その日の朝。
 吉田は、ぱちりと目を覚ました。それはもう、後には引かない眠気も残さない、実にきっぱりした目覚めだった。ベッドの中ではふにゃふにゃとまどろむ吉田にしてみれば、珍しい目覚めと言えよう。まあ、たまにはこんな、綺麗な覚醒もあるものだ。
 そして近くの時計を掴み、その時刻を見て驚いた。時刻は、6時半。
 普段ですらまだ眠っている時間、しかも今日は休日だと言うのにこんな時間に目覚めるだなんて!
 何だか妙な興奮に見舞われた吉田は、二度寝などという考えは起こさず、むっくりと起き上がった。
 しかし、とても慎重に。
 横ではまだ寝ている佐藤。眠っていても尚端正なその顔を、吉田はちょっと眺めてみる。
 髪、撫でてみようかな。キス、しちゃおうかな。
 あれこれ考えて、でも佐藤が起きてしまう可能性の方が高かったので、若干後ろ髪を引く思いに見舞われながらも、吉田はそっと寝室を後にした。


 服も着替え、リビングの真ん中で勇ましく立つ吉田は、俄然張り切っていた。まるで奇跡の様な、こんなに早起きしたのだ。何かしないと、勿体ない!
 そこでまずは昨夜の分の洗濯からである。しかし結局はボタンを押すだけの作業では、いまいち達成感が無い。
(よし! 朝食頑張っちゃお!)
 大体休日の朝は、朝寝坊を堪能する吉田とは違い、普段通りに起きる佐藤の手によって作られるか、あるいは2人でのんびりと作るのがパターンだった。折角こんな機会に恵まれたのだから、たまには自分が支度をして佐藤を出迎えるのも良いだろう。
 朝起きて、すっかり整った朝食を見て驚く佐藤を頭の中で描き、えへへ、と吉田は楽しく笑う。
 とりあえず、卵はあった筈だ。それを使って何か作るとして、主食はどうするか。パンか、ご飯の二者択一に吉田はちょっと首を傾げさせる。
 と、その時、閃く事があった。吉田はそれを実行すべく、まだ寝ている佐藤に書き置きを残し外へと繰り出した。このマンションの1階には、パン屋のテナントが入っているのだ。日曜日が定休日だから、今日は営業している。そして、開店時間はもうすぐだ。
 休日の朝に、焼き立てのパン。
 考えるだけでわくわくする組み合わせだ。財布とエコバックを持って吉田は、1階を目指した。


 マンションの中の店とは言え、勿論内側から通じている訳でも無く、エントランスを潜って出なければならない。休日の早朝。普段は居るだろう朝練の学生たちも今日はまだ居ない。その代わりと言っては何だが、普段は見ないような鳥ばかりの気がする。やはり、人が多いと寄りつかない鳥も居るのだろうか。
 パン屋からはすでに食欲をそそる芳香が漂い、吉田の意識を景色からパンへとを誘う。勿論その誘惑に逆らう事も無く、吉田は足早にパン屋へと向かう。開店ちょっと前に出て、着いた所で開店時間ジャスト。パン屋の扉は開き、出て来た従業員が立て看板を出入り口付近に立てていた。幸先の良さに、吉田の機嫌もますます良くなる。
 店内は、木の温かみが感じられる内装になっている。パンの香りで満たされた店内は、しかし空きの棚がちらほら見受けられる。値札があるということは、これから並べられるのだろう。吉田は早速、トングとトレイを手にする。両手でこれを持つと、何だか装備した!という気分になる。そして、狩りに出るのだ。獲物はそう、目の前の美味しそうなパン達。
 ここのパン屋は、定番は揃っているものの、傾向としてフランスのパンを意識しているラインナップだ。バケット・バタール・パリジャンは揃っているし、自家製天然酵母を使ったパン・オ・ルヴァンもある。
 そして、クロワッサンはマーガリンとバターの2種類がある。日本では一律クロワッサンは曲がっている形だが、本場ではこうやって区別されている。そして、やはりマーガリンの方はバターより若干安く、カロリーも約半分くらい低い。バターは豊潤で質感があり、マーガリンの方は軽くてあっさりしている。お米で言うとこしひかりとササニシキみたいなものかな、とは吉田なりの解釈である。
 食事を待っている腹に、バターの香りはある種凶器だ。吉田は欲求に身を任せ、クロワッサンを2つ取った。バターの方を。クロワッサンを買ったから、カフェ・オ・レだな、と吉田はメニューを決めた。バターたっぷりのパンと甘いカフェ・オ・レを組み合わせるラテンの朝食は、吉田にとって嬉しいランナップである。カフェ・オ・レはマグカップではなく、ボウルを浸かって淹れる。まるで丼を啜る様に飲むのが楽しくて吉田は好きだ。しかし、朝なら気にならないこの飲み方は、昼や夜だと途端に強烈な違和感を覚えてやまない。本場の人も朝だけなのかな〜と、佐藤に訊いてみようかと何となく思う吉田だった。
 パン屋の開店は早い。そして、今日は休日なので店内にはまだ客は吉田1人のみだ。人にぶつかる事無く選べるのは良いけども、店員の視線を集めてしまっては気まずい。けれども、大半の従業員はガラスの向こうに見える工房で忙しく鉄板を移動させているし、店内にいる物も何か作業をしていて吉田の方は特に向かれて居ない。それが吉田に対する気遣いか、あるいは単に仕事があるだけかの判断は出来ないが、きっとそっとしておいてくれているのだろう、と吉田は感じていた。以前は吉田は、たまにここへ遊びに来た時だけ立ち寄っていたのだが、一緒に暮らすようになった今は結構頻繁に使っている。帰り際にちょっと寄って買って行けるから。佐藤も、ちょっと前にバケットを買って帰って来た。
 そんなに多く無い人数だから、吉田の方は店員の顔をなんとなく把握出来てしまっている。だから、あるいは向こうも吉田の顔を覚えていても可笑しくは無い。
 実際、吉田の事は馴染みの客として認識しているのだろう。交わす言葉は「いらっしゃいませ」くらいしかないのだが、その時に向けられる笑顔で何となく解る。しかし顔なじみになったからといって、特に世間話等をするでもない。その辺りは人に寄ると思うが、吉田としては適度にほっとかれる方が有難かったりする。だって、こんなに美味しいパンが目の前にあるのだ。もう、それしか考えられないじゃないか!!
 ちょっと気になるのは、佐藤との関係を知られているかどうかなのだが……一緒に買いに来る事はあるけども、自分達が恋人同士でなお且つ同棲までしているとまでは考えは及ばないだろう。多分。あるいは。
 とりあえず、その辺りは深く考えないようにしよう。今はパンだ。パン屋に居るのだし。
 このパン屋の唯一の女性従業員は、自分の母親と同年代か少し上というくらいの年齢である。おそらくは、店主の奥さん辺りだろうか。佐藤を見て「あらまあ!格好いい!」と目を丸くするけども、それはどちらかと言えば吉田が赤ちゃんを見て「わあ!可愛い!」と思う感情の方が近いような気もする。その辺も、吉田が立ち寄り易い要因の1つだ。
 自分と佐藤の分のクロワッサンを取った吉田は、おやつ用にパン・オ・ショコラも取り、そしてカマンベールチーズ。ここはパンに合う食材も置かれている。ピューレにペースと。バターにジャムに、そしてチーズ。
 けれど、このチーズは夜の為。夜更かし出来る為、長くなる夜を楽しむ為に購入する。吉田が酒を嗜む事もあり、自分で購入するのとは別に友人達が差し入れ等に酒を選ぶので、家には常時飲めるワインが赤か白か、どっちかは必ずある。
 でも、その時間帯はまだまだ先。12時間以上も先の事だ。
 まずは、朝食から。
 手提げの中から香る暖かなパンの匂いに、吉田は今日の休日がとびきり楽しくなる事を思った。


 なのだが――
「ごめん。言っておけば良かった」
 戻って来た時、佐藤は起きていた。それは良いのだが、何故だか頭を下げられた。
 朝起きてから、一度も冷蔵庫を開けて無い吉田は知らなかった事だが、その冷蔵庫の中には卵液に浸かっている輪切りのバケットがある。佐藤は今日の朝の為、パン・ペルデュを作ろうと昨夜の時点ですでに仕込んでいたのだ。パン・ペルデュとは、つまりは日にちが経って固くなったバケットを使ったフレンチトーストの事。しかしながら、本流はバケットを使って作るもので、所謂食パンを使ったのはアメリカから来たものと思われる。
 古くなったバケットを使うのは、再利用の意味もあるが何よりその硬さが良いのだ。あたかも乾いたスポンジのようになったバケットは、だからこそ卵液をたっぷり含んでくれる。そんなパン・ペルデュは吉田の気に入りの1つだ。
 とは言え、硬くなったパンはすぐに卵液を含むものではない。だからこそ、佐藤も昨日から付け込んでいたのだ。明日の朝、好きな朝食に顔を輝かす吉田の可愛い顔を思い描きながら。
 そうして眠りについた佐藤は、まさか翌朝吉田が自分より早く目覚め、しかもパンを買いに出掛けるだなんて、それこそ夢にも思っていなかった。『パン屋にいってきます』という、焼き立てのパンを食べさせてあげたいという気持ちの籠った吉田の書き置きを見た時、嬉しさと同時に狼狽もした。おまけに吉田は、携帯を家に置いていってしまっている。
 追いかけて止めさせる程でも無いしな〜と佐藤が頭を悩ませていた所、吉田が帰宅したとの事だ。嬉しそうに、ただいま!と声をあげながら。
 佐藤の事情を説明して貰った吉田は、一回ぱちくり、と瞬きをした後、もう一度ぱちくりと目を瞬かせた。そして、自分の手下げに視線を移す。
 実の所、朝の支度をしていたのを伝えなかったのは、故意だ。あえて伏せておいて、当日驚かせてあげようというちょっとしたサプライズだったのだが、よりによってそれが吉田を困らせてしまうだなんて。何て間の悪い、と佐藤は凹みそうになる。
「ん〜と、それじゃ……え〜と」
「あ、いや、別に……」
 幸い焼く前だし、パン・ペルディは昼かおやつにでも回せばいい。何か究極の難題に直面したかのような表情を浮かべる吉田に、佐藤がそう言ってやる前。
 思い付いた吉田は、口にする。
「じゃあ、両方食べよう!」
 そうしよう、それがいい。2つも味わえるなんて、すっごいラッキー。そうやってはしゃぐ吉田を、佐藤がきょとんとして見つめる。
 それから、明るい笑顔の吉田につられるように、佐藤も笑みを浮かべる。吉田のこんな所が、佐藤は本当に、本当に大好きだ。
 佐藤のとびきりな休日も、どうやら始まりを見せたらしい。


 それから、佐藤がオムレツを作り、吉田がフルーツサラダを作り、豪奢な朝食を会話を交えながらのんびりと食べた。
 さて、その日の昼下がり。
「……………」
 佐藤がじっと見つめるソファの中には、身をちぢこませて眠る吉田が居る。何の事は無い。朝早く起きて、お腹一杯になったから眠くなったのである。あるいは早起きの分失われた睡眠時間が、今補われているのかもしれない。
 さっきの話の中で、映画でも行こうかと言っていたというのに。しかし起こすのにはあまりに忍びない安らかな寝顔である。これはそっとしておくのが正解だろう。
 佐藤は、吉田の元にそっと赴き、前髪をかき分け、露わになった額にそっとキスをした。これくらいでは起きない吉田なのは、十分解っている。案の定、吉田はピクリともしない、と思ったが、不意にむにゃむにゃと口を蠢かせた。そして、辛うじて台詞に聴こえる寝言を言う。
「……美味しいね〜………ふふ、………」
 どうやら、何か食べている夢を見ているらしい。これはますます起こすわけにはいかないな、と佐藤は苦笑して、ブランケットを吉田にかけた。小さい吉田は、ソファの上でも楽々眠れている。どうやっても窮屈な佐藤には、ちょっと羨ましい。
 吉田は楽しい夢の中だ。ならば自分は読書に没頭しようかと、本棚に向かう。
 吉田の寝言をちょっと思い出す。美味しい、ではなく、美味しいね、と誰かに呼びかけていた。
 その相手が自分だったら良いな、と吉田の夢の中での逢引を思い、そう願う佐藤だった。



<END>