いつもとは違う帰宅ルートを辿り、佐藤はふと通りかかったアーケード内で関心を引くものを見つけた。
 それは自分で使うものではないが、佐藤の日常に関係する物である。
 見つけたのは、黒猫の顔が描かれた鍋つかみ。それは小柄な感じで、吉田の手にぴったりだと佐藤は見てすぐに思ったのだ。
 現在、吉田が使っている鍋掴みは佐藤との兼用である。元は佐藤が使っていたものを、そのまま吉田も使っている形だ。自分を元にして購入したものではないのだから、吉田には使いやすいとは言えないだろう。けれど、厳密なサイズを要求されるものでもないので、今使っているので十分事足りるのか、吉田はそれについて不満を漏らした事は無かった。だから佐藤も、実際に使っているのを目の当たりにしないと、この事を思い出し辛い。
 けれど今日、吉田にとても相応しい鍋掴みを見つけた。これも何かの縁だと、佐藤はいそいそと購入した。買う時、プレゼント用かと聞かれたが、普段使いのだと言って過剰な包装は断った。
 贈物では無く、家で使う物。
 鞄に楽に収まる小さな物は、佐藤の心をほっこり温かくするのだった。


 さほど意識はしてないが、やはり吉田の物を選ぶ時には黒猫がモチーフのものをよく買ってしまう。何かと吉田のイメージに合うのだ。真っ黒な髪に、くりっとした吊り眼。そして気まぐれに自分を弄ぶ所なんて、そっくりだ。吉田は絶対反論するだろうが、翻弄されているのは自分の方だと佐藤は思って止まない。 
 吉田が佐藤の家に越してくる際、吉田が持って来たのは、本当に彼女の私物、というものばかりだった。鍋掴みとか、こういった日常で使用するようなものはあまり無かった。大体のものはこれから何かと物入りである高橋の方へと譲ったのだ。その判断に関して、佐藤は口に挟むに至らない。吉田が決めた事だし、何よりそうする事で吉田の物を選ぶ楽しみが増える。丁度今のように。
 佐藤は車を運転しながら、少し前を思い出していた。
 それは、吉田が自分の部屋へと訪れるその日の事である。


 吉田と高橋の引っ越しは急に決まった。しかし幸いとして、2人はそれぞれの相手の所に行く形になったので、居住地を一から探す一番の手間は省けれた。しかし就職してからこっち、ずっと住んでいた部屋の片づけは簡単とは言えなかった。
 休日は勿論、平日も仕事の後も処分や整理をし、全てをダンボールに詰め終わるのはまさにひと仕事だった。
 季節外れの使わないものから順番に持ち出し、今日は最後の荷物を持ち出す日だ。要らなくなった大きな家具は、リサイクル屋が運んでくれる手筈に整えてある。
 それも終わり、今、部屋の中は空っぽである。ある意味、元に戻ったと言えるだろう。そう、吉田達が訪れた当初のままに。
 こんなに広かったんだ、とは2人して思った共通の感傷だった。住んでいる時は、擦れ違う時「ちょっとごめんねー」と声をかけなければならない時も多かった。そんな狭いけど、でも楽しい事ばかりの部屋だった。嫌な事なんて、1つも無いように感じられた。
「……何か、悪ぃな」
 ぽつり、と高橋が言う。え?と彼女を見やる吉田。
「完全にこっちの都合で、こんな急に……」
 表情に影を落とす高橋に、吉田はとんでもないとばかりに手も首も両方振った。
「そ、そんな!いつかはこうする事だったし、ちょっと早まっただけで……!
 その、早ければ早い方が良いなー、って事でもあるし、あ、でもとらちんと一緒が楽しくなかったって訳でも無くて、えーと、……!!」
 どうにか高橋のフォローをしたいと、口早に台詞を紡ぐ吉田ではあるが、あまり彼女の為になっていないかもしれない。ぐるぐるとしてきた吉田の思考を救ったのは、他でも無い高橋のちょっと笑った声だ。強面だの凶相だの言われるけど、笑った顔は思いの外可愛い。
「うん。ヨシヨシと一緒に暮らせて、スゲー楽しかった」
「と、とらちん……!!」
 にっか、と笑った彼女の笑顔に、ここで過ごした思い出が走馬灯のように駆け巡る。
「そ、そんな、こっちだって、こっちだって……!!
 っっうわあああん!とらち―――ん!!!」
 感極まった吉田が、堪え切れなくなったよう高橋へと抱きつこうと駆け寄る。高橋も、それを受け入れようと手を広げる。
 そして―――
「んぐぇっ!」
「ぐっ!?」
 しかし、吉田も高橋も、その抱擁を交わす事無く、代わりのように妙なうめき声を残した。
 と、いうのも。
「吉田……俺の前で他の奴に抱きつこうなんて、良い根性じゃないか……」
「とらちん! とらちんはこれから俺と暮らすんでしょ!? なら俺の方見てよ―――!!!」
 それぞれの、ヤキモチ妬きの恋人に後ろから羽交い締めにされてしまったからである。


 何だかんだで、恋人第一である佐藤と山中が、引っ越しなんて重労働を2人に任せる筈も無かった。最も2人としては、自分達の部屋の最後くらい、自分達で済ませたいと思ったのだが、高橋の事情が事情なので、その手伝いを受け入れる事にしたのだ。
 が、この瞬間ほどそれを後悔した事も無い。
「何だよも―――! 車を取りに行ってたんじゃなかったの!!」
 佐藤にがっちり抱き抱えられながらも、じたばたと吉田が暴れる。
「だから、取って来たんだろ。全く、来ないと思ったら」
「とらちん! ほらほら、早く俺達の部屋に行こうよーv 俺達のvvv」
「だぁぁ――もう、うぜぇぇぇえ!!」
 ある意味、全く通常運転のまま、部屋を後にした吉田と高橋だった。まあ、これも自分達らしいといえば、そうかもしれない。
 別れは駐車場。相手の車に乗り、それぞれの住まいへと向かうのである。
「山中!」
 と、吉田。山中は、佐藤を気にして少しばかり萎縮していた。
「これからとらちん、ずっと大変なんだからな! お前の世話なんかしてる場合じゃないんだから、もっとちゃんとしろよな!」
「な、なんだよ、そんな人をろくでなしみたいに……」
「ろくでなしそのものっていうか、見本だろうが―――!」
 吉田が山中を叱咤するその横で。
「おい、佐藤」
 と、高橋。何だよ、と佐藤は不遜な態度を取っている。
「オメー、ヨシヨシ泣かせんじゃねーぞ」
「ふん。俺は吉田しかいないからな」
 浮気するどこかの誰かと違って、と言外に匂わせながら言う佐藤。吉田が佐藤の家に越す為、関係を打明けるに至って高橋から佐藤に向けられる目はかなり厳しい。
 高橋とは高校が一緒なので、異常なあのモテっぷりも勿論知られている。山中が浮気魔だからと言って、自分も同じ目で見られては溜まったものではない。やっぱり山中は俺にとって灰汁みたいなものだな、と改める佐藤であった。
 車に乗り込む前、2人は視線を合わせる。そして、どちらともなく言う。せめて、笑顔で、と。
「じゃあね、とらちん」
「おう、ヨシヨシもな」
 とても軽い言葉で、それまで共にしていた暮らしを、2人は別った。


 運転しながら、横目で窺う助手席に座る吉田は、やはり何だか元気が無い。まあ、これまで暮らしていた相手と別れるのだ。それ相応の寂しさや悲しみはつきものだろう。とは言え、家から出る時に全くその手の感傷とは無縁だった佐藤には、慮る事は少し難しかった。佐藤が別離をして引き裂かれる程の想いをしたのは、というかするのは吉田だけだろうし。
 とりあえず、何か美味しいものでも食べに行こう。美味しいものを食べると、気分が楽しくなる。短絡的だけど、一番手っ取り早い気持ちの上昇である。真っすぐな吉田には、最も有効な手段であろう。
 まずは荷物を置いてからだ。本当に身の周りのものだから、ダンボール2箱で収まっていた。姉を基準にすると、吉田の持っている衣服や靴はかなり少ないように思う。後から聞けば、佐藤との生活の為に貯めていたのだという。この時、佐藤が天まで昇る心地だったのは言うまでも無い。
 玄関を開ける。合いカギは、すでに吉田に渡し済みだ。これからは、もっと密に使う事となるだろう。
 入ってすぐの所に、ダンボールを置く。そして、吉田に振り返った。
「なあ、吉田。これからどこかに――」
 食べに行くか、と続けようとした佐藤だが、吉田の様子が妙なのに気付いた。部屋に上がらず、土間の部分に立っている。
 妙、とは言うが負のイメージでは無い。むしろ逆というか、顔を赤らめて指をもじもじとさせている。吉田?ともう一度問いかけようと思った時、吉田が言う。
「あの……た、ただいまって言うべきなのかなって……」
「………………」
 母親からの躾が行きとどいている吉田は、挨拶に関してとても真面目というか、律儀だ。部屋に上がる時は勿論「お邪魔します」を言う。でも、それは自分の家に言うべき事ではないから――
 それを考えていて、玄関に立っていた、という事らしい。
「――おかえり」
 湧き起こり、全身に駆け廻る高揚感。いっそ卒倒しそうなくらいだったが、どうにか佐藤はそれを堪え、吉田を出迎える言葉を口にした。そうだ、これから、ここに吉田は「帰る」のだ。来るでも訪れるでもなく、一日や日常の終わりには必ず。必ず――
 まるで今更のように、同居の事実に戸惑っていた吉田だが、佐藤のその言葉を皮切りに、ふっと緊張が解れたようだ。
 何とも、和やかな笑みを浮かべ、言う。
「うん、ただいま」
 室内ながら、その笑顔は佐藤にとって、とても眩しいものだった。


 結局その日は外食しないで、冷蔵庫のあるもので一緒に作って一緒に食べた。この部屋で何度となく行われた事であるが、今日から吉田は家に戻る事を考えなくて良いのである。だって、ここが吉田の家なのだから。
 寝る時、吉田に強請って今日という日を形に残したくて、一緒にカメラに映った。その時の写真は大事に飾ってある。
 そこまでを思い返した時、佐藤はマンションの駐車場に辿りつく。綺麗に車を収めた後、鞄を持ってエントランスへ。
 今日は吉田の帰宅が先だ。だから、家にはもう吉田が居る。エレベーターに乗り、思いを馳せる。
 自分の部屋の前に立つ。中に吉田が居ると思うと、何だか背中がむず痒い。
 佐藤も勿論鍵を持っているが、それで開ける事無く、チャイムを押す。このマンションのセキュリティでは、インターホンの呼び出し口で相手の姿が見えるようになっている。
 程なく、ガチャリ、と開かれたドア。
 そこに居るのは、佐藤の愛しい人。
 昨日は自分が言った台詞を、今日は吉田が言う。明日は、どっちが言うだろう。
 帰宅した佐藤を見て、吉田は満面の笑みと共に言った。
「おかえり、佐藤!」



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