佐藤も髪、綺麗だよな~。さらさらしてるし」
 放課後、佐藤の部屋にて吉田が言う。梅雨のこの時期、意識して聞けば確かに髪を気にしている女子は多かった。中には男子も居たりしたが。
「ん?髪がどうかしたのか?」
 スッキリするようにとレモンスカッシュを作って来た佐藤は、吉田の呟きに反応する。吉田自身が自分の髪に不満があったのかと思えば、登校前の些細なやり取りの事だと言う。それはむしろ、吉田にとって喜ばしい事であった。が、同時に少し恥ずかしい事もでもある。
「髪の手入れ、覚えた方が良いかな……」
 それが自らの功績であれば、さっきの場面で吉田は井上の言葉に照れ笑いを浮かべただろう。しかし、実際は他人の手によるものでそうなると実質何も努力していない自分を恥ずかしく思えた。身だしなみは自立の一歩である。
「別に、俺がしてるんだから良いだろ」
「う~ん、でも……」
「吉田の髪の手入れは楽しみの一つなんだから、それが無くなると困る」
 凄く困る、と敢えて繰り返すと、吉田の頬がぽっと染まる。可愛らしいなぁ、と今日の佐藤のリクラゼーションタイムだ。ほくほくとした顔で眺める。
「……髪、弄って楽しい?」
「俺は楽しい」
 迷いなく言うと、吉田もそれ以上言えずに言葉を詰まらせた。そんな吉田を、佐藤はそっと引き寄せて膝の上に乗せる。
「まあ、髪だけじゃないけどね」
 そう言って、手の平を下から掬うように握る。自分よりはるかに小さな手や指に、何やら笑みが零れる。
「吉田に触れてるのが楽しいっていうか、嬉しいっていうか、癒される」
「…………」
 背後から抱き締められる形でそんな台詞を囁かれてしまい、吉田はもう爆発寸前なまでに赤い。こんな自分を、そんな風に求められるだなんて、吉田は想像すらしていなかった。だというのに、現実はさらに上回って吉田に押し寄せる。
「わ、」
 ふと、頬に柔らかい感触を覚えた。それが佐藤の唇だと気付いた時、吉田の限界は越えた。
(ありゃ、)
 キュ~っと目を回しているような吉田を腕の中に、ちょっとやりすぎたかな、と佐藤は反省した。反省しても似たような事を繰り返す辺り、全く生かされてはいないのだが。
 しかしそれを言うなら、吉田ももうちょっと触れ合いに慣れてくれても良いのにな、と依然触れたままの手を軽く握る。その感触に、ひゃあ!と吉田が飛び上がって驚いた。
「可愛いv」
「可愛いじゃなーい!」
 あまりに好き勝手する佐藤に、吉田がついに刃向う。ばたばたと暴れるように膝の上から降りて、テーブルの真向かいにまで移動した。警戒する吉田は、まさに威嚇する黒猫のようでこれまた可愛いのである。
「変なことしたら帰る!」
 そうは言うが、吉田の今の位置は出入り口であるドアから最も遠い。本気云々の前に、これは詰めが甘いと言うべきだろう。
「これくらいで変な事って言われても……なぁ?」
 最後は吉田を試す様に佐藤は声を掛ける。暗喩した所は吉田にも通じたか、今日一番の赤面を見せた。そして、一番の怒りも。
「~~~っ帰る―――――!!」
 佐藤の馬鹿!と言い捨ててドアに向かうが、ここが詰めの甘い所なのだ。吉田の位置からでは、佐藤の横を通らないとドアにはたどり着けない。そして、そこを見逃す佐藤では無い。すかさず、横を通り過ぎる時に吉田の腕を掴み、無駄のないスムーズな動きで再び吉田を捕えてしまう。離せ!と吉田は暴れるが離す筈もなく。
「スカートが捲れるよ」
 あんまりに足で暴れるものだから、それを阻止させる為に佐藤が言う。言えば、目論見通りその動きはぴたりと止んだ。あまりに思い通りに何だか可笑しい。
「ゴメンって。でも俺がもっともっと吉田に触れたいんだってことは解って欲しい」
 勝手な言い分だが、その分偽らない本音である。吉田がまだ慣れない事をも知っている。毎回、羞恥心と闘ってくれているんだという事も知っているが、それでも尚足りないのだ。本当は、肌同士で触れ合いたい所だが、さすがに吉田が持たないと思い、髪で我慢している・・・・・・いや我慢では無くて、髪にも触れたいのだが……根底にあるのは吉田との情事であるので、髪に触れるのはその延長線上の最も遠い行為だと佐藤は思っている。
 そんな事を思いながら、吉田の髪を梳く。手入れと言っても、この部屋でシャワーなり風呂なりに入らなければならなくなった事態に、少し佐藤が手を加えているだけだ。下手に弄らないから吉田の髪は本人の性質と同じく、凛々しくて綺麗だ。撫で心地も十分で、他の感触なんて知る由もないが、吉田の髪が撫でていても最も心地よい。
 と、うう、と吉田が何やら唸っているのに気付く。また離れたいのかと思えば、大人しく収まっている辺り、それも違うように思われた。
 吉田が背後を気にするように体を捻り、その時の顔で気づく。佐藤は吉田の身体をひょいと抱き上げると、向き直る形に直した。すると、困っていたように眉を垂らしていた吉田が、ぱっと嬉しそな表情を灯らせる。それでいて何やら、落ち着かない様子だ。佐藤はこれまでの流れを踏まえ、吉田の今の心境を探る。そうして、吉田が初めの頃に言った台詞を思い出した。
 佐藤は吉田の手を取り、自分の髪へと導く。この時吉田が驚いた顔をしたのは、考えていた事を佐藤が解った事だろう。そんなに解りやすい表情だったんだろうか、と少し恥ずかしがった吉田だが、すぐに導かれた手で佐藤の髪を撫でた。嬉しそうに、何度も。
 佐藤も、そんな吉田に喜ばしい気持ちでいたのだが。
「……………」
 ややしてから、佐藤は吉田の手をそっと掴み、頭から遠ざけた。あれ?とした顔で吉田は佐藤を見上げるが、その表情を見る事は叶わなかった。佐藤がそれを見せないように、顔を背けていたからだ。
「まだ触りたいんだけど」
 吉田は主張する。佐藤の髪はさらさらで、撫でていてとても手触りが良かった。
「もう、お終い。もういいだろ」
 えー、と声を上げる吉田を置いて、佐藤はおかわりのレモンスカッシュを理由に席を立った。
 今迄はしている側で、その感覚は掴めなかったが、好きな相手に髪を触られるというのは、どうも。
(……結構恥ずかしいな)
 あるいは肌に触れるのと、同等くらいに。佐藤は髪なら、という認識を改めなければならない。
 そうだとしても、やっぱり最も触り易い吉田の髪にはこれからも触れて行くんだろうと、やっぱり反省が生かされない佐藤であった。




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