はぁ〜あ、とその日から何故か吉田は憂鬱な溜息を漏らしていた。吉田の態度や表情から察するに、その深刻度合いは然程でもないので、佐藤は朝の教室でその異変に気付いたが、昼休みに問い質す事にしてその場ではとりあえず保留にした。
 そして、昼休み。
「……大した事じゃないんだけど……」
 ホント〜〜〜に大した事じゃないんだけど、と吉田はたっぷり前もって話を切り出す。尋ねてみて、すんなり答えてくれる辺り、佐藤の憶測通り深刻さとは無縁らしい。少し、安心する。
「次の休み、雛祭りの人形出すの手伝いなさいよ、って。母ちゃんが言って来てさ〜〜」
 こうして約束したのだから、予定はいれるな、というお達しらしい。確かに、大した理由では無くて、佐藤は安堵を通り越して笑みが浮かんできた。
「……何笑ってんだよぅ」
 呑気な佐藤に対し、吉田は唇を尖らし、拗ねる。しかも、その後ぷいっと視線を逸らしてしまった。何やら、ちょっと本気で腹を立てているようだ。
「手伝いの日ってどっち?」
 佐藤は、そんな態度をまるで気にせず、言う。吉田はそっぽ向いたままでも「……特に決まってない」と答えた。
「ふーん。なら、どっちでも吉田の空いた日、俺の家に来て?」
「えっ……」
「ダメ?」
 佐藤の誘いに、吉田は目を瞬かせる。そして、ちょっと肩を竦めて頬を赤らめた。
 なんて事無い、さっき吉田が不貞腐れたのは、週末に予定が入ってしまい、佐藤の家に遊びにいけないのを不服とし、それに対し佐藤が何も感じてない、という所だったのだ。
 吉田は先に予定を入れられてしまった、という事に気を取られ、休みは2日あるという事実をうっかり失念していたらしい。可愛い奴だ。全く。
「え〜〜〜っと、じゃあ……日曜日に行くね」
「オッケ。解った」
 吉田は土日のどちらかを迷って、日曜を選んだ。先に手伝いをしておかないと、佐藤の部屋に遊びに行く時、あれこれ母親から詮索されるかも、と懸念したのだ。
「待ってるからなv」
「………うん」
 そう頷いた時、ちょっと嬉しそうに見えたのが気のせいじゃないといい、と佐藤は思った。
「吉田の家のお雛様って、どんなの?」
 まさかそれを尋ねられるとは思って無かったのか、吉田は「へっ?」ときょとんとした顔になった。
「い、いや別に……普通のっていうか、お雛様とお内裏様だけのやつ」
「ふ〜ん……見てみたいな」
 何か佐藤が期待しているのでは、と吉田は慌ててそれを打ち消すよう、説明したのだが佐藤は逆にそんな事を言い出した。「えっ、えっ?」とますます目を大きくする吉田。
「え……でも、佐藤、お姉さんが居るんじゃ??」
 実家は離れているそうだけども、飾ったりはするんじゃないだろうか。そう言うと、佐藤はやや詰まらなさそうに言う。
「俺は、吉田のが見たいの」
 佐藤にとって重要なポイントは常にそこだった。むしろそれ以外は無いに等しい。
「え〜〜と……ホントに、大したものじゃないけど?」
「だって気になるんだもん。吉田のお雛様」
 そ、そういうものかな〜〜〜〜?と吉田は頻りに首を捻った。そんな様子を、可笑しそうに眺める佐藤。
「……なら、うん……いいよ」
 迷いながらだけども、吉田は承諾した。見せるに値するものじゃないとは思うが、断る理由にもならないと判断したらしい。よしっ!と胸中でガッツポーズする佐藤。
「あー、でも、母ちゃんの居ない隙を狙わなきゃだから、今すぐいつかは言えないけど……」
 吉田が帰宅する時間には、母親のパートも終わっている。そのまま帰れば鉢合わせしてしまうが、時折友達と遊びに入れる約束を入れる事もある。そうなれば、佐藤を家に上げる事も出来る。
 遊びに行く頻度は定かではないが、そろそろ出掛けそうな予感もする。……多分、だけど。
「楽しみにしてるからな、吉田v」
「………、うぅ……」
 ちょっとしたからかいのつもりで、プレッシャーをかける佐藤。途端、吉田はいよいよ小動物のように縮こまる。
 まあ、これで吉田の母親に予定が入らず、反故される結果になろうとも佐藤は然程気にしない。今、こうして自分と約束してくれた。佐藤は、それだけで満たされる。
 もし、吉田の家に行けなくなっても自分は気にしないが、吉田はきっと物凄く気にかけるだろう。そうなったら、徹底的にフォローして、うんと甘やかしてやろう。
 そうなったらそうなったで、佐藤にとって素敵な日になるに違いないのだった。


「あーあ、どうせすぐ仕舞っちゃうのにな……」
 そうぼやいた娘の愚痴を、母親は勿論聞き逃さなかった。
「コラ! 手が止まってるよ!!」
「へいへい……」
 母親の叱責を受けて、吉田は箱の中からさらに小箱を取り出した。何せこのひな人形は、父親が買ったものである。適当に扱えば、今以上の怒鳴り声が突き刺さるのは必至だ。
 飾るのは男雛と女雛のみの内裏雛ではあるが、台に屏風に花の飾りと出す小道具は色々と多い。
 出すまでは、その手間を思ってちょっと憂鬱だったが、作業に取りかかればそれに集中する事が出来た。そして完成をみると、やっぱり出して良かった、という気になる。
 吉田はこの人形が自分のものだから感慨深いが、果たして人に見せて自慢できるものであるかと言えば、勿論そうでも無く。まあ、でも佐藤は見たいのだろう。散々確認した事だ。佐藤は、好きな子の成長を見守って来たこの人形が見たいのだ。見てどうなると言う訳でもないけど。その気持ちは、吉田もちょっと解る……いや、良く解る。
 さて。
「なー、母ちゃん。近い内、友達と遊んだりしないの?」
「何よ、急に?」
 全く唐突な問いかけに、母親は娘と良く似た目をぱちくりとさせた。吉田も、確かに急な言い方だった、と少し顧みながら、別にちょっと、と言葉を濁した。
 佐藤にあのひな人形を見せる為には、母親の不在が不可欠なのだ。少なくとも、吉田にとって。佐藤の願いは叶えてやりたいが、この場合は自分の努力で解決出来る事では無い。
 何とかして隙が出来ないかな〜とヤキモキする吉田であったが、その後「そうね、明日でもお茶してこようかしら」という母親の呟きに、思わず喝采を上げそうになった。
(やった!!! 佐藤を、呼べる!!)
 明日、いや今からでも、佐藤にメールしよう。
 自分の部屋に行く!とぱたぱたと足早に去る娘の姿を、ちょっと意味深な笑みで見ていたのを、吉田は勿論知らないのだった。


 今年の雛祭りの日は、土曜日と重なった。出張の多い父親だったが、この日は普通に休日で家族と共に過ごす喜びに満たされていた。折しも今日は雛祭り。父親は自分がちらし寿司を作ると良い、愛する妻を感激させたのだった。
「じゃあ、母さんは吸いものを頼むよ」
「はぁ〜〜いvv」
 まるで少女のように明るい返事をし、母親はるんるんとした足取りでキッチンへと向かって行った。吉田はこの場で、ちらし寿司作りの手伝いである。
 得てして男の手作りが凝り性である事に、吉田の父親もその例に漏れなかった。混ぜて作るインスタントのではなく、きちんと酢や砂糖を合わせてちらし寿司を作っていく。
(あ〜良い匂いv)
 父親が酢飯を混ぜる傍ら、吉田は団扇で仰いで冷ましていく。けれど、湯気に乗って立ちあがる香りは、きっちり吉田の鼻孔と食欲を擽っていった。
 今の時代、どんな時期のどんな料理も口に出来る様にはなっているが、やはり旬の美味しさというのは打ち消せない。ちらし寿司は、こういうハレの日に食べてこそ、美味しい様に思う。
 早く食べたいな、と思う吉田の脳裏の片隅に存在するのは佐藤の事だ。ひな人形を見せにこの家に上げた時、雛祭り当日は家族と過ごすので佐藤と遊べない旨も伝えた。
 その時の佐藤は、それは良い事だと喜ばしそうに吉田に言った。佐藤の家族環境について、吉田はほぼ何も知らない状態ではあるが、実家に帰る時に「精神的に面倒くさい」とぼやくのを見ると、あまり和気あいあいといった雰囲気でもない様に思う。最も、思春期の頃なんて、家族に対してはちょっとばかりつっけんどんで当たり前かもしれないけども。
(佐藤、今ごろどうしてるかな)
 美味しそうに出来上がりつつあるちらし寿司を前に、吉田が思う事はもはや佐藤の事ばかり。自分たちの関係が、少なくとも両親にだけでもオープンであったなら、この場に誘えたかもしれないのに。秘密のままの今だと、吉田が絶対に頷かないのも佐藤は解ったのだろう。今日のこの日に訪問したいと、佐藤は嘘でも言わなかった。それはきっと、本当に願う事だからだ。
「…………」
「うん、こんなものかな」
 父親がしゃもじを持つ手を止める。そして、「味見するかい?」と娘に話しかけた。
 けれど、吉田はそれに返事をするではなくて。
「あのね、父ちゃん――」
 ちょっとしたお願い事をした。
 父親から快諾を得た吉田は、それから約30分後。家を飛び出していた。


(………暇だな)
 手に取った本は、確かに読もうと思って取りだしたものなのに、何故か目を通しても内容がさっぱり頭に入って来ない。
 内容が頭に入らないのだから、面白い筈も無い。佐藤は、本を傍らに置いてベッドの上でごろりと横になった。
 さっき、窓から見た空は晴天。全くの青空で、女の子の祭りの日を祝福しているかのようだった。この日に因んだのかなんなのか、姉も友達の集まりに出掛けて、今は佐藤が1人だけだ。テレビもつけていない空間で、静寂がむしろ煩く感じるくらいだ。
 時刻は、そろそろ昼だ。何か食べなければならない。
 佐藤にとって、食事は義務の様なものだ。果たさなければならない必要な事。ただ、それだけ。
 けれど、吉田が加わるとそこは途端に幸せを感じる時間に様変わりするのだ。まるで天と地がひっくり返る様な価値観の大逆転を、吉田は簡単に起こしてくれる。
 きっと今ごろ、吉田は家族で楽しいひな祭りを過ごしているだろう。父親が作るのだと言うちらし寿司を食べて。
 その食後に、ケーキが出ると良いな。その方がきっと吉田はもっと喜ぶ。
 佐藤は、自分の昼食もそっちのけで、吉田の食卓ばかりを思っていた。それは腹は膨れないが、代わりに心に暖かい物が満ちるのだ。
 と、その時。
(吉田……?)
 ベットから離れた机の上。放り出されるように置かれている携帯が、音を奏でる。それは発信元が吉田である事を報せ、なお且つメールでは無くて通話である事も訴えていた。
 佐藤は慌てて飛び起き、携帯を取る。
「吉田?」
 メールでは無く、今すぐ電話で取らなければならない何かがあっただろうか。佐藤は記憶を探りながら電話に出た。
『あっ、佐藤!!今、家に居る!?』
「? 居るけど?」
 向こうの状況が解らないままに、佐藤はとりあえず返事をしてやる。すると、その答えに「……良かったぁ〜〜」と吉田は安堵のため息を漏らしていた。ますます、佐藤は何が何だか解らない。
 ハテナマークだけが浮かぶ佐藤だが、次の吉田の台詞により、何もかもが判明する事となった。
 あのね、と吉田は切りだす。
『ちらし寿司のおすそわけしようと思って。んで、今、下まで来てるの。だから……』
 佐藤は全部を聞き終わる前に。吉田を部屋に上げる手続きに取りかかった。


 セキュリティの高い佐藤のマンションは、住人の許可か無くしてはエントランスで足止めを食らうしかない。吉田の目の前には、大きなテンキー。これに訪問先の部屋番号を打ち込む事が呼び鈴となり、相手の承諾を得たらマンション内に入れるのだ。
 さて、と吉田が部屋番号を入力しようとした時、ここで吉田は、あまりに根本的な事実に思い至った。
(佐藤、今、部屋に居るっけ!?)
 どこに行くとも聞いてないが、どこにも行かないとも聞いてないのだ。もしも佐藤が他に予定を入れて居たり、ふらりと街に出ていたりしたら、全くの徒労になる。
 いや、自分の空ぶりはいいのだけど、せめてこれは渡したい。
 吉田は半ば祈る気持ちで、佐藤の携帯に電話をかけた。
 電話に出た相手が、部屋に居ると知った時は本当にほっとした。と、同時にこんな確認も忘れていた自分の粗忽さに顔を赤らめる。
「はい、これ、ちらし寿司」
 部屋に上がりたい所だけど、昼は家族と一緒にと約束しているのだ。だから、すぐに戻らなくてはならない。
 タッパーに入れたそれを、佐藤へ手渡す。
「作ったのは父ちゃんだけど、ちょっとは手伝ったよ。……酢飯冷ましたりとか、ニンジンを花形にくりぬいたりとか」
 嘘が言えない吉田は、言い訳のように小声で付け加えた。
 手渡されたタッパーからは、ほんのり甘い酢飯の香りが漂う。少し温かくて、きっと出来たてを持って来てくれたのだろう。
「……ありがとう。うん、凄くうれしい」
「………」
 いつになく、素直に礼を言う佐藤に、吉田は何だか頬が熱くなる。やっぱり、佐藤はちょっとくらい捻くれている方が良いのかもしれない。……自分の心中的に。
「お茶でも〜……って言いたい所だけど、すぐ戻らなきゃな」
「う、うん……」
「お父さんにありがとうって伝えといて」
 出来れば直接言いたいけど、とその本音はここではちょっと隠しておく。
「うん、解った」
 吉田が頷いた後。佐藤は手を伸ばし、そっと頬に添える。近づく佐藤に合わせ、吉田は半ば無意識に顔を傾かせていた。


 そして、雛祭りの日を家族揃って迎えたその夜。
「もう片づけちゃうんだもんな〜」
 出す時と同じように、仕舞う時も吉田はぼやいていた。出す時と同じ程、仕舞うのにも手間がかかる。まあ、ある意味当然のことかもしれないが。
「だって、早く片付けないとアンタの婚期が遅れるじゃない」
「……余計なお世話だよっ」
 顔を赤らめ、母親に噛みつく様に吉田は怒鳴った。
「大体、早ければいいってもんでもないじゃん」
 吉田は言ってやる。それに、相手だって、まあ、一応……しきりに脳裏に過ぎる佐藤の姿を意識しながら、ひな人形を大事に箱に仕舞う。
「そんな事無いわよ」
 吉田とは違い、割と手慣れた手つきで母親は人形を扱う。触れて来た回数がそのまま差となっているのだろう。
「アンタが早くお嫁に行ってくれたら、またお父さんと2人きりで新婚気分になれるじゃない?
 ふふふ、楽しみ〜〜〜v」
「……自分の為なんじゃん……」
「当然じゃない!」
 ため息交じりに呟いた事に、全力で肯定されてしまった。
 ……まあ、親の仲が良いのは良い事だ。そう前向きに捉える事にする。
 内裏雛を仕舞う時、吉田は思った。七夕の織姫と彦星と同様、この2人も年に1度の邂逅だけなのだ。
 ……だったら、面倒だなんて言ってないで、ちゃんと出してあげなきゃな。
 そう、思いを改めた吉田は、一層丁寧な手つきで箱を仕舞う。
「ちゃんと大事に仕舞いなさいよ〜」
 間延びする様な母親の声。ちゃんとやってる、と吉田が言い返す前に台詞は続いた。
「このお雛様、あんたの嫁入り道具にするからね」
「え……」
 その為にお父さんも買ったのよ、と母親はまるで少女のような笑顔で言ったのだった。


(うん、美味しいな)
 吉田が帰ってから、佐藤は吉田の父特製のちらし寿司を食べていた。折角なので、一緒にハマグリのお吸い物も作って。
 ちらし寿司はとびきり美味と言う訳でも無かったが、丁寧に作られているのが解る。それはそのまま、食べる者に対して捧げる愛情の証なのだろう。だからこんなに美味しいのだ。
 空になったタッパーを綺麗に洗いながら、佐藤はふと思いついた。
 このタッパー、このまま返すんじゃなくて中に何かを詰めよう。吉田の好きそうなお菓子を。
 チョコレートやクッキーでも良いけれど、それは普段でも渡せられるし。
(ゼリーとかババロアとか……杏仁豆腐も良いな。イチゴ味とかで。あ、いっそイチゴで飾った方が良いかな?)
 吉田と過ごす内に覚えた、彼女の好物をあれこれ佐藤は思い描く。
 そうして、相手の喜ぶ顔を思いながら作る。彼女の父親がそう作った様に、愛情を込めて、丁寧に。


<END>