「ひゃー、寒い寒い!!」
 と、ひたすら「寒い」を連呼し、吉田は小さい体躯を更に縮こませ、寒い外気から身を守ろうとしていた。
 今日は特に寒かった。最低気温がマイナスになっているのを新聞で見ただけで、吉田は早々に根を上げた。雪国なら珍しい気温でも無いだろうが、吉田にとっては日常とかけ離れた気温である。よほど会社を休んでしまえという誘惑にかられた事か。
 まあ、それも後少し。部屋につけば暖かい空気と温かい食事が待っている。しかし、何より吉田を温めてくれるのは、それは愛しい恋人の存在だった。曜日より日付で動く佐藤の会社は、今日は平日だけども休み。その兼ね合いの為にどこかの休日が出勤に充てられるのだろうが、とりあえずは目先の喜びに浸る吉田である。
 家に帰ると佐藤が居る。その事を思って、吉田はえへへとはにかんだ笑みを浮かべた。一緒に暮らすように経っていくつも季節を迎えたけど、未だにこの事実は吉田を喜ばせる。
 佐藤の居る空間から居ない空間へ、自分は帰らないといけない。一緒に居る時間が楽しいだけ、それは寂しい事だった。
 でも、今は違う。自分が帰る先には佐藤が待っている。
 心が浮かれるように足も浮き、吉田はスキップでもする様に帰路を辿った。


 こんな日は、鍋だろうか。でも、シチューも捨てがたい。
 こうやってあれこれと献立を想像するのも吉田の楽しみの1つだった。当たってたら当たってたで嬉しいし、外れてもそれは意表を突く嬉しさで決して外れではないのだ。
「ただいま!」
 そうしてようやっと、吉田は我が家のドアを開けた。途端、鼻孔をくすぐる出汁の香りに、今日は鍋だ!と喜色を浮かべた。
「ああ、吉田。おかえり」
 そう言って、ひょっこり現れた佐藤を見て――吉田は点の様な目をより点にさせた。
 と、いうのも現れた佐藤が原因で。
「さ、佐藤……それ、何?」
 指を差したその先は、佐藤であって佐藤では無い。正確には、吉田は佐藤の着ているものを指差している。
 これ?と佐藤は困惑する吉田とは裏腹に、とても嬉しそうだ。
「綿入り半纏だよv」
「見れば解るよ! だから、なんでそんなの着てんの、って訊いてんの!!」
 靴を脱ぎつつコートも脱ぎつつ、室内へと入りながら佐藤にそう詰め寄る吉田だった。
 別に、吉田は佐藤の持っている服全てを網羅しているという訳でもないが、それでも綿入り半纏なるものは所持していないと断言できる。だって、あったら目立つもの!
 一体どこから出て来た品なのか、と問う吉田に、佐藤は答える。答える前に、緩やかにその場で一回転をした。まるで小さい女の子が七五三か何かでドレスを着た時、周りに見せびらかすような仕草であった。
「本当についさっき届いんたんだよ。お義母さんから」
 ここで佐藤の言うお義母さんとは、他でも無い吉田の実母である。婚姻届を出していないのだから、法的にも戸籍的にもお義母さんなんて呼ぶ義理は無いのだが、佐藤は進んで使っているし、吉田の両親もすっかり佐藤の事を「可愛い息子」扱いをしている。そりゃ勿論、自分の恋人と両親が、仲が悪いよりも良い方が断然良いに決まっているのだが、何故だかその皺寄せのようなものがちょくちょく吉田に伸し掛かるのである。例えば、今とか。
 母ちゃんが?と吉田は露骨に顔を顰めた。
「初めて着たけど、温かくて良いな、これ」
 佐藤はほくほくとした表情で言う。
 初めて、と佐藤は言ったが、それはそうだろう。佐藤は日本人以上の体躯の持ち主で、市販のサイズでは間に合わない。綿入り半纏を作り出す側も、185センチ声の男性(美形)は購入層に含んでいないようだし。仮に吉田が作り手でも、まず想定内とはしないだろう。何より、ミスマッチである。ナイフとフォークでさんまの塩焼きを食べようとするものだ。やはりそこは箸で摘まねば。
 まあ、でも、外に着て出るようなものでもないし、佐藤が気に入っているのなら甘受してやるのが大人の余裕という奴である。なんでもかんでもギャーギャーと声を荒げて反応を示す高校生とはもう違うのだ、と吉田は精神の安定を図った。が、しかし。
「吉田の分もあるよ。ほら」
「何でだ――――!!」
 佐藤が両手で掲げる、佐藤より随分小さい綿入り半纏を見て、吉田は声を荒げて反応した。何故にお揃いを寄越すのかあの母親は全く!!
 綿入り半纏は、佐藤のが深い緑色に対し、吉田のは柔らかいオレンジ色。違いはそこだけで、後は同じ。模様は小さい黒猫が一定の間を開けて半纏の上で愉快に転げまわっているものだ。まあ、「可愛い」と言ってやって可笑しくは無い。
「一体、どういうつもりで送ってきたんだか……」
 半ば脱力したように吉田が言う。それを聞いて佐藤(綿入り半纏着用)が答えた。つくづくシュールなコーディネイトである。
「お歳暮のつもりなんじゃないかな」
「えー、そんなの送ってこなくていいのに」
 だったらクッキー詰め合わせが良かったなー甘いのが好きだって知ってる癖にー、と吉田は唇を尖らせてぶちぶちと呟く。それに、この綿入れ半纏だって、決してその辺にあったものではないだろう。佐藤の平均以上の体格もあるが、それに加えて自分達は身長差があり過ぎる。きっと、オーダーメイド仕様なのだろう。まあ、探しまわるより、注文した方がむしろ簡単なのではあるが。
 全く母ちゃんてば!とプンプンしてみせる吉田は、ふと視線を感じた。勿論というべきか、その視線の持ち主は佐藤であり、そしてその佐藤はどうしてか物凄くにこやかな笑みを浮かべて見せていた。それはもう、胡散臭い程に。
「な、何?」
 思わずたじろぐ吉田に、佐藤は愉快そうに言う。
「いや〜、だって。吉田も、この前お母さんたちにお歳暮送った癖に、よく言えるな〜って思ってさ
「!!!!」
 にやにやとした佐藤の台詞に、吉田は一瞬で真っ赤になる。
「べ、別にあれは、その……たまたま出掛けたデパートで、たまたまお酒とおつまみのセットで良いのがあったから……」
「たまたま、ねえ」
「……うぅ……な、何だよぅ……」
 上から見下すような、まあそれは物理的に仕方ないのだが、そんな佐藤に、吉田はぐぬぬ、となって自分の劣勢を思い知る。
 行った先のデパートに良いのがあったのはたまたまであるが、実の所2人に送るのに丁度良いのを探しにその日は外出したのは紛れも無く事実であった。あの日、なるべく自然に佐藤と一緒に出掛けれたと思ったが、しっかりバレていたのか!なんてこった!!!
「普通に送ってやればいいのに。お義母さん達もきっと喜ぶんだからさ」
「そ、そうだけどー……」
 改めてそういう気持ちを伝えるのは恥ずかしいというか。特に母親とは普段口げんかみたいなやり取りが多いせいか、どうも素直に出れない。しかもそれを気にしているのは自分だけで、母親の方はしれっとこんな事をしてくるのだから、ずるいと言うか。
 真っ赤になったまま、むすっとした顔になった吉田を、佐藤は唐突にぎゅっと抱きしめた。
「わわわ、な、何!?」
 今日の佐藤は綿入り半纏を着ているから、よりぎゅっとした感が強かった。埋もれそうになる。
「吉田ってホントに可愛いな〜。吉田みたいな娘がいたら、何処にも行かせたくないって思うのに、お義母さんとお義父さんにはまた改めてお礼しなくちゃな」
「はあ?! な、何をお礼って……!!」
「吉田を俺にくれてありがとうございます、って」
「そそそそ、そんな事改めて言わなくていいから!!」
「えー、でも、けじめって大事だろ?」
「いいったら、いいの!!いい!いらない!!」
 吉田が駄々っ子みたいになったのに、佐藤はむしろ気を良くしたように笑みを浮かべ「はいはいv」と嬉しそうにあしらった。親に礼、という所だけ拒んで、自分のものになってくれた、というのは否定しなかったから。
 さっきまであんなに寒かったのに、今となっては恥ずかしがったりじたばたしたりとした後でもう暑いくらいだ。果たして、良いのか悪いのか。
 気軽な部屋着に着替えた後、食卓に着く。今日の夕飯は、吉田の想像と合致して鍋だった。まあ、佐藤も綿入り半纏を着ていたくらいだし。あの姿でビーフシチューやポトフを出されたら、何だか申し訳ない。ビーフシチューやポトフに。
 これでこたつがあれば、ある種日本の冬として完璧ではあるが、生憎佐藤宅のリビングにローテーブルとソファはあってもこたつはない。キッチン近くにもテーブルとイスがあり、普段はこっちで食事をするが、今日みたく、鍋の様な日にはローテーブルの方でとる。
「こたつ、買った方が良いかな」
 吉田の分を小鉢に取りながら、佐藤がそんな事を言う。
「んー、別に無くても困らないけど……って、半纏まだ着てるの?」
「うん、さすがに鍋つついていたら暑くなって来たな」
 そういうつもりで聞いたんじゃないけど、という台詞を飲み込んで、吉田は大きな鰤の切り身をはぐ、と口に含んだ。
「吉田も着ればいいのに」
「いらない!」
「ああ、吉田も鍋食べて暑いんだ」
「だからそうじゃないっ!」
 今度は口に出す吉田だ。
 そんな風にからかわれながらも、概ね楽しく食事は進んだ。魚介類が中心の鍋で、締めの雑炊はそれらから出たダシがとても良い味を出している。とろみのついた雑炊はなかなか冷める事はなく、吉田もアチアチ、と熱さと懸命に闘いながら味わっていた。
「そういえばさ」
 と、佐藤が尋ねる。
「年末、吉田は実家に戻らなくて良いの?」
「えー、いいよ、戻らなくて」
 ここで吉田が顔を顰めているのは、雑炊が熱いからではなくその返事によるものだろう。
「帰ったら、きっと掃除押し付けられちゃうもの」
 いかにも吉田らしい返事に、佐藤も笑う。が、その次に吉田から出た言葉に、佐藤は目を軽く見張った。
「自分の家でも掃除しなくちゃいけないのに、実家の分もやってらんないって」
 吉田はそう言って、お椀の残りの雑炊をかき込んだ。そして、新たにおかわりをとろうとして、残りがそう残っていないのに気付く。
「ねえ、佐藤、雑炊まだ食べる? ……って、何ぼけっとしてんの」
 その佐藤の顔は、吉田から見ても十分呆けてると解るものだった。あ、いや、と我にかえったように佐藤は言う。
「あー……雑炊、食べて良いよ」
「えっ、いいの?」
 佐藤からの許可を貰った吉田は、喜んで残りの雑炊全てをお椀によそった。ここまでくれば、雑炊も大分冷めたようで、吉田も熱さに悩む事無く、嬉々として口に運んで行く。
 そんな風に、自分の前でごく自然に食事をしている吉田を見て、佐藤はなんとも不思議な心地に捕われた。いや、同棲当初はよく感じていた事だ。それが最近、慣れて来たというか、それが自分の中の「当然」になっていたというか。
(自分の家……か)
 この家を指して、吉田はそう言った。吉田は、さらっと言った自分の発言が、どれだけ佐藤の心を揺らしたか、きっと気付かないのだろう。
「でも、正月は挨拶に行こうな。俺もご両親に会いたいし」
「変な事、言わない?」
「言わないって。この前、吉田がカレーを焦がした事とか、アイロンがけに失敗した事とか、なんて事はね」
「言う気だ! 絶対、言う気だ―――!!」
 そんな風に、今日も明日も、賑やかで幸せな食卓になるのだろう。
 この、”自分の家”では。
 言わないでよ!ばかりを連発する吉田を見て、佐藤はひっそりそんな幸福感に酔いしれた。


 さて。
 吉田が着用を拒んだ綿入り半纏だけども、続く寒波に根を上げて袖を通すのはそれから僅か3日後の事だった。
 その様子は勿論佐藤がばっちり盗撮し、その半纏の送り主の元へ画像が届けられるのだが、それが吉田を知るのは実家を訪れる年始の事であった。



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