その日、吉田が帰宅すると、下駄箱に男性の皮靴があった。
 この家でそんな物を履くのは、一人しか居ない。
(父ちゃん、帰って来たんだ)
 部署柄、出張の多い父親はそれを済ました後の直帰も多い。仕事状況によっては、こうして高校生の吉田より早い時刻に帰宅する事もあった。
 玄関から廊下にあがってすぐ、最愛の人の帰宅に歓喜する母親の声がして、吉田はいきなり顔を顰める。おそらく居間に居る2人の周囲に散らばってるハートが、ここまで飛んで吉田に当たっているようにすら思えた。はっきり言って、想像だけで遭遇したくない場だ。
 とは言え、3日ぶりに顔を見る父親を無視も出来ない。
 テレビも見たいし。
「ただいま。父ちゃんおかえり」
「ああ、ただいま。今、帰りか?」
「うん」
 母親を膝に乗せたまま、父親はにっこりと娘を出なおした。
「お土産買って来たぞ。シュークリーム、冷蔵庫に入ってる」
「えっ、ホント!?」
 わーい、と喜び勇んで吉田は冷蔵庫に駆け寄った。見れば、文字装飾も綺麗な紙箱があった。中を見れば、嬉しくなるくらいふっくらとしたシュークリームが4つ。全部揃っているのは、両親が食べずに吉田を待っていたから……ではなく、イチャつくのに忙しくて後回しにされたのだろう。
 吉田はさっそく2つ取り出し、がぶぅ!と勢いよく齧り付く。大きな一口だった為、周囲にはクリームがもれなく付いた。
「あーあ、高校生にもなってそんな食べ方して」
 娘の醜態に、母親が呆れるように言った。
「そんな食べ方してるから、16にもなって彼氏の一人も出来ないのよ」
 言われた内容に、んぐ!とシュークリームで窒息しそうになる。
「早く良い人見つけて結婚して、お父さんとまた新婚気分味わせて欲しいわ〜」
「なっ……何その勝手な言い分! 父ちゃん! 母ちゃんが家から追い出そうとしてるー!」
 2つ目のシュークリームに取り掛かる前、吉田は声を大きくして父親に助けを求めた。
「うーん、まあ、お嫁に行くのはまだ早いとして、好きな人は早く作った方がいいぞ。
 父さん、母さんと一緒で毎日凄く楽しいからなv」
「やだもぉ〜〜〜vvv」
 本当にヤダもぉ、だよ、と吉田はピンク成分が増した空間でげんなりした。でも、シュークリームを食べる手は休めない。
 まあ、母親の勝手な言い分も、家を出て行けというより、今自分の感じている幸福を早く娘にも体感させてやりたい、という親心なのだろう。……多分。
 しかしながら、そんな事は色んな意味で余計なお世話、と吉田は言いたい。
 好きな人なんて、親に責められて見つけるようなものでもないし……それにもう、恋人も居る。一応、自分にも付き合ってるという自覚もある。
(そういや、佐藤も毎日楽しいって言ってたっけ……)
 吉田と一緒で毎日が楽しい、といつかの帰り道、その時は無邪気な笑みで佐藤は言った。
 奇しくも同じセリフを言っている事に、吉田だけが気付く。
 佐藤と付き合っている事は、吉田の中で最高重要機密だ。勿論未来永劫隠し通す、という訳じゃないが、少なくとも現段階ではあまり明かす事はしたくない。恥ずかしい、という理由も勿論だが、明かせるような相手が居ないからだ。
 クラスメイトは報復は怖いし、親友は自分以上にテンパった状態だし、両親は……こんな具合だし。
 男っ気が無い――と向こうが思っている時点でも、ああなのだ。これで恋人が出来た、なんて言えば高校卒業と共に結婚させられかねない。
(危険だ。危なすぎる……!)
 食べかけの2個目を手に、吉田が戦慄く。
 その一方で、佐藤が自分の両親がこんなだと知ったら、絶対タッグを組んで自分を結婚へと追い込めるだろう。
(もっと危険だ。危なすぎる……!)
 食べ終わった手についたクリームを舐めながら、吉田が瞠目する。
 別にさ、佐藤と結婚するのも若いうちから結婚するのもそう心の底から嫌!って訳じゃないけどでもなんかぐるぐるしちゃうっていうかその辺りをちゃんと整理出来てからじゃないとなんだか実感がその辺りをもうちょっとこう、と吉田は早速ぐるぐるしていた。
「今度の休みは久しぶりに何処かに出かけようか、母さんv」
「キャッ、デート? お父さん、大好きvvvv」
 両親は不審な娘に構わず、変わらずラブラブしていたけど。



 さて。そんな娘が就寝して、親だけの時間。うふふ、と母親は含み笑いをしつつ、父親に語りかける。
「あの子ね、夕方はあんな言い方してるけど……多分、付き合ってる人とか居るわよ」
 大事そうに、けれど面白みもたっぷり含めて言う。
「おや、そうなのか?」
 目を瞬かせる父親。彼の中では、娘のイメージは家を空け始める前の空手道場に通っていた姿の方が、どうも強い。
「ええ、だって、ケーキ焼く特訓とかしてるのよ。私にもバレたくなくて、パート行ってる時に作ってるみたいだけど……匂いとかでバレバレ」
 初日は気のせいかと思ったが、2日目で確信に変わった。料理に使った覚えのない卵の殻がいくつもあったからだ。調べてみれば、小麦粉も減っている。
 単に友達であげる為とか、自分で食べる為なら、まるで最初からケーキなんて作って無い、みたいな素知らぬ顔で居る筈も無い。
「でも、まだ付き合ってる段階とかじゃないんじゃないか?」
 片想いかもしれない、という父親に母親は首を振る。
「ううん。付き合うまで行かないと、ケーキなんて焼いたりしないわよ。あの子は」
 母親としての断言はとても説得力に溢れ、納得してしまうしかない。
「うん、母さんが言うなら、そうなんだろうな」
 物理的に、自分より子供を見ている人の意見なのだから、反論なんておこがましいだろう。父親は頷く。最も、好きな人には甘い性質だから、多少の無理も聞いてしまうのだが。
「そうか。もう、付き合ってる人が居るのか……」
 気になるなぁ、どんな相手なんだろ、とまだ見ぬ娘の想い人に想像を働かせる父親の前、母親はひっそりと微笑む。
 娘の行動でその状態が推し量れたのは、別に観察力や洞察力が優れていたからではないのだ。
(だってね、私がそうだったもの)
 心の中でだけ呟いた。
 同じ顔だから解る。付き合う事での周囲の反応や、自分の中の劣等感も。だから、ケーキを焼いて差し入れなんて、よほど関係が成立してからでないと、とても出来る事じゃない。そんな心境も。
 かつて自分の歩いた道だから、あえてそっとしておくのだ。これが見守る、というのだろう。
「まあ、どんな人でも、お父さんには敵わないわよvv」
 ぎゅぅ、と抱きついた。自分と対して背の変わらない相手の身体を、余す事無く抱きしめる。
 今の生活に後悔を抱くなら、早くこうならなかった事だ。恥ずかしいからと、拒んでしまった口付けが何度あっただろう。
「あのね、今、凄く幸せよv」
 何の脈絡もなくそう言ってみた事に、相手はちゃんと受け取り、自分もだ、と微笑んだ。



 やがて、家に招いた娘の彼氏を見て、母親は「やっぱり、顔が似ると付き合う相手も似るのね」なんて事を思うのだが、それまだもう少しだけ、先の話だ。